声に出して伝えたいオカン偉人伝【オカンは偉大!母の逸話を彦摩呂らが披露!】 2014.12.30


(後藤)芸人というものは大変なもんでして。
なかなかご飯が食べれない時期が続くんですね。
僕がやっとご飯を食べれるようになって僅かながらですがオカンに仕送りをするようになりました。
数か月後実家に帰りますとなんとウチのオカンは僕の仕送りで目を二重にプチ整形してました。
(原西)やりよった。
テーブルの上には顎の骨を削る手術のパンフレットが置いてました。
「オカン偉人伝」スタートです。
(ナレーション)今だからこそ母へ感謝を伝えたい。
そして…。
…もその1人。
大病で…。
今も再発の恐怖と闘っている。
そんな真海さんが…それは…。
この言葉を胸に真海さんは7年後の東京パラリンピック出場を目指す。
今回お送りするのは誰かに語らずにはいられない偉大な母を持つ8人のプレゼンターが今だから明かす母との秘話を語り尽くす。
オカンが電話で言いました。
俳優中村昌也。
危機を救ってくれた母の言葉とは?遠いアフリカから日本へ。
旅立ちの日…
(一同)ええ〜!それはね…15歳で母と別れ…果たして最も心を打つ大賞に輝くのは?
(拍手)ええ〜この番組はですね誰もが必ず持っているという大好きなオカンとのエピソード忘れられないオカンの言葉これをですね皆さん声を出して伝えていただこうという番組ですね。
(高橋)今回お話しいただくのはこちらの方々です。
よろしくお願いしま〜す。
今回は皆さんにすてきなお話をしていただきまして。
そのお話を審査してくださるのはスタジオにいらっしゃる30人のオカン世代の主婦の皆さんです。
はいよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
(拍手)上品な方々ですけども今日はよろしくお願いします〜。
そしてIMALUちゃん。
(IMALU)はい。
IMALUちゃんのお母さん大女優ですから。
(ラサール)こんな話聞いていいんですか?今日。
聞いていいですよ。
お母さんの話ですからね。
(IMALU)いつもやっぱ親の話っていうのは結構いろいろね話す機会はあるんですけれども。
いつもやっぱ面白い事とかね面白かった話とかはするけどちょっと今日は…これはなかなか聞けないですからね。
だって普通の家庭じゃないですよ。
お母さんが大竹しのぶさんで。
お父さんさんまさんですからね。
(ラサール)それでその話のほとんどは…。
(笑い)
(ラサール)中村くんもうほんまに心配かけたやんか。
そうですね〜。
ねえ。
いやほんまもう大変やん。
(後藤)たまたま…。
マジで。
(ボビー)泣いてんの?
(岩尾)まだ目の赤み取れへんの?多分ちゃんと寝れてないんですよ。
(中村)ちゃんと寝れてます。
これ乾燥ですから。
乾燥。
違う違う。
(笑い)
(中村)もうゆっくり。
(中村)もう大丈夫です。
(ボビー)そういう事?そしてナジャ。
(ナジャ)はいどうも。
ナジャ…?ナジャ・グランディーバでございます。
好きになるのは男性女性どっち?
(ナジャ)好きになるのは男性です。
いやぁ…。
そうなんや。
(ラサール)ごっつすぎるやろ。
(ナジャ)大好きなんです。
(ラサール)おっきい。
めちゃめちゃでかいんですよ。
中村くん身長が?192です僕。
やろ。
ちょっと2人立って。
でかすぎるわ!・うわ〜。
(ナジャ)ぴったりです何かこう。
こういう感じで。
(原西)
(原西)映らへんやないか!座れ!座れ!IMALUちゃん立ってみて。
(IMALU)私間に立ったら多分…。
(ラサール)すごいね。
(原西)すごいでこれ。
ちょっと待ってちょっと待って中村くん。
思い出すわ。
思い出す思い出す。
(ラサール)どっかで見た事あるわ。
最初にオカンのすばらしさを語っていただくのは彦摩呂さんです。
よろしくお願いいたします。
(拍手)彼を…。
彦摩呂が…ええ話っぽい。

(拍手)私は大阪の大地主の孫として生まれました。
・へえ〜。
(彦摩呂)大きなコリー犬が庭に放し飼いしてありまして。
石垣を積んだような大きな豪邸に暮らしておりました。
絵に描いたようなお坊ちゃんでした。
隠し切れない品のよさが出てると思います。
ええ〜僕が5歳の時に両親が離婚をしました。
で僕といっこ上の兄を小脇に抱えて母はその家を出ます。
でそこから長屋に移り住みました。
狭い狭い部屋でした。
オカンは昼間は工場で汗水流して働いて夜は近所の定食屋さんの皿洗いのパートに出かけてました。
そんなオカンでしたが料理が上手で。
僕が特に好きだったのがオカンのハンバーグでした。
お肉屋さんで買ってきた合いびきのミンチとちょっと粗めのタマネギのみじん切り。
そのミンチの中にニンニクをすって山芋をすってふっくらとさせて。
それを両面焼き目を付けて煮込みハンバーグにしてました。
コトコトコトコトコトコトとフライパンの中で煮ておりました。
もう見るからにソースのポリマー加工や〜。
(笑い)
(彦摩呂)いろんなロケに行かせていただきました。
名シェフの名ホテルの星が何個も付くようなハンバーグもいただきましたがやっぱりオカンのハンバーグ食べてみたいな〜とふと思う事がありまして。
ある番組で実家を訪ねる企画でオカンのハンバーグを作ってもらう事になりました。
オカンは当時と同じレシピでその時のまんまの作り方で煮込みハンバーグを作ってくれました。
食べ物というのはえらいもんですね〜。
目の前に運ばれてきてそのハンバーグを見てその匂いを嗅いだらそして口に入れたら一瞬にして幼少の頃の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡りました。
ひと口食べたらああ〜兄貴と田んぼでザリガニ捕りしたなぁああ〜公園の滑り台で転んで落ちてけがしたなぁ。
鮮明にまるで映画を見るように脳裏によみがえりました。
そして近所へ買い物に行くとスーパーの脇に「タカラブネ」という洋食屋さんがありまして。
