プロ野球80年特集「プロ野球を変革した男 V9巨人・川上哲治監督」 2014.12.31


今年プロ野球80年を記念して大リーグ選抜チームが来日した。
迎え撃った侍ジャパンは3勝2敗。
大リーグ選抜は日本の投手陣やチームプレーの質の高さに目をみはった。
圧倒的なパワーを誇る大リーグに追いつけ。
これを目指した男がいた。
川上哲治。
川上がチームプレーの要としてアメリカ大リーグから取り入れた…一番後れてた部分に手をつけられていた。
みんなが考えらんない事をやりましたよ川上さんは。
野球殿堂博物館。
川上巨人と日本シリーズで度々戦った元阪急のエース山田久志。
今初めて知る巨人の強さの秘密があった。
川上巨人の名参謀牧野コーチが書いた極秘のノート。
そこには緻密な作戦が記されていた。
徹底したチームプレーで前人未到の9連覇を成し遂げた川上巨人。
日本のプロ野球を変革し今日の礎を築いたといわれる川上哲治の軌跡を追った。
日本のプロ野球は今年80年を迎えました。
このポスターをご覧下さい。
ご存じですね。
アメリカ大リーグのホームラン王ベーブ・ルースです。
80年前の昭和9年ベーブ・ルースを中心とした大リーグ選抜チームが来日した時のポスターです。
このチームと対戦するために結成された大日本東京野球倶楽部が日本のプロ野球の原点です。
現在大リーグではイチローやダルビッシュ田中将大など多くの選手が活躍しています。
敗戦から間もなく日本が焼け野原から立ち上がろうとしていた頃本気で大リーグに追いつきたいと考えた男がいました。
川上哲治です。
巨人を率いて空前絶後の9回連続日本一を成し遂げ現代のプロ野球の礎を築いた男です。
川上の時代に日本のプロ野球は大きく変わったのです。
1951年。
戦後初めて大リーグ選抜チームが来日した。
56試合連続安打のジョー・ディマジオを中心とするチームだった。
「早速初練習。
押しかけたファンに本場野球の鮮やかなお手並みを見せました」。
対戦した日本チームの中に川上はいた。
この年3割7分7厘の生涯最高打率をマーク。
自信満々で臨んだ。
背番号16の川上は初戦…。
(実況)投げました。
振りました。
セカンドゴロ。
4打数ノーヒットだった。
チームも0対7で完敗した。
このシリーズ日本の成績は1勝13敗2分。
アメリカとの差は絶望的に大きかった。
日本のプロ野球は果たして大リーグと肩を並べて戦える日が来るのか。
強い敗北感が川上の野球人生を大きく動かしていく。
川上は1960年昭和35年11月巨人の監督に就任。
チーム作りに取りかかった。
しかしその前途は多難だった。
戦力として頼れるのは長嶋一人。
入団3年目の王は打率でもホームランでもまだ並みのバッターだった。
当時のプロ野球では主力打者が打てば勝てるエースが打たれれば負ける。
勝敗は選手個人の力量に大きく左右されていた。
1956年から始まる西鉄ライオンズの日本一3連覇。
主砲中西は2度の二冠王に輝きエース稲尾は3年で89勝を挙げた。
西鉄の3連覇は2人の大活躍によって成し遂げられたものだった。
「一昔前のプロ野球チームは『投げりゃあいいんだろう』『打ちゃあいいんだろう』というような言い方で一人一人が勝手な事をやっていた。
現役時代の私ももちろんそういう仲間の一人だった」。
個人の力量に頼っている今のプロ野球では大リーグの野球には追いつけない。
監督1年目川上巨人は大リーグドジャースとの合同キャンプに参加する事になった。
ロサンゼルス・ドジャース。
1958年にニューヨークのブルックリンから西海岸に移ってきた名門チーム。
リーグ優勝21回ワールドチャンピオンに6回輝いている。
巨人が合同キャンプを計画した当時ドジャースはバントやヒットエンドランを駆使する戦法で1955年と59年ワールドチャンピオンになった。
僅差のゲームを守り抜くチームプレーはパワー全盛の大リーグ野球を変えたと高い評価を受けていた。
これは現役コーチのアル・カンパニスが野球の指導者向けに記したもの。
1954年に出版されるとそれまでは戦術の指導書がなかっただけにアメリカの野球界で大きく注目された。
