100分de日本人論 2015.01.02


日本が一番日本らしくなるお正月。
今も昔も変わらない時間が流れます。
そんなお正月だからこそ日本人について考えてみませんか?若干早めに開店しますのでそちらの方に並んで下さい。
日本人らしさはどこから来たのでしょう。
分かんないです。
分からんそんなの。
日本はサムライの国?それともおもてなしの国?熱狂の裏で日本人の在り方が問われる時代になっています。
ヒントをくれるのは日本人とは何かを考え続けてきたたくさんの名著。
その中から4人の論者にお薦めの一冊を紹介してもらいました。
心の交情揺れ動く姿というものを本当にすごいと思ってるわけです。
もうバリバリ恋愛小説ですか?かなりのバリバリ恋愛小説だと私は力説がしたいです。
最近あのマイルドヤンキーというのがすごく多いと。
これはまさに中空構造の典型だろうと私は思うんですよね。
名著から日本人の本質に迫ります。
あけましておめでとうございます。
さあ毎回4週1か月かけて一冊の本を読み解いていくという「100分de名著」でございますが今回はお正月スペシャルという事で一挙100分どどんと!食らえ!という感じでやりたいと思いますので。
(2人)よろしくお願いいたします。
さあ今日はとてもすてきな所に私たちやってまいりました。
都内某所にこういう場所があるんでございます。
今日は新春スペシャルという事ですばらしい方々をお招きいたしております。
あちらでございます。
参りましょう。
よろしくお願いいたします。
失礼します。
それではご紹介させて頂きます。
よろしくお願いいたします。
はじめまして。
お願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
実はここは松岡さんのお仕事場。
お邪魔しております。
(松岡)ようこそ。
ほんとに本がいっぱいですね。
(松岡)本楼といいましてね。
本楼。
本の楼と書いて。
(松岡)皆さんを翻弄しようという。
出た。
新年の。
新年の頂きました。
ありがとうございます。
さあ今日はたっぷりと本のお話をしようというわけでございますけれども本日のテーマはこちらでございます。
「100分de日本人論」。
でかく出ましたね。
出させて頂きました。
日本人全体は自分は日本人なんだ日本人とは何だみたいな事というのをいつごろから考えてるのかという。
やっぱり近代になってからですよね。
鎖国時代の江戸でも長らく中国がグローバルスタンダードだったからそれを学んで鎖国しながらも向こうのものを漢籍を読んだり山水画でも向こうのものを使ったりしていたのがそれが徐々に幕末に向かって変わっていって…日本ってどういう日本人なのかという事を国際的にも言わなきゃいけなくて始めたのがいわゆる日本人論としては最初だろうと思いますね。
ちょっとこちらに代表的な日本人論。
1700年代ぐらいから書かれてきたという感じなんですかね。
(中沢)1890年ぐらいからず〜っと盛んなんですよね。
それからねこの1920年から30年代までが日本人論というのをすごく意識して日本人というのはすごいんだみたいなのがこの期間にかなり書かれてるんですけど。
それはやっぱり…それからまた戦後の日本人論というのは変わってくるわけですよね。
なるほど。
でも今日本人論とセットで嫌韓嫌中本みたいなコーナーって今ありますよね。
そこまとめられがちですね。
ベスト10がそういうので5冊ぐらいそういう組で出来てたりとか。
一筋縄ではいかないなという。
今日これ100分で何とかできるんでしょうかと。
どんな日本人の姿が浮かび上がってくるのか皆様どうぞお楽しみに。
最初の論者は松岡正剛さん。
膨大な読書量に裏打ちされた幅広い知識で日本を考察しています。
そんな松岡さんが今回取り上げるのは?九鬼周造の「『いき』の構造」でいってみました。
「いき」って「粋だねえ」の「いき」ですか?「いき」ですね。
僕は短い期間ですけど古典落語をやってたのでやたらこれについては言われましたよ。
「粋だ」「粋じゃない」に関してはまあ言われましたね。
その粋じゃないのは何となく分かるんだけど粋なやつは評価基準が分かんないんですけどでも構造という事はそういう事を解き明かしてる?なぜ九鬼がそんな事をわざわざ…これ最初の本なんですけどね。
九鬼がヨーロッパから帰ってきて。
彼は芝に育って江戸の「いき」ないなせなああいうものが好きだったわけですね。
九鬼周造は東京帝国大学哲学科を卒業後ドイツやフランスに8年間留学しました。
しかし異国の地で彼はかえってふるさと日本を強く意識するようになります。
とりわけ強く心をひかれたのは「いき」という江戸特有の美意識。
西洋の概念では説明できないものでした。
帰国後九鬼は曖昧だった「いき」の意味を哲学的に掘り下げ「『いき』の構造」を発表したのです。
芸者さんだとか遊女だとかそういう異質な日々を送ってる人の中にすばらしい何かこう「いき」を引き出してくるわけです。
彼はやっぱりその女性と男性の間のはかなさのようなものとかあるいはその小唄や浄瑠璃や近松や西鶴が持ってるそういう何かこの心の交情揺れ動く姿というものを本当にすごいと思ってるわけです。
もっと言うとこれにもずっと書いてあるのは失ってから初めて分かる本質というものに九鬼は感想を持つわけです。
進歩するものではなくて失ったあいつが恋しいと。
僕は今ずっと…例えば健さんが亡くなって失ってみる高倉健というものは何となくこうかきたてられたりしますよね。
そういうものって日本人にはあるというのを九鬼は言おうとするわけです。
「いき」という美意識はどういう特徴を持っているのか。
九鬼は1つ目にちょっと意外なものを挙げています。
つまり男女が相手をひきつけようと見せる色気こそが「いき」の大前提だというのです。
しかし男女の「いき」には緊張感が大事。
いざ深い仲になってしまうと媚態は消え去り「いき」ではなくなってしまうといいます。
近づきたいから生まれる「いき」。
でも近づきすぎても駄目。
この微妙な距離感に必要なのが「意気地」です。
武士は食わねど高楊枝。
宵越しの金は持たぬという江戸っ子かたぎ。
吉原の太夫が金にものを言わそうとする男をはねつけるのも「意気地」のなせる技。
その根底には運命を受け入れる「諦め」の気持ちがあると九鬼は言います。
この世は無常。
未練はさっぱり諦める。
「いき」とは色気を持ちつつも気高くさっぱりとした心持ちでいる事。
九鬼はそう「いき」を定義しました。
九鬼が挙げた3つの三位一体論なんですがまずそのコケットリーな媚態。
媚態ってこの何というか妖しい。
(松岡)なまめかしい。
なまめかしい。
媚態。
わ〜僕落語修業時代からちょうど30年なんですけど媚態なんていうのが「いき」の中に入ってると思ってない。
そうですよこれ媚態…。
だから振る舞いと言ってもいいと思うんですよ媚態は。
でもセクシーで上品な振る舞いというものを彼は媚態と呼んだんですね。
それから意気地ですね。
これ「意気地」とも最近言って「意気地なし」とか使いますけどもこれはやっぱり意地に近いものなんですがこの媚態と意気地プラス諦めという3つ目が入ると。
諦めも「いき」。
そうそうこれがすごいと思うんですね。
なかなかこういうような仕組みで存在の在り方とかかっこよさとかはかなさだとか何かこう心に残るものを説明しようというもの。
本を読んだところでは慣れ合ってしまうと男女は駄目。
書いてありますね。
それと意気地っていうのはちょっと関連が感じられますがそこに諦めというのは…。
特に遊女のモデルなので好きになっても構わないけども追い求められない。
そういうようなものを諦めとしてやってるのと未練。
未練というものについてどこかで断つものを九鬼は「いき」と呼んでるんですよね。
(中沢)これ基本的に芸者さんの哲学ですよね。
これの大本になってた遊女という中世的な存在の場合は自由営業ですしね自己営業ですし自由の感覚ってものすごい強かったわけですね。
諦めというのだってそんな縛られないよっていう事だし。
それを意気地として「他の人の支配に入りませんよ」という事ですから。
…というところが九鬼さんなんかを魅了したもので。
芸者や遊女のどこに「いき」な色気を感じるのか。