その「タカラブネ」に行くとオカンにエクレアを買っていただいた思い出がありまして。
さくさくの生地の中にカスタードと生クリームが入っててチョコレートがコーティングしてあって。
もうそれをムニュッと口ん中に入れて。
もうとろけるようなクリーム。
それを食べた瞬間に僕はオカンに言いました。
「オカンエクレアおいしいなぁ。
こんなエクレアみたいな布団があったら寝たいわ」。
「あんたうまい事言うなぁ。
ええ?お母ちゃんあんたのそんなん聞いてたらまたエクレア食べたなったわ」。
「うわっほなまたタカラブネ行こうや」。
こんな親子の会話が繰り返されておりました。
おいしそうな表現をするとオカンが喜んでくれる。
そしてまたオカンは食べたくなるんや。
また一緒に食べれるんや。
僕はそう思って何かを食べる時はどういう味か何て伝えたらいいかというように考えるようになったんです。
おいしいものはおなかを満たします。
ところが作ってくれた人の思いは心を満たす。
こんな事を思い出させてくれた気付かせてくれたオカンのハンバーグ。
僕にとっては思い出がいっぱい詰まったタイムカプセルのようなもんです。
そうやって気付かせてくれたんもオカンのおかげです。
オカンありがとう。
以上でございます。
おお〜っ。
(拍手)すばらしい!ありがとうございました。
緊張した〜。
ちょっと…・ええ話でしたね〜。
もうお客さんも泣いてますよ。
ちょっと…いやでもええ話でしたね〜ラサールさん。
(ラサール)いや〜もうねそんなものすごい苦労とかすごい事件ではないけれども。
あれだけの表現力で。
何か泣ける話でした。
ええ話でしたよね〜。
いや彦摩呂さん…行きまっせ。
ええ。
やらしいな。
ねえ思い出のお母さんのハンバーグ。
(彦摩呂)そうなんですよ。
鍵っ子やったから余計にオカンとのコミュニケーションを取る方法としてオカンが手作りで作ってる苦労を子ども心に感じてたんやね。
う〜ん。
そこでお母さんが喜んでくれるから今の仕事を。
いろんな表現でみんなに伝えて喜んでもらう。
やっぱそんなん覚えてます。
僕もそうですわ。
弁当とか毎日作ってくれてましたけどある日学校で弁当箱開けたら…ええ〜っ。
(彦摩呂)何でぇな。
(ラサール)寝坊したんかな。
そうなんですよ。
自分で買えいう事ですわ。
(原西)言やぁええっすね。
大竹しのぶさんって料理は作るんですか?料理は作りますね。
しゃれてるね〜。
(IMALU)作ったりとか。
パスタ!中村くん出てきた?そんなん。
(中村)ないっすね。
僕んち…。
(笑い)
(ラサール)つまみやんそれ。
(彦摩呂)夕飯つまみ食うてたん?酒のつまみやんか。
酒飲みやから。
そうか。
お父さん飲むのの横でこれおかずになってたんや。
手羽先砂肝でしたね。
ちょっと皆さん大丈夫ですか?
(原西)大丈夫って何やねん。
このあとええ話ちゃんと続きますか?
(岩尾)
(笑い)
(拍手)最愛の母尚子さんは天国へと旅立った。
そんな原西孝幸が…みんな俺やで!
(笑い)何から始めてるんですか。
(原西)原西ですけども。
まああのウチのオカンはね割と面白いとかいう事で僕と番組でね共演する事も多かったんですけども。
まああのちなみにこのこう…。
どすこい〜!どすこい〜!ネギちょうだい!これがオカンのギャグなんですけどね。
(笑い)
(原西)びっくりする事にオカンにギャグがあるというね。
これオカンのギャグなんですよ。
ええ。
まあおもろいおもろいって言われてるオカン実はガサツなだけなんでして。
まああの〜僕が高校時代に学校終わりましてひとしきり遊んで家へ帰るとおなか減ってるじゃないですか。
で玄関開けまして「オカンちょっとごめんご飯作ってくれる?」って言ったら「あいよ〜」って言ってツナ缶とご飯をポンって置いて「はい食べ」って言ってね。
僕でも大好きなんですよツナ缶。
大好きなんで開けましてバ〜ッ食べましてねっおなかいっぱいなりまして。
次の日も遊んでまた帰って。
「ちょっオカンご飯頼むわ」って言ったらまた「はいよ〜」つって。
おんなじようにまたツナ缶とご飯ポンって置いて「はいどうぞ〜」とか言うてね。
でも僕大好きなんですほんとにツナ缶大好きなんで。
食べましてねおなかいっぱいなりまして。
でこれ3日目ですよ。
でまあ帰りまして「ご飯頼むわ」って言ったらまた同じようにツナ缶とご飯ポンと置いたんすよ。
まあさすがにこれは僕ね怒りました。
「オカンええかげんにせえよお前これ。
手抜きも甚だしいやろ」って言ったらオカンがね「いやいや冗談やん」って言ったんですよね。
どういう事ですか?これ冗談って。
3日目ですよこれ。
いや冗談ちゃうやんまず。
2日経験してるし俺。
ただの手抜きをそういう言い訳で逃れようとするようなオカンなんですよ。
オカンがまあさっきも言いましたけど5年前にねちょっと心筋梗塞になりまして。
天国の方へ行ったんですけどね。
印象に残ってる言葉がありましてね。
あの〜NSCという…よしもとの専門学校があるんですけども。
それに通ってる時にですねオカンが僕が通いだしてからず〜っとその何か新聞配達朝の新聞配達をやってたんですよね。
朝の新聞配達って夕方と違って1軒1軒家のドアに新聞を入れないと駄目なのでマンションとかでもやってたので結構しんどい作業をしてたのでいやオカン何でやろ?と思って1回聞いたんですよ。
「オカンしんどいのにさ別に新聞配達せんでもええやん。
何でなん?」って聞いたらオカンが「いやいやあんたのほら」…って言ったんであっこれ俺ちょっと何や迷惑かけてんねやなっていう思いにかられましてねちょっとあっ!とか思ったんですけども。
その翌日に友達と遊んでましてね。
夜中3時か4時ぐらいまで遊んでて。
で家帰ろうと思って家帰ってたんですよ。
パッて近くのポリボックス見たらオカンが座ってるんですよ。
あれ?オカン事件か何かに巻き込まれたかな思てバ〜ッ走っていって「オカンどないしたんや!」って言ったら「いやいや朝の新聞配達ん時にさヘルメットかぶるのめんどくさいから走ってたらノーヘルで捕まった。
