NHKアーカイブス「戦後70年 吉永小百合の祈り」 2015.01.04


関東から東海と中国、四国はおおむね晴れる見込みです。
(桜井)こんにちは。
(吉永)失礼します。
「NHKアーカイブス」2015年最初のゲストは…今から70年前1945年3月の東京大空襲。
吉永さんはこの直後東京で生まれ戦争の傷痕が残る中子ども時代を過ごしました。
父ちゃんなんか戦争起こりゃいいと思ってんだろ。
自分の事ばっかり考えて。
自己中心主義!バカ野郎!バカ野郎!高校生の時主役を演じた映画「キューポラのある街」が大ヒット。
一躍清純派女優として活躍を始めます。
その後も数々の映画で主役を務めこれまでにおよそ120本の映画に出演してきました。
戦後70年の節目の今年吉永さんは「長崎の原爆」をテーマにした映画に出演する事を決めました。
吉永さんにはもう一つの大切なライフワークがあります。
30年近く続けてきた…これまで200回以上の朗読会を行い海外にも原爆の悲惨さを伝えてきました。
特に大切に思っているのは子どもたちに語り継ぐ事です。
「ちちをかえせははをかえせ」。
この悲劇を繰り返してはならない。
吉永さんは朗読の一語一句に祈りを込めます。
「わたしをかえせ」。
戦後70年吉永小百合さんに平和への思いを聞きました。
・「故郷」明けましておめでとうございます。
今年2015年は戦争が終わって70年という節目の年にあたります。
今日はそんな年にふさわしい方にゲストにお越し頂きました。
女優の吉永小百合さんでいらっしゃいます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
戦後70年。
この戦後という言葉は吉永さんにとって特別何か思いのある言葉なんだそうですね。
年齢の事は言いたくないんですけれども東京の大空襲…1945年の大空襲の3日あとに生まれたんですね。
ですから自分の年と戦後何年という言い方がず〜っとずっとつながってついて回ってるという事なんですね。
日本の事だけ言ってはいけないんですけれどもそれでも日本はず〜っと戦後であってほしいという思いがしているんですね。
戦後70年75年80年というふうに新しい戦争を絶対にしないというそういうみんなが気持ちでいてほしいしそのために努力しなければいけないという思いを強くしてます。
そういう思いのある戦後という言葉ですね。
ご自身の中ではそうしますと戦争というその記憶というのは?生まれてすぐに防空ごうに入ったっていうのを母から繰り返し聞かされてそれで私自身も何かそういう体験が自分の中にあるんですよね。
それと母がお乳が出なくってもうほとんどまだ無理なのにおみそ汁みたいなものを飲まざるをえなかった。
母は私を背負ってちょっと…東京におりましたから東京の郊外の方の酪農家の方に「お乳を分けて下さい。
牛乳を分けて下さい」というふうに言いに行ったっていう話を何度も聞いてます。
やんちゃでずっと子どもの頃は過ごしました。
家のそばに何か大きなお屋敷があって門だけ残ってるんですよ。
全部焼けてないんですね。
それで焼け跡って私たちはそこの事を言ってましたし防空ごうの中でみんなで遊ぶっていう事が日常になっていました。
小学校あがる頃まであったような気がするんですねそれは。
お父様は戦争に行かれたんでしたよね?父は戦争に行きましたけれども病気をしまして途中から…まあ船に乗って行ったんですけど帰されたんですね。
それでそのあとに私が生まれましたのでもし父がそのまま戦争に行ってたら私自身がこの世に存在しなかったというふうに思うんですね。
そうするともう何かとても不思議な気持ちになりますしこうやって生まれて今まで元気でやってこれたっていうのはとても幸運な事なんだというふうに改めて思います。
お父様にその戦争のお話を小さい頃聞いたりそういうような事はなかったですか?父はほとんどそういう話はしなかったですね。
今となってはもっともっときちんとどうやって戦争が起こってそしてみんな…うちの家族も周りの人たちもどういうふうにその間生きてきたかっていうのをしっかり聞いとくべきだったと思ってるんです。
そういう吉永さんがそうしますと戦争という事を身近に感じられるようになったそれはいつごろからどの辺りからなんでしょうかしら。
戦争っていいますか原爆の事なんですけれども映画で「愛と死の記録」という作品をやりました。
それは21歳の時だったんですけれども実際に8月に広島に行って長い事撮影したんですね。
放射能じゃ。
1966年公開の映画「愛と死の記録」。
その瞬間4,000度の熱戦がさっと…。
俺はそいつを見たい!そいつを!嫌!嫌よ!被爆者じゃいう事。
吉永さんが演じたのは原爆症の青年と恋に落ちる女性。
薬のむ?恋人を病で亡くし自らもそのあとを追います。
幸雄!その夏に広島で自分が感じた事っていうのはずっとずっと後まで残りましたね。
だから戦争の事っていうよりは戦争の終わる直前に信じられないような大きな悲劇があって本当にたくさんの方たちが人間としてじゃなくってもう本当に何て言うんでしょうね。
人間の尊厳とかそういう事を無視された形でこの世からいなくなってしまったという事を知りました。
もう何度も何度も原爆ドームで自分が原爆症だったっていう告白をするシーンとかそういうものをやりましたしやっているうちにだんだんだんだん自分がその役に入り込んでいくような感じがしました。
ですから撮影終わって映画が完成した時にやはりあの時代に原爆ドームがたくさん映っていたんですね。
それと芦川いづみさんの役がケロイドを持つ女性の役でそのケロイドの部分をとにかく削るようにっていう事を会社の偉い方がおっしゃって。
もうそれが許せないという思いがしたんです。
それで撮影所の食堂の前の芝生があるんですけどそこで座り込みみたいな形でスタッフの方たちといた事を覚えていますけれどもまだそういう時代だったんですね。
それから15年後になりますか。
1981年には今度はNHKのドラマの「夢千代日記」ご出演頂きました。
山陰のひなびた温泉街を舞台にしたドラマ「夢千代日記」。
吉永さんが演じた芸者夢千代は母親の胎内で被爆した被爆2世でした。
心の声今日3度目のめまい。
踊る事も無理なんだろうか。
もう私の中に強く残っていますしそのドラマの中で夢千代という私の役の人物は常に人に優しくして困ってる人を助けるんですね。