その翻訳本を川上は手に入れていた。
守備のプレーに赤線が引かれている。
バントの防ぎ方内野手の連係プレーなどチームプレーの部分をじっくり読み込んでいた様子がうかがえる。
「私はこの本を文字どおり熟読した。
やがて巨人軍の野球が形を変えて頭の中に浮かんできた。
ここに説かれているチームプレーを骨にしてそれを日本のプロ野球で肉づけすればよい」。
アメリカに出発する前日川上は選手全員に「ドジャースの戦法」を配る。
君たちは本を読んだ事はあるか?あります。
では1冊の本を繰り返し読んだ事はあるか?1冊の本の内容を頭にたたき込んだ事はあるか?君たちにはそれをしてもらう。
この本の内容を全部頭にたたき込んでもらう。
監督何ですか?この本。
(川上)まずは頭を真っ白にしよう。
頭を真っ白にして「ドジャースの戦法」を読んでくれ。
そしてベロビーチでキャンプを張ろう。
巨人はドジャースのキャンプ地フロリダ半島のベロビーチへ飛び立つ。
大リーグのチームと合同キャンプを張るのは日本のプロ野球では初めての事だった。
合同キャンプには「ドジャースの戦法」の著者アル・カンパニスもいて直接指導してくれた。
練習で真っ先に行うのは全員参加の守備練習。
打撃やシートノックが中心の日本のキャンプとは全く違っていた。
王貞治。
ベロビーチキャンプに参加した時は二十歳。
入団3年目だった。
守備力とかそういったものにそれまでの日本の野球では考えられないほど守備に割く時間練習をとってねそれから連係プレーといいますかね。
ですから外野へ打球が飛んだらそれをカットマンが入ってカットマンからホームへとか。
いわゆる…チームプレーをね取り入れてなかった日本の野球にチームプレーっていうものを取り入れるきっかけになりましたね。
この合同キャンプで川上はドジャースが極めて重要な守りの戦法と位置づけていたある事に注目した。
日本のプロ野球では現在当たり前のように行われている。
バントをされてもランナーの進塁を食い止める戦法だ。
(実況)これはサード村田がカットしてセカンドフォースアウト!一塁もアウトダブルプレー!当時の日本のプロ野球ではバントに備えてピッチャーとサードはダッシュする。
ファーストは一塁ベースから離れない。
ボールを捕った野手は一塁に投げる。
バントはほとんど成功する。
ドジャースのバントシフトはこうだ。
ピッチャーサードに加えてファーストもダッシュしてくる。
一塁はセカンドが二塁はショートがカバーする。
外野手も一二塁のカバーに走る。
つまり全員が1つのボールに向かって動くチームプレーの基本がここに詰まっている。
ピッチャーサードファーストいずれが捕球するかはキャッチャーが指示を出す。
プロ野球に入って7年目巨人の正捕手として活躍していた森にとってもドジャースのバントシフトは目をみはるものだった。
だから一つでも事を怠ったら成立しないという事をやっぱりこうみんなが認識する。
キャンプでは監督川上はキャッチャー森とマンツーマンで毎晩のようにドジャースのチームプレーを研究した。
チームプレーの要はキャッチャーだと川上は気付いていた。
(川上)よしではノーアウト一二塁のケースを考えてみよう。
バントに備えバントシフトを敷く。
打球は三塁方向に転がった。
さあどうする?三塁手が捕球するんでしょう。
いや違うな。
打球の方向を見極めピッチャーが捕るか三塁が捕るか即座に指示するのがキャッチャーの役目だ。
捕手の項目の冒頭にこう書いてあったのを読んだか?捕手として絶対に必要な条件は?守備陣を指揮する能力。
そうだ。
「内外野と全ての選手とはキャッチャーの前に展開する。
これこそ守備を指揮する絶好のポジションである」。
いいか森。
チームプレーの要はキャッチャーである君なんだ。
はい!ドジャースとの合同キャンプは1か月近くに及んだ。
本の丸暗記から始まったドジャースの戦法はどこまで選手たちの身についたのか?川上監督1年目のシーズンが始まる。
川上は選手時代の背番号16で臨んだ。
1961年巨人は序盤投打のバランスが合わず苦しんだがオールスター前には首位に立つ。
