戦後69年の今年激動の昭和史を象徴する2人が世を去りました。
30年もの間フィリピンの密林に潜んで任務を続けました。
日本人でありながら戦前には中国人李香蘭として一世を風靡した映画スターでした。
戦争によって人生を翻弄された2人からのメッセージです。
山口淑子さんは大正9年中国の東北部旧満州で日本人の家庭に生まれました。
幼い頃から父親に中国語を教わり炭鉱の町撫順で育ちます。
昭和6年満州事変が勃発し翌年満州国が誕生。
山口さんも日本と中国の対立の渦に巻き込まれていきます。
このころ抗日ゲリラが撫順炭鉱を襲撃。
ゲリラに協力したとして多くの住民が日本軍によって殺害されました。
悲惨な光景がまだ幼かった山口さんの目に焼き付きました。
(山口)「苦しい」。
叫んでるんですよね。
中国人と親しかった父親は協力者として疑われ一家は逃れるように奉天に移住しました。
ここで山口さんは父親の親友だった中国人から李香蘭という名前をもらいます。
中国語に堪能だった山口さんはラジオ局の目に留まり日満親善を象徴する歌手李香蘭としてデビューします。
13歳の時でした。
昭和12年日中戦争が勃発。
その直後に国策会社満州映画協会が設立されます。
山口さんは李香蘭の名前のまま看板女優になります。
エキゾチックな容姿と可憐な歌声で瞬く間にスターの座に上ります。
満州の親善使節として意気揚々と訪れた初めての祖国日本。
しかし入国の時にひどい仕打ちを受けます。
中国人を蔑視する日本人。
山口さんは2つの国の対立の根深さを痛感したのです。
・「支那の夜」李香蘭が長谷川一夫と共演した「支那の夜」。
戦争で親を殺された中国人の娘が日本の青年の優しさに触れて心引かれていくという物語です。
「蘇州夜曲」や「支那の夜」など主題歌も日本でヒットしました。
桂蘭!
(殴る音)殴られた娘が青年の思いやりに気付くという演出は後に中国人を侮辱するものとして問題になります。
桂蘭を許して!李香蘭主演の映画はその後もヒット。
しかし日本人に都合のいい中国女性を演じる事に次第に疑問を感じるようになります。
昭和18年中国映画の中心地上海で李香蘭主演の映画が製作されます。
この地を占領していた日本軍の意向を反映したものでした。
アヘン戦争の時イギリスに立ち向かった英雄林則徐を描く歴史大作です。
中国各地で上映され満州や日本に限られていた李香蘭の人気は中国の人々の間にも広がっていきました。
憧れのスターとして記者会見が求められます。
しかし今日本人だと明かしたらかえって中国の人の誇りを傷つけると説得され口を閉ざしました。
昭和19年日本軍は各地で敗退を続けていました。
山口さんが拠点を移した上海も空襲を受けるようになり映画の製作は中止。
山口さんも命の危険にさらされます。
そのころ小野田寛郎さんは特殊な任務を帯びて激戦の続くフィリピンに派遣されました。
小野田さんは大正11年和歌山県で生まれました。
父は県会議員母は元教師。
厳格な両親に反発して育ちます。
旧制中学を卒業すると家を飛び出し貿易会社に就職。
17歳で中国に赴任します。
この時覚えた中国語が後の運命を左右する事になります。
昭和17年二十歳になった小野田さんは陸軍に入隊。
中国で戦場を体験しました。
昭和19年小野田さんは運命の岐路に立ちます。
中国語に堪能だった事などから陸軍中野学校に入学させられゲリラ戦の指揮官として教育を受けます。
12月末フィリピンのルバング島に派遣されます。
命令は「島にいる守備隊を指導しゲリラ戦を展開せよ。
玉砕は一切まかりならぬ」。
2か月後アメリカ軍が島に上陸し守備隊は壊滅。
生き残りの兵士と共に山に立て籠もります。
昭和20年8月15日終戦。
しかし山口さんと小野田さん2人の戦争は終わりませんでした。
李香蘭は祖国中国を裏切った売国奴として上海で裁判にかけられます。
皮肉にも日本人である事を証明しなければならなくなったのです。
判決は無罪。
しかし裁判官はこう付け加えました。
「倫理上道義上の問題が残っている」。