どうしてそんなに優しくできるんだろうっていう事を演じながら考えたんです。
これは観音様なのかマリア様なのかっていうように。
本当に人を優しく抱きしめてあげられる人。
ある時に早坂暁さんがシナリオを書いて下さってその中に「私は人を助けたいんです。
助けられる間は私はまだ大丈夫なんです」というセリフがあったんですね。
私はもう治らない病気を持った人間です。
助けばかり呼んでる人間です。
ですから誰かの力になりたいんです。
誰かを助けられたら助けたいんです。
助けられる間は私はまだ大丈夫なんです。
重い原爆症に苦しみながらも他人を思いやる優しさを絶やさない夢千代。
このシーンを演じた時吉永さんはようやくその優しさの理由が分かったと言います。
夢千代は実際には戦争に遭遇してる訳じゃないけれどもお母さんのおなかの中で大変な被害を受けてそしてなんとか頑張って生きていこうという思いの中にいるんですよね。
つまり人に対して優しくする事で自分を鼓舞してるっていうか。
命も限られているんだけれどもしっかり生きなきゃというふうに思うんだっていう。
ああそういう事なんだって。
やっていながら分からなかったんですけれども納得したというか。
あの時期にあの作品に巡り合ったっていう事は私にとってとても大きな事でしたね。
そういう意味ではドラマ映画で被爆者の方々の気持ちっていいましょうかね。
戦争原爆追体験されたようなと思うんですけれども。
追体験まではいかない。
一番まあ追体験というのを感じたのは「あゝひめゆりの塔」という作品なんですけどね。
国にご恩返しする絶好の時である。
1968年公開の「あゝひめゆりの塔」。
沖縄戦の悲劇を描いたこの映画ではひめゆり部隊の女学生を演じました。
(悲鳴)さちこさちこ!さちこ!実際に戦うシーンもありましたし自決するシーンもあったのでその時はもうパニックのようになってしまって…。
演じてるんですけれどももう自分をコントロールできないんですね。
ただただ泣きっ放しでそれで映画は終わってしまって実際にその作品を見たら違うんじゃないかなって思ったんですね。
泣きっ放しっていうのは気持ちが?入り過ぎてしまって。
でも後でひめゆり部隊の方たちが語ってらっしゃるのを伺ったらやっぱり信じられない状況の中で涙も出なかったっていうふうにおっしゃっていてそれが本当だと思いますしあんなふうにまあ夢中で一生懸命やった事は事実なんですけれども泣き叫んではいけなかったんだというその時の自分の何か反省っていうのが今もあるんですけれども。
そういうご経験を通してどうなんでしょう?戦争あるいは原爆についてはどんな思いでいらっしゃるんでしょうか?やはり戦争っていうのは人間を…人間同士の…殺し合う事ですよね。
だから昔から戦争によってどんどん歴史が変わってきたという事はありますけれどもやはりどんな事しても避けなければいけないし人間は頭脳っていうのを持ってる訳だからもっともっと考えていろいろな道を選択すべきだという事は思ってるというか願っていますね。
原爆はやはりもう二度と地球上で使われてはいけない。
そのためにきちっと唯一の被爆国の私たちがその事をきちんと知ってそれで世界の人に語っていかなきゃいけないというふうに思ってます。
核兵器を持つ事で安定が保たれてるとかって言いますけれどもやはりこれは異常な兵器だと思いますしもう核廃絶という事…声に出して言いたいと思います。
実は吉永さんは戦争そして原爆について書かれた詩。
まあ「原爆詩」をず〜っと長い間読み続けていらっしゃるんですね。
そういう活動をされてこられました。
それはそもそもきっかけはどういう事だったんでしょう?「夢千代日記」をやった時に被爆者の団体の方から平和集会で「原爆詩」の朗読をしてほしいというご依頼があって渋谷の山手教会という小さな所で朗読をしたんですね。
その時に20編ぐらいの詩を頂いてその中から読んで下さいという事でしたけれども初めての体験でした。
短い詩の中に思いが込められていてとにかく読んでいてつらくなるようなものもとても多かったんですね。
でも子どもたちの詩は…子どもたちは実際には原爆には遭遇してない子どもたちなんですけれども原子爆弾が落ちると昼が夜になって人はお化けになるってそういう詩を広島の子どもが書いていてそれは短い詩ですけれども全てを表していると思いましたし。
プロの詩人の方も書いてらっしゃるしまた一般の方も書いてらっしゃるし膨大な詩があったんですね。
それを全部読みましたけれどもそうやって表現する事でそれぞれの思いをみんなに知ってもらいたいというふうにお考えになった事だと思いました。
「原爆詩」の朗読は吉永さんにとっては大切なライフワークとなっていく訳ですけれども被爆の地広島で朗読会を開かれた様子を記録した番組「祈るように語り続けたい」からご覧下さい。
「序」峠三吉。
「ちちをかえせははをかえせとしよりをかえせこどもをかえせわたしをかえせわたしにつながるにんげんをかえせにんげんのにんげんのよのあるかぎりくずれぬへいわをへいわをかえせ」。
女優の吉永小百合さんは原爆の詩の朗読会を各地で開いてきました。
今年で12年目になります。
被爆者の体験から生まれた詩を通して穏やかにしかし粘り強く平和の願いを伝えたいと吉永さんは言います。
7月吉永さんは広島を訪れました。
吉永さんはこれまで広島の被爆者の前で朗読した事はありませんでした。
原爆を知らない人たちに原爆を伝える事が自分の役目だと考えてきたからです。
しかし11年続けてきた朗読活動の節目として今年初めて広島で朗読会を開く事を決意したのです。
吉永さんが前日からリハーサルをするのは異例の事です。
吉永さんのこの朗読会に懸ける意気込みが伝わってきます。
「にぎやかな広しまの町そこでしんだ、おとうちゃんげんばくの雲にのっていったおとうちゃんおしろのとこでしんだ、おとうちゃんわたしの小さいときわかれたおとうちゃんかおもしらないおとうちゃん一どでもいい、ゆめにでもあってみたいおとうちゃんおとうちゃんとよんでみたい、さばってみたい」。
一つ一つの詩を何度も繰り返しこの日のリハーサルは予定を大幅に超えました。
じゃあもう一回やってもらう?それとも。
ちょっと今やります?もう一段大きくして。
今やっとけば…。
すいません一座の方。
明日やるって大変ですよ。
普通の詩ではないですからね。
やはりとっても重い事ですし特に広島で読むっていう事はもう普通の所で読むのの何倍もプレッシャーはかかるんですね。