九鬼さんに聞いてみましょう。
(九鬼)おほんあ〜ただまっすぐ立っていては駄目。
ちょっと姿勢を崩すのがポイント。
姿はほっそり柳腰。
丸顔よりもほそおもてがよろしい。
はいウインクなんかしない!目は流し目過去の愁いを感じさせる光沢軽やかな諦めとりんとした張りがある事。
こら投げキッスなんかしない。
口は緊張と緩みの絶妙なところを狙う。
愁いを感じさせて。
ああそんな厚化粧は野暮野暮!ほんのり薄化粧がいいの。
髪型はあんまりきちっとさせずつぶし島田などちょっと崩したものが「いき」。
着物はうすもの。
シースルーで下地が透けてるなんてのがいい。
着崩しも大事だ。
襟足を見せるように引き下げた抜衣紋。
これが色っぽい。
お〜湯上がりなんてのは最高のシチュエーションだよ。
上気した肌に浴衣を羽織ってほつれ髪。
いや〜たまらん!こういうのが「いき」なんだ。
分かったかな?ほんとにごめんなさい。
真面目に僕しゃべってます。
お正月だから許して下さいね。
アメリカンポルノ。
おっぱいがでっかきゃでっかいほどいいっていう。
直接的な方がいいというのが僕の思うアメリカのエロス。
うなじが何となく見えたり見えなかったりみたいな事とかのエロスって多分西洋にはあんま感じないんですけど。
やっぱり暗示性をね大事にした。
間接性とか覆いの美学とかそういうところありますよね。
覆いの美学?裏に何かあるに違いないと。
露骨なものってやっぱりベタだったりとかあらわだったりしすぎるとみんな引いちゃうじゃないですか。
何かちょっと間接的に見せてくれた方がより鮮明に感じるみたいなのは一つ今日で言う日本人論のああ日本人かなという。
そういうものから発して日本の中の美意識や振る舞いやもてなしのしかたや生き方に蓄積されたもの。
それは役者さんでも落語家でも「あっええな」「よろしいな」「いきやな」と思えるところと「何や何してんねや」みたいなところは両方ありますよね。
やっぱりかっこいい生き方をするにはどうしたらいいかという事なんでしょう。
そしてかっこよすぎるとダサいというまたその辺の。
微妙な所を歩いていくにはどうしたらいいかという指南書ですよねこれはね。
浄瑠璃や何かで遊女と心中してしまうお話ってたくさんあるじゃないですか。
ありますね。
あれはそこからすると「いき」ではないのですか?いやそれを前提にしてさだめを持っているのでそれでも例えば1か月後とかあさって心中する時でも「いき」に世を送ろうとしている意気地を九鬼は褒めていくんですよね。
なるほど分かってきました。
何かちょっと僕も見えてきてそうするとねじゃあ絶対恋愛関係にならないようなアイドルに対してすごく献身的だったりする事の中にも僕は絶対何かしらの…。
何だろうねアイドルの子がやめてさアダルトビデオになると悲しむっておかしいでしょ。
見たかったんだから今まで。
ずっと裸が見たかったのにもかかわらずファンの意識というのは「そうじゃない」ってなる感じ。
しかもさそれを買わないなんていう意気地があるわけ。
そこに行く事を美しいともよしともしないという。
それは第三者から見ると滑稽でもあるのが僕はとても「いき」っていいと思うんですね。
江戸っ子がそばつゆをちょっとしか付けないという事って…やっぱり江戸時代のメンタリティーというのがすごい影響を与えてるじゃないこれ。
外敵が無いという状態の中で複雑怪奇に作られた考え方だなと。
しかもその複雑怪奇なものを完全に共有できてるから「いきだね」「おういきだね」って言えるんですけどこれちょっとでも異分子が入ってくると分かんなくなりますよね。
(中沢)理解不能になっちゃう。
日本ではこういう何というか独特の発達を遂げちゃったという事でしょうね。
九鬼は「いき」を3つの特徴で定義しただけではありません。
微妙なニュアンスを持つ「いき」を更に明らかにしようと上品派手渋みなど他のさまざまな言葉とどんな関係にあるのかを探りました。
何かは何かであるという事を言わないで何かの意味というのは常に他のものとの関係性で出てくるという。
この哲学書は実践してるのね。
感覚的に生きてる女子高生とかの方が全然この感じ来れる。
僕らにはその「きもカワ」「これきもカワ」「じゃあこれもきもカワ?」というと「それは気持ち悪い」と。
「お前ら気持ち悪いのが好きなんじゃないの?」。
「いや私はきもカワが好きで」って。
かわいいのを持ってきて「これなのか?」って言うと「そんな子供っぽいもの持てない」ってなるじゃないですか。
日本人の特にああいう感覚的なその子たちに若い世代とかには流れてる気がするんですよ。
それは感じるな。
現代なら例えばこんな言葉の間に「いき」はあるのかもしれません。
現代の「いき」の特徴は言葉を組み合わせる事で微妙な価値を表現している事。
僕一番好きなのは「激おこぷんぷん丸」の使い方すごいと思う。
怒ってるんですもんね激おこぷんぷん丸。
でも激怒はしてないんですよね。
「激おこ」っていいよね。
激おこぷんぷん丸って何?私だけ?分からないの。
ほんとに怒ってる時に「激おこぷんぷん丸だよ」って書いてくるわけ。
「ぶっ殺してやりたい」という言葉に何の「いき」さもないじゃないですか。
「腹立った。
あの人とは二度と口も利きたくない」には面白さも…野暮ったい言葉だし。
だけど激おこぷんぷん丸で本当に怒ってるってすごいなと思う。
うまくほんとずらしてるんですね。
ネットの中にはそういうある意味で今の「いき」というのがどうやって出てくるかというのがよく感じるね。
感覚的にこの位置なんだという言葉を。
正確に出してくるというのが僕時々見てねびっくりする事がある。
支持を受けて。
だからおっしゃるとおりネットにそういう空間はあると思いますね。
まあ今「カワイイ」とかねその「きもカワイイ」とか言ってるものにも出てるしそれからどんな人にも例えば髪をすいたりしてこれだなというところありますよね。
いわゆるこういう紙をすいていく時もどこかで止める必要がありますよね。
土をすいててもどこかでこれ以上耕さない方がいい。
こうやって止まっていくところにこれでいいと思えるものってあると思うんです。
「いき」ってどこか動いてるんだけども…なぜ九鬼周造は「いき」という曖昧なものにひかれたのか。
その理由は彼の出生にありました。
周造の父九鬼隆一は当時駐米全権公使。
祇園の芸妓だったという妻波津子が妊娠したため知人の岡倉天心を付き添わせてアメリカから帰国させました。
しかし2か月の船旅。
2人の間に恋が芽生えます。
周造を出産後天心の元に走った母。
そのスキャンダルは彼の人生に暗い影を落とします。
そんな周造だからこそ宿命を背負って生きる芸者たちに深い共感を寄せていったのです。
「ひょっとしたら俺はお父さんの子じゃなくて天心との子かもしれない」と。
そういう悩みを持ってるんですか。
持ってたと思います。
しかも天心は東京美術学校の校長だったのにその事を怪文書に書かれてそのスキャンダルで辞めるんです。
そうだったんですか。
そういう話は全部聞いているわけです九鬼は。
するとこれは自分はそういうようなどこか裂け目というか……という気にもなったんだろうと思うんです。
それと芸者さんとか遊女の宿命「苦界」って言うんですけどね苦界の世界についての思いというものがだんだん重なって最後京都帝大に行った時は祇園の芸者さんをもらって祇園から人力車で京都帝大へ通うと。
自分自身の存在がいわゆる世間のピシッとしたところにはまってない曖昧な存在だけど認めてほしいというか。
そこも追求できるんだという事を引き受けたんだろうと思いますね。
それでは「『いき』の構造」から見える日本人論というものを松岡さんにひと言書いて頂こうと思います。
え〜っと「日本数寄」という言葉にしました。
「日本数寄」。
(松岡)数寄屋造りの数寄ですがさっきもちょっと言いましたように……というのがみんな「すき」という言葉なんですね。
「いき」と「すき」は私は本当は近いと思ってるんですよ。
実はいきもわびもさびも全部はこの数寄に向かってると思ってるんですね。
この数寄に何か「『いき』の構造」というものを受けたいというか。
決して日本だけの日本人論ではなくていろんなところに伝わっていく。