ちきしょう!」って言ったんですよ。
(笑い)
(原西)オカン「ちきしょう!」じゃなくて。
社会のルールは守らなアカンと俺は思ってるんですよね。
ほんとに。
それはほんとに駄目ですよオカンっていう気持ちなんですけどね。
まあでもねオカンはほんとにあの〜何ていうんすか。
こういうテレビとか出るのが結構好きなのでまあ今も多分これ見ながらオカンのエピソードしゃべってるんですけども。
まあまあ笑ってくれたんでまあ喜んでると思います。
うん。
そんなオカンでした。
ありがとうございました。
(拍手)いや〜面白いお母さんですよね。
お母さんにギャグがある人なんかいないですからね。
基本的には。
(原西)ほんまそうなんすよ。
いやほいであの〜我々とも一緒に出さしていただいてほんで原西さんいてお母さんいて。
ほんでね僕覚えてんのが僕おったんすよ横に。
ほんで何かの会話なってみんな前出たいじゃないですか。
ほんで前出ようかなと思ったら僕のここを押してお母さん前でギャグやりに行ったんです。
(拍手と笑い)なかなかいないっすよ。
(彦摩呂)なかなかいないですね。
(原西)でもほんまにこの世界僕が入るまでオカンがそういう人間やって気付かんかったから。
でオカンが出るようになって「私もこんなんあんねん」とかやりだして。
オカンの新しい一面を初めて見れたというか。
(一同)ああ〜。
(原西)もともとほんまにオカンミーハーなんで。
「誰々に会えてうれしいわ」とか言ってたんで。
そういう意味ではちょっと親孝行もできたのかなと思ってるんですよ。
いやそうですよね。
(原西)ほんとにね。
なかなかもう出てこないかもしれないですね。
(笑い)
(拍手)世間をにぎわした結婚。
そして離婚。
そんな中村昌也が…中村昌也です。
よろしくお願いします。
離婚の時…。
中村昌也が危機を救ってくれた母の言葉を披露。
やっぱずっと実家暮らしなんで。
中村昌也です。
よろしくお願いします。
僕は大阪の淀川区で生まれました。
オトンは183cmオカンは168cmの大きな両親です。
幼い頃からオカンが大好きで。
オカンの髪の毛を指でクルクルしないと寝れない子どもでした。
(笑い)中学の時オカンとほとんど口もきけへんようなった反抗期の時もクルクルしたい衝動にかられた時があって。
その衝動に負けてしまった時は「オカン」…内容と言い方合うてへんやん。
(中村)お願いした事もありました。
そんな大好きなオカンの親元を離れて東京で芸能界頑張っていこうと生活を始めてはや10年がたちました。
何とか仕事が形になるまで結果を残すまでは実家に帰らずあまりオカンにも会わないようにと決めて頑張ってきました。
そして結婚の時…。
(中村)オカンはウチの家があまり裕福じゃない事貧乏な事を気にしてました。
電話で「マーくんおめでとう!結婚おめでとう。
ほんまにうれしいわ。
自慢の息子や。
でもなウチは貧乏やし家も狭いし汚いし。
あんたが恥かくからもうウチには来んでええ。
こっちが出向くから」と。
そんなオカンを早く楽さしてあげたいずっとそう思って頑張ってきました。
離婚の時オカンが電話で言いました。
「なあそれも絶対関係してるやろ?マーくん」。
「オカンそれは絶対ない。
結婚する前から貧乏なんは知ってるし。
そんな事は絶対ないから」。
この間あの…ドラマのロケで泊まりで名古屋に行ってる時があったんですけど。
う〜ん。
小さなビジネスホテルの部屋で夜撮影の前の日悩み事してたら何かどんどん寝れんくなって。
どうしよう俺このままでいいんかな?何がしたいんやろ?これ俺が決めた道思い描いてた事なんかな?いろんな事が急に押し寄せてきて。
どうしようどうしようって手も震えてきて。
気付いたらオカンに電話してました。
「オカンもうアカンわ。
ほんまに頼む。
交通費とか全部出すから来てくれ」。
そしたらオカンは「ほな行くわ」と。
(笑い)
(中村)でもほんまに優しいオカンで終電で大阪から名古屋に来てくれました。
(中村)ほんまにいろんな事話しました。
オカンと話してると今まで感じた事ない不安や胸にあったもやもやがちょっとずつ楽になってきました。
(中村)最後はおっきな親子がちっちゃなベッドに横になりオカンは僕を意識してるかわからないですけど背中を向いて寝て。
僕はそんなオカンの後ろ髪をクルクルしました。
(笑い)
(中村)そんな時オカンが言った言葉があります。
オカンのおっきい背中が更に大きく見えました。
以上です。
ありがとうございました。
(拍手)・いいお話ですね〜。
ありがとうございました。
(拍手)ええ〜ねえ中村くん。
はい。
やっぱりあの言葉をもらって勇気づけられて?多分何かこういう経験ってなかなかというか。
これはなかなかないね。
(中村)親もそうなんですよ。
ほんとにいっぱい心配かけたんですけど。
多分自分の中でもまだ地に足着いてないというか。
そういうのが爆発したんで。
うん。
もうめちゃくちゃ助けられましたね。
大変よなぁでもそら。
で離婚の時の報告も…。
ほう。
(笑い)今日の収録も寂しくなったらナジャの髪の毛…
(ナジャ)ちょっと…
(原西)渡しとけほんならもう。
京大卒の真面目なオカンは彼の活躍を誰よりも気にしていた。
そんな岩尾望が…はい。
ええ〜僕のオカンはですね京都大学を卒業しましてそのあとずっと公務員として働いてたんですがまあだからというのか大阪人であるにもかかわらずちょっと冗談がきかないというかちょっとこう生真面目なオカンなんですけども。
ええ〜僕は一人っ子でして。
まあそんなオカンに「カワイイカワイイ」とずっと育てられてきたんです。
だからもう僕の嫌いな料理は一切食卓には並ばないですし。
ええ〜何やったら僕30近くまで自分でパンツを買った事がなかったんです。
(一同)ええ〜。
過保護やなぁ。
支給制ちゃうわ!パンツってそういうもんだとず〜っと思ってたんです。
ずっと「カワイイカワイイ」って言われてきたんで本当に僕この世界に入るまで全く自分の事をブサイクだとは思ってなかったです。
気付いてなかったわけです。
