歴史秘話ヒストリア「先生、そりゃムチャです!〜吉田松陰 人生体当たり〜」 2015.01.04


幕末から明治にかけての激動の時代をダイナミックなスケールで描く大河ドラマ「花燃ゆ」。
1月4日スタート。
ご期待下さい!命懸けで雪山を越える冒険野郎。
海外目指し小船で飛び出す夢みる男。
罰を覚悟で政治批判を叫ぶ熱血漢。
3つの異なる顔を持つのはある有名人。
一体誰でしょう?ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
今夜ご紹介するのは危険な挑戦を何度も繰り返した幕末の偉人です。
それはこの方。
吉田松陰。
明治維新で活躍した英雄たちを大勢育てた人物です。
このお顔からは教育者らしい厳かで物静かな印象を受けますが…。
松陰先生20代の青春はムチャの連続。
あまりにもやりすぎて罰を受け5回も牢屋に入れられたほどです。
そんな自分に付けた別名は「二十一回猛士」。
「二十一回激しいことに挑む男」と名乗りムチャし続ける事をわざわざ目標にまでしているんです。
松陰先生!どうしてムチャばかりするんですか?そんなハラハラドキドキの物語です。
幕末の志士の先駆け吉田松陰。
その人生はムチャの連続です。
初めてのムチャは真冬の東北3,000kmの踏破。
遭難すれすれの挑戦です。
若き松陰青春体当たりの旅とは一体?第二のムチャはアメリカへの密航計画。
そこには大切な仲間がいました。
夢に向かってあの手この手。
しかし2人を待っていたのは悲しい運命でした。
「あなたたちとは絶交です!」。
温厚な松陰先生が突然キレた。
弟子たちは困ります。
「先生のムチャは国に害を及ぼすんです」。
先生と弟子の切ないケンカは日本の未来を大きく動かしていきます。
僅か30年の短い人生悩む暇があればまず体当たり。
そんな吉田松陰のいちずな生き方をご覧下さい。
吉田松陰の意外な顔その1。
新潟県と福島県の境に連なる越後山脈です。
冬は2mを超える雪で覆われます。
どこが道かも分からない。
吹雪になれば視界もない。
そんな無謀な雪山越えに松陰は挑戦します。
苦難の果てに松陰が見たのは日本が抱えた厳しい現実。
松陰22歳幕末の志士への出発点となった命懸けの東北の旅です。
長州藩の城下町山口県萩市。
松陰は萩きっての天才で知られ…長州藩期待の星でした。
その並外れた成長の秘けつは5歳で養子に出された先での叔父の教育にあります。
叔父は武士の心得や戦の攻め方守り方を研究する兵学者です。
その英才教育の厳しさたるやすさまじいものです。
例えば飛んできた虫が頬にとまれば当然気になりますよね。
ところが…。
こらっ!何やっとるか!叔父はいきなり松陰を折檻!でもそれには訳がありました。
自分の全ては長州藩のためにある。
そんな信念が松陰にたたき込まれました。
松陰は22歳の時藩の命令で…ところが江戸の学者たちの姿勢に松陰は失望します。
津軽藩の話は聞かれましたか。
異人の船が沖を我が物顔で行き来してるというあの話ですな。
このころ松陰は日本各地から江戸に留学に来た優秀な若者たちと議論を交わす事に熱中します。
話題は日本近海に現れる外国船。
まだペリーの黒船が来る前ですが…兵学者の血が騒いだ松陰は熊本藩の友人宮部鼎蔵とともに東北に調査の旅に出る事を決めます。
松陰は「過書」。
今で言うパスポートの発行を藩に求めました。
ところが許可が遅れあと2か月かかるとの事。
その上時は12月。
真冬の東北は大変だと出発延期を諭されます。
待つしかないのか…。
しかし…犯罪者となる事を顧みず一体なぜでしょう?もう待てないというかね。
いつまでも待っとったら時機を失するという。
冬でもしかたがないというか春まで待ってあるいは夏まで待って行ったんでは「外夷」のというか外からの圧力に対する日本の防衛にどう対処したらいいか時機を失するという。
ちょっと若気の至りというかやや暴走気味であったという事が…それぐらい行きたかったという事ですよね。
嘉永4年12月松陰と宮部は外国船が度々出るという津軽海峡を目指します。
会津から新潟に抜け船で北へ向かうルートです。
道中水戸では兵学者に話を聞き会津では洋式の大砲を見学。
新潟に抜けようとしたところで難関が立ち塞がります。
越後山脈です。
ここの諏訪峠を越えなければ先へは進めません。
冬の諏訪峠は雪が2m以上積もります。
体が腰まで沈み一歩進む事さえ一苦労です。
郷土史家の滝沢洋之さんは地元の人でも真冬の峠を越える事はできないと言います。
今から見てもねこの大雪の中をね新潟に行くなんて事はとても考えられないんですよ。