日本人論というかどうかを超えても語っていける。
今「クール」って言いますけどもそれに近いものにしていった方がいいんじゃないかなと思ってます。
次の論者は赤坂真理さん。
女性ならではの皮膚感覚にあふれる小説を発表。
近年は日本の戦後にも関心を寄せています。
では赤坂真理さんのお薦めの一冊をご紹介下さいませ。
はい。
折口信夫の「死者の書」。
初めて聞きました。
すごい付箋が付いてますね。
それだけその読みどころがあるという事ですよね。
それだけ付箋が挟まってるという事は。
折口信夫はこれが唯一の完成したフィクションであとは古代研究とか日本の神の研究とか祭祀祭りの研究とかそういうのを。
民俗学者としても有名だしあと神とか言葉の問題とかだからそれを盛り込んだテキストとも言えます。
じゃあバリバリの小説家というわけでもないんですね。
ではないです。
折口信夫は民俗学者柳田国男に師事。
鋭敏な感性で古代人の心を直観的に捉え独自の民俗学を打ち立てました。
そんな折口が小説として発表したのが「死者の書」。
日本人の感受性が凝縮された作品です。
物語の舞台は古代。
非業の死を遂げた大津皇子の魂が墓の中で目覚めるところから始まります。
冷たい石の柩を伝う滴の音に長い眠りから目覚めた大津皇子の魂。
一人の女の面影が浮かびます。
その昔大津皇子は皇位継承争いに巻き込まれ謀反の罪を着せられたのでした。
妻子も殺され自分も処刑される直前偶然目にした女性が耳面刀自でした。
死ぬ間際に抱いた強い恋心。
その思いは時空を超えて一人の少女をひきつけます。
ある夜郎女は夢うつつのままに屋敷からさまよい出て万法蔵院という寺にたどりつきました。
その時二上山から昇る朝日の中に美しい男の幻を見て心を奪われます。
女人禁制の寺に立ち入った郎女は庵に謹慎させられました。
そこに現れた語り部の老婆から大津皇子の魂が耳面刀自の面影がある郎女の閨を訪れると教えられます。
思わず口からこぼれたのは阿弥陀仏への切なる祈り。
恋い慕うような信心と皇子の魂を慰めたいと願う心が重なります。
蓮から糸を紡ぎ布を織る郎女。
織り上げた布に仏の姿を描き上げた時大津皇子の魂は鎮められたのです。
登場人物を見てみたいと思います。
こちらでございます。
歴史上の人物たちが出てくるんですね。
主人公はこの大津皇子。
小説の中では滋賀津彦という名前で出てまいります。
この大津皇子というのは天武天皇の息子でございまして皇位継承争いに巻き込まれ処刑されました。
そして彼が殺される瞬間に一目見たのが藤原氏の耳面刀自。
滋賀津彦の霊を慰めるというのは耳面刀自の3代後のこの人藤原南家の郎女中将姫という女性なんですね。
この奈良の當麻寺というお寺で蓮の糸を使って阿弥陀如来が描かれた曼荼羅を一夜で織り上げたという伝説がある。
本物は国宝になっていてもうかなり傷んでいるんですけどもこれは平成になって複製として作られたもの。
奈良時代の話ではあるんですけれども余談を排して歴史を知らなくても問題なく読めるすごくきれいな話で。
そのキャラクターたちにも初めて入るようにして入っていけば全然難しくなく…あまり言われてないけれどラブロマンスとしての読みどころもとてもあってある滅ぼされた氏族の男のいまわの際に見た処刑される時に見た一目ぼれの女。
その人にとっては生涯最後の恋ですよね。
最後の恋もすごい最後ですよね。
処刑される瞬間に「うわ〜きれいな人だな」という事ですもんね。
はい。
最後の瞬間の一目ぼれみたいな。
それが無念の死ですから成仏ができなくてそれである高貴な少女を引き寄せてそうしたら…ほうほうほう…ちょっと面白くなってきました。
読み方によっては恋愛小説。
読み方によってはというか…。
もうバリバリ恋愛小説。
かなりのバリバリ恋愛小説だと私は力説がしたいです。
例えば恋愛をすごく感じる箇所とかっていうのはどういうところですか?これは古代で妻訪いと言われたあのシーン。
求婚をする男がいて妻訪い。
ちょっと拙いですが読みます。
(赤坂)ここからが大津皇子の問いかけで…。
…というふうに歌風に「私の妻になって下さい」。
郎女がこれにすごく感応するんですね。
この後がすごい。
もう恋愛もいいとこですね。
恋愛もいいところなんです。
描き方によってはこのアニメは大人しか見れないR指定が付く可能性もありますね。
色っぽいんだけど隠してあるというすごい美しいシーンでもあるし本当に直接的な事は何もないのだけれどどれだけ恋し合ってるかというのが分かってしまう。
それと面白いのは要は現代センスで言うと亡霊が来るわけじゃないですか。
だから「わじわじ」どこの話じゃなくてもっと怖いべきですよね。
普通だったらゾンビが来たっておかしかないわけじゃないですか。
様相として。
だからこんな何か胸ときめく恋愛の感じになるという死んだ人に対する感覚もちょっと僕面白いなと思います。
「死者の書」には日本人独特の死者に対する感受性が表れているといいます。
二上山ってもともと死者の山ですから先祖がやっぱり子孫の事を思ってるというのが民俗信仰でずっとあって。
お盆になるとこの死者霊が山を下りてくるわけですよね。
生きてる人間も憧憬っていうのか死に死者に対する憧れというのが同時に存在したのが古代人だっていう折口さんの考えですよね。
そうなってくるとやっぱり死んでも死んでないみたいなところというのが今より普通の感覚としてあるのかな。
死者が死者ではないんですよね長らくね。
生きてるとは言えないんだけども魂というか何かでは生きているような気がする。
僕らはもうあまりにも医療的な知識を持ってるのでちょっと再生までは考えませんけどもでも小さな頃に亡くしたおばあちゃんとかというのは何かどっかで見守ってくれてるよというのはちょっと信じたりしましたよね。
折口はやっぱりそういう間死と生の間常世…この世とあの世の間というのを本当にどうやって行ったり来たりしたのかというぐらい行ったり来たりしてた人だから。
本当にそこにいるように書くんですよね。
へ〜。
そこがすごく魅力です。
折口さん生きてる人の世界へ死がず〜っと降りてくるその接近感。
物事がうわ〜っと接近してくる感覚に敏感でまあ体質もあるしそれを強化する何か…あのコカインなんですけどね。
言っちゃった。
いや当時の知識人はよくこれ服用してましたから。
出てきますよね。
今では完全にアウトだと言われてる。
折口さんはそのころは別に隠してないですからそんな事は。
ぶっ飛んでいくと古代人そのものになるようなところがあったわけですよね。
もう折口の中に起こってたんだと思うんです。
彼の憑依型っていうのかなその書き方からすると体験でありみたいな何かいろんな側面がちょっとあって不思議な本ですね。
体験でありという事でいうとセクシュアリティーは折口は同性愛者なんですよ。
若い頃に最初の同性の恋人が若く死んでしまって志半ばでという。
折口の研究をよく見てるとその人の遺志を継ぎたいような感じも見受けられるんですよ。
その人の魂を慰めたいと思っているんだけどある時ちょっとこんがらがった夢を見て自分が夢の中で中将姫に変身していた。
自分が夢の中では女性になって中将姫になってその魂を慰めた。
だからそれを書いた体験小説幻想体験小説みたいな。
これね何かその霊を慰めるという事とまあまあ成仏させるという事とかと恋愛というのは別?一緒?愛がある対象に対してやるのでやっぱり動機が強いですよね。
だから鎮魂と愛がワンセットというか…日本人ならではの死者に対する感じ方を描いた折口。
更にそこには言葉に対する鋭敏な感性も表されていました。
それは冒頭その音なんですね。
水の滴る音。
「ぽっちり」。
ぽっちりと目を開けた。
「ぱっちり」じゃないんです。
ぽっちりと目を開ける。
何かかわいらしいですね。
これはこの当時こう言ってたんじゃなくてオリジナルの擬音なんですか。
そうだと思います。
…なんだけれども言われるともうそれしかないみたいな。
分かるすごい。
かっぽかっぽじゃなくて。
かっぽかっぽはやっぱりこう地面硬く…。
しっとしっとだとちょっと湿ってるというか草があったりとか。
ウエットな感じがしますね。
擬声語っていうのは意味になる前の音じゃないですか。
物体が立ててる音と人間の意味を持ったののちょうど間みたいな言葉で。
だから人間が意識を持ってるんだけど物質の中に入っていくという。
特に冒頭部なんか石室の中にいるんですね。
死者ですから石室の冷たい中にいて水がたれてきたり音を聞いてるんですけどその時は自分死んでるから意識ともう物体物質が一緒になったような状態をつくり出していて。
折口さんの擬声語ってだからこうやっぱり乗り越えなんですよね。
人間と物質の境目みたいなのを乗り越えていくとかこういう乗り越えでできてる小説。
空間にこうやってマイクが置いてあるかその物体自体にマイクがくっついているかっていうと「しっとしっと」は恐らく引きでいくと高い音の方が聞こえるから「かっぽかっぽ」になったってその草ともしくはひづめの中と一体化したマイクがあれば草の音になるのではないかと。
そうそうそう。
そう考えるとそのリアリティーすごいですね。
しかもそのマイクがこっちからさしてるマイクじゃなくて死者とか向こう側も持っててそこから出てくるんです。
「何か物音がする」とこういいますよね。
それは何の音か分からない。
あるいは「物々しい」とか「もの凄い」物質的にものすごいんじゃなくて何か「霊」という字を書いて「もの」とも読むわけです。
えたいの知れないものだけれど面影だけは持ってるものなんですよね。
その面影が持っているものを引き出すのが天才的にと言うと失礼だけども折口さんは得意で。
これがそうですよね「こうこうこう」っていう。
「こう」っていうのは乞う。
乞います乞います。
来て下さい来て下さいってなるとこれが「恋」になるでしょ。
恋愛の恋。
だからこの「こうこうこう」という音はちょっとすごい音なんですよね。
あ〜なるほど。
擬声語が豊かだというところが日本人的ですよね。
漫画表現なんかもそうですけど。
アメコミの擬音ってもう決まってるんですよ言葉として。
「ZZ」って書いたら寝てますとか。
(斎藤)定型があるんですよ。
「BOWWOW」って書いたら犬が怒ってますって決まってるけど。
でも日本の小説や漫画だけは擬音語擬声語は結構自由にオリジナルのものが出てくるんです。
漫画オリジナル多いですよね。
すごく多いです。
そこに言霊文化みたいなものの名残を感じる。
何かえたいの知れないものが現れた時に「ドッギャーン」っていうとか。
今までだったら「ジャジャジャーン」って書けばよかったものをこの出方は「ドッギャーン」だという事とか。
高回転のエンジンをバイクでこうガンとシフトダウンする時に「ぎゃん」という音とか。
あれ「ぎゃん」しかいえないとか。
さっき中沢さんが言ったみたいに意味と描写の中間みたいなものをちりばめる表現なんですよね。
漫画でやると「あっしあっし」といった時圧力の「圧」って漢字も同時に書き込む事できるでしょ。
下手したら「死ぬ」にもできるんですよね「圧死」。
漫画にした場合に。
漢字も平仮名も片仮名もそれでしかも物質も全部巻き込んだ表現を僕らやってますよね何気なく。
そう考えたら延長線上に漫画あるかもしれないですね。
その形まで入れられるとか。
古代以来の日本人の心が僕はよみがえってるのが漫画文化だと思いますね。
このコーナーのまとめとしてこの「死者の書」が教えてくれる日本人論。
これが私が思う日本人の力ですね。
さっきのもののけの「もの」「モノ」と通じる力「モノ」の声を聴く力あと「モノ」になりきったりとかそういう力が古代から日本人にはあってそれが忘れられているんだけれど例えば漫画なんかにすごく色濃く生きていたりとかして。
そのリアリティーはまだ思い出せなく思い出すよすががちょっと消えてるだけで思い出せると思うんですね。
そうすると今現実だと思っている事がもっと多層的になって深い世界が生きられるのではないかなと。
続いての論者は精神科医として引きこもりの問題に取り組み現代社会への鋭い分析でも知られる斎藤環さん。
では斎藤環さんお薦めの名著をご紹介下さいませ。
河合隼雄さんの「中空構造日本の深層」という本です。
ちょっと見せて頂けますか?この本ですね。
「中空構造」。
(斎藤)中ががらんどうの構造を持っているというね。
スイスのユング研究所に学び心理療法を日本に根づかせた河合隼雄。
「中空構造日本の深層」では日本神話から日本人の精神と社会の特徴を読み解いています。
河合さんは日本に箱庭療法とかですねさまざまな治療法を導入した大変功績のある方なんですけれどもユング派というのは昔話とか神話とかにですねその国民の深層心理の構造が表れてると。
そういう読み解き方をこの河合さんは日本の神話に当てはめてみたと。
そもそも心と神話というのは関係があるんですか?想像力にかたちを与えるスタイルを与えるものが神話であり物語なんですけれどもそれは結構普遍的な構造を持っていて「古事記」はフィクションかもしれませんけれどもフィクションを生み出した心のありようというものは現代の我々にも連綿と受け継がれていると。
心理学者と「古事記」がまさかそんな形でましてや日本人論がそんな形で融合していくと思わなかったんで。
神話の構造を分析すると現代日本の国民の心の在り方にもかなり大きなヒントがあるかもしれないとそういう読み方です。
河合は「古事記」の中に謎の神がいる事に注目しました。
男性神イザナギが黄泉の国のけがれをはらった時生まれたのが3人の神…このうちアマテラススサノヲには多くのエピソードがあり大活躍しますがツクヨミにはこれといった物語がない事に河合は気付きました。
そこから河合は他にも役割のない神を見つけていきます。
天地開闢世界の始まりの時高天原に誕生したのが…タカミムスヒとカミムスヒは神話の中で重要な働きをしますが中心的な名前を与えられているアメノミナカヌシは何もしません。
更に地上の支配者ニニギとコノハナサクヤヒメの間に生まれたのが…海幸山幸として知られる2人の神の間でホスセリだけがやはり何もしないのです。
このように3人の神の中心が何もしないという共通点を河合は発見しました。
すごいですね必ず3人そろうと1人…。
(斎藤)役なしが出てきちゃうんですよ。
重要なポジションの神々なわけですけれどもなぜか必ず無為の神がいると。
河合さんの仮説によると…最初のタカミムスヒカミムスヒからホデリホヲリまで何かを所有してる。
簡単に言えば領土とか国土とか技術を持ってるわけですよ。
真ん中にいる三神は持ってそうなのに何かそこにいるだけの神そこに何か中心が空なるもの空洞なるものそういうものを置いたというのは仮説ではあるけれども納得のいく部分がありますね。
大体世界は天と地で出来るわけだけどだけどそういう二元論だけじゃ世界はできませんよっていう。
要するにそれの奥にあるものがあってだから三項必要なんですよね宇宙をつくるには。
リアルに出てるのはこの天地海山って出るんだけどこの本当の根源はバーチャルといってこのバーチャルに一個項を与えてるんですよね日本の神話というのは。
それは白黒で言うと灰色の事なのか白黒で言うと無無色の事なのか。
あらゆる色を生み出すというものですね。
だからその真ん中のは在るでもない無いわけでもない。
作家の中上健次さんが「うつほ」という概念にすごくこだわっておられてこれはあの「宇津保物語」という日本最古の長編小説があるわけですけれども木のうろの話ですよね。
そこでお琴弾いたりとかする話なんですけれどもその「うつほ」とかなり僕は近いかなと思っていて。
中上さんは「うつほ」っていうのはいろんなバイブレーションがこもる場所だと言ってるわけなんですよね。
そういった意味では全くの空っぽではないというところが一つの特徴と言えるかもしれませんね。
この中空構造ゆえに日本は西洋とは違う発展をしてきたといいます。
基本的に弁証法ってありますよね。
正と反があって対立があってそれが弁証的な過程を経て止揚されて正反合となって歴史が進展していくわけですけれども基本的にはその構造は日本にはなくて最初から三項あってですね…2つだとどっちかがどっちかを滅ぼすという形になるけど何か日本ってまあまあまあまあまあまあみたいな感じでず〜っと何となく白黒あんまりつけないでいくという。
それはもう神話の時から日本人のその心の構造としてあるんだよという。
具体的メリットって何ですかね?その中空構造であるがゆえの。