8月に2位に後退するが9月連勝を重ね1ゲーム差で中日を振り切り辛くも優勝。
この年チーム打率2割2分7厘はリーグ最下位。
しかし総得点では1位。
少ないチャンスを確実に物にして勝ち取った栄冠だった。
はっきり言って優勝するにはなかなか難しい戦力だったと思いますよ。
バントシフトでことごとく成功を収めていったっていう記憶はありますよね。
チームプレーを徹底させるため川上は監督像も変えようとした。
南海との日本シリーズのさなかある出来事があった。
巨人の2勝1敗で迎えた第4戦。
その日は朝からどしゃ降りの雨だった。
試合は中止。
選手たちは練習も休みだと思った。
ところが川上は急きょ練習を命じた。
雨の中の練習はコーチも反対した。
選手が体調を崩す可能性さえあった。
しかし川上は強行した。
水浸しのグラウンドではバッティング練習しかできなかった。
ボールはすぐに水を吸い泥まみれになった。
後に川上はこの練習についてこう語っている。
しっかり打て!なぜここまで雨の特訓にこだわったのか?実は川上は選手としての全盛時代に初めてアメリカに渡りキャンプに参加していた。
その時の日記が川上家から見つかった。
この中に雨の特訓の答えがあった。
「監督はチームワークの中心だった。
監督がいない時はコーチをからかったりしていたが監督が現れた途端選手がピリッとしていつもとは違った。
実に監督の権限の強いのに驚いた」。
やっぱ監督というのは絶対なんだと。
こういう事もやらせられるというね。
それは監督以外は絶対そういう事はやらせられない訳ですから。
だからこれはチームというものは監督の意志で動くんだというところを徹底したところを選手にもメディアにもピシッとこうね何て言うんですかね理解させたといえますね。
就任1年目川上巨人は4勝2敗で日本シリーズを制した。
(実況)まず川上監督の胴上げ。
お聞きのように大歓声を上げましてダイヤモンドの上川上監督の胴上げが行われています。
しかし川上の監督としての道のりは平たんではなかった。
優勝の翌年は4位。
次の年は優勝。
その翌年には3位。
この間川上はそれまで生え抜き中心だったコーチングスタッフの改造に踏み切る。
守備作戦コーチとして中日出身の牧野茂を。
王の一本足打法を編み出す荒川博を大毎から入団させた。
異例の人事だった。
一方長く巨人を支えた別所毅彦は去った。
チーム内に不協和音が広がる。
3位にとどまった1964年のシーズンオフには連覇できない川上に批判が集まり責任問題まで取り沙汰された。
そんな中マスコミは「次期監督候補の広岡をチームプレーになじまないという理由で川上が放出しようとしている」と書き立てた。
川上はこの時辞任を考えるまで追い詰められた。
結局オーナーの決断で広岡はチームに残り川上も監督を続ける事になった。
監督になって5年目の1965年川上は背番号を77に変える。
選手時代からの16を捨てた。
決意の表れだった。
この年からV9が始まる。
もう野球…赤バットの川上…打撃の神様といわれた川上が率いるんじゃなくて指導者教育者監督として率いるんだと。
人間は立場で生きる。
その立場で生きるという思いを意識を強くして栄光の16を捨てて77にしたんだと思いますね。
この年巨人は6月中旬から首位を独走する。
(歓声)91勝を挙げ2位中日に13ゲームもの大差をつけて優勝した。
翌1966年89勝41敗。
貯金48で優勝。
V9時代で最高の勝率6割8分5厘。
しかしチーム打率は2割4分3厘。
リーグ3位にすぎなかった。
巨人が日本一3連覇を狙った1967年。
パ・リーグで優勝したのはBクラスの常連だった阪急ブレーブス。
巨人にとって初めて対戦する油断のできない相手だった。
阪急の西本監督の野球は強打者の打棒で勝負をつけるものだった。
(歓声)ホームラン王の長池元大リーガーのスペンサーなど強力打線を敷いて球団創設以来初優勝に導いた。
対する巨人は堅い守りで2年連続の日本一。
打ち勝つ野球と守り抜く野球の対決となった。
阪急はどんなチームでいかに戦うべき。