で先輩に初めて言われて。
何を言ってるんだこの人はと。
何かオカンの言うてる事と全然違うぞみたいなね。
何かそんな感じで僕はずっと違和感はあったんですが。
まあまあ仕事するうちに受け入れれるようになってきて。
でもお母さんはそう簡単にはいかないんです。
何かあの〜よしもとのブサイクランキングというのがありましてね。
その第1回に。
僕その当時ほとんどテレビにも出てないのにほんこんさんに次いで2位にランクインしたんです。
知名度ほぼない状態で。
で例えばテレビとかでもさんざん言われます。
何かブサイクだとか気持ち悪いみたいな事をね。
そういう番組があった次の日にオカンからメール来るんです。
「責任は全て私にあります」っていう。
何かちょっと重いんです。
何かまだ受け入れられてないから。
で後藤くんなんかも僕に何やこういじったり強くつっこんだりするわけです。
ほなまたメールが来るんです。
(笑い)仕事や!いや実際目に余るものがある時あるんですよ!ほんとに。
でもオカンはそれは仕事でああいうふうに言うてるとかいうのが何かわかんないみたいです。
そういうオカンは後藤くんのオカンと違って息子に金品を要求するメールとかは送ってこないわけですよ。
逆に何かこう自分らのライブのチケットとかDVDとかただであげれるようなものとかも「いやいや自分で買うわ。
その方が売り上げに貢献するし」とか。
こういう公開収録の番組とかでも観覧募集の葉書を何とか当てて来ようとしたりするわけです。
全然入れてあげれるのに。
まあそれぐらいほんとに何にも求めてこないんですけども。
まあそんなオカンがここ最近ちょっともう何て言うんですかね頼み事というか。
初めて何か要求してくるっていう事がありまして。
それがまあ…。
(岩尾)っていう事なんですね。
だから親孝行としましては僕はものすごいカワイイカワイイ女性と結婚して全く僕に似ても似つかないカワイイ赤ちゃんを見せてあげないとと思うんです。
だからよっぽどカワイイねっ女性と結婚しないとまた孫が生まれた時にメールで「責任は全て私にあります」っていう…。
(笑い)
(岩尾)2代にわたって責任を感じさせる事になりますから。
そうしないためにも僕のDNAを覆いつくすような…。
勇気のある方はいませんか?ありがとうございました。
(拍手)何やねん。
ありがとうございました。
最終的に…パンツの件はびっくりしましたね。
いやそうですよ。
だから一人暮らしもあいつ遅いですから。
家から通てたん?家から通ってたんですよ。
(拍手)ねえ。
(笑い)泣くつもりやなかったんですけどね。
泣いてなかった。
(岩尾)感極まっちゃって。
泣いてなかったわ。
ええ〜いやほんまに…。
(ラサール)でも相方のツッコミにクレーム付けるってすごいね。
いやそれはね我々も…。
僕なんか商売上がったりですからそんな事言いだしたら。
(岩尾)いやでもほんとに目に余るものがある時があるんですよ。
テレビは何かまだ許せるらしいんですよ。
(ラサール)ああそうなん。
あはははは!生放送のね途中にちょっと悪ノリで「今日お前にプレゼントあんねん。
バリカン買うてきたった」と。
ラジオやのにですよ。
ジョリジョリってやっていくわけですよ。
ガーッと上までいって「アカンアカンアカン」言うて丸坊主にされたんです僕。
(一同)ええ〜っ!?ラジオで…
(笑い)放送終わったらメールが…。
受信履歴が「オカン」「オカン」「オカン」ってなって。
(笑い)
(原西)でもこれ相方にも言ってんけど…。
え〜っ!?
(原西)これは言っとくで。
そうやんか。
確率的に5割でブサイク生まれてくんねんから。
確かにね。
(ラサール)混ざってるからね。
真面目なお母さんですから。
(ラサール)はいはいはいはい。
せやからウチのオカンとも全然違います。
(岩尾)そういうメールを送りつけてくるらしいです。
もうそれこそ写真バッと出てきて。
メール来て。
写真ですよオカンの。
高級バッグ持ってるんです。
ニコ〜笑てるんですよ。
メールのタイトルに1行だけ…。
(拍手と笑い)
(IMALU)すご〜い。
さあ皆さんにプレゼンしていただいておりますけども。
ええ〜名言といえば我々のオカンだけではございません。
世界的にも有名な偉人たちもですねオカンの言葉に大きな影響を受けてるんですね。
はい。
あの有名人を育んだオカンエピソードご覧ください。
一万円札に描かれる人物として誰もが知っている…彼が書いた有名な言葉。
この考えに至ったのは母のこんな言葉からだった。
諭吉は身分の低い武士の家庭に生まれました。
家計が苦しい福沢家は小さい徳利を下げて酒やしょうゆを買いにいく事が多くそれは「貧乏徳利」と呼ばれ武士の間では恥とされていました。
ふ〜ん。
そんな諭吉に母がいつも言っていた言葉。
それが後に学者福沢諭吉の思想に大きな影響を与えたのでした。
若き日の諭吉は人は皆平等。
お金のありなしで人を上に見たり下に見たりするのは間違っていると教わりこの言葉を受けたからこそこのすばらしい格言が生まれ一万円札に載るほどの偉い人物になれたのかもしれない。
世界中の人々を魅了する若きスーパースター…ガガのオカン。
シンガーとしての実力はもちろんその奇抜ともいえる独特なファッションで世界の最先端を走る歌姫。
しかしそんな彼女も母のある言葉がなければ平凡な生活を送っていたのかもしれない。
彼女は意外にも…しかしこの頃から独自のファッションセンスを持っていたガガはクラスメートから冷ややかな目で見られていました。
そんな孤独な学生生活を送るガガを救ったのは…。
母のこんな言葉だったのです。
そして数年後母からもらった言葉を曲にし世界中の若者から共感を得代表曲となった。
(拍手)もう自分は自分の好きなようにしたらいいのよって。
(ナジャ)それであの服着て学校に行くってすごいですよねぇ。
あの歌詞でビキニでチェーンと乳首でつないで「自分らしく生きなさい」言われたらいやそら説得力ありますよ。
(ナジャ)ねえ。
(原西)