本当に無謀な行為であり更にそこで吉田松陰も宮部鼎蔵も遭難死してもおかしくなかっと思うんですよ。
松陰たちはこの無謀な峠越えに挑戦します。
松陰は萩宮部は熊本出身。
雪山の恐ろしさをどこまで知っていたのでしょうか。
諏訪峠の標高はおよそ1,000m。
急峻な峠道を2人は進みます。
やがて雪は深くなりどこが道か分からなくなっていきます。
登り始めて5時間晴れ間がのぞき目の前が開けました。
峠です。
松陰は感極まりました。
苦難を越える喜びを得た松陰。
ところがその先で松陰は日本の厳しい現実を見せつけられます。
松陰たちは佐渡島に立ち寄りました。
金山がある幕府の直轄地です。
国の守りを支えるのは経済力。
そのための金が掘り出される現場を見る事ができました。
ところが松陰の目に焼きついたのは坑夫たちの悲惨な姿です。
また松陰はすぐれた軍事用の馬の産地として知られる盛岡藩にも足を止めました。
ここで松陰は軍馬の生産農家と話をしています。
この土地ではいい馬を育てていると聞いてきたのですが。
私らには何もええ事ありません。
金山の坑夫や軍馬の農家など…出発から4か月松陰たちは旅の目的地…松陰は愕然とします。
海岸に大砲はあるものの…外国船が沖合を悠々と通っても…この旅で松陰は幕府と藩が抱える矛盾を実感しました。
百聞は一見にしかず。
そんな行動力がその後の松陰の道を決定づけていくのです。
長州藩の許可を得ず勝手に旅に出てしまった松陰は長州に戻ると藩から罰を受けますがその後すぐに全国を自由に旅する事を許されます。
頭脳明晰な松陰が見聞を広めれば藩にとっても後々役に立つだろう。
そう思われていたのでしょうね。
松陰は学問のため東北以外にも各地を旅しています。
南は九州から江戸そして東北。
歩いた距離は…しかも松陰はのんびり物見遊山なんてしません。
道を何時間も歩いているとどうしても用を足したくなる事がありますよね。
そんな時松陰は必ず実践していた事がありました。
それは用を済ませた途端急いで走る事。
自分の旅はあくまで公に役立つため。
でも用を足すのは私事。
私事の無駄な時間は走って取り戻さねばならない!公私混同しないどころか「私」っていうものがないのでは?と思われるぐらい。
松陰先生頭が下がります。
吉田松陰の意外な顔その2。
海外目指し小舟で飛び出す男!萩の町を見下ろす丘に建つ松陰の銅像です。
その横にもう一人いますね。
この人は…松陰の初めての弟子で一緒にムチャに挑みました。
そのムチャとはペリーの黒船に乗り込んでアメリカに密航しようとした事。
無謀な挑戦をあの手この手で実現しようと奮闘する松陰と金子重之助。
しかし2人を待っていたのは悲劇的な運命でした。
「黒船」のあまりの大きさ蒸気機関の力そして圧倒的な軍事力を見せつけられた日本人の多くはショックを受けます。
これほど進んだ技術を持つ西洋に果たして対抗できるのか。
翌年黒船が再び来航すると松陰は無謀な挑戦を口にします。
実は私には考えがあるのですがあの黒船に乗り込んでアメリカまで行ってしまおうと思ってるんです。
幕府が固く禁じている海外への密航。
松陰は…その後松陰を訪ねる人物がいました。
先生お一人ではうまくいきません。
是非ともこの金子も一緒に連れていって下さい。
長州藩の金子重之助です。
松陰より一つ年下の24歳。
商人の家に生まれ学問を学ぶために「足軽」となって藩に仕えていました。
長州藩では足軽は武士とは認められずその下に置かれていました。
金子は下級武士ながら学問で身を立てている松陰を尊敬し共にアメリカに渡ろうと決意したのです。
松陰は金子の熱意に打たれます。
松陰は金子を初めての弟子と認め危険な密航に共に命を懸ける事を誓いました。
それはやっぱり大きな人だったんではないですか。
たった一人で異国の地に行くわけですから。
…と言うとやや語弊がありますけど外国に行こうというような人が出てきたという事は支え…松陰と金子は黒船が停泊している伊豆下田に向かいました。
3月7日深夜2人は地元の船頭が漕ぐ舟で海に乗り出します。
黒船まであと僅か…。
ところが船頭が「これ以上近づきたくない」とおびえだします。
漕ぎ手が拒否すればどうしようもありません。
この失敗が松陰の闘志に火をつけます。
2人は諦めずに…ところがすっぽかされてしまいました。
次は…迎えは…そりゃ来ませんよね。
打つ手が尽きた松陰と金子はついに自分たちだけで行こうと覚悟を決めます。
3月27日深夜。
2人は小舟を盗み出すと黒船へと漕ぎ出しました。
慣れない2人は舟を操るのも一苦労。