だけど本当に被爆なさっていらっしゃる方がたくさんいらっしゃるしそういう方が聞かれた時にこれは違うっていうふうに思われたくないと思うし私は全然見てもいないし体験もしてないし単にこう表現するだけですからそんな本当の被爆者の方たちの苦しみなんか分かろうはずがないんですけど…。
でも何か気持ちだけはやっぱり込めたいっていうか。
思いを込めたいっていう。
そういう事でとても広島の被爆なさった方たちの前で読むっていうのは自分にとって大変な事なんですけど。
ただやっぱりそういう方にも聞いて頂けたらすごくうれしいですよね。
広島の朗読会には詩の作者を招待する事にしていました。
しかし当初7人の作者の消息が分かりませんでした。
昭和25年に作られた「ヒロシマの空」。
この作者の林幸子さんも消息の分からない一人です。
「ヒロシマの空」は8月6日に母と弟を亡くし1か月後には父親も失い独りぼっちになってしまった女の子の深い悲しみを描いた詩です。
「ヒロシマの空」は今までも機会があるごとに読んできましたし特に若い高校生とか大学生の方たちに一番聞かせたい詩なんですね。
若い少女の被爆直後から親兄弟を亡くして一人でどうしていいかって途方に暮れてる姿が本当に素直に書かれていて読んでいても気持ちを込める事ができやすい作品だと思います。
当時の詩集の編集者を捜し更に知人の記憶をたどっていくうちに「ヒロシマの空」の作者林幸子さんは東京の立川市にいる事が分かりました。
本名川村幸子さん。
林幸子はペンネームでした。
川村さんは結婚後昭和28年に広島を離れていました。
私たちが取材に訪れるまで川村さんは詩の朗読の事もCDの発売も知りませんでした。
(ラジカセ)「燃えさしの鉄橋をよたよた渡るお父ちゃんとわたし昨日よりも沢山の死骸真夏の熱気にさらされ体がぼうちょうしてはみだす内臓渦巻く腸かすかな音をたてながらどすぐろいきいろい汁が鼻から口から耳から目からとけて流れる」。
吉永さんから朗読会に招待された川村さんは広島に向かいました。
爆風でガラスの破片を浴びた被爆当時の記憶が川村さんに鮮明によみがえってきました。
(川村)もうだいぶ薄れましたね。
これは中に入ってかなり取れなかった。
奥に…。
5年ぐらいに何かの時切って出したんです。
細いのがここから…。
なかなか傷口が塞がらない感じだった…。
兵隊さんがピンセットで傷口の中入れてかき混ぜたらカサカサッて音がして。
(車内アナウンス)「間もなく広島に到着致します」。
昭和20年8月6日。
川村さんは学徒動員先の軍需工場で被爆しました。
当時川村さんは16歳。
高等女学校の4年生でした。
両親と3歳年下の弟との4人暮らし。
自宅は爆心地から僅か2キロの所にありました。
原爆が投下された時両親と弟は自宅にいました。
川村さんが工場から戻った時母と弟は既に亡くなり辛うじて助かった父も1か月後には亡くなります。
一人残された川村さん。
川村さんは父が亡くなるまでの1か月の日々を詩につづりました。
それが「ヒロシマの空」です。
(拍手)どんな感じでした?すばらしかったです。
もう私そんなに泣く人間じゃないんですよ。
一時泣き過ぎたもんですからもう涙がかれたのか全然泣かない人間がなぜか泣いてしまいました。
吉永さんの朗読はとってもすばらしいです。
すばらしいなと思って…。
もう今日来てよかったです。
ごめんなさいこんな所で。
どうも今日はありがとうございました。
よくいらっしゃって下さいました。
何度読んでも難しくてうまくいかないんですけれども…。
子どもたちがとても林さんの詩を読んで感動してくれるんですね。
いつも地方に行って。
おいくつの時に?二十歳ぐらいの時に書いたと思うんですけど。
すごくすばらしかったです。
何か本当に祈りを込めて朗読して下さってるから。
私は本当に実体験がないからできる事って言ったらそういうふうに心を込めてなんとか祈るような思いでという事しかないんですよね。
だからその気持ちだけはずっと忘れないでこれからも「ヒロシマの空」をずっと続けて読んでいきたいと思いますので。
よろしくお願いします。
どうもありがとうございました。
吉永さんが選んだ子どもの詩4編。
その詩の原稿が広島の中央図書館に残されていました。
吉永です。
この度はどうもありがとうございます。
小学生の私が読ませて頂いた詩の原本というか…。
これらの詩の原稿は昭和27年当時の小学生たちが書いたものです。
これはご本人が書いたものじゃなくって?そうですねこれは編さん委員会の方で本人が書いたのを清書といいますか出版するためにある程度成文化した文ですね。
あった。
「おとうちゃん」とか。
柿田佳子さん。
これは現物ですね。
この時期に子どもさんが書いたのが一番飾りのないものといいますかうそがない。
ご自身たちは記憶としては残ってないかもしれないけどお父さんとかお母さんとかお兄さんとか弟さんとかそういう方たちが亡くなったり。
これも。
これもよく分かりますよね。
私も全部読まさせて頂いてその中から4編を選んだんですけどだけど後でまた読み返してみるとああこれも入れればよかったっていうようなのがとても多いんですね。
むしろ子どもたちの詩の中に凝縮されて本当に言いたい事っていうのが書いてあるような気がして。
詩集「原子雲の下より」は昭和27年に広島市民の書いた詩を集めて作られました。
掲載された124編の詩のうち79編が小学生の作品で占められています。
吉永さんはその中から4編を選んだのです。
とにかくなるべくシンプルで訴える力の強いものという事で選んだんですけれども一つ一つみんな訴える力っていうのは強かったと思うんですけど。
まだその当時に52年ですか52年にああいう詩を子どもたちに書かせたっていう事がとてもよかったと思う。
だからいろんな形で次の世代の子どもたちに伝えていきたいというふうに思ってます。
広島市の中心街の一角に一つの石碑がひっそりと建っています。
詩人の栗原貞子さんの代表作「生ましめんかな」の碑です。
この詩は被爆の2日後倒壊したビルの地下室で赤ん坊が生まれたという実話がもとになっています。
赤ん坊が生まれたのは爆心地から2キロほどの所にあった広島貯金支局のビルの地下でした。
8月8日の未明貯金支局に避難していた妊婦が産気づきます。
何もない真っ暗な地下室でした。
しかし重傷を負った助産婦が最後の力を振り絞って赤ん坊を産ませました。
助産婦はその直後に息を引き取ります。
詩人の栗原貞子さんはこの話を直後に伝え聞き詩に書きました。
栗原さんは生まれた赤ん坊が新しい広島そのものだと感じたのです。
8月の末ですねその話を聞いたのはね。
ですけどねそれでその話を聞いた時私は本当にもうびっくりしちゃったと言っていいか…。
衝撃を受けました。
というのは毎日毎日人が死んで河原へ持っていって焼く。
そういうような状態。
まるで死に取り囲まれたような状態の中で赤ちゃんが生まれたという話を聞いたもんですから私は本当にびっくりしましてね。
もう帰ってすぐノートを。
古いノートへ書きなぐったように書きました。
栗原さんは翌年この詩を「生ましめんかな」として自分が主宰する雑誌に発表しました。
「こわれたビルディングの地下室の夜だった原子爆弾の負傷者たちはローソク一本ない暗い地下室をうずめていっぱいだった生まぐさい血の臭い汗くさい人いきれ死臭うめきごえその中から不思議な声がきこえてきた今、若い女が産気づいているのだ」。
・「かくて地獄の底で」・「新しい生命は生まれた」・「かくてあかつきを待たず」・「産婆は血まみれのまま死んだ」・「生ましめんかな生ましめんかな」・「己が命捨つとも」「生ましめんかな」はとても難しいと思いますね。
すごく力強いし描写もきちっとしててその歯切れのよさとその向こうで一人の女の子の命が誕生していくっていうかそういう叙事詩だと思うんですよね。
そういうみんなの聞く人の中にそういう状態がこうパッと見えるようなそんな感じで読むのはあれはとても難しいですね。
広島市にあるがんぼう食堂。
がんぼうとは方言でいたずらっ子の意味ですが希望という意味も込めて店の名前に付けられています。
小嶋和子さん52歳。
「生ましめんかな」の中で焼け跡の地下室で生まれた赤ん坊です。
小嶋さんは11年前に夫婦でこの食堂を始めましたが夫は去年亡くなりました。
今は高校1年の息子大士君が手伝ってくれています。
和子さんを産んだ母親は14年前孫の大士君の誕生と入れ代わるように71歳で亡くなりました。
まあ生まれてきたっていう事はやっぱりそういう中で生まれたっていう事は何か意味持ってるんでしょうけどそれがなかなか私には…。
だからそういう詩が有名になってモデルだっていうのが分かった時がちょうど大士ぐらいの年齢16歳ぐらいだったからそれは悩みました本当のところ。
それは大変だったと思います。
私が大士を産んだ時は割と安産だったけどそれでも何でもかんでも全部整ってる中で産んでも大変なのにそれこそ何にもない物が全然ない焼けてるんだから。
もうでもやっぱりその時は母いうのは強いんでしょうね。
予定日が6日だったのに6日に産まれなかったからまあ助かった言って言ってはいましたけどね。
だから本当その時はみんなが気持ちが一つだ言って母言ってましたね。
もう生まれる事ばっかりで自分のそれこそあの詩の中にあるように痛みを忘れ何もかも忘れて私を取り上げるだけでみんな必死だって。
「生ましめんかな」は中学校の国語の教科書にも取り上げられ和子さんのもとには全国の中学生から励ましの手紙が寄せられるようになりました。
和子さんの誕生に広島の希望を見たという手紙が多いようです。
ちょっと重荷だけど精いっぱい頑張って生きていくのが私の宿命と小嶋和子さんは言います。

(拍手)何か自分がその時にいたような気がしてね。
そこの人の声が皆私のとこ来るような…。
8月6日52回目の広島原爆の日。
この一年間で亡くなったり新たに死亡が確認されたりした原爆死没者は5,000人を超えました。
被爆から半世紀を超えた今被爆体験を受け継ぎ伝えていくために吉永小百合さんの「原爆詩」の朗読は続きます。
広島で「原爆詩」を読まれた時の事は覚えていらっしゃいますか?以前にも広島の女子学園の皆さんに学校の講堂で聞いて頂いたりはしてたんですね。
ただあの大きな会場で実際に詩を書かれた方とかまた詩のモデルになった方とかが聞いて下さるっていう事は初めての事でしたからもうとても緊張しましたしとにかく思いを一字一句こう…心を込めて読みたいというふうに思いました。
実際にお会いになってるんですよね?書かれた方にね。
皆さんその当時の思いをしっかりと詩に書かれていて「生ましめんかな」のモデルのお嬢さんもずっとずっとモデルになった事でとてもプレッシャーがあったっておっしゃいましたけれども息子さんとしっかりこれからもやっていかれる事だと思いますしやっぱり「生ましめんかな」というのは子どもたちにも読んでも分かってもらえる詩なんですよね。
だからずっと続けていきたいと思っていますけれど。
今日実は吉永さんの大切な「原爆詩集」をお借りしているんですね。
ご紹介させて頂いてよろしいですか?はい。
こちらなんですね。
はい。
これ実は拝見してびっくりしたんですけどこんなふうに付箋がたくさんあって本当に大事にそして共に人生を吉永さんが歩んでこられたんだなというのをこれを拝見して思ったんですけれども。
時々いろんな朗読会に行って詩を変えて読んだりしてるんですねその時によって。
ですから開いて読む事もあります。
ず〜っとず〜っと長く読んでこられたその思い。
お仕事もお忙しいですしそういう中で続けてこられたそのお気持ちというのはどういうものがあったんでしょう?そうですね…最初に86年に読んだあとは読まずにはいられないという思いでね。
「読まずにはいられない」?はい。
あの…こんな詩があったんだっていう驚きでそれが自分だけが知ってるんじゃなくてやっぱりこれからの…これから大きくなっていく子どもたちとかいろんな人に知ってもらいたいという思いでやったんですね。
もちろんその被爆なさった方たちに対してもう亡くなった方に対して安らかにっていう思いはあります。
この「原爆詩」を読むという事は相当…力がいる事っていうか自分の中でエネルギーがいる事で大げさに言うとちょっと自分の身が削られるんじゃないかっていうような事を感じる時もあるんですね。
でもそれをする事によって読む事によって自分自身が何か少し成長できるっていうかものを考えられるようになるというかそんな事がありますね。
吉永さんは若い世代に「原爆詩」を伝えるという事に特に力を入れていらっしゃる訳なんですけれども次は2007年吉永さんが子どもたちと一緒に「原爆詩」の朗読会を行った様子を追った番組をご覧頂きます。
本番の2週間前吉永さんは東京・目黒を訪れました。
こんにちは。
よろしくお願いします。
よろしくお願い致します。
吉永さんは今回の朗読会で子どもたちにも詩を朗読してもらう事にしています。
こんにちは。
ひばり児童合唱団は子どもの頃吉永さんが通っていた思い出の場所です。
ここで発声の方法を学びました。
集められたのは8人の子どもたち。
吉永さんの事はあまりよく知りません。
「げんしばくだん」フジケイトさん。
少女にはまだ難しい漢字は読めません。
題から言える?「げんしばくだん」。
どうぞ。
これ読めません。
読めないのね。
「坂本はつみ」。
「『げんしばくだん』」。
「小学3年」。
「小学3年坂本はつみ。
げんしばくだんがおちるとひるがよるになって人はおばけになる」。
「原爆詩」を読む事でまた彼らが大人になった時にもっと強い思い出を持つだろうと思うんですね歌だけ歌うんじゃなくて。
そういう子どもたちの中からまたこの詩を語り継いでくれる人が現れるかもしれないしやっぱり子どもなりの受け止め方があるので私が全部読むよりは大人たちに対してこう…訴えるものがあると思うんですね今回の朗読会では。
だから子どもたちにすごく期待しています。
「『帰り来ぬ夏の思い』下田秀枝」。
「黒い雨の降りしきる中僕は母さん探していますのどがからから水が欲しいよ母さんやけどの手足がひりひり痛いよ母さんさっきの青空どこへ消え」…。
「帰り来ぬ夏の思い」は重傷を負った少年が母を捜す詩です。
子どもたちの担当分では一番長く難しい内容を小学2年生の男の子2人が分担して読む予定です。
「炎の雨の降り注ぐ中僕は母さん探しています周りがだんだん熱くなってくよ母さん」。
戦争の事をほとんど知らない子どもたちに吉永さんは丁寧に説明を繰り返します。
原爆の事って聞いた?聞いた。
聞いた?あのね太陽よりももっともっと熱いね…すごい熱がパッと一瞬にして人間を焼いてしまったの。
ね?だからこの子どもはやけどしてそしてもうすっごく痛い訳。
お母さんはもうどこに行ったか全然分からないの。
だから必死でお母さんを捜してるのね。
だからそのお母さんを3回「母さん母さん母さん」っていうとこあるんだけどそういうとこは本当に「お母さんどこにいるんだろう」っていう思いで独りぼっちになっちゃってもう本当につらくって自分ももうすぐもう息も絶えそう…「息も絶えそう」難しいね。
あの…死にそうになっているそんな感じ。
詩の内容が子どもたちには難しい事は分かっていました。
吉永さんはそれを承知で子どもたちに朗読をしてもらう事にしたのです。
すぐには理解できなくてもいつかはこの経験が生かされると思うからです。
1番がナカハラ君。
で2番が…。
ヨネザワ君。
誰かが倒れた場合は1人でもやるという…。
誰かが倒れたら私がどっちかやりますよ。
そういう割り方をする?うん。
2つはちょっと難しいかもしれない。
了解了解。
子どもたちの負担を思いやりながら朗読会の段取りが決められていきます。
1週間後リハーサルは続いていました。
よく練習してきた?「わたしのバレーの先生のくびにピカドンのやけどがありますわたしはかわいそうね、とおもいました」。
あのね「わたしはかわいそうね、とおもいました」というより「かわいそうね、とおもいました」ってあんまり高くトーンを上げない方がいいかしらという気がするんだけど。
「かわいそうね、とおもいましたあつかっただろうとおもいます」。
「と」がねやっぱりちょっと強すぎるのかもしれない。
「あつかっただろうとおもいます」っていうふうにできればあんまり「と」だけが立たない方がいいと思うんだけども難しいかな?ねっ。
でもそれは気持ちでね。
(女性)「と」っていうのが高さが高いのね。
「とおもいました」ではなくて「とおもいました」。
分かるかな?
(男性)ではちょっと休憩しましょうか。
休憩の間に吉永さんのもとに少女が駆け寄りました。
「原子爆弾はまた落ちるの?」と聞きました。
落とさないように…。
だから落とさないようにって祈ってで今度みんなで…ねっひばりの子どもたちも私たちも朗読したり歌ったりする。
まだねこれからもうもしね原子爆弾使われちゃったら大変な事になっちゃう。
ねっ。
練習再開です。
「やけどの手足がひりひり痛いよ母さんさっきの青空どこへ消えたの母さん母さん母さん母さん御願い返事をしてよ母さんなんだかぼくはもうぼくでなくなるよ」。
最後の「もうじきぼくはもうぼくでなくなるよ」っていうのがとっても難しい言葉なんだけど僕はもう死んじゃうんだよっていう事なのね。
だからそこを割にはっきりと言うようにしてみてくれる?じゃあ私が1回やるから…あっ全部やるのね。
それでそのあとやってくれる?いい?「のどがからから水が欲しいよ母さんやけどの手足がひりひり痛いよ母さんさっきの青空どこへ消えたの母さん母さん母さん母さん御願い返事をしてよ母さんなんだかぼくはもうぼくで」…。
練習は何度も何度も繰り返されました。
「のどがからから水が欲しいよ母さんやけどの手足がひりひり痛いよ母さんさっきの青空どこへ消えたの母さん母さん母さん母さん御願い返事をしてよ母さんなんだかぼくはもうぼくでなくなるよ」。
最後の「母さん」をもう少し大きい声で。
お母さんがいなかったらどのくらいの声で捜す?「お母さ〜ん!」って捜さない?ねっ?おうちで。
そのぐらい大きい声出してやってみて。
とっても進歩してますね。
1週間前にやってその前最初オーディションでみんなの朗読聞いたんですけど1週間前にやってまた1週間たったらなかなかよくなってる。
小学校2年生なんでまだまだね「ぼくがぼくでなくなる」っていう事を説明してもそれは理解できる事じゃないしとても難しいと思うんですけどただもうまっすぐに読んでもらえればいいと思うんですね。
「げんしばくだんがおちると」…。
吉永さんは子どもたちの朗読をまるで母親のように見つめています。
「やけどの手足がひりひり痛いよ母さんさっきの青空どこへ消えたの母さん母さん母さん母さん」。
よくなった。
すごく上手になった!「母さん」のとこもうちょっと大きい声で最後の最後の3つ目の「母さん」ね。
ねっ。
本番を翌日に控え子どもたちのリハーサルは4時間に及びました。
はいはいはい。
「げんしばくだんがおちるとひるがよるになって人はおばけになる」。
こうして6月24日当日子どもたちによる「原爆詩」の朗読が始まりました。
(拍手)私は中学校や小学校で朗読する時もあるんですけども私が朗読するだけじゃなくて子どもたちにも声を出して読んでもらいたいというふうに願っています。
初めは意味は分からなくてもきっと大きくなってその事を思い出して平和を願う祈る気持ちが生まれてくるのではないかしらというふうに思っています。
「黒い雨の降りしきる中僕は母さん探していますのどがからから水が欲しいよ母さんやけどの手足がひりひり痛いよ母さんさっきの青空どこへ消えたの母さん母さん母さん母さん御願い返事をしてよ母さんなんだかぼくはもうぼくでなくなるよ」。
「炎の雨の降り注ぐ中僕は母さん探しています周りがだんだん熱くなってくよ母さん僕のおうちはどこへいったの母さんさっきの話の続きをしてよ母さん母さん母さん母さん早くここへ来てぼくを抱いてもうじきぼくはもう僕でなくなるよ」。
「目を閉じてごらんなさい見えるでしょう炎と灰に埋もれる街聞こえるでしょう母の子どものすすり泣き帰り来ぬ夏のあの呪いあの思い」。
「『げんしばくだん』小学3年坂本はつみ」。
「げんしばくだんがおちるとひるがよるになって人はおばけになる」。
「『先生のやけど』小学2年かくたにのぶこ」。
「わたしのバレーの先生のくびにピカドンのやけどがありますわたしはかわいそうね、とおもいましたおどっていると手のほうにもやけどがありましたあつかっただろうとおもいます」。
「『無題』小学5年佐藤智子」。
「よしこちゃんがやけどでねていてとまとがたべたいというのでお母ちゃんがかい出しにいっている間によしこちゃんは死んでいたいもばっかしたべさせてころしちゃったねとお母ちゃんはないたわたしもないたみんなもないた」。
子どもたちの朗読。
それは一人でも多くの子どもたちに平和への願いを受け継いでもらいたいという吉永さんの試みでした。
(拍手)子どもたちとご一緒に「原爆詩」を読まれてどんな感じを持たれました?最初はどうなるかと思ったんですけれどもね何かやってるうちに子どもたちが本当に自分の中に取り入れてとてもしっかりと読んでくれたんですね本番で。
何かもうみんなを抱き締めてあげたくなるような感動でしたね。
私が考えてた事なんですよね。
一人で読むよりはせっかくだから子どもたちと一緒に読んでみようって。
でも最初の段階ではこれはちょっとうまくいかないんじゃないかなというふうに感じてしまったんですけれどもやっていくうちに何か…分かってくれたんですね。
思いが伝わって。
そういうふうにつながっていく事が大切なんですよね。
本当にそんなバ〜ッとみんなが受け止めて下さる訳ではないけれどもでもそうやって少しずつ次の世代にこう伝えられればというふうに思います。
そういう意味もあって実は先ほどから出てるこの絵ですね。
吉永さんがもっといろんな方に知って頂きたいという事でCDを作られました。
そのCDのジャケットに使われた絵なんですけれどもこれは男鹿和雄さんとおっしゃって…。
スタジオジブリでずっと美術監督をなさっていらした方ですね。
描いて下さったんですね。
で実はこちらがCDなんですけれどもこのCDの中にジャケットがありましてこんなふうにこの灯籠流しですね。
これは吉永さんが男鹿さんのところに頼みに行かれたんだそうですね?はい。
ジャケットをどういうふうにするかというのを悩んでいて何かむき出しのものじゃなくて悲劇は伝えたいけれどもでもふっとこう見た時にああきれいって思ってもらえるような作品ないかしらという時に男鹿さんの画集を拝見してああこの方しかいないと思って無理やりというか本当にお忙しい方なんですけれどお願いしたんです。
それでそれと同時に私が朗読した詩に音楽をつけたいという思いで村治佳織さんのギターを是非この詩にのせたいって思ったんです。
当時村治さんはだって…。
村治さんは高校生でデビューしたてのとてもフレッシュな方でしたけれどもそういう方に若い世代に弾いてもらって何かこう…生きる力みたいなものを詩の向こう側に感じさせたいと思ったんです。
そして作られたCDのタイトルが「第二楽章」。
はい。
その「第二楽章」っていうのもね「第一楽章」はどちらかと言うとリズムがあって割に大きな音で演奏されますけどコンチェルトでもオーケストラでも「第二楽章」っていうのは割に緩やかなものが多いですよね。
で今戦争から何年っていうふうにたってきて「第二楽章」のように語り…語っていく事が人々の心に少しでも受け止められるんじゃないかというふうに考えて。
それはやっぱりあまり声高に言っても拒否反応があるかもしれませんもんね。
聞きたくないっていうのもあるかもしれないんですよね。
そんなの…みんなもっともっとこう劇画とかテレビなんかでも…例えば戦争なんかがこう…何て言うんでしょうね…リアルなものじゃなく不思議な…CGみたいな感覚で映し出される事ありますよね。
だから…そういう事じゃなくてこんな事があったんですよっていうのをそれを逆にどぎついんじゃなくて美しいものから感じてもらうというふうに思いました。
でもどうなんでしょう。
そういう活動をしていらっしゃる一方で確実に戦争あるいは原爆については記憶は風化していくと。
その辺りを実感するんですけどいかがでいらっしゃいますか?それは。
どんな事が起こったかっていう事子どもたちはほとんど知りませんしね。
前にドキュメンタリー映画で渋谷のスクランブルの交差点辺りでね若い女の子にね「1945年の8月6日って何があったか知ってる?」って聞いてその時に「え〜知らな〜い。
え〜地震?」とかっていうね。
その少女たちの答えがあって何かもうとっても残念で「それはないよね」って思ってしまったんですね。
やっぱりこの国に生まれてあんなに大勢の方たちが苦しんで亡くなっていったあの原爆っていうものをみんなが知ってなきゃいけないしもう二度と原爆が落とされないような世の中をみんなで願いましょうって考えなきゃいけないとそのドキュメンタリー見て強く思いましたし。
知らない子どもたちは子どもの責任じゃないと思うんですよね。
そのご家族とかあと学校でもやっぱりあんまり教えてないのかもしれないしもう私なんか小さな小さな力ですけれどもでも朗読する事によって聞いてくれた子どもは「ああ何かあったんだな」って分かってくれてそれが大人になった時にね大きくなるんじゃないかなと思うんですね。

(拍手)こういう詩があるという事と日本が原爆を受けたっていう事日本の若い子さえも知らない訳ですよね。
だから学生さんたちに少しでも卒業後も何かの形で心に残ってもらえたらどんなにうれしいかというふうに思います。