(原西)そうやったん?と思いましたけどね今。
名門ラ・サール高校受験の陰には母みゆきさんの支えがあった。
そんなラサール石井が…ええ〜今ご覧いただきました皆さんも一度はテレビで見た事のある私の子ども時代の写真ですね。
ええ〜私はその〜大阪の住吉区でですね総菜屋の息子として生まれました。
ええ〜母は昭和の初めに香川県で生まれまして。
7歳で店を手伝わされるんですね。
家の事も店の事もずっとやっておりまして。
まあ言えば一生ひとのお世話をずっとしてきたそんな母でした。
それで母は小学校の時いつも自慢してたんですけど僕に。
とっても勉強がよくできたと。
学校で3番やったと。
で本も好きだった。
ただ子どもの頃本を読んでるといつもおばあちゃんお母さんに怒られて。
「何本読んでんの。
手伝いなさい!」と言われてたそうなんです。
でまあだんだん結婚して子どもも出来やっと楽ができるという時に私が生まれまして。
私はほんとにやんちゃというか問題児で心配ばっかりかけていました。
まあ時々テレビでインタビューを受けるんです母が。
そうすると「どんな子でした?」って言われたら必ず…。
と言うぐらいまああの〜近所の家の留守の家に忍び込んでねむちゃくちゃして帰ってきて警察沙汰になったりとかね。
・ええ〜っ。
(ラサール)近所の家のすぐ裏にですね塾があったんです。
この入江塾という所が怖い所で。
まあ最初のうちはよかったんですけどだんだんさぼるようになったんですね。
そのうち全然行かなくなって。
それでもやめはしなかったんですが中3の前の春休みにですね家にまた行った振りして帰ってきたら家が何となくこう静かな感じで嫌〜な感じで。
「お前塾行ってないな」って言われて。
「いやいや今も行ってきたがな」言うたら「ウソつけ!先生から電話があった」ってお父さんに怒られて。
「今呼び出しや」って言うて。
家すぐそこですからお母ちゃんと2人で。
お母ちゃんはすまなそうにして頭を下げてね。
別に学校じゃないですよ。
塾ですよ。
だけどもね…。
それで当時はそこの塾は灘高に行く塾だったんです。
ええ。
60人しかとらない灘高に10人ぐらい入れてたとこだった。
で「お前は灘高に行く気があるのか?」。
気はありますから「はぁあります」ってこう答えたら「じゃあわしの目を見てみろ」って言われたんですよ。
私別に犯罪を犯したわけじゃないんで目ぐらい見たるわ!と思って思い切りぐう〜っとこうにらんだったんです。
そしたら先生が「お母さん見てください。
これが敗北者の目です」って言われたんです。
(笑い)
(ラサール)で「明日からお前は塾に泊まれ」って言われて。
その日から私は家から2分のとこに泊まり込みになったんですね。
まあまあ親をまた心配をかけさせてしまいまして。
で灘は落ちたんですね。
まあ1年頑張ったんですけども難しかった。
落ちたんです。
灘を落ちたその日がラ・サールへ受けにいく鹿児島行きの寝台列車が出る日なんです。
で私は全く家に帰ってないので…。
灘落ちてどっかのお寺のお堂に集められてそれで今日今から行くぞと。
そしたらそこにですね先生が「よし両親の面会だ」って言われてね。
両親が面会に来てるわけです。
お母ちゃん何でか知らんけど訪問着着てきれいな格好して。
何でおしゃれしてんねや?と思たんですけど。
で泣いてるんです。
「あきおあきお」って言うて。
それで見送られて行きました。
ほんでラ・サールは何とか通ったんです。
何とか通った。
これでもうお母ちゃんもねう〜んあの…安心かと思ったらええ〜東大を受けるの…どんどん成績下がって。
である時ね…。
僕全然もう家に電話してなかったんですよ。
そしたらね向こうから電話かかってきた。
お母ちゃんから。
お父ちゃんいつも寝てるんです。
ご飯食べたら。
そのまま寝てしまうんですそこで。
それで「あきお大丈夫?」「あぁ大丈夫大丈夫」。
「ちょっと今お父ちゃんに代わるからな」って言うてここ押さえてるんですけど聞こえてて。
言うてウソついてるんですね。
(ラサール)東大受けたけど通る目当てはありません。
それまた心配かけて。
早稲田に何とか引っかかったけど早稲田を勝手に中退して。
でストリップ劇場で芸人になって。
そこまで心配ずっとかけてやっとテレビ出るようになって母親もちょっと安心したんでしょう。
そしたらまああの…姉が言いました。
それまでずっと控えめで自分の意見なんか言わない人がころっと性格が変わって急に明るくなったんですって。
それで知らん人にまで話しかけるようになって。
それはその……ってこう言う事で何かすごく明るくなったらしいです。
今はまああの…もうボケちゃって認知症で施設にいるんですね。
僕が行っても「この人誰?」って僕がわからない。
でその入院の時にねあの…整理したんです荷物を。
そしたらいつの間にかね通信販売でこんないっぱい化粧品とか源氏物語全冊とか地図帳とか買ってるんですよ。
それはね小さい頃に勉強できなかったから取り返したかったんですね。
化粧もしたかった。
だけどボケてしまったからそれそのままになってるんです。
だからあの…そしてね短冊が置いてあったんです。
七夕の。
願い事が書いてあった。
最初施設にいた時はお母ちゃん「家に帰りたい帰りたい」って言うてたけどもそれももう忘れてしまって。
今度は四国の自分のふるさとに帰りたくなってるんですね。
で短冊にね…「四国の田舎にかえっておよめに行きたい」って書いてあった。
もう少女に戻ってるんです。
だから母は今多分すごく幸せなんだと思うんです。
だからまだボケてしまっても元気でいるのでこれからもねずっと…。
まあ時々会いに行って。
できるだけ会いに行って。
元気でいてほしいし。
また思い出してもらえるように僕はテレビに出てテレビの中で母に思い出してもらいたいと思って頑張ろうと思っています。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
(拍手)ねえ。
ボビーいかがでした?んっへてだいじょ…。
(原西)何て?えっ?ええっ?