どんどん外来のものを取り込んでいくんですけれども外来のものには外来のものというレッテルを貼ったままで共存していくのですごく柔軟なんだけれども一方で…結構器用なシステムになってると思うんですよね。
つまり外来物に圧倒されるんじゃなくてかといって排他的になるのでもなくてまあ何か調和しちゃうという感じですかね。
もしかして自然発生的にはそっちの方を人間は取りやすいのではないかと思ったんですけど。
一神教って危機の時代に何か出てくるちょっと飛躍があるのでもしかしたら自然状態ではこういう方が…。
自然状態だとこの思考方法が一番合理的にできてますね。
それでこの真ん中の中空って言われている部分があると例えば対立したものがあるじゃないですか。
そうするとこの対立したものをこの中間領域へ持ってきてお互いの間で一種のネゴシエーション妥協を図るという事が行われる。
つまり自分と違うものを……という事が可能になってくるのはこの真ん中の部分でね。
大きな事を言うと日本列島にはもともと縄文人がいたわけですよね。
そこへ倭人というのが稲持って入ってきてそれで今の日本人作ってますよね。
争いがあんまりないんですよ痕跡が。
それは縄文人が弥生式の技術を受け入れてるんですね。
弥生と言われてる倭人の連中も縄文の連中の神様の考えとかを受け入れてるわけですね。
ハイブリッドを必ずつくってくというふうにして日本人形成がもう3,000年ぐらい前からこれが行われてた。
穏やかな感じで。
ところがユダヤ教の場合はとにかくモーゼの「聖書」のあれ見てると反対者を排除するどころか虐殺したりして。
それはもう大変な苦難の歴史をたどってるから自分たちのユダヤ教という考え方と違う要素が入ってくる事を許さなかった歴史がある。
これが日本人論の主張としてとても僕が興味深い所はその平和ありきの日本人であるというとても誇らしい部分が一つと逆に言うと戦いには弱そうだなと。
そうですね。
ただ敵のタイプにもよると思いますけれども取り込んでしまうと。
さっきのネゴシエーションして取り込んでしまって吸収消化してしまうという事もひょっとしたら得意なのかもしれないという事と。
まあまあまあというまあまあ上がって上がって御飯でも食べてっていう。
政治で絡めて言うと二大政党制がなかなか定着しなかったりとかその辺にも関係してくると思いますし政治的な決定をする時に誰かが主体的に決めないで空気に任せちゃったりとかそれからお神輿モデルですね。
一人ぐらいぶら下がってても分かんないような感じで話だけどんどん事態だけ進んでくみたいな事があってこれも…これもある種の中空構造と言えなくもないと思うんですよ。
中心がないわけですから。
特にあの戦後の政治状況にはよくあったなという感じはありますけれどもね。
そうですよね。
悪い方で言うと何か事が起こって誰が責任取るんだみたいな。
「俺言ってねえよ」という。
そうそうそうだからリーダーシップもよく神輿は軽い方がいいというようにあんまり有能な人が中心に来る事は少なくてどちらかというとそばにいる参謀が優秀で真ん中は空っぽで参謀が動かしてくみたいなモデルが日本型リーダーシップというふうに言われますよね。
大衆の在り方にも中空構造は現れます。
今斎藤さんが注目するのは「マイルドヤンキー」と呼ばれる人たち。
最近「マイルドヤンキー」というのがすごく多いと。
何ですか?最新トレンドはマイルドヤンキー。
マイルド?つまり不良じゃないヤンキーなんですよ。
地方で上京をあんまりしたがらないで地元にとどまって仲間とつるんで遊んでるような若者の事をマイルドヤンキーと言うらしいんですね。
いわゆるならず者になるわけでもなくという資質としてはヤンキーは持ってる。
ただ趣味はヤンキーっぽい。
ちょっとこういかれた服装をしたりとかバッドセンスだったりとか。
あとお祭りに熱を上げたりね。
だから日本の今の祭りはこのマイルドヤンキーが担ってると。
不良性の名残としてのバッドセンスがあります。
もう一方に仲間を大事にしたりとか気合い入れたりとかあるいは相田みつをが好きだったりそういう倫理性があるんですよ。
不良文化下層文化は世界各地にありますけれども倫理性とワンセットになった不良カルチャーというのは私は他に例を知らないです。
僕らの年代で言うと横浜銀蝿ってはやったじゃないですか。
要するに不良なんだけれどもちょっとホビーなというか。
彼らは不良じゃないんですよね。
四大卒の非行経験がないアニキなんですよ。
ある意味コスプレっちゃコスプレ。
(斎藤)コスプレなんですよ。
気質としては持っててみたいな。
持っててあれやってるうちに本当にヤンキーになっちゃったという話ですよね。
ヤンキー文化。
本質を共有しなくても模倣だけで入っていける。
今日本で若い世代の非行率ってどんどん減ってるんですよね。
不良がいなくなってきてると。
いい事なんですけど。
何で減ったかという説はいろいろあるんですけれども一つ可能性としてありうるのはこのマイルドヤンキー文化が非常に裾野が広がったと。
だからちょっと非行傾向を持ったやんちゃな子でも。
(松岡)吸収されちゃうんですよね。
YOSAKOIソーランか何か踊っているうちにですね入っちゃうんですその中に吸収されちゃって。

(斎藤)衣装とか見てると神道系の要素がいろいろ入ってたりするんですよね。
なので結構鉢巻き巻いたりとかあれ清めの発想ですよね。
不良が輝くんですよあの踊りでは。
だから教室では目立たない不良でもソーランでは輝けるのであそこでロンダリングされるわけですよね。
いや思いますよ。
学校的なものと昔で言う竹の子族的なものの間にあったこういうふわっとした人たちがうまくそこに吸収されてく事で。
学校がソーランを推奨してるのでもう非常によくできた装置になってるこれはね。
これは逆に具体的な中空構造が良くない方に出ちゃうというケースは何ですか?出ちゃうのはやっぱり同調圧力が高まりすぎちゃうんですよね。
中間集団というか教室とか世間ご近所とかコミュニティーの同調圧力が高まりすぎる傾向があってそういう志向を持っていない個人にとってはすごく生きづらい社会になると。
だから「ソーラン節」というのは7割の生徒にとってはいい思い出になるんですけども3割の子にとってはちょっとつらい思い出になるかもしれないという可能性を持っていて。
マイノリティがちょっと居づらくなるようなところもあるかもしれないと。
なりますよね。
カルチャーとして……という点ではきついかもしれないと。
日本人の集団心理に現れる中空構造。
河合はその危険性も指摘しています。
日本人の集団心理につけ込んで中心への侵入をくわだてる者が現れる危険性があるというのです。
それをコントロールしよう上手にコントロールしようという人が来た時に何かその集団の持ってる絶対的なその危機を感知する力みたいなのが働くのか上手なコントロールをされてしまうのか。
ポピュリズムの困った面は出やすいというかつまりあの…キャラなんですよね。
キャラ文化なんですよマイルドヤンキー文化というのは。
政策が優れてるとかよりもとにかくキャラが優れてる人が支持されやすいと。
近年あの断言系の政治家って繰り返し繰り返しはやってでもそれを支持する層というのが実はそれを支持すると一番損を被る層だったりとかしましたよね。
何かスカッと断言をする人を決断力があるとかリーダーシップがあるとかただ気合いで言ってるだけなんだけど。
マイルドヤンキーの人々は。
…というのが原理なんで政治批判ははなから無いと。
それが安全なのか危険なのかが俺はどうも理解がちょっと難しい。
歴史的な経緯を荒っぽく見て言うと安全性は高いと思うんですよ。
安全性と安定性とサバイバルの力は強いと思うんですよね。
例えば急にこのヘイトスピーチに走るとかですねウルトラ保守になるとかですねそういう可能性は低いと。
でもね戦争になった時に僕はすごく子供心に戦争が終わって随分たってから生まれた子供だから戦争なんか絶対駄目だって聞かされる。
でもその時に子供心にちょっとだけ疑問に思ったのはあれ「俺賛成してた」という人一人もいねえなと思う。
それもさっきちょっと出てきた無責任体制みたいなもので……という事が起こりやすいというのは確かにあるかもしれませんね。
そこちょっと怖いんだよな。
しかもスピードが上がってるじゃないですか。
前の戦争よりも多分次の戦争って起こったら僕スピード異様に速いと思うんですよ。
おかしくなってきたんじゃねえかというスピードにもう追いつかなかったりするんじゃないかというのがちょっと怖くて。
そうですね。
そもそも今の…太平洋戦争当時のそういったものにも一つの起源があるわけですからある種の精神主義ですよね。
これも中空構造につながるんですけれども気合いもそもそも空っぽな所に入れるものですからもともと中空じゃないと気合いの入れようがないというのはあるんですけれどもこういうものが戦意高揚発揚に使われていたという現実もあるわけでそういうリスクは十分に自覚してないと。
変なものが入った場合は危険だという意識は持っていなきゃいけない。
これが日本人論であるという事は。
中空である事を意識して変なものが入らないようにするのかあるいは中空そのものを捨てるのかその辺は今後の我々の選択ですけれども。
私戦後にすごい興味があったんですけど戦争でひどい事になったそしたら責任の追及ができないのでどうしたらいいか分からないのでじゃあ全部忘れてしまおうというふうにやって戦後やってきてそれなりに平和ではあったけれどもやっぱりひずみはすごいたまったと思います。
国内でやってる分にはそれでも何とかなるという。
「お前はっきりしろよ」って言われた時に外から言われた時この時また困りますね。
そうですね。
そういった対立が起こった時には非常に弱腰になってしまったりとか相手の主張に圧倒されちゃったりとかそういうふうになりがちな所は中空構造のまずい点かなと。
「僕たちは中空構造なんです」「そういう民族なんです」と言うわけにいかないそれは通らないですもんね。
そういう設計で成り立ってる構造じゃないところが問題なわけですよね。
誰かがそういう設計をしてやってるんだったら主張できますよね。
うちはこの構造でうまくいってるからほっといてくれと言えますけどたまたま成り立ってる構造なので主張できないですよねあまりね。
そうかそこが変な話この話の大本に戻ってくる事ですよね。
心と神話と社会構造みたいな。
無意識に成立しちゃってるんで向こうから強引に攻め込まれたらそれこそTPPとかこれからグローバルに展開する時に非常に脆弱になりやすいものを抱えてると言わざるをえないかもしれません。
日本人の無意識だからこれ構造は。
ただこの日本人の無意識はいい事もあるんですよね。
世界全体を見ていった時に今はとにかく計算と計画と合理性で出来上がってっちゃった世界の中にこの合理性って「0」「1」で組み合わせていく世界ですから中間がないんですよね。
ところが…ある意味人類の期待希望の星でもある。
だけどそれは無自覚のまま突入していくとあの70年前80年前と同じような状況にまた日本人は突入しちゃう可能性もあるというまあ両刃の剣ですねこれはね。
最後にボードにひと言書いて頂けますか。
心理の専門家の人たちが読み解いていくというのが面白いですね。
個人のカウンセリングじゃなくて語り継がれた神話をカウンセリングすると日本人全体がちょっと見えてくるという。
書きました。
では是非見せて頂いて。
「ウツホ」とは?中空の事ですねがらんどうの。
でもバイブレーションもこもってる場所の事ですね。
とりあえずは自覚してメリットデメリット踏まえた上で選択をして頂きたいと。
最後の論者は日本人をはじめ人類の歴史全体を壮大なスケールで読み解いている中沢新一さん。
お待たせいたしました。
中沢新一さんのお薦めの名著をご紹介下さい。
鈴木大拙「日本的霊性」という本ですね。
またすごそうなのが。
英語教師から禅の研究者となった鈴木は日本の禅文化をアメリカに紹介。
ヒッピーカルチャーに大きな影響を与えました。
代表作「日本的霊性」では日本人の宗教意識がどのように芽生えたのかを考察しています。
鈴木大拙さんという人は英語がものすごいできた人でそれでアメリカで長い事活動してて仏典を英語に訳した最大の功労者なんですね。
普通仏典の言葉というのは英語にしにくかったんですよ。
それをものの見事に英語にしてそれでそれを詩人たちが好んで使ったんですね。
ビートニクス詩人とかが使うぐらいうまく訳し倒した言葉をつくってた人なんですけどその人が「スピリチュアリティ」という言葉ですね。
ヨーロッパでもアメリカでも宗教の核心というのはスピリチュアリティだって言われててスピリチュアリティってもともとはスピリットという霊の働き。
霊の働きというのは生命にも物質にも及んでいく根源的なものでキリスト教の中でもスピリット精霊というのは実は父なる神子なるキリストよりももっともっと根源的な力なんですよね。
そのスピリチュアリティというような根源的な力が日本人の無意識の中にも発動してたし日本の歴史もつくってきた。
それをはっきり形に取り出してみるロジックで取り出してみるとどうなるかって挑戦したわけですよねこの本。
そうすると番組も回り回って「いき」というものをちゃんと構造にして書き出してみようという考え方と少し似てるといえば…。
似てると思いますね。
似てますね。
それでこの本は昭和19年に書かれてるんです。
そのころは日本的精神とか日本精神とか大和魂という言葉が世の中を覆ってた時に鈴木大拙はこの戦争は負けるだろうと確信してたんだね。
戦後の日本人にとって心のよりどころをどこに求めたらいいだろうかという事を考えていった時に日本人の心の一番大事なところで残る部分は何だといってこの名前を付けてるわけですよね。
じゃあそうすると逆に僕らなんかは日本的霊性というのはある意味大和魂の事なんじゃないかと思っちゃうけどむしろ別で。
別なんです。
排除したところにある。
排除というかこれは要するに大和魂にしても日本精神にしても今日の話ずっと一貫してるけど無意識なんですよ。
日本人の無意識がそのまま発動したり表現された言葉になっていったけども…つまり自分が抱えてきた無意識を一つの原理にまで覚醒しなきゃいけないという意識を込めてこれを書いたんですね。
人間の精神よりも更に奥底にある根源的なはたらきだという「霊性」。
日本人がこの「霊性」を自覚したのはいつなのか。
大拙は歴史を検証していきます。
「万葉集」の歌が詠まれた飛鳥奈良そして平安時代は貴族が社会の中心でした。
言葉に不思議な力が宿る言霊信仰やはかなさに感じ入る「もののあわれ」の感覚はあったものの働く事のない貴族は生活に深く根ざした宗教意識には達していませんでした。
大拙は鎌倉時代に大きな変化が訪れたといいます。
貴族に代わり大地と直接関わりながら生きる武士が台頭。
そこに禅宗がもたらされ死と直面する武士に生きる心構えを目覚めさせました。
更に農民には浄土思想が広まります。
念仏さえ唱えればどんな人でも極楽浄土に行けるというもの。
法然と親鸞は農民たちと向き合う中で大地に根ざした暮らしの中にこそ真理があると確信したのです。
大拙は大地に生きる武士や農民が禅宗や浄土思想の教えに触発されてより根源的なものに目覚めた事を「霊性的自覚」と呼んだのです。
日本人の覚醒というのが鈴木さんの考え方では鎌倉時代に起こってるというんですね。
日本人が無意識のまま抱えてきた河合先生が「中空構造」と言ったりしてたもののもっと根源的なロジックは何かというのを取り出したのが実は禅と浄土真宗で。
何でそんな事を禅や浄土真宗ができたかというと今までは貴族を中心にした文化だったから貴族は結局大衆と分離してたわけですよね。
仏教なんかも今で言うオタクの学者みたいなのがものすごい修行したり勉強したりしてて分離してたわけだけど鎌倉時代にそれが初めて民衆の世界にわっと降りてきたわけですね。
要するに知識人が頭の中で仏教だなんだ考えてるうちにはまだ鈴木さんの言い方をすると日本の大地には降りていなかった。
それを初めて日本の大地に降ろした時日本人が本来昔から抱えてきた無意識の構造というのが下からわ〜っと湧いてきたわけですよね。
それは今まで研究の対象でお経の本なのか分かんないけど…でしかなかったものが実際どうだったよという事になってくる。
その膨大な仏典が大半は必要ないんだという事にまず気付くわけですね。
なるほど。
それでそこから重要なものは何だといくつか取り出した時に禅のいくつかの考え方それから浄土宗浄土真宗の「南無阿弥陀仏」お念仏というのこの2つだけでいいんだというとこまで行くわけですね。
この往復運動が初めて始まってそれによって日本人は己がどういう思想を持ってるのかという事に気が付いたんだというところから始めるわけです。
禅や浄土思想と出会う事で民衆が自覚したという日本的な霊性。
その特徴は「大地性」「莫妄想」「無分別智」であると大拙は説明しています。
大地性というのはそれが具体的な日常の生活の中に降りてって生活の隅々で生かされるようになる。
立ち居振る舞い食事のしかたあるいは農業作業そういうものの中に思想が降りてくる。
あるいは大地の方から思想の方へ影響を及ぼし始めるというのを大地性って言ってるんですね。
それからもう一つの特徴はこれは莫妄想と無分別智だって言うんですね。
莫妄想というのは要するに「莫」というのは無いという事で「妄想」っていうのは妄想で要するに自分の目の前にあるイリュージョンを全部取っちゃいましょう。
そうするとこの世界がすごくクリアーに見えてきますよというのが莫妄想ですね。
無分別智というのは今の世界をつくってるのは全部分別でつくってる。
分別というのはビットで分けていく「0」「1」で分けていくというのは今のコンピューターのあれですけど我々は普通は同じ原理を使うんですね。
右左上下山海とそういう概念で分別して世界を捉えてるけどもこの分別も取っちゃいましょう。
もっと根源にある無分別智という智が動いてるというふうに考えた。
それは何て言うんですかね。
その…考えないで考えちゃ駄目だという事ですか?これはまあ禅宗の座禅とね深く関わってるんだけど座禅する時考えちゃ駄目だ。
考えちゃ駄目だというのは分別してる脳の働きを停止させた時にその時に何にもなくなっちゃうんじゃなくて世界を全体に直観的に捉えていく無分別智というのが大きく自分の前に広がってくるというのが禅の基本的な考え方。
例えば人が花を見るという時は花が人を見るという事が同時に起こってるんだと。
普通僕らは人間が花という対象を見てると思うんだけどそれは同時に花という命が人間に向かってるという事でもあるから人花を見るというのは花人を見るという主も客もないという状態がつくり出されてくる。
浄土真宗もこの分別を全部取っちゃいましょう。
例えば日常の作業をやってる。
それについて例えば「仏様こんな事をさせてくれてありがとう」と普通はお祈りするけども浄土真宗の親鸞の最終的な考え方はそんな事要らないんだと。
こうやって物をほったりしてる時働いてるこの手の動きは阿弥陀如来の動きそのものだからそこで一体になっちゃってるんだ。
私と仏は阿弥陀如来は一つになってっちゃうでしょ。
そういう境地を目指していくんですよね。
更に言うと親鸞が皆さんご存じのように「悪人なおもて往生す」という。
善悪に分けたら普通どっちかにいい方はずっと行くはずなのにいやいや悪人こそが往生できるんだというような考え方をする。
親鸞は身分や職業も問わず悪人ですら救われると説きました。
大拙はこれを善悪すら超えた無分別智だと言います。
親鸞の最初の弟子は武士がものすごい多いんです。
それから川の民山の民というのが多くてこの人たちは大体殺生するんですよ。
武士は当然しますし。
武士はもう人斬りの職人って言われたわけだし山の民は狩猟するでしょ。
そうですね。
川の民は魚取るじゃないですか。
殺生ですはい。
中世の時代だとそれは悪だったわけですよね。
特に仏教は殺生は悪だと言ったわけですよ。
とにかくその人たちが親鸞なんかに質問してるの。
「私たちでも救われるでしょうか」という質問をしてるんですけど「もちろん救われます」ってすごい自信を持って答える。
その時は善悪というようなものは超えてるわけですね。
たとえ殺生してるあなたでも阿弥陀は救済していきますという事を断固として言うわけですね。
私の母は寝る時にいつも「なんまんだぶなんまんだぶ」と言って父親は風呂へ入ると「ああ極楽や極楽や」ってしょっちゅう言ってて何だろうと僕は思ったぐらいなんですがそのぐらい何か日常化してカジュアルになった時期のスタートが鎌倉期にはあったんだろうと思うんですよ。
浄土教の教えというのは別に外国から持ってきた教えじゃなくてそれが初めて日本人の心の中に宿って日本人の思考方法をそれによって引き出した。
それを覚醒と呼んでるわけですね。
は〜僕ちょっと今ので腑に落ちてきましたね。
日本人の霊性が持つという無分別智。
しかし今の私たちは成功失敗損得などさまざまな分別を日々行いながら生きています。
私たちは無分別智とどのように関わっていけるのでしょう。
分別があるって普通はいい意味で使うじゃないですか。
分別のある大人。
知識がきちんとあったり判断能力があったりというふうに使うじゃないですか。
その分別はありつつ無分別も働いているっていう。
その奥で働いてる…「食べたらいけない」が僕分かりやすいですダイエットで。
考えたらこれ絶対食べたらいけない。
とはいえ食いたいっていう今状態だとするじゃないですか。
これどっちに従うのが正しいんですか?ああそれは食べていいでしょう。
はあはあ。
食べる事による弊害というのは必ず出てきますけどそれを常に頭に浮かべながら食って構わない。
なるほど。
ほんとに体の奥底から食いたいのであればほんとの究極の無分別で食いたいのであればそれは多分必要という事でしょというある程度の分別よりももっと先の…。
あるという事でしょうね。
分割とか分別には限界があるという事ですよね。
分別するのが全部駄目という事じゃなくて。
心理の面から言うとちょっと何かありそうですよね。
人間が理屈で頭に思う事と本当にやりたいと欲する事って相反したりするじゃないですか。
やっぱり理屈で頭がすっかり占められてしまってると一番僕らが困るのは義務と欲望が混同されちゃうんですよね。
つまりしたい事とすべき事がごっちゃになっちゃうんで何がしたいか分からなくなったりするんですよね。
義務感を与えてるのは分別だったりするので一回そこを取っ払ってかないと自分のしたい方向が見えてこないとかですね一番重要な日本人の知性の働かせ方というのは…この構造で世界を見ていますよ。
それが日本人が目指してきた清き明き心と言われるものの大本の在り方だと。
そんな無分別智を最も体現している人として鈴木大拙は「妙好人」と呼ばれる人を紹介しています。
妙好人とは浄土真宗をあつく信仰する一般の人の事。
その一人がかつてこの町に住んでいました。
11歳から大工職人に奉公。
博多で船大工として暮らした才市は50歳を過ぎてふるさとに戻り履物店を構えました。
下駄を作るシンプルな毎日。
そんな才市の生活の中に自然にあったのが阿弥陀仏への信仰でした。
近所の寺で僧侶が語る法話を誰よりも楽しみに聴いたという才市。
法話を聴いてあふれ出た言葉をかんなくずや下駄の歯など身の回りのものに思いのままに書きつけました。
書いては燃やしていた才市でしたが知り合いに勧められてノートに書くようになります。
才市が素朴な歌をつづったノートは100冊に上りました。
晩年画家が描いた肖像画が立派すぎて才市は納得せずある頼み事をしました。
それは頭に角を描き加える事。
「自分はちっとも偉くない。
あさましい鬼のようなものだ」。
暮らしの中で才市が至っていた境地こそ最高の無分別智だと大拙は考えました。
一つですね鈴木大拙は妙好人という在り方を中で記していまして下駄の裏に言葉を書いているんです。
これが日本の宗教的な境地のもうトップだって言うんですよね。
一番すごいと言われてるんだけど普通の下駄職人だったりまあ普通の職人さんで無口で欲はなくいつも歓喜に満ちて喜びに満ちて生きてる人たちがこれが最高だっていうわけだね。
「なむあみだぶつ」というのは自分が阿弥陀さんに向かってなむあみだぶつと言ってるんじゃなくて私を通してなむあみだぶつって阿弥陀さんがなむあみだぶつとこれが楽しみでわしはやってる。
阿弥陀と自分はもう区別ない。
つまり阿弥陀の方からわしになるというやり方で日常生活をつくる。
歩き方御飯の食べ方口の利き方そういうのを全部阿弥陀の方からわしを通してあらわれてくる。
だからなむあみだぶつと言う時が一番幸せな状態だ。
無分別智の極致ですよね。
もう一つですものね。
しかもリズムが楽しそうなのがすごいですよね。
「私は悟りを開きます」とか「宗教を勉強します」とかという事じゃなくてこれを書いた方が楽しいと思って書いてるだけの事で誰かにすごい見せたいとか何か突き止めたいものがあるとかじゃないところにとても意味があってものすごい喜びで書いてる。
さっきカジュアルっておっしゃったけどほんとに「なみあみだぶつ」「いや極楽極楽」というのが自然な感じで。
この流れに相田みつをさんなんかもある。
こういうものが最高だという宗教って仏教ってすごいじゃないですか。
それが自然に鎌倉時代にできてそういう精神がず〜っと持続してるというのは日本人の心の本質でそれをもっとこう理屈づけていくと確かに莫妄想とか無分別智という事になるけれどもまあそんな事言ってるわしは鈴木さんはね「わしはとてもこの妙好人なんかにはかなわんわ」って言ってるわけですね。
だから僕も長い事一生懸命しゃべってきて浅原才市さんの歌でさらわれていくという感じですけど。
この大拙の思想がヒッピームーブメントとかアレン・ギンズバーグとかあるいはビートルズとかあの世代に早く分かってそのままスティーブ・ジョブズまでいってますよね。
だから大拙のこの考え方というのは日本人がうまくハンドリングまだしてないなという感じが。
外国人の方がそこをハンドリングしてるという事ですか?スティーブ・ジョブズがねやっぱりあれを発明して自分に最も影響を与えた人の一人ですよね。
鈴木大拙が?鈴木大拙が。
ジョブズたちの方が方法を徹底したんじゃないですか。
だからユーザビリティーとかユーザーインターフェースと言いながら主客未分のソフトを作ったりツールを作ったりプロダクティビティーを発揮してるわけでしょ。
あれ本当にどっちがどっちだかよく分からない状態まで徹底的に方法を詰めてますよ。
知的所有権争いになってくると分別のみを特化した部隊をそこに投入してくるからそのジョブズ自体の無分別に関しては何の影響もないみたいな。
ちゃんと自覚して取り入れてる分だけ使い方がうまいじゃないですか。
よそのもんだから。
僕らは追いつくためにはちゃんと知らなきゃならないという。
それを今までやってこなかった。
分別の方に強いのは多分アメリカというか西洋じゃないですか。
それがドーンとぶつかってきた時にどうなるという。
多分ね…そういう新しい構造を作んないと駄目だと思う日本は。
バージョンアップした日本的霊性みたいなものをつくらなきゃいけない。
日本人はね今バージョンアップ必要でそのバージョンアップの中核部にはこの無分別智中空構造というのがセットされててその周りにグローバリズムやいろんな軍事力とかねそういうものに対抗できるようなある種の分別智の体系。
しかも分別智と無分別智がいつも交流してるという状態を意識的に日本人がこうつくっていく。
職人さんにはあると思うまだこういうのは。
ものづくりの中に一番浅原才市生きてると思うんですね。
もともと船大工なんですよ。
船大工が下駄職人になるわけですけど船大工といったら日本のものづくりの原点ですよね。
それがやっぱり日本のものづくりの力底力は何かといったらこれがどうもベースにあるんじゃないのかという事だと思う。
世界の最先端のコンピューターでも作れない3Dプリンターでも作れないようなものを作ってる墨田区の工場のおじさんが「いくらでももうかるでしょ」って言ったら「別にビル・ゲイツになったところで一日6回飯食うわけでもねえし」なんていう事を言いながら…。
でもそれがこれですよね。
そうすると何かその人を生かしつつという対外とも交渉できる新しい霊性なんでしょうね。
まとめて頂きたく思います。
これだねやっぱり。
新しいバージョンアップを図る。
だからスティーブ・ジョブズがやった事をもう一回換骨奪胎するのは日本人だと思いますね。
鈴木大拙晩年の貴重な映像が残されていました。
さあ4人の皆さんと4冊の名著。
もうたっぷりと日本人について語ってまいりましたが松岡さんいかがでしたか?昭和の前期のね九鬼周造から鈴木大拙の19年まで途中に折口も入って何か戦争の非常に暗い軍靴の音が響くような日本だったんですがやっぱりその中で妙好人を発見したり死者との交流をね感じ合えたりあるいは「いき」というようなものを育てたりしていったそういうものがもう一度日本人の奥にあるというのを今日はずっと取り上げてると思います。
その一番奥があの河合さんの中空構造まで行くわけですけど日本人論がまだこれからもっと語られたり日本人論ではなくても日本人論として先人が闘ったものをもう一度グローバルでもいいしローカルでもいいし地方でもいいしもう一度それを取り出す事が相当必要だろうなと思うんですね。
日本人って何なのかほんとにそれはこれからも生かすべき何か大事な構造を持ってるのかという事を認識しなきゃいけない時に今来ていると思うんですね。
日本は戦後ある種の無風状態のようなアメリカという存在もあってその中で自分たちのまた無意識を発動させてきた平和の中で。
ただその平和の時代がもう終わり始めてるかもしれない。
その時日本人は何をつくっていかなきゃいけないか。
それはもう一回自分の周りに硬い殻を…殻をつくっていくだけでは自分の本質を殺しちゃうじゃないですか。
自分の本質を殺さないでこれから先の非常に難しい世界情勢の中で日本の歩むべき道を探るとすると内部に抱えていたこの構造ですよね。
無分別智をベースにする構造中空構造それを抱えつつこの困難な状況に立ち向かっていかなきゃいけないというところに今さしかかっていると思います。
日本特殊論というのはすごく面白くて魅力的なんですけど見方によってはすごくこう日本人ナルシシズムみたいなものに傾きやすいところもあってどこら辺までが構造的なものでどこら辺までが特異的なものかというところをですねやっぱり見分けていく事も必要かなという事を改めて感じました。
ずっと共通していたのはすばらしいものを持ってるけど無自覚すぎるっていう。
…という事ですね。
妙好人というああいうすごい光り輝いた存在もいいのだけどあれを捉える知性もやっぱり大事でああいうのを捉えられて本当に言えた時に二元論で争っている世界に対して何かすごく新しい話ができて世界の何だろう…福音となれるような話が日本人はできると私は本当に信じてます。
もう一バージョンアップすると何かこの日本がまた頑張れる大きく飛躍する力になるんじゃないかみたいな事はすごい共通して伝わりましたね。
長時間皆様ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
今も生き続けている日本人の美学。
死者との強いつながりを大切に思う感受性。
神話の中に見つけた心の形。
大地と共に生きる人が触れた日本人の根源にあるもの。
変わりゆく世界の中で私たちが自分の姿を見失いそうになった時きっと名著は何かを教えてくれます。
皆さんこんばんは。
2015/01/02(金) 21:30〜23:10
NHKEテレ1大阪
100分de日本人論[字]

「100分de名著」新春SP企画! 様々な名著から「日本人」を考える。第一線で活躍する論者が多角的に分析、日本人の本質に迫る。

詳細情報
番組内容
さまざまな視点から名著を読み解くことで、「日本人」について多角的に考察する。九鬼周造「『いき』の構造」からは、日本人の美学を。折口信夫「死者の書」からは、日本人の感受性を。河合隼雄「中空構造日本の深層」からは、日本人の心のかたちを。鈴木大拙「日本的霊性」からは、日本人の根源にあるものを。各分野の一線で活躍する論者の視点から読み解いていく。
出演者
【講師】明治大学 野生の科学研究所所長…中沢新一,編集工学研究所長・エディトリアルディ…松岡正剛,精神科医…斎藤環,作家・小説家…赤坂真理,【司会】伊集院光,【アナウンサー】武内陶子ほか

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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