僅か200m沖の黒船になかなか近づけません。
なんとか黒船に漕ぎ寄せると「アメリカに行きたい」と書いた紙を見せてアピールします。
しかし命懸けの申し出は断られました。
危険を顧みない松陰と金子の行動についてペリーは後にこう記しています。
密航失敗の直後から松陰は「二十一回猛士」と名乗り始めます。
今後も激しい行動を繰り返し生涯一筋貫いてみせる。
成功や失敗を考える前にまず行動する事にこそ意味がある。
松陰の信念はますます強くなったのです。
ところが行動の代償は大きなものでした。
海外へ渡る事は幕府にとって重大な犯罪です。
送り返された萩で2人を悲惨な運命が待っていました。
当時の牢屋跡が今も残っています。
こちらは松陰が入れられた野山獄です。
一方の金子はその向かい側岩倉獄に入れられます。
僅か道を一本挟んだ2つの牢獄には目に見えない大きな隔たりがありました。
松陰の野山獄は武士用の牢屋です。
一人一部屋が割り当てられ食事や寒さをしのぐ夜具も十分に与えられます。
おら入れ!しかし金子の岩倉獄は足軽や農民用の雑居房です。
環境は悪く食事は不十分。
手紙や面会は一切許されません。
一緒にはるかアメリカを目指そう。
一つの志で結び付いた2人をふるさと長州藩の制度が引き裂いていきます。
季節は冬。
牢に入る直前から金子は病を患っていました。
激しい腹痛そして下痢。
しかし岩倉獄には医者さえ呼んでもらえません。
松陰は食事を断ちたった一人の弟子の回復を願います。
それでも聞こえてくるのは金子が衰弱する様子だけ。
松陰はせめて金子を家族に会わせてやってほしいと訴えます。
それも聞き入れてもらえません。
牢に入ってみつき余り。
1月11日。
金子重之助は息を引き取ります。
まだ25歳の若さでした。
その夜松陰は夜通しむせび泣きます。
同じ志の2人なのに身分の違いそれだけで自分は生き残り金子は無残な死を迎えてしまった。
萩市の丘の上に建つ吉田松陰と金子重之助の銅像。
困難な事に挑む時同じ思いの友がいてくれる。
金子重之助は今も松陰の隣に静かに寄り添っています。
こちらは山口県萩市に保存されている松下村塾の建物です。
密航事件の後牢屋を出て自宅謹慎となった松陰が実家で開いた塾です。
教える弟子たちは武士や足軽町人まで身分を問わず。
しかも松陰は自分の事を「ぼく」弟子を「あなた」と呼び弟子のそばに歩み寄って優しく教えていました。
皆が対等な立場で学ぼう。
そんな松陰の思いがうかがえます。
松陰の人柄に惹かれ集まった弟子たちはおよそ90人。
戦いの天才高杉晋作や長州の若きリーダー久坂玄瑞後の初代総理大臣伊藤博文など半径2kmほどのご近所から大勢の偉人が育ちました。
とはいえ当時の松陰は罪人の身。
子供が松陰に近づく事を嫌がる親もいて特に高杉晋作の親は猛反対。
でもどうしても松陰に学びたい…親の目を盗んでまで学びたいと思わせるなんて松陰先生よほどすてきな先生だったのでしょうね。
吉田松陰の意外な顔その3。
松下村塾での平穏な日々。
松陰先生強烈な幕府批判を始めます。
そんな先生に弟子たちは困惑します。
ところが松陰の答えは…。
固い絆で結ばれた師弟の切ない対立。
しかしこれこそが新しい時代を切り開くムチャへとつながっていくのです。
日本とアメリカは貿易を始めるための通商条約を結びます。
これには日本に不利な点がありました。
日本側に貿易品の税率を決める権利がなかったため利益はアメリカに有利にもたらされるばかりか国内の物価が高騰する可能性があります。
人々が苦しむのは目に見えていました。
幕府は外国の圧力に屈し波風立てない事だけを考えている。
松陰長年の不満に火がつきました。
松陰は長州藩の藩主宛てに意見書をしたためます。
将軍を討ち幕府を倒せ。
あまりに過激な決意表明です。
250年続くお上をいきなり倒せとはなんとムチャな。
それでも松陰の勢いは止まりません。
再び届いた松陰の手紙に藩はびっくり仰天。
藩は慌てて松陰を牢獄へ。
これでもまだ松陰は諦めません。
藩が駄目なら弟子がいる。
松陰は決起を促す手紙をばらまきます。
そんな松陰に高杉晋作や久坂玄瑞ら愛弟子は困惑します。
決起をするには今はまだあまりに早く無謀すぎる。
松陰をいさめる弟子たちの手紙です。
弟子たちは血判まで押して松陰を抑えようとしていました。
しかしこの手紙は火に油を注ぎます。
松陰が弟子の一人に出した手紙には衝撃的な言葉が…。
「私の思いが分からない人とは絶交せよ!」。
更に高杉たちへの手紙では強烈な批判を記します。
「あなたたちはまだ時が早いと言うが実は自分の手柄や功績の事を考えているのではないか」。
少し猪突猛進的なそこまでやらなくてもいいんじゃないかというような考え方ありますけど松陰はそうでなしに誰もやらないという。
敬愛する先生から突き放された高杉たち。
それでもなお藩の牢屋に差し入れをするなど松陰の身を心配し続けました。
そんな中松陰は江戸へと送られます。
幕府批判にかかわる人物として幕府じきじきに取り調べをする事になったのです。
意外にも松陰が尋問されたのは幕府を批判する学者と密会したという疑い。
老中暗殺を企てた話は一切出ません。
調べはすぐに終わり…ところが…。
私は老中の間部詮勝様を討とうと考えておりました。
しかしそれには訳がございます。
突然松陰は自白を始めます。
ここで幕府政治に物申さねばどこで言うのだ。
自分が声をあげれば少しでも世の中が変わるかもしれない。
行動こそ大事にしてきた松陰の命を懸けた訴えでした。
しかし松陰の声は幕府重役の殺害計画という大きな罪の前にかき消されます。
松陰に命ぜられたのは死罪。
松陰は晩年志ある者が身分を問わず自覚を持って行動する事を願いました。
そんな松陰の遺書「留魂録」です。
吉田松陰の死後松陰のまいた種を受け継いだ弟子や友人たちは江戸幕府への反抗を始めます。
でも当時幕府はまだまだ絶大な力を持っていたため彼らの反抗を多くの人はムチャだと感じました。
そんな中彼らは自分たちに別名を付けます。
そこに共通しているのは「狂」の一文字。
大きな志を達成するため常識にとらわれずに行動するのだという目標をこの文字に託しました。
「二十一回猛士」と名乗った先生にそっくりですね。
でも結局そうしたムチャが時代を動かし松陰の死から8年後江戸幕府は倒れ明治の世へとつながっていったのです。
人と異なる道を恐れず自分の限界に挑戦し続ける。
吉田松陰の生き方は次の世代へと受け継がれる事で新たな時代を切り開いていきました。
最後にそんな松陰とあの有名な人物との意外なつながりを示す秘話をどうぞ。
幕末吉田松陰の時代の趣が今も残る山口県萩市。
こちらのお宅には幕末の有名人が松陰への思いを込めた萩焼の茶碗が伝えられています。
(齊藤)これが龍馬と書いてございます。
坂本龍馬の署名とその横には萩の海辺の松林。
内側は萩のシンボル指月山です。
松陰の死の3年後松陰の菩提寺から龍馬が風景を眺めて描いたものと伝えられています。
この時萩を訪れていた龍馬は久坂玄瑞たち松陰の弟子と交流を深めました。
龍馬がふるさと土佐を脱藩したのはその1か月後。
ふるさとを捨ててでも広い世界で活躍したい。
そんなムチャな夢を実行に移したのです。
萩の町を見下ろす高台にある吉田松陰の墓。
死の100日後松下村塾の弟子たちが遺髪を埋めて建てました。
高杉晋作久坂玄瑞ら17人の思いがここに込められています。
墓に刻まれた名は「二十一回猛士」。
自分の限界とその先の理想に何度も挑み続ける姿こそ弟子たちの心に刻み込まれた松陰先生その人でした。
悩むよりも失敗を恐れるよりもまず一歩踏み出してみよう。
吉田松陰人生をかけた教えです。
2015/01/04(日) 00:50〜01:35
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「先生、そりゃムチャです!〜吉田松陰 人生体当たり〜」[解][字][再]

ある時は雪山越えの冒険野郎。ある時はアメリカ夢見る密航者。そしてある時は、政治家を批判する熱血漢。その正体は幕末の偉人、吉田松陰。体当たり人生が日本を変えた!

詳細情報
番組内容
大勢の幕末の英雄を育てた吉田松陰。温厚な教育者の顔を持つ一方、その人生はムチャの連続だった。真冬の東北3000キロメートルを踏破した、危険な青春の旅とは? 大切な仲間と挑んだアメリカへの密航計画。夢の果てに2人を待っていた悲しい運命とは? 「あなたたちとは絶交です!」。松陰と弟子たちの切ないケンカは、日本の未来を大きく動かしていく。わずか30年の人生を体当たりで駆け抜けた、いちずな生き方に迫る。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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日本語
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日本語(解説)
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