(原西)号泣やんか。
感動した?
(ボビー)ううっ…。
僕のおばあちゃんもそんな感じだったけど僕ちっちゃかったからもうちょっと大切にすればよかったなと思って。
認知症だった時はバカにしてたりとかちょっとあったから。
もっと大事にすればよかったなと思った。
親孝行というのは自分…。
(笑い)駄目な息子ですねぇ!こら〜!出世払いで。
親戚一同からかき集めて。
(ラサール)かき集めて東京来たんですよ。
そのお返しにみんなをちょっとした地方のいいホテル天皇陛下が泊まったみたいなとこへ。
でその部屋に父ちゃん母ちゃんを泊めたり。
招待して。
(ラサール)した事はありましたけど。
石井さんのね活躍でお母様もお姉様もね喜ばれてるっていう事ですよね。
(ラサール)もう姉がすごくよくしてくれていましてね。
母の事も全部。
みんなで貯金しようって決めたんも姉なんで。
う〜ん。
(ボビー)親って…。
誰がバカの子や!
(ボビー)いや聞いた事ない?
(原西)ラ・サール行ってはるねん。
ラ・サール入ってんのよ。
いやでもねバカだよね。
という事は…
(ボビー)ふふふっ…ははははは。
(原西)意味わかるやろ!これはねぇ彦摩呂さん。
(彦摩呂)いやでも僕すごいなと思ったのはそのねオカンっていつまでもオカンやねんけども。
今の石井さんが捉えてるお母さんっていうのは石井さんのその人間力がすごくこう熟成されてきて…もうすごい刺さって。
そのオカンが勉強したかってんなとかお母ちゃんが化粧のひとつもしたかってんやろなっていう感じ取るねそのラサールさんの気持ちがすごい感動しました。
う〜ん。
(ボビー)した〜。
何か…
(笑い)女装家…男なのか女なのか。
幼い頃から揺れるナジャを支えたのは母の愛だった。
そんなナジャが…小さい頃からオカマもしくはオカマラスというあだ名で呼ばれていました。
(笑い)
(ナジャ)オカンはそれに気付いていたのかもしれません。
「あんたもっと男らしくせなアカンよ」。
事あるごとにそんな言葉をかけられました。
そして4年前「テレビに出てるのおたくの息子さんじゃないの?」というメールがウチのオカンの携帯に届いたんです。
慌ててオカンはテレビのスイッチを入れてチャンネルを合わせて見たそうでございます。
声とそして私の座り方を見てこれはウチの息子やと確信したそうでございます。
その時母親はやっぱりなと。
やっぱりそうやったんやなという反応でした。
そして「衣装代もかかるでしょ」とオカンが手渡してくれた封筒。
その封筒は今も大切に持っているんです。
「お父さんより」となってますけれどもこれはまあウチのオカンが父親を立てるためにそしててれ隠しのためにこう書いたんだと思うんですけども。
裏にこうあります。
「重々に良きことに成ります様に」と書いてあります。
これをもらった時に私は言わなかったんですけども今1つ言いたい事がありまして。
それだけオカンに伝えたいです。
以上です。
どうもありがとうございました。
(拍手)ありがとうございました。
いやこれでもうちょっとホッとしましたよ。
すごい緊張してたから。
いやいやいやいやいやいや。
さすがはお母さんですよ。
普通女装して…テレビに出るっていうとこう脚を閉じて座るじゃないですか。
それが私はドレスアップをしてるのに脚を広げてこう座ってたわけ。
今はもう気を付けてますよ。
初めてテレビに出た時ですからそんな考えもなくてこういうふうに座っててこの…
(ナジャ)と気付いたみたい。
そこで気付いたみたい。
はあ。
そうなんや。
わかんねんなオカンって。
母親ってだからすごいなと思いますよね。
(ナジャ)いや違う。
芸名やあれ。
(岩尾)先祖代々のね。
それに関してはもう終わってもええよ。
1989年父明石家さんま母大竹しのぶとの間に生まれたIMALU。
これまであまり明かされなかった…。
IMALUが…私のお母さんは皆さんご存じの大竹しのぶです。
母としても芸能界の大先輩としても尊敬する女性です。
幼い頃からよく母の舞台をずっと観ていたんですがそのステージに立つ母はですねまるで役が憑依したようにいつも化け物みたいだなと私は小さい頃から思っておりました。
そんなお母さんはですねいつも私を自由に育ててくれました。
小学校は近所の区立の小学校に通わせてもらいそして中学にも普通に通わせてもらってたんですが高校はですね海外の方に進学しました。
私が海外で英語を勉強したいと思って母親にカナダの高校に3年間留学したいと告げました。
そしたら母はですねあなたのしたいようにしなさいと優しく応援してくれました。
カナダでの高校生活ホストファミリーも友達もみんなほんとに優しくて刺激的で楽しい3年間でした。
しかし徐々に寒くなってきた1年目の冬ですねその時に私はホームシックに初めてかかりました。
部屋で1人ボロボロボロボロほんとに毎日毎日勝手に涙が出てきて初めての…ほんとにほんとに初めてのホームシックというのを経験しました。
そんな時お母さんから段ボールの荷物が私の住んでいたホームステイ先に届きました。
そこで段ボールを開けると私がずっと欲しかったあるプレゼントが入ってました。
それは以前に日本に一時帰国した時に私が父親にねだったもののちょっと高くて「そんなん自分で買えや」と言われてしまい買ってもらえなかったお気に入りのブーツでした。
母親は私と父のそのやり取りを遠巻きに見ながらですねちゃんと覚えててくれて毎日毎日忙しい中それを買ってカナダの方に届けてくれました。
そんな母親の優しさにすごく感動したのを今でも覚えてます。
正直私が小さい頃は母親はすごく仕事が忙しくてその中でもほんとに一生懸命母親業というものをやってくれてはいたんですけどあまりおうちに本人もいたくてもいる事ができませんでした。
当時…。
当時の私の小さい頃の気持ちを一部歌詞にした歌が私のデビュー曲の「Mashedpotato」という曲に入ってます。
こんな歌です。
小さい頃ちょっと寂しくてこんなふうに思ってこういう歌詞にした事もあったんですけれどもあの時の贈り物はですね母の気持ちがすごく近くに感じられた瞬間で母親の愛とかありがたみが知れたほんとに大きなきっかけになりました。
以上です。
ありがとうございます。
はいありがとうございました。
(拍手)緊張した。
ねえ。
これ15で留学?