川上は南海のキャッチャー野村のところへ森を行かせた。
野村と森はオールスター戦で言葉を交わす程度の仲だった。
しかし森は自宅まで押しかけている。
改めて話って何や?阪急の情報を教えてくれないか?初めて対戦するんでな。
俺もパ・リーグの人間やからな。
いろいろ聞かれてもなあ…。
まあそう言わんで…。
少しだけなら…。
要注意なんはスペンサーや。
あいつはピッチャーの癖を見抜いて配球を読むのがうまい。
やはりスペンサーか…。
スペンサー。
セ・リーグの外国人選手から巨人の情報をいろいろ集めているようだ。
そういう事を遠慮容赦なしに情報収集に来るっていう。
まあ巨人のそうしたシリーズ始まるまでの準備っていうかね情報収集っていうのはすごいなと思いましたね。
長い事プロ野球にいますけどそんなの巨人以外に私聞かれた事ないですもんね。
水面下の情報戦を経て日本シリーズが始まった。
第1戦はスペンサーにホームランを打たれたものの…。
長嶋のタイムリーなど巨人が打ち勝って7対3で勝利した。
第2戦堀内の先発。
1回裏阪急の攻撃。
先頭ウインディにフォアボール。
続く阪本にヒットを許しノーアウト一二塁。
迎えるバッターはスペンサー。
ここで先取点を取られたらシリーズの流れが変わる。
いきなり大きな山場を迎えた。
森とスペンサーの読み合戦が始まる。
スペンサーは堀内が前の打者に投げたカーブが全て高めのボールとなっているのを見て…森はその裏をかき内角外角といずれもカーブを投げさせツーストライクを奪った。
ツーストライクノーボールの時巨人の戦法では1球外すのが定石だった。
対するスペンサー。
3球目はボールが来るという確信があった。
ツーストライクノーボールのカウントでヒットを打たれると罰金になるという巨人のルールを知っていたのだ。
森は裏をかき外角低めのストライクを要求。
外すと思っていたスペンサーは見逃す。
この日スペンサーは4打数ノーヒットに終わった。
巨人は森の犠牲フライで挙げた1点を守り1対0でこの試合を物にした。
最少得点を守り抜く。
川上巨人の真骨頂を発揮した試合だった。
シリーズは4勝2敗で巨人が制した。
締めくくりは金田。
西鉄ライオンズが達成した日本一3連覇と並んだ。
(歓声)このシリーズのMVPは森が選ばれる。
打率3割3分3厘の長嶋ではなく2割2分7厘の森が受賞したのだ。
「阪急との間に力の差はなかった。
ヤマは第2戦だった。
森の受賞は捕手の重要性を認識させる上で選考委員のホームランだった」。
日本シリーズでキャッチャーがMVPを受賞したのは森が初めての事だった。
バッティングを評価されたんじゃなくて守りを評価されたMVPっていうのでねあ〜時代も変わってきたなっていう。
頭脳的なファインプレーですから。
そういう…キャッチャーにスポットが…そういうところへスポットが当たるようになっていい時代になってきたなというのは感じましたね。
川上が進めるプロ野球の変革。
そこには川上を支え続けたもう一人の男の存在があった。
ここは東京ドームの廊下です。
今年がプロ野球80年という事で数多くの名選手が描かれています。
これは現役時代の川上さんですね。
ありました。
失礼します。
はあ〜。
ここが原巨人のミーティングルームです。
いや〜意外とシンプルなんですね。
球界に初めて本格的なミーティングを取り入れたのは川上でした。
川上はチーム作りの上でミーティングを最も重要な場と考えていました。
監督の考え方や方針を伝えて戦術の理解を進める。
ミーティングは戦術を徹底させる道場でした。
キャンプでもシーズン中も一日も欠かさずミーティングを行いました。
(川上)プロ野球の道は報恩感謝の道だ。
報恩感謝の気持ちが大事なんだ。
川上の話はいつも人生哲学や野球人としての生き方を語り5分から10分で終わる。
具体的な作戦の指示はこの男に任せていた。
では具体的な作戦は私の方から。
今日のピッチャー村山はなかなか攻略するのが難しい。
柴田。
はい。
(牧野)お前は三塁側へプッシュバントだ。
はい。
(牧野)黒江。
うっす。