山口さんはこの言葉を生涯背負い続ける事になります。
ルバング島では小野田さんが戦い続けていました。
日本兵が次々と投降していく中小野田さんそして行動を共にしていた2人は敗戦を信じずゲリラ戦を続けます。
居所を隠すために武器や食糧などおよそ20キロを担いでジャングルの中を転々としました。
昭和29年行動を共にしていた島田さんがフィリピン軍との銃撃戦で死亡。
その5年後には小野田さんと小塚さんはレーダー基地を襲撃しました。
事件の度に日本では救出を求める声が湧き起こります。
しかし捜索隊が派遣されても小野田さんは敵の謀略と考え姿を現しませんでした。
「降伏せよ」という正式な命令がない上本土が占領されても中国大陸を拠点に戦争を続けるという軍の戦略を信じていたからです。
昭和47年フィリピン軍との戦闘で小塚さんが死亡。
小野田さんはついに一人になります。
3度目の大規模な捜索が行われましたが小野田さんは姿を見せませんでした。
小野田さ〜ん!我々の声が聞こえましたら返事をして下さ〜い!昭和49年2月冒険好きの一人の青年がジャングルの中で小野田さんと出会い事態は急転します。
う〜ん…。
それまではちょっとよく聞いてないんですがね。
あっお母さん敏郎です。
あのね今僕も見てますけどね間違いなく寛郎です。
3月9日かつての上官から任務解除の命令が伝えられ小野田さんはついにジャングルを出ます。
万歳!30年ぶりに帰国した小野田さん。
この時51歳になっていました。
(タマヱ)寛郎よう生きて帰ってくれました。
長い間ご苦労でございました。
えらかっただろう。
まこと日米関係っていったらうんと…。
一躍時の人となった小野田さん。
しかし戦後日本の生活になじむ事ができず1年足らずでブラジルへの移住を決意します。
小野田さんはしゃく熱の原野を切り開いて牧場経営に乗り出します。
およそ10年寝る間も惜しんで働き1,800頭の牛を飼育するまでになりました。
戦争の体験はその後の2人の人生にも大きな影響を与えました。
山口さんは後にジャーナリストとしてベトナムや中東の戦場に身を投じ傷つき悲しむ人々の姿を伝えました。
李香蘭として戦争に加担してしまった時代を償いたい。
その気持ちが山口さんを突き動かしたのです。
無事生還させてくれた祖国に恩返しをしたい。
牧場経営が軌道に乗ると小野田さんは再び日本に目を向けます。
子どもたちに生きる力をつけてほしいと昭和59年から自然塾を始めました。
延べ2万人以上が自然の中での共同生活を体験しました。
生まれ育ったふるさと中国と祖国日本。
愛する国同士の戦いに巻き込まれ数奇な人生を歩んだ山口さん。
兵士として任務遂行に徹した半生。
そして自由を得て後自らの経験を子どもたちに伝え続けた小野田さん。
時代の荒波を乗り越えてどう生きるのか。
現代の私たちに問いかける2人からのメッセージです。
2014/12/29(月) 07:20〜07:45
NHK総合1・神戸
耳をすませば 第1回 時代の荒波を乗り越えて「山口淑子(李香蘭)・小野田寛郎」[字]
今年惜しまれつつ亡くなった女優・政治家の山口淑子さん(李香蘭)と元陸軍少尉・小野田寛郎さんが残していった言葉をたどり、時代の荒波を乗り越えていった人生を振り返る
詳細情報
番組内容
今年惜しまれつつ亡くなっていった、時代を象徴する著名人の言葉に耳を傾ける3回シリーズ。1回目は戦前、女優李香蘭として一世をふうびした山口淑子さんと、命令なき帰還を拒みフィリピンで戦い続けた元陸軍少尉小野田寛郎さんの2人。戦争という時代の荒波に翻弄されながらも生き抜いた2人が残していったメッセージを聞く。
出演者
【出演】女優・政治家…山口淑子,元陸軍少尉…小野田寛郎,【語り】加賀美幸子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
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