(IMALU)15歳ですね。
はい。
中学卒業してすぐカナダに行ったので。
これ何で行きたいなと思ったの?洋楽が大好きだったんで英語の勉強したいって言って。
15歳の若さで違う国に送り出すっていうのもね。
親としては。
自分が今大人になって自分の子どもが…。
ねえ。
心配でしゃあないでしょだって。
お父さんはその留学する時に何か言ってた?いや…「おおほんまか」ぐらいの感じ。
(ラサール)まあそんなんでしょうね。
(IMALU)頑張ってなぐらいだと思いますよ。
でもほんまは心配してたんでしょうね。
ほんと2人ともいい意味で自由に。
やりたい事を頑張れば。
好きな事を頑張ればいいっていうふうにさせてくれて。
そのお母さんが来てくれた事とかあるの?えっと〜卒業式は来てくれましたね。
でも15から離れてるともうてれくさいんですよやっぱ。
親と離れちゃってるから。
(中村)もちろんカナダの人ですか?
(ラサール)おお〜それまたショックですね。
びっくりしますよ。
びっくりしますよね。
「ボーイフレンドです」いうてカナダ人が「どうも」言うてきたら。
(原西)
(原西)大竹しのぶさんとさんまさんの前行ける?
(ラサール)逆に…。
逆にそっちの方が…。
(原西)外人の方の方がまだ行けるよそら。
逆にね。
(IMALU)私はだから楽でしたよだから。
(原西)そうでしょ。
もうやめとかそれは。
(笑い)貧しき人々を救い続けた偉大なるシスター…彼女は…。
世界中に慈愛の精神を伝えた。
そんな世界の母マザー・テレサの心を育てたもの。
それは紛れもなく母の言葉だった。
父親を幼い頃に亡くしたテレサ。
そんな彼女を母ドラナは女手一つで育てていました。
決して裕福とはいえない生活。
しかし母は休日になると貧しい人々のためにボランティア活動を行っていました。
その手伝いをするテレサに母が言った一言。
それが後の彼女に大きな影響を与えたのでした。
母の一言は今もなおテレサを通じて世界に愛を訴えている。
ハーバード大学在学中に友人とマイクロソフト社を設立しあのWindowsを開発。
今や世界中で10億人のユーザーがいる大企業に。
そんな天才実業家も母の一言なしには今の活躍はなかったかもしれない。
それは…クラスになじめず…そんな彼を母は心配する事なく息子の持つ特殊な才能にいち早く気づいていたのでした。
そして通っていた学校に乗り込み転校をじか談判しました。
そこからビルの才能は開花。
ハーバード大学に入学そしてマイクロソフトを設立するのでした。
そんな母の教育方針はただ1つ。
この一言である。
この母の一言があったからこそ誰もが何でもインターネットで調べられるWindowsのパソコンが生まれたのかもしれない。
(笑い)
(彦摩呂)ほんまや。
なかなかすごいですよやっぱり。
ええ〜さあそれでは続いてまいりましょう。

(拍手)日本に旅立つ日母サディアさんとの別れはいまだに忘れられない。
そんなボビーが…僕はアフリカのナイジェリアで生まれた。
ナイジェリアは一夫多妻である。
僕にはお母さんが7人います。
ええ〜!お母さんは番号が付いていて僕を生んでくれたお母さんは…「001号」。
34人兄弟の家族でお母さんは料理とか洗濯とかとっても大変なので兄弟の面倒は兄弟で見たりみんなでお手伝いします。
僕が6歳の時外で遊んでいたら友達が僕の足を引っ掛けて僕は転んで腕を骨折してしまいました。
死ぬかと思うぐらい痛かったんです。
泣きながらお母さんの所へ行きました。
するとお母さんは「ボビー!これ誰がやったのか?」。
「あいつか〜!じゃああいつのうちに行こう」と友達のうちにどなりに行ってまいりました。
僕は痛みを我慢しながら…。
(笑い)ほんまや。
そうや。
それどころちゃうもんね。
お母さんは…。
ボビーが日本へ旅立つ時母から衝撃の事実が!
(一同)ええ〜!そして17歳の時です。
貿易の仕事をしているお父さんの仕事の関係で僕は1人で日本へ行く事になりました。
いつ帰ってくるかもわからない。
それが決まってから毎日お母さんが泣いてたんです。
そして日本へ旅立つ日お母さんは空港へお見送りに来てくれました。
ず〜っと抱き合って泣きながらお母さん声をかけてくれました。
「元気にやるんだよ。
日本には食べるものないかもしれない」。
開けてみたらお弁当でした。
「お弁当?お母さんありがとう!これ何?」って聞いたら…。
ええっ!リロ!?リロ!?僕が…
(一同)ええ〜!リロちゃん弁当になってもたん?
(ボビー)お弁当になっていたのです。
でもお母さんはもう二度と息子に会えないかもしれないしこれが一番のごちそうだと思って作ってくれたんだと思います。
いやもうぶっ飛んでんな。
僕はちょっとショックだったけどすごくうれしかった。
うれしかったんかい!?何でうれしいねん。
(岩尾)おいしかったんや。
ものすごくカリカリに焼かれていて香ばしくておいしかったんです。
食べたんかい!
(笑い)
(ボビー)ちなみにお母さんの一番の得意料理はカピバラの丸焼きでございます。
どんな料理なん?それ。
皆さんカピバラはわかりますよね?ビーバーみたいなこれぐらいの小ちゃなやつなんですね。
そうそうそうそう世界一おっきいネズミねあれ。
あっそうです。
そうですよ。
(ボビー)お母さんはカピバラの穴蔵に煙を入れて出てきたやつを手づかみでつかむんです。
(原西)捕り方別に教えてもらわんでも…。
僕らやらないんで。
ははははは!いやまたや。
何でもカリカリに焼くんやん。
カリカリ好きやな〜。
(岩尾)香ばしくするやん。
(ボビー)お母さんの手料理がまた食べたいです。
(笑い)以上です。
何の話や!