(牧野)お前は一塁へバント。
はい。
(牧野)疲れさせるんだ。
1968年昭和43年4連覇を狙う巨人に立ちはだかったのはエース村山と江夏を擁する阪神タイガースだった。
(歓声)牧野茂。
川上が監督1年目シーズン途中に異例ともいえる形で入団させた中日出身のコーチだ。
「極秘」と書かれた「プロ野球コーチ法」。
ドジャースのアル・カンパニスが書き大リーグの試合に活用したものを参考に牧野がまとめたものだ。
ここには牧野コーチが独自に考えた「必敗法70か条」「必勝法70か条」が書き加えられている。
特にこれをやると必ず負けるという必敗法が特徴的である。
牧野は川上の始めたチームプレーを更に緻密に進化させていた。
牧野はミーティングで必敗法を徹底した。
「犠牲打が打てない」。
巨人の目指す野球に犠牲打は欠かせない作戦だ。
ランナーが二塁にいるとして3割バッターだとしてもヒットが出る確率は10回に3回だ。
この年巨人に入団したばかりの高田は外野手として好調なスタートを切っていた。
(歓声)6月8日広島との試合でセカンドの土井とライトの高田の間に上がったフライが…。
ポテンヒットになった。
高田は土井が捕ると思い走って追わなかった。
高田読んで説明してみろ。
「外野手が内野手の守備範囲を超えかけたフライを走って追わない」。
ちょうど内野手と外野手の間に飛んだフライは声をかけながら前進する外野手が捕る方がよいと思います。
(牧野)そうだ。
高田はこのプレーによってすぐに交代させられ試合の直後二軍行きを命じられた。
川上と牧野は必敗法を厳格に適用したのだ。
この年1968年巨人は阪神を振り切り77勝53敗でリーグ優勝。
(拍手と歓声)阪急との日本シリーズにも4勝2敗で勝ち4連覇を達成した。
(拍手と歓声)
(実況)セカンドへ。
おっとウイニングボールは王がつかんでジャイアンツ10回目の優勝決定!西鉄ライオンズの日本一3連覇を抜く新記録となった。
4連覇の1968年から7連覇の1971年は王長嶋が打撃部門の三冠を独占した。
そして参謀牧野は三塁コーチスボックスでサインを出し続ける。
川上はONの打棒だけに頼る事なく全員が一丸となってチームプレーで勝利する事を目指した。
(拍手と歓声)こうした中面白くない野球という批判が噴き出す。
「見せ場のない川上野球に暗雲」。
例えばこんな試合がファンには理解されなかった。
対阪神戦0対0で迎えた9回表ノーアウト一二塁。
バッター長嶋ピッチャーは村山。
川上は4番長嶋にバントのサインを出した。
ファンは緊迫した場面での長嶋と村山の対決を楽しみにしていた。
本当にファンっていうのは今日は巨人戦があったと。
「長嶋打った?」って言って「じゃあ王は打ったの?」最後に「巨人は勝ったの?」って事ですから本当言うと勝敗って最後でいい訳ですね。
これをとにかくチームプレーでありとにかく勝利を至上主義という言い方する訳ですからやはりファンからしてみれば物足りないっていうか理解に苦しむ非情だと言われてもしかたないですよね。
川上はファンの気持ちを図りかねていた。
(川上)俺はこうして命を削っているのに面白くないと言われる。
(川上)ファンが望むのは勝つ事ではないのか?川上野球を支え続けていた牧野はこうした面白くない野球という批判に対して真っ向から反論した。
「脇目も振らず一途に勝つ野球に徹してきた。
つまらなくしたと言われようと言われまいと川上という監督がいて監督を中心にコーチも選手も一丸となって勝つ野球を追求してきた。
何と言っても勝たなければ面白くないのだ。
勝つから面白いのでありうれしいのであり更に憎いのであり口惜しいのである」。
巨人は勝ち続ける。
(拍手と歓声)
(拍手と歓声)巨人の強さの秘密はどこにあったのか。
阪急のエースとして通算284勝を挙げた…しかし川上巨人と2度の日本シリーズを戦い一度も勝てなかった。
(山田)いや〜やっぱり川上さんは西本さんもそうでしたけどもこの両監督は存在感ありましたよ。
西本さんは川上さんに対するライバル意識はかなり強かったと思います。
勝ちたい負けたくないという気持ちがね私らの方にもビンビン伝わってくるような感じではありました。
1972年セ・リーグを制した巨人が8連覇を懸けて日本シリーズを戦う相手は西本監督率いる阪急ブレーブス。
これが5度目の対決だった。
失礼します。
山田さんに是非見てもらいたい資料があった。
こちらになります。
ええ〜?「極秘」…。
牧野コーチのノートだ。
1972年の日本シリーズのために立てた作戦とその戦いぶりが記されていた。
(山田)「日本シリーズ」。
牧野のノートは遺族が野球殿堂博物館に寄贈したがこれまで一般には公開されていない。
「阪急の特徴」。
へえ〜。
このノートには阪急の戦術からピッチャー山田や盗塁王福本の特徴や対策西本監督が出すサインまで書かれている。
テイクは待ての意味。
福本などへの盗塁のタイミングの指示だ。
牧野はサインを読んでキャッチャー森に伝えたのである。
まあ〜よくぞここまで。
丸裸にされてるね。
阪急は。
これじゃあ勝てないよ。
何何?山田対策が記されたページだ。
第1戦山田と対戦し勝利したあとのミーティングで全選手に感想を言わせている。
「柴田シュートが90%。
スピードがなかった。
長嶋スピードなし。
攻め一緒。
近めはボール。
アウトコースはスライダー」。
ミーティングっていうのは恐らく通常のミーティングであれば監督コーチから選手に伝達するっていうミーティングがほとんどだと思うんですよね。
これを見てたらまずは選手に一人一人に言わせてるっていう。
「今日の山田はどうだった?」っていう。
この…今これを見たらジャイアンツ勝ってるんですよね。
勝ってる時にミーティングっていうのはそんなやらないですよね。
勝っててですよ一人一人に「どうだった?」と。
じゃあ明日どうやって戦うんだっていうやってるっていう事自体にやっぱり驚きですね。
巨人が最も警戒していたのは福本の足。
この年世界記録のシーズン106盗塁を決めた。
牧野は福本対策に特別の作戦を考えていた。
作戦A。
福本が二塁に進み右の強打者長池が打席に立った時セカンド土井は二塁ベースに入り福本をくぎづけにする。
一二塁間は空くが長池はレフト方向にしか打ってこないと読んでの作戦だ。
長池さんはライトの方へのヒットはないと。
でちゃんと分析してるんですね。
だからセカンドがばっと入ったら福本さんが戻る。
仮にそれでレフト前ヒット打たれてもセンター前ヒット打たれてもそこからホームに来るのは無理だっていう。
だから一塁三塁で済むっていうそういう作戦でしょ。
なかなかこれはやりません。
当時はまずなかったと思います。
牧野が周到に準備した阪急との日本シリーズが始まった。
後楽園球場で行われた第1戦第2戦は下位打線が活躍し巨人が連勝した。
第3戦巨人はエース堀内を立てる。
しかし阪急打線が爆発して3対5で巨人は敗れる。
巨人の2勝1敗で迎えたシリーズ第4戦。
選手たちが今も決して忘れられない場面があった。
巨人が3対1とリードした9回裏阪急の攻撃の時である。
ノーアウト一二塁。
このピンチでピッチャー交代。
(場内アナウンス)「ピッチャー関本に代わりまして堀内」。
堀内と内野手当時のメンバーは40年以上前のこのシーンを鮮明に覚えている。
堀内のピッチング練習が終わると作戦会議が始まった。
森が口火を切る。
守備の要セカンド土井とショート黒江の考えは同じ。
「打ってくる」だった。
全員の意見は一致した。
では二塁ランナーを生還させないためにどうするか。
ショート黒江は二塁ランナーに大きなリードを取らせないようにする。
牧野はひと言も口を挟む事なく「お前たちに任せた」と言ってベンチに戻った。
選手たちは打たせて取る作戦でいく事にした。
川上も同じ考えだった。
バッター8番岡田はバントの構え。
堀内第1球。
ヒッティング!ショートライナーでゲッツー!もう一度見てみよう。
堀内のボールはインコース高め。
打球はライナー。
黒江がジャンプして捕り迷う事なくセカンド土井へ。
見事にダブルプレー。
ああいう大事な場面でね…このあと阪急の攻撃を抑えて3対1で巨人がシリーズ王手をかけた。
