天才 ボビー・フィッシャーの闘い 国家に翻弄された伝説のチェスプレーヤー 2014.12.27


アメリカとソビエトが繰り広げた熾烈な冷戦。
そして冷戦崩壊後より混迷を深める事になった国際情勢。
その中で時代に翻弄されながらもたった一人で生き抜いた天才がいた。
チェスの魅力に取りつかれた…ボビーが国家間の争いに巻き込まれる事になったのは冷戦のさなか当時のチェス帝国ソビエトに挑んだ事が始まりだった。
米ソが戦後初めて激突した…ニクソンとブレジネフ政権中枢が見守る中それはチェス盤上の米ソ冷戦と化した。
53日間の死闘の末ボビーはソビエトの王者を大差で粉砕。
世界チャンピオンとして凱旋し「アメリカの英雄」とたたえられる事になる。
ところが冷戦崩壊後ボビーの運命は激変する。
国家の英雄から反逆者へ。
更に「アメリカの敵」と呼ばれる存在へ。
これは冷戦とその崩壊後の混迷の時代国家に翻弄され続けた天才チェスプレーヤーの64年にわたる激動の人生の物語である。
アメリカニューヨーク。
世紀の天才を生んだ小さなチェスクラブがここにある。
少年時代のボビー・フィッシャーが入り浸った…今もボビーをしのぐプレーヤーを目指そうと子供たちが集まってくる。
ここに貧しい少年時代を語る史料が眠っていた。
「1943年3月9日。
僕はシカゴで生まれた。
5歳の頃覚えている事といえば姉ジョーンが面倒を見てくれていたという事。
母はとても忙しかった。
僕らは初めトレーラーハウスに住んでいた」。
(チャイム)Hello.フランク・ブレイディーは当時のボビー一家の暮らしぶりを知る数少ない一人だ。
そんなボビーの人生を大きく変える出来事が起きる。
「僕が6歳の頃近所の駄菓子屋で姉さんがたまたま買ってくれたゲームがチェスだった。
僕は手引書だけを頼りに駒の動かし方を覚えていった」。
「母さんは忙しすぎて本気でチェスの相手にはなってくれなかった。
破れた服を繕いながら相手をしたりするから僕は嫌だった。
だから僕はチェス盤を何度もクルリと回して一人でゲームをやる事になった。
そのうち僕は僕自身をチェックメイトするようになっていったんだ」。
ボビーにとってチェスは純粋でフェアーなゲームだった。
生まれも育ちも関係なく実力だけが勝敗を左右する。
一つ一つの駒の動きもそれほど複雑ではない。
先頭のポーンは1歩ずつ進む。
両端のルークは前後左右に自由に移動。
ビショップは斜め方向を動く。
馬の形をしたナイトは斜めにユニークな動きをする事が特徴だ。
そしてクイーンはボビーお気に入りの最強の駒。
四方八方を自由に飛び回る。
ボビーは一見単純なこのチェスに自分の生きるべき世界を発見する事になる。
マーシャルチェスクラブの常連となったボビー。
その天才が炸裂する瞬間は突然やって来た。
当初元全米チャンピオンの勝利を疑う者は誰もいなかった。
僅か13歳の少年の駒の動きに人々は驚嘆する事になる。
18手目。
黒の駒のボビーは窮地に立たされていた。
このままでは最強の駒クイーンが取られてしまう。
ところがボビーはこのクイーンを放置した。
代わりに勝負に無関係だと思われたビショップを動かしたのだ。
その後クイーンはバーンの餌食になった。
人々はボビーの負けを確信した。
この時ボビーには実は誰も知らない未来が見えていた。
チェスの局面には無限とも言える展開のパターンが存在する。
単純計算すれば一手先の未来には10種類以上の異なる局面が存在し一手ごとに可能な局面のパターンは10倍ずつ増えていく。
ボビーはこの時はるか先の未来にある実に10兆を超える可能な局面の中からベストのものを見つけ出した。
そしてそれにつながる手を放つ。
19手目。
ボビーはバーンのキングをチェックする。
バーンは逃げるしかない。
そこをすかさずナイトでチェック。
バーンのキングは同じ所を行き来するしかなくなった。
元全米チャンピオンのキングは13歳の少年の虜となった。
天才チェス少年として知られるようになったボビー。
ところがそのすぐそばに人知れず暗い影が付きまとっていた。
時は冷戦の真っただ中。
ソビエトは世界初の人工衛星スプートニク打ち上げに成功。