(拍手)
(ボビー)ありがとうございました。
何の話してんねんな。
ありがとうございました。
もう棒が刺さったカピバラしか出てけぇへん。
焼いてグルグルなってるやつ。
(ラサール)そうだよな〜。
文化が違いますからね。
そうですね。
(ラサール)そう食べ物は特にね。
これはもう…。
ねえ。
(原西)しかも…。
(原西)おいしくおいしく仕上げましたから。
(拍手)ボビー!いやお母さん愛してんのわかるけどさ。
(笑い)いや笑うわそら。
(原西)笑てまうよ。
ビックリしたんでしょ?自分のオウムが焼かれてるわけやから。
10年飼ってたん!?これはお母さんの…これをもう食べちゃいなさいと。
ああ〜すごいね〜!
(ボビー)そういう考えなの。
(岩尾)へえ〜。
(ボビー)やっぱり…みんなよりは…
(笑い)
(原西)7倍やもん。
単純に7倍。
「0」…。
何でその「00」付くん?3ケタいくつもりやん。
最終的に900までいける予定や。
(原西)999号までいけるからね。
決まってんねや。
決まってる。
全部役…分担は。
003は?
(笑い)お父さんの背中…。
(原西)はははは!
(彦摩呂)わあ〜!お母さんがいうたら年下なんや。
(ボビー)そう年下。
な〜んやそれ!?
(ボビー)そうなんですそうなんです。
ええ〜。
(ラサール)それは…。
(笑い)さあそれではですね最優秀オカン偉人伝大賞の発表です。
第1回「オカン偉人伝」。
大賞には誰の手に!?さあ8人の皆さんにプレゼンしていただきましたけど。
ここでですねスタジオにお越しのオカン世代の主婦の皆様にどの方のお話が一番心に響いたか投票をしていただきたいと…。
投票があるんですよ!
(ボビー)いろいろあるからな〜。
(ボビー)ははは!何でだよ!
(原西)エントリーは1人だけ。
エントリー007まででいいだろ。
001だけ。
エントリーは。
(原西)1だけですよ。
彦摩呂さん。
いやほんとオカンは偉大やなって。
つくづく…みんなのお母さんの話聞いてても思いますね。
(彦摩呂)ほんまですか?ちょっと…
(笑い)集計が終わったようです。
あら集計終わりましたか。
こちらにございます。
はい。
さあそれではですね最優秀オカン偉人伝大賞の発表です。
こちらの方です!ラサール石井さんです!おめでとうございます。
(拍手)はいおめでとうございます。
大賞の楯になります。
(ラサール)ありがとうございます。
いや〜すごいいいすばらしい話を聞かせていただきました。
いや〜ちょっと泣いてしまってひきょうでしたけどもすいません。
いやまあでもほんとに…今はもう伝わらないんですけどここで…テレビでそういう事が言えてよかったです。
いや〜絶対喜んでくれてますよ。
まあ…そうですよね。
はいありがとうございます。
え〜というわけでね皆さんにオカンの話していただきましたけども…。
ねえ是非。
そうですね。
どちらも。
そうですよ。
次回またお会いしましょう。
さよなら〜。
(拍手)お父さんは体1つやんか。
例えば…みたいな事なの?お父さんもシャレ通じるから…。
(笑い)2014/12/30(火) 04:00〜05:20
関西テレビ1
声に出して伝えたいオカン偉人伝[再][字]【オカンは偉大!母の逸話を彦摩呂らが披露!】

オカンは偉大!母の逸話をIMALU、フット岩尾、彦摩呂、原西らが披露!中村昌也あの離婚騒動に母の言葉は?ラサール石井のオカン話にスタジオ騒然!ボビーも涙&爆笑!

詳細情報
出演者
【MC】
後藤輝基(フットボールアワー) 
高橋真理恵(関西テレビアナウンサー)
【プレゼンテーター】
彦摩呂
原西孝幸(FUJIWARA) 
中村昌也
岩尾望(フットボールアワー) 
ラサール石井 
IMALU 
ナジャ・グランディーバ
ボビー・オロゴン
番組内容
『母は偉大なり!』『今ある自分は全て母親のおかげ』そう思っていても、なかなか面と向かって感謝の言葉は伝えられないし、母親の偉大さを語る機会もない…。そんな思いを抱く有名人たちが、母親への感謝の気持ちを込めて送る“母親自慢”プレゼンバラエティ!会場に集まったオカン世代の女性30人が審査し、大賞を選定!

★彦摩呂…シングルマザーの母が作ってくれたハンバーグの思い出
★中村昌也…結婚・離婚時に心配を
番組内容2
かけた母からの言葉とは?
★IMALU…今まで明かされなかった母・大竹しのぶの素顔とは?
★原西…5年前に他界した“面白いオカン”に原西の思いは?
★ラサール石井…認知症にかかってしまった母への思いを声を詰まらせながら告白
★ナジャ・グランディーバ…優しく接してくれていた母からのメッセージとは?
★岩尾…母親から初めて要求されたお願いとは?
★ボビー・オロゴン…旅立ちの日、母から
番組内容3
渡された手作り弁当の想像を絶する中身とは?

また、世界の有名人の母親にまつわる偉人伝を紹介する「世界のオカン偉人伝」では、福沢諭吉の名言誕生に影響を与えた母親の言葉や、レディー・ガガ、マザー・テレサ、ビル・ゲイツの母親の言葉を紹介。

出演者の“オカン偉人伝”に共感したり、感動したりしながら、自分の母親の“偉人伝”を振り返ってみては?家族みんなで笑いながら様々な“オカン偉人伝”をお楽しみ下さい!

ジャンル :
ドラマ – 国内ドラマ

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32724(0x7FD4)
TransportStreamID:32724(0x7FD4)
ServiceID:2080(0x0820)
EventID:22635(0x586B)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: