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奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳で最古の人型埴輪を発見





茅原大墓古墳:最古の「盾持ち人埴輪」見つかる 奈良

 奈良県桜井市の国史跡「茅原大墓(ちはらおおはか)古墳」で、盾に人の頭を乗せた4世紀末ごろの「盾持(たても)ち人(びと)埴輪(はにわ)」が見つかった。24日発表した同市教委によると、人物をかたどった埴輪としては国内最古となる。

 埴輪は、円筒の上に三角のかぶとをかぶった人の頭(縦17センチ、横16センチ)を乗せ、前面に盾(縦47センチ、横50センチ)を張り付けた構造。全体の高さは1メートル以上と推測される。顔は平たんで赤色顔料が塗られ、目と口の穴が開いている。鼻と眉は粘土を張って作られたが失われ、口の下には線刻で入れ墨が入っていた。

 埴輪は、墳丘東側の濠(ほり)でばらばらになって見つかり、墳丘上から転落したとみられる。

 これまで最古の盾持ち人埴輪は、古市古墳群(大阪府羽曳野市、藤井寺市)にある5世紀前半の墓山古墳などのものとされていた。茅原大墓古墳は全長86メートルで、当時の大和王権の巨大な大王墓は古市古墳群に造られており、同教委は茅原大墓古墳の被葬者は地元有力者とみている。

 盾持ち人埴輪は、主体の盾に顔が付いたとされ、考古学的には人物埴輪と別系統。武人など人物埴輪は規格化され、集団で置かれて祭祀(さいし)などを再現するが、盾持ち人埴輪に同じものはなく、単独で墳丘の外れに立つ「古墳のガードマン」とみられる。

 現地説明会は26日午前10時~午後3時。JR三輪駅の北1.3キロ。雨天の場合は市立埋蔵文化財センターで埴輪を展示する。【高島博之】

毎日新聞 2011年2月24日 19時13分(最終更新 2月25日 0時11分)





笑っているようで武人 日本最古の人物埴輪か 奈良
2011年2月24日23時40分
 奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(国史跡、全長86メートル)で、古墳時代中期初め(4世紀末)に作られたとみられる武人の埴輪(はにわ)1体が見つかった。市教委が24日発表した。人を表現した人物埴輪の出土例は、これまで5世紀初め~前半が最古とされてきた。市教委は「人を埴輪で表現するようになった契機がわかる重要な発見」と話している。

 同古墳東側のくびれ部で数百の埴輪片が見つかった。つなぎ合わせたところ、高さ67センチ、幅50センチの武人と判明した。盾を構え、頭にはかぶとをかぶっている。目と口は穴が開いた形で表現され、目やほおの周りに赤い顔料が残っていた。あごには入れ墨を示す線刻模様があった。

 市教委によると、今回の発掘で一緒に見つかった円筒埴輪が4世紀末のものとされることから、この人物埴輪も同時期に作られたとみられるという。古墳上部から滑り落ちた形跡があり、本来は古墳の上に立っていたらしい。

 埴輪は、古墳時代に円筒や水鳥、家などの形で現れたといわれる。しばらく人の形は作られず、大和王権の中枢があった畿内に現れたあと、全国へ広まったと考えられている。人物の最古の出土例は、5世紀初め~前半の拝塚(はいづか)古墳(福岡市)や墓山(はかやま)古墳(大阪府羽曳野市)だった。

 茅原大墓古墳は、帆立貝式古墳といわれ、前方部が短いホタテ貝のような形が特徴だ。葬られた人物は不明だが、古来、神の山とあがめられた三輪山の西のふもとにあることから、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「三輪山の信仰と強い関わりのある一族が古墳を守護する意味で作ったのだろう」とみる。

 現地説明会は26日午前10時~午後3時。埴輪も見ることができる。JR三輪駅の北約1キロ。問い合わせは市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)へ。(渡義人)






茅原大墓古墳:盾持ち人埴輪出土 王権衰退期、登場は革新的--桜井 /奈良
 ◇三輪山祭祀と関連か
 ◇全長86メートル、後円部直径72メートル
 人物をかたどった国内最古の埴輪「盾持(たても)ち人(びと)埴輪」が出土した桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳。大和王権が誕生した奈良盆地東南部にあるが、築造されたのは王権の中心地が移り、政治的には衰退期にあった4世紀末。その地域で人物をかたどった埴輪の登場は革新的とも言える。専門家の間では、三輪山の祭祀(さいし)と関連付ける見方もある。【高島博之】

 古墳は82年に国史跡に指定されたが、詳細な形態は不明で、市教委が08年から毎年、発掘調査してきた。その結果、全長は86メートル、後円部が直径72メートルの3段築成、前方部が長さ20メートルの2段築成と判明した。前方部が極端に短く、形がホタテ貝に似ているため、「帆立貝式前方後円墳」に分類された。被葬者の階層は高くないという。

 周辺では3世紀後半から、箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)、西殿塚古墳(同230メートル)、行燈山(あんどんやま)古墳(同242メートル)、渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳(同300メートル)など大王墓クラスの大型前方後円墳が相次いで造られたが、4世紀後半にぱたりとやむ。茅原大墓古墳は、その直後に大王墓の半分以下の規模で造られた。

 三輪山の関連について、石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)は「3、4世紀の古墳は、信仰の対象だった三輪山の神域を避けているが、茅原大墓古墳は神域に入っているようだ。被葬者は当時の三輪山信仰の主宰者や、強いかかわりのあった人物かもしれない」とみる。

 当時、人をかたどった埴輪はタブーだったとする高橋克寿・花園大教授(同)は「タブーを破ったことは、政治的な中心が他に移った後も宗教的なリーダー性、革新していく力が残っていたのかもしれない。古代から続く三輪山祭祀もあり、王権の宗教センターとしての役割を果たしていたのではないか」と指摘する。

毎日新聞 2011年2月25日 地方版









    

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