(拍手)吉永さんは今も「原爆詩」の朗読を続けていらっしゃいますけれども東日本大震災以降は原発事故の影響を受けた福島の人たちが書いた詩も読み始めています。
映画の仕事が一段落したばかりの去年12月。
山形市で行われた朗読会に吉永さんの姿がありました。
客席500ほどの小さなホール。
山形出身の作家井上ひさしさんのふるさとの活動拠点として造られた場所です。
井上さんは生前ここで吉永さんに「『原爆詩』を朗読してほしい」とお願いしていました。
「ふるさとは遠く」…。
その願いが6年越しにようやく実現したのです。
「遠いふるさと」。
・「苦しいこともあるだろさ」朗読会には地元の小学校や合唱団の子どもたちも参加します。
・「泣くのはいやだ笑っちゃおう進め」・「ひょっこりひょうたん島ひょっこりひょうたん島」
(拍手)朗読会が始まります。
(拍手)皆様こんにちは。
(観客)こんにちは。
今日は雪の中ようこそいらっしゃいました。
広島と長崎の詩を朗読させて頂きます。
聞いて下さい。
原爆の事を詠んだ詩を読みました。
そして2011年に東北では大きな地震が起きて原発の事故が起こりたくさんの方が亡くなりふるさとを追われました。
朗読会には福島などから山形へ避難しているおよそ40人が招待されていました。
東日本大震災以降吉永さんは「原爆詩」に加え新しい詩を読むようになりました。
福島の原発事故で被害を受けた人たちがつづった詩です。
一日も早くいい状態に戻れるように私たちが震災の事事故の事を忘れないでいるっていう事がとても大事だというふうに思っています。
この日は福島の子どもたちが書いた詩を初めて読みます。
舞台の袖で朗読に聞き入る合唱団の子どもたち。
「泣き顔だった僕たちも笑顔になる」。
(拍手)朗読会の最後に「故郷」を合唱します。
吉永さんがこの歌を選びました。
・「山はあおき故郷」・「水は清き故郷」「ふるさとを取り戻してほしい」。
吉永さんは強い願いを込めました。
自分の事のように思いましたね。
やっぱりね春になって花が咲いた頃にあのうちの庭のあの花はどうしてるかしら。
それからいろいろ思い出しますよね。
何を見てもやっぱり最初は思い出しましたね。
でももう来年の3月で丸々4年になりますよね。
少〜しずつ薄らいではきましたけれどやっぱり孫がいない時間とか何か体調子悪くなるとやっぱり思い出すんですよね。
すごく伝わってきて涙があふれる感じでとても感動しました。
子どもたちがこんなに真剣にこう未来の事を自分たちが頑張んなきゃって思ってるっていうのがう〜ん…伝わってきましたね。
吉永さんはこれまでに「広島」「長崎」「沖縄」をテーマにした3枚の朗読CDを制作してきました。
暮れも押し詰まった先月20日吉永さんは新しいCDの制作に向けて打ち合わせを行っていました。
4作目は「福島の詩」。
震災から4年の3月11日に発売する予定です。
(藤原)「故郷」ですかね。
そして…。
「富岡の空へ」って言ったあとに「故郷」を道山さんの演奏で入れて頂いて…。
もうお好きなタイミングで入って頂いて結構ですので。
今回音楽を担当するのは藤原道山さん。
尺八の新境地を切り開いてきた気鋭のアーティストです。
吉永さんは「福島の詩」には和の楽器が合うと思い道山さんに音楽をお願いしました。
「つらかったねこわかったね子どもたち」。
「空へ泳いでいく小さな鯉のぼり」。
こう胸が熱くなって感情を入れ過ぎないようにするのが難しいぐらいすごく胸に響きますね。
どうしても尺八とか和楽器って語り過ぎてしまうところがあるのでそれをちょっと抑える…どうやったらちょっともうちょっと一歩引けるかなというのが今のところいろいろな課題にはなってるんですけど。
今回は福島というねあの…3年…4年近く前に起きたとても悲しい事故の中の詩だしすごくふるさととかその土地で生きてる人たちの思いを伝える事が大事だと思ったんですよね。
吉永さんはこの打ち合わせの前の日に原発事故の被災地へ自ら足を運んでいました。
被災者の思いを改めて肌で感じたいと考えたからです。
どうしてこのまま放ってあるんでしょうっていうような置き去りにされてる場所がたくさんあって。
だから私たちが忘れないでこう…寄り添っていかなきゃいけないっていうのを強く感じました。
新しいCDのイラストは今回も男鹿和雄さんにお願いしました。
桜が入ってね。
ふるさとの山や川がそこに描かれてるような男鹿さんはそういうものがとてもお得意な方だからそういう風景を…一番表紙には使いたい。
男鹿さんはジャケットの表紙に福島の原風景を描こうとしています。
この日までに絵を完成させる予定でしたが届いたのはラフスケッチでした。
(男性)進行が滞ってるのは初めてですね。
男鹿さんってスケジュールの前に必ずあげる方なんですね。
今回に関してはすごく難航していらっしゃいます。
あの景色見たら分かりますよ。
そこから希望をね見つけて作っていくっていうのは大変な事だし。
人々の関心が薄れつつある福島の原発事故。
これからまたこういう福島にっていう思い…。
ここでも吉永さんの風化との闘いが始まっています。
広島長崎沖縄に次いで「福島の詩」をね今のお話で読み始められてる。
本当に被爆国日本で起きてしまった核の惨禍ですよね。
はい。
やはりやっぱり核…核の問題だと思うんですよね。
核の平和利用という事で被爆者の方たちもあの恐ろしい核兵器を平和的に利用するんだったら逆にもっとすばらしい事になるんじゃないかって当時思われた。
それで原子力発電というものが生まれたっていうふうに知ったんですけれども。
でもやっぱり核っていうのは人間とは共存できないもので一旦被害が起きたらそこには住めなくなってしまうんだっていう事を改めて感じましたしみんなでこの問題もいろんな考え方があると思うんですけれども今日本にはたくさんの原子力発電所ありますけれどもどうすれば一番いい道が選べるのかまた何よりもこう…経済よりも何よりも福島の人たちの事を思って私たちが行動する事が必要だというふうに思います。
それはいろんな方法があると思うんですけれども何かそういう方法を見つけたいですよね。
それじゃないと何か福島の人たちだけ置き去りにされていってしまうようなそんな怖さを感じているんですね今ね。
とにかくこれを乗り越えるにはどうしたらいいっていうのを私には分からないんですけどただ…みんなで考えていく寄り添っていくっていう事が大事ですよね。