あのプレーを見た瞬間に川上さんはほくそ笑んだと思いますよ。
そして第5戦。
(歓声)王長嶋のアベックホームランなど巨人打線が爆発して勝ち4勝1敗で8連覇。
明くる年は監督兼任の野村が率いる南海と対戦。
4勝1敗で9連覇を達成する。
川上は9連覇を達成した翌1974年昭和49年も10連覇を目指します。
しかし中日ドラゴンズの前に惜しくも優勝を逃しました。
この年川上は監督を退任。
参謀として川上を支えた牧野コーチも退団。
川上の右腕と呼ばれたキャッチャーの森主砲の長嶋も引退します。
しかし川上野球はその後も引き継がれていきます。
キャッチャーの森晶はその後西武ライオンズで指揮を執る。
日本シリーズで巨人を2度倒している。
西武の黄金時代を築き上げ8回のリーグ優勝と6回の日本一。
川上から受け継いだものとは何だったのか。
監督とコーチというスタッフの確立ですよね。
まあ以前に比べたら全く変わってきた。
(森)やっぱりその先駆者だと思うんだな。
王貞治も川上野球を受け継ぎ巨人ダイエーホークスで監督を務めた。
巨人でリーグ優勝1回ダイエーではリーグ優勝3回日本一2回。
川上さんと同じ事はできなかったけれどやっぱりそういう方向性はかなり同じ方向へ向かってたと思いますよね。
南海時代に日本シリーズで川上巨人と4回対戦した野村克也は監督としての川上を目標としてきた。
南海でリーグ優勝1回その後当時Bクラスだったヤクルトの監督を引き受けリーグ優勝4回日本一に3度輝いた。
一番感じるのは…これを地でいった人だと思うんですよ。
やっぱりチームを強くするのにみんなどのチームも選手…いい選手を集めたりね補強だの何だのっていうそういう方向に頼ってますけどやっぱり川上さんはちょっとその辺が違うと思うんだよ。
選手時代アメリカの力に圧倒され大リーグの野球理論を取り入れていった川上。
監督生活の最後が大リーグとの対戦だった。
前年のワールドチャンピオンニューヨーク・メッツとの試合。
自ら一塁コーチスボックスに立ち最後の雄姿を見せた。
現役最後となった長嶋も活躍し巨人は7対4でアメリカに勝利。
この日米野球で…次期監督の長嶋が川上に花束を手渡した。
この試合後川上の監督退任記者会見が行われた。
大変長い間皆さんからいろいろご支援頂きまして本当に37年の間ありがとうございました。
日本の野球も大きくそしてよくなりました。
社会からも認めて頂けるようになった。
また強くなりました。
私は現役の時大リーグと対戦して手も足も出なかった。
あのころを思えば感無量であります。
全員で戦う野球を追求した男川上哲治。
川上の監督退任から40年。
プロ野球の変革のために注がれたその情熱は今も多くの心に刻み込まれている。
2014/12/31(水) 09:00〜10:00
NHK総合1・神戸
プロ野球80年特集「プロ野球を変革した男 V9巨人・川上哲治監督」[字]

今年はプロ野球80年。日本のプロ野球を変革し今日の礎を築いたと言われる川上哲治の軌跡を追う。何を変革したか。なぜV9まで巨人は勝てたのか。そして何を残したか。

詳細情報
番組内容
ベーブ・ルースら大リーグ選抜チームが来日した1934年に始まる日本のプロ野球。大リーグを超えたいと日本の野球を変え、組織で戦う野球を確立した巨人・川上哲治監督の軌跡をたどる。個々の選手の力量に頼ることなく勝てる野球を求めての格闘。1960年秋に監督に就任した川上は当時のプロ野球になかった戦法をアメリカ大リーグ・ドジャースから貪欲に吸収していく。未公開資料やV9戦士たちの証言をもとに川上の変革を描く
出演者
【出演】永島敏行,【司会】杉本哲太,【語り】堀越将伸

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – スポーツ
スポーツ – 野球
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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