アメリカは大陸間弾道ミサイルの開発を模索していた。
米ソは軍事・外交・経済のあらゆる面で熾烈な闘いを繰り広げていた。
この冷戦の渦の中にボビーは巻き込まれていったのである。
これは1950年代のFBIの極秘資料。
この中にボビー一家特に母親のレジーナに関する資料が大量に含まれていた。
「注意すべきはこの捜査対象者が高等教育を受けたインテリ女性で世界各国への渡航経験を持ち共産主義者と何年も交流がある事である。
捜査を徹底し活動内容を特定しなければならない。
この女性はスパイ容疑者である」。
レジーナはスイス生まれのユダヤ人。
6か国語が堪能だった。
モスクワ医科大学の学生となったレジーナはその後パリを経てアメリカへと移住。
ボビーが生まれたのはその直後だった。
レジーナとボビーはその後更にFBIに付け狙われるようになる。
レジーナがソビエト大使館に「チェスの勉強のためボビーをモスクワに招待してほしい」と頻繁に電話をするようになったのだ。
このFBIの捜査記録が遠い将来自分と母国アメリカとの関係を複雑なものにしていく事を当時のボビーは知るよしもなかった。
1958年15歳になっていたボビーは喜びの中にいた。
レジーナの願いを聞き入れソビエト政府がボビーをモスクワへ招待したのだ。
この時既に全米チャンピオンにまで上り詰めていたボビーに対しソビエトは国賓が泊まる高級ホテルと専用車を用意した。
だがこの歓待の裏にはソビエトの国家としての思惑が隠されていた。
「知性の試金石」と呼ばれるチェスはソビエトにとって戦略兵器だった。
将来有望な選手たちには政府から手厚い経済援助が与えられた。
その結果戦後歴代のチェス世界チャンピオンは全てソビエト人という時代が長く続いていた。
ボビーの実力を試そうと考えたソビエトはモスクワで学生プレーヤーたちとの対局を複数セットした。
一方ボビーが望むトッププレーヤーとの戦いはほとんどさせなかった。
学生たちとの対局で知らず知らずのうちに自分の手の内をさらす結果となったボビー。
純粋でフェアーなはずのチェス。
そこに強さだけでは決して勝ち負けが決まらない国家戦略としてのチェスが少しずつ姿を現した。
時は移り1960年代初頭。
米ソの緊張は頂点に達していた。
ソビエトはアメリカの喉元に位置するキューバに核ミサイルの配備を決定。
このキューバ危機で世界は一時核戦争寸前にまで追いやられた。
チェスの世界でも米ソの対立が激しさを増した。
世界タイトルへの挑戦者決定戦。
ここで18歳のボビーがソビエトの脅威となり始めたのである。
地区予選を勝ち抜いてきた世界のトップ8人。
この中の優勝者一人がその後世界チャンピオンと戦う事を許される。
挑戦者決定戦は8人が総当たりでそれぞれと4局ずつ。
つまり1人あたり28局を戦う熾烈な消耗戦である。
ボビーはここで予想もしなかったソビエト側の謀略に苦しめられる事になった。
ソビエト側の数々の不正を前にボビーは4位に甘んじる事になった。
強い者が勝利を収める純粋でフェアーなはずのチェスの世界。
そこで横行する不正にボビーは身も心も傷ついた。
その後およそ8年間にわたりボビーは世界タイトルへとつながる国際試合に一切姿を現さなくなった。
その後の8年間の多くの部分が謎に包まれている。
ただひたすらチェスの世界に一人没頭していたという。
更にボビーは過去のあらゆるチェス戦を改めて振り返りこれまで誰も考えた事もないような革新的なチェスの姿をたった一人で創造しようとしていた。
この謎の8年間がその後のボビーを支える原動力となる。
1971年再び挑戦者決定戦へと舞い戻ったボビー。
ここでチェス史上かつてない奇跡を成し遂げる事になった。
最大の山場はソビエトのタイマノフとの戦い。
ピアニストとしても名をはせていた元ソビエトチャンピオンである。
有利な先手白の駒はタイマノフだった。
序盤白のタイマノフは先手の有利を生かし攻撃的にボビーの陣営に迫っていく。
だが36手目。
タイマノフは僅かなミスを犯した。
本来ならばキングの護衛につけるべきナイトを全く別の方向へ動かした。
次の一手。
ボビーはすかさずタイマノフのキングをチェックする。
ポーンを盾にしてキングを守るタイマノフに対しボビーは攻撃の手を緩めなかった。
第1局に続き第2局でもボビーが勝利を収めた。
続く第3局はタイマノフが有利な先手だった。
序盤から激しい駒の奪い合いになった。
19手目。
ボビーは自らのキングを移動させた。
そこは逃げ場が少ない盤の隅。
タイマノフはチャンスと捉えた。
ここでタイマノフは決定的な一手を見つけるべく長考に入った。
その時間実に72分。
だがどんな手を打ったとしてもボビーのキングを追い詰める方法が存在しない。
72分の長考の末タイマノフの放った手は素人目にも分かるほど悪いものだった。
ボビーの陣営からタイマノフの駒がほとんど姿を消しボビーの攻撃力が増した。
第3局にも勝利したボビー。
その快進撃は止まらなかった。
第4局第5局なんと第6局も連勝。
6−0の完封で下したのである。
挑戦者決定戦での完封勝ちはチェス史上初めての事だった。
その後タイマノフの人生に起きた事はソビエトにとってチェスとは何なのかを物語るものだった。
こうしてボビーは世界チャンピオンへの挑戦権を獲得した。
このころ自分の実力を聞かれたボビーはこう答えたという。
空前絶後の実力で挑戦者決定戦での優勝を決めたボビーにもう一つの国家が接近し始める事になる。
それまでチェスに戦略的価値を見いだしてこなかったほかならぬアメリカだった。
あらゆる分野でソビエトと冷戦を繰り広げる中ボビーが新たな戦略兵器になるとニクソン政権は直感した。
ニクソンはボビーへ手紙を書いた。
「チェス戦でのすばらしい勝利おめでとう。
私は来年世界チャンピオンへと挑む事になったあなたをアメリカ国民と共に応援しています」。
ソビエトも動き始めた。
世界に君臨するソビエトの絶対的王者ボリス・スパスキー。
ブレジネフ政権は1年後に迫ったアメリカとの激突を前に国家を挙げてスパスキーに特別な訓練を施すよう決議した。
世界王座決定戦の舞台に選ばれたのはワシントンとモスクワの中間地点に位置するアイスランドの首都…ここでもう一つの米ソ冷戦が始まろうとしていた。
1972年6月。
世界チャンピオンのスパスキーはトレーナーや心理学者医師など巨大な一団を引き連れてレイキャビクに乗り込んだ。
一方の挑戦者ボビー・フィッシャー。
姿を現さなかった。
そのころボビーはそれまで感じた事のなかった恐怖にさいなまれていた。
一勝もした事がない相手スパスキー。
勝てるのか?勝てないのか?アイスランドのソビエトチームは「フィッシャーが来ないなら対戦は中止。
勝者はスパスキーだ」と訴えた。
その時ボビーのもとに一本の電話がかかった。
一体どうやってこの場所を知ったのか?相手はニクソン政権の安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーだった。
「世界一チェスの上手な方ですね?私は世界一チェスの下手な人間です。
アメリカ合衆国政府は君の活躍を願っています」。
かつてFBIに付け狙われアメリカ政府を嫌っていたボビー。
しかし国家の重要人物の言葉にボビーは子供のように喜んだ。
この翌日ボビーはアイスランドへ飛んだ。
7月4日。
セコンドや支援者を伴わず単身タラップを駆け下りたボビーは迎えの車に一人身を滑り込ませた。
アイスランドは当時アメリカと国防協定を締結していて米軍基地も置かれていた。
人口30万のこの島国は冷戦下の重要な戦略拠点だった。
その一方で漁業木材などの貿易やエネルギーなどではソビエトと緊密な関係があった。
ソビエトの影響でアイスランドが共産化するのではないかと恐れていた人々は一人ソビエトに立ち向かう若きアメリカ人を熱狂的に迎えた。
全24局2か月にわたって戦われる世界戦の初日。
第1局がスパスキーの先手でスタートした。
その一手はありえないミスだった。
ボビーのビショップは餌食になるしかない。
第1局はあっさり勝負が決まった。
ボビーの精神は早くも破壊されたといううわさが駆け巡った。
第2局は更に異常な事態が展開した。
ボビーが現れなかったのである。
時計が動きだして1時間が経過すればスパスキーの不戦勝になる。
ホテルの部屋に籠もっていたボビーは荒れていた。