ここからは戦後70年の節目の年にあたりましてご自身の今年の抱負を伺いたいんですが。
年末に山田洋次監督と新作映画の発表会がありました。
吉永さんが新しく出演する事を決めた映画は「長崎の原爆」がテーマです。
この映画のモチーフは井上ひさしさんが「広島の原爆」をテーマに作った「父と暮せば」という舞台です。
あん時の広島では死ぬんが自然で生き残るんが不自然な事じゃったんじゃ。
そいじゃけんうちが生きとるんはおかしい!原爆で全ての身寄りを失った若い女性のもとに死んだはずの父親が姿を現します。
何もかもちゃんと納得しとるけえ。
うち生きとんのが申し訳のうてならん。
一人生き残ってしまった負い目から恋をする事も自分に禁じていた娘に父は前向きに生きるよう諭します。
お前はわしによって生かされとる。
「生かされとる」?ほうじゃわ。
ああようなむごい別れがまこと何万もあったちゅう事を覚えてもらうために生かされとるんじゃ。
井上さんは生前この芝居に続いて長崎を舞台にした作品も書きたいと考えていました。
そいを伝えるんがお前の仕事じゃろうが。
井上さんが決めていたのは「母と暮せば」というタイトルだけ。
吉永さんの新しい映画はその遺志を受け継いだ作品です。
原爆という大変な悲劇のあった長崎の町の暮らしはこんなだったって事を観客に知ってもらわなきゃいけない。
またそういう…何て言うかな…この…時代をきちんと表現しなきゃいけない大変な仕事だというふうに思ってますしそれをきちんとやりたいと思ってます。
一度もお会いした事がないんですけれども今日こういう形で井上ひさしさんの思いを映画にする事ができるという事でもう心が躍っております。
でも本当に広島を舞台にした「父と暮せば」名作中の名作ですけれども今度の「母と暮せば」特別な思いがきっとおありなんじゃないですか?戦後70年っていう年にこの作品に出演できるっていう事はう〜ん…何て言うのかな…口では言えない思いがありますし山田監督たちとみんなで心を合わせていい映画作りたいと思います。
ご自身の女優としてのお仕事そしてライフワークとしてやってこられたその「原爆詩」の朗読ですね。
今年一つになられる訳ですがどうですか?そうですねはい。
やっぱり巡り合わせというか神様がそういうふうに考えて下さったのかしらと思ってます。
だから長崎の方たちも今度の映画の事をとても喜んで下さってますし今までね長崎ではたくさん朗読会してきましたけれどもそれと映画が重なって長崎の原爆の事もきちっと伝えていけるかしらという思いですね。
でも直接井上さんと話す機会がなかったっておっしゃいましたけど実はNHKに井上ひさしさんが被爆をされた方々に対する思いを語ってらっしゃる映像があったんですね。
それをここでちょっとご覧頂きたいと思います。
人間のあらゆる悲しい極限が広島と長崎に一挙に起こったというですね。
もうこういう苦しい事が世界中のほかの人たちの上に起こらないようにというところが僕は広島長崎の被爆者のその…何でしょうね…仕返しじゃなくてこんなひどい事がほかに起こっちゃいけないっていう。
これは人間として実にすごい考えですから。
でその被爆者の方は苦しんだあげくにこれをとにかくみんなに覚えてもらおうと。
二度と起きないという祈りを理解してほしいとおっしゃってる訳ですから。
その祈りを僕らも受け取ってそれでとにかく人間っていうか地球の上でこんな苦しみがもう二度と起きちゃいけないというふうにやはりそう…これ一つの信仰ですねある意味では…。
それを僕らが受け取って…受け取る事によってやはり心で被爆者の方とまあこれ僭越ですけどそのぐらいの理解ですけれどもやっぱりつながっていけるんですよね。
そうですねやっぱり祈る…祈りながら語り継いでいくっていう事の大切さを井上さんがおっしゃってましたけれども私自身も実際に体験してない訳ですから本当祈るしかないしそういう思いの中で少しでも少しでもこの事をみんなに次の世代に残していきたいという思いでいます。
粘り強くやらないとこれは駄目ですから。
いろんな協定が出来て核兵器の取り決めとか出来ますけども最終的に核廃絶になって地球の人たちがもっともっと核兵器だけじゃないですけどね争いの中にいないような事が実現すればどんなにいいだろうというふうに…願いながらこの70年という年を過ごしたいと思います。
今日お話伺ってまいりましたけど70年の今年どんな思いで「原爆詩」をお読みになるのか改めて伺うとどういう事になりますかしら?私自身が読む事によって少しでも聞いて下さる方の胸に届いてそしてそれが何らかの形で残って下さればというそれだけですね。
「粘り強く」っておっしゃいましたもんね。
はい。
とにかく粘り強くしないと駄目で。
私せっかちなんですけど本当はね。
でもこういう事に関してはしっかりと粘り強く続けていきたいと思います。
映画もそして「原爆詩」もまた楽しみにしております。
本当にどうも今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
「みんなが不安な時みんながなやんだ時心のとびらを開ければだいじょうぶきっときっとだいじょうぶみんながはげましてくれるからみんながみんな希望を持っているからみんなで力をあわせればみんなで心をあわせればきっときっとだいじょうぶみんなで楽しい事を歌にしようみんなでいっぱいゆめをみて思い出いっぱい作っちゃお」。
2015/01/04(日) 13:05〜14:55
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「戦後70年 吉永小百合の祈り」[字]

女優・吉永小百合さんが、30年に渡って続けている「原爆詩」の朗読。戦後70年の年頭に、原爆を語り継ぐ事の意味や、吉永さんの平和への願いをたっぷりと語ってもらう。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】吉永小百合,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】吉永小百合,【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

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