緊張と恐怖にさいなまれたボビーの感情は手もつけられないほどの怒りとなってあらゆる人々に向けられた。
スパスキーが席に着いてから1時間。
審判が対局時計を止めた。
第2局スパスキーは戦わずして勝利を収めた。
その夜不戦敗を告げられたボビーは更に荒れた。
帰国すると言いだしチケットの手配を始めた。
その時ボビーにまたあの男から電話がかかった。
第3局はボビーの要求にスパスキーが譲歩し撮影クルーも観客もいないステージ裏の密室で行われる事になった。
だが第3局が密室で行われる事をソビエト側はスパスキーを除いて誰一人了承していなかった。
実はチャンピオンのこの譲歩がその後の対戦の行方を大きく左右する事になる。
第3局でボビーは不利な後攻め黒の駒。
その11手目。
またしても大きなミスだと人々は思った。
11手目でボビーはナイトを前に進ませた。
そしてそのナイトはスパスキーにあっさりと取られたのである。
だがその直後スパスキーは30分もの長考に入る事になった。
ミスと思われた11手目がボビーの仕掛けた恐るべき罠だった事に気付いたのだ。
密室で始まった第3局はボビーが初めてスパスキーを下した一局となった。
試合開始から1か月半が過ぎ去った。
ここで突然ソビエトの代表団が驚くべき要求を実行委員会へ突きつける事になる。
警察は科学者と照明技師を伴ってやって来た。
ステージの照明も調べられた。
20局を終えた段階でボビーの6勝3敗11引き分け。
そして迎えた21局目。
封じ手となり2日目に持ち越された翌日スパスキーが負けを認めた。
これで残り3局の全てをスパスキーが勝ったとしてもボビーには追いつけない。
チェス世界チャンピオンボビー・フィッシャーが誕生した瞬間だった。
帰国後激しく糾弾されたスパスキーはその後ソビエトを捨てフランスへと移り住む事になる。
ボビーのアメリカ凱旋は華々しかった。
ニューヨークの市庁舎前は人々でごった返した。
ボビーのもとに祝電や手紙が殺到した。
だがボビーが最も期待していたホワイトハウスからの招待はなかった。
なぜホワイトハウスに招かれなかったのか。
かつてのボビーに関わるFBIの資料が問題となったのではないかと言われている。
これ以降ボビーの性格はより攻撃的になったという。
そして4年後の世界王座の防衛戦までをも棄権。
ボビーは再び姿を消した。
謎に包まれた生活がまた始まった。
分かっているのはカリフォルニア州パサデナの地下の一室で身を潜めるように暮らしていた事。
オレンジとニンジンジュースそして母レジーナが送ってくれるチェスの本に囲まれ一人チェス盤に向かう日々を送っていたという。
時代が大きく動き始めていた。
1986年あのレイキャビクでレーガンとゴルバチョフが会談。
冷戦は終わりを告げた。
後にボビーはこう語っている。
「1972年の世界戦で僕が勝つまではアメリカはフットボールとベースボールの国だった。
知性の国というイメージはなかった。
だが僕はたった一人でそのイメージを覆したんだ。
でも僕は利用されていた。
冷戦が終わった今僕はもう用無しだ」。
ロサンゼルスの安アパートに不思議な手紙が届いたのはそんなやさきだった。
「掃除機は要りませんか?興味を引いたなら続きを読んで下さい。
どうしてあなたはチェスで戦わなくなったのですか?」。
それはハンガリーの18歳のチェスプレーヤーツィタ・ライチャニーからの手紙だった。
興味を持ったボビーはハンガリーに電話をかけた。
電話を取ったのはツィタの父ペーテルだった。
再びチェスで戦ってほしいと言うツィタにボビーはこんな事を語ったという。
驚いた事に僅か18歳のツィタはその後スパスキーを説得。
更にボビーが出した条件をそのままのむ対戦場所を見つけ出した。
ユーゴスラビアだった。
当時ユーゴスラビアは冷戦崩壊による国際情勢の変化で激動のさなかにあった。
(爆発音)それまで抑え込まれていた民族対立が激化。
一連のユーゴスラビア紛争に突入していた。
クロアチアの旗に描かれたチェス盤の模様。
実はチェスはユーゴの人々にとって民族融和の象徴だった。
1992年。
大歓迎の中ボビーはチェス戦のためユーゴスラビアに降り立った。
フランス国籍を取っていたスパスキーもパリからやって来た。
しかし対戦の直前アメリカ政府から一通の文書が届いた。
当時民族紛争が激化するユーゴスラビアに対しアメリカは経済制裁を発動していた。
文書は「ユーゴでのチェス戦は経済活動にあたるため中止を要求する」という命令書だった。
ボビーは対戦が始まる前夜会見を開いた。
アメリカの命令書について質問が出た。
(つばを吐く音)
(拍手)
(拍手)対戦会場には伝説のチェスチャンピオンの姿を一目見ようと大勢の観客が詰めかけた。
ユーゴの人々はボビーの純粋で美しいチェスに酔いしれた。
そしてこう語られるようになる。
1か月半に及んだチェス戦の結果はボビーの10勝5敗15引き分け。
ボビーは350万ドルを手にした。
しかし…。
命令書に背いたとしてボビーは訴追された。
逮捕されれば最高で禁錮10年の刑が科せられるおそれがあった。
ボビーはユーゴを出て陸路北へと逃げた。
その後ひそかにブダペストで暮らし始める。
アメリカから訴追されていたボビーは帰国を断念。
母の死に目にあえなかった。
そしてボビーの孤独を更に深める出来事があった。
実はツィタにはボビーと出会い思い知った事があった。
その後ボビーが移り住んだのは実は日本だった。
親しい友人を頼り穏やかな日々を送る事になる。
駅前のこのベンチで毎日英字新聞を読んでいた。
天才ボビー・フィッシャーを知る人はこの国では多くなかった。
ボビーにとって日本は心安らぐ場所。
そんな時あの大事件が起きた。
アメリカに激震が走った。
フィリピンのラジオ局からコメントを求められたボビーは電話インタビューに応じた。
かつてアメリカに利用され捨てられたという思いがあふれ爆発した。
アメリカを口汚く罵ったインタビュー。
ネットにも流れアメリカ中の怒りを買った。
ボビーの逮捕を要求する手紙がホワイトハウスに殺到した。
(拍手)アメリカはテロとの闘いの時代に突入した。
反米的な人物が拘束される事が相次いだ。
テロとの闘いが続いていた2004年7月。
ボビーはマニラ行きの飛行機に乗るため成田空港にいた。
出国ゲートの前でボビーは突然身柄を拘束された。
いつの間にかパスポートが無効にされていたのである。
自らのアメリカへの強制送還を回避する事がボビーの最後の闘いとなった。
そんなボビーが助けを求めた国があった。
異例の議会が召集された。
法案に反対する議員はいなかった。
ボビーに永久市民権を与える事が決まった。
2005年3月アメリカもアイスランドへの出国を認めた。
かつてボビーが一人でソビエトに立ち向かう姿に勇気づけられたアイスランド国民は熱狂的にボビーを迎えた。
(歓声)だが全ての闘いを終えたボビーの命が燃え尽きるまでそれほど時間はなかった。
晩年の親しい友人アイナー・アイナーソン。
アイスランドへの亡命から3年後。
ボビーは激動の64年の人生に幕を下ろした。
「死んだら静かな場所に小さな墓に埋葬してほしい」。
その遺言どおりボビーは町の外れのこの地に眠っている。
亡くなる直前ボビーは友人にこんな事を語った。
2014/12/27(土) 17:00〜18:00
NHK総合1・神戸
天才 ボビー・フィッシャーの闘い 国家に翻弄された伝説のチェスプレーヤー[字]

史上最強のチェスチャンピオン、ボビー・フィッシャー。冷戦とその後の激動の時代を通じ国家と闘い続けた希代の天才の人生を、貴重な資料と証言を元にたどっていく。

詳細情報
番組内容
史上最強のチェスチャンピオン、ボビー・フィッシャー。冷戦時代はソビエトが国家を挙げ養成した頭脳集団を次々と倒した破天荒な英雄。しかし冷戦崩壊後の混乱の中、アメリカへの反逆者として訴追される。逃亡生活の中、911同時多発テロをきっかけにアメリカが包囲網を敷き、潜伏先の日本で拘束された。そして亡命先のアイスランドでの死。国家と闘い続けた稀代の天才の人生を、貴重な資料と証言を元にたどっていく。
出演者
【語り】佐野史郎

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 海外・国際

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