日本人の源流を探して
(敬称は全て省略しています)
第3部 弥生文化と渡来人の登場 |
水田稲作農耕が朝鮮南部から渡来伝播したと、特に考古学の分野から強く主張された。
すなわち、日本で一般的な、b遺伝子をもつイネは、朝鮮半島には存在せず、中国大陸の品種に存在する。 したがって、日本のb遺伝子をもつイネの品種は、直接中国から渡来した品種に違いないというのである。 考古学が“短粒米”という米の単純な形状の一致をもって、南部朝鮮からの渡来の一つの重要な根拠としてきたが、遺伝子レベルで詳しく調べると、実は朝鮮半島にはない品種が日本に在った、という鋭い指摘を受けた形なのである。 こういう知見を得た上で、中国大陸からの水田稲作農耕伝播の痕跡を調べてゆこう。 環壕・ 環濠集落は何処から伝播してきたか この弥生時代研究のベーステキストとさせて頂いている「日本の歴史02 王権誕生」の寺沢薫は、この環壕・環濠集落の研究に並々ならぬ意欲を示している。寺沢の記述を地図化したのが次の図である。(勿論、作図の責任は筆者にある。) 寺沢は、環壕(土偏のほり)と環濠(水偏のほり)を峻別して考えるべきだとする。 @環壕集落のルーツは、内蒙古自治区赤峰市の興隆窪遺跡だという。 ここから環壕集落の文化は、南下して黄河流域の半坡遺跡に伝わり洗練された。外壕にはコ の字状の突出部(ここに物見櫓があった)を持ち、また中心部に内堀が存在し、中には長方 形の大型建物があるという。まさに吉野ヶ里遺跡を初めとする、弥生の環壕集落のコンセプ トがすでに6,500年前のこの遺跡に見出せるという。 この環壕文化は山東半島や北部朝鮮を経由して、北部九州に伝播する。 寺沢は、内蒙古をルーツとし、黄河流域を各地への伝播の出発点として、北部九州に到る このルートを、東方ルート(上図 青→)と呼んでいる。 A次に寺沢は、内蒙古から黒龍江省や吉林省など中国東北部を経て、沿海州を経由、北海道か ら東北地方に到るルート、北方ルート(上図 黒→)が存在したとする。 しかし、東北地方の地蔵田B遺跡などの木柵で囲う環壕集落は、松菊里遺跡でも大きな木柵 跡が発見され、北部九州から伝播したという説もあり、ここでは深く立ち入らないこと としたい。日本人の起源に顕著な影響があったとは考えられないからである。 B第3のルートは、長江流域からの南方ルートである。 このルートの“かんごう”は「水濠 の環濠」である。 濠に水をたたえる環濠集落という、集落設計や築造上の思想が、弥生前期の後半になって有 明海沿岸になだれ込んできたと、寺沢は言う。南部朝鮮からの土偏の環壕集落より、やや遅 れて水偏の環濠集落が北部九州に伝播したというのである。 それは上の地図(赤丸)で示したように西日本の平野部に一挙に広がった。
環濠集落のルーツは、長江中流域の稲作地帯にある。その一つ、城頭山遺跡の環濠は径325
寺沢薫は、ここで弥生文化について重要な規定を試みている。原文を引用しよう。 ・・・私は弥生時代の水稲農耕文化の構成を、落葉樹林型と照葉樹林型の二つの重なりにあると思っている。前者は、環壕集落や雑穀畑作と共存した水田稲作をはぐくみ、朝鮮半島南部から玄界灘沿岸に伝わり、弥生文化の骨子となった。後者は照葉樹林帯を貫いて一歩遅れて伝播した水稲主体の文化で、親水性の強い環濠集落をともない、弥生文化の肉になったといってもよい。(「王権誕生」p65)・・・ 筆者もこの考えに賛意を表したい。と同時に、水田稲作文化をこのように捉えられるとすると、朝鮮南部や山東半島からの渡来ルートとは別の、長江中・下流域、江南ルートの渡来が推測されるのである。 石包丁の系譜 以上の寺沢薫の環壕・環濠集落の見解に対し、九州大学の西谷正は、「環濠集落の源流を探る」(福岡からアジアへ3 文明のクロスロード・ふくおか 地域文化フォーラム実行委員会編)のなかで、注目すべき指摘をしている。(p64) ・・・日本における低地性環濠集落は、現在のところ、弥生時代前期から出現している。ただし、それは北部九州ではなく、近畿地方の奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡で、この遺跡は、奈良盆地の中央部に位置し、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に立地する。 弥生時代前期初頭〜中葉には、北・西・南三地区の微高地上でそれぞれ集落形成がはじまっている。この時期に北地区の居住区北辺を区画する大溝は検出されているが、三つの集落がそれぞれ環濠で囲まれていたかどうかはっきりしていない。ところが、前期末になると、北・西・南の三地区のそれぞれに環濠が一ないし二条めぐらされるようである。・・・ こう指摘した西谷は、唐古・鍵遺跡が、旧甘木市の平塚川添遺跡や福岡市の雀居遺跡などの、北部九州の環濠遺跡に先行している、と言っているのである。 すなわち、長江中・下流域から北部九州を飛び越えて、環濠文化が直接近畿地方に伝播した可能性を指摘していると考えられる。 これを裏付けるデータが、皮肉にも寺沢が提示している、石包丁の形式別分布にある。 北部九州には、明らかに南部朝鮮の形式の石包丁が伝播している。しかし長江からの大型の石包丁は、近畿で見出されるが、北部九州にはない。(上図赤線は、筆者が加筆したものである。) これは西谷正が指摘する、唐古・鍵遺跡が、長江から環濠文化が伝播した遺跡であることを裏付ける資料かもしれない。 (なお、次の記事から、大型石包丁が近畿、北陸地方で出土していることが読み取れる。) 貯蔵穴から高床式倉庫への移行 水田稲作が伝わり、コメが収穫されるようになると、当然それを貯蔵し保存しておかねばならない。板付遺跡の例からみて、弥生初期には、水はけのよい土地を選んで、口が狭く底の広い穴倉(袋状貯蔵穴)を使っていた。壺に入れた食物を、梯子で上がり下りして底や棚に収蔵 していたとみられる。 もともとこの列島では、ドングリやクリ、クルミなど堅果類を貯蔵する方法として穴倉を使
もともとこの列島は、縄文時代は竪穴住居という土間式住居であった。それが弥生時代、稲作に伴って「高床式住居」が持ち込まれ、二系統の住居が並存した。そして、今現在、住まいに限ってみれば、ほとんどが「高床式」である。 東アジアや東南アジアの住文化を「床」という概念で捉えると、 @揚子江=稲作=高床式住居 と A黄河=畑作民族=土間式住居 という、太い二筋の流れがある。そして、@筋の流れが、稲作農耕文化と共に日本列島に入ってきたということである。と若林は説明する。
しかし、それがさらに日本列島に伝わったとすることは、稲作文化の伝播をあまりにも朝鮮半島に限定し過ぎているのではないかと思う。 筆者は、若林弘子が言うように、揚子江=稲作=高床式住居という一塊りの文化が、長江中・下流域から日本列島に伝わり、その過程で一部は半島のほうにも届いたと考えるほうが、はるかに自然だと考えるからである。 甕棺墓の源流は長江中流域か
藤尾は、甕棺の発生時期を刻目突帯文という、早い時期に設定しているが、一般的には伯玄
この甕棺墓は、朝鮮南部から弥生早期に水田稲作文化が伝播してから、やや遅れて発生したことが明らかである。これは水偏の環濠集落が北部九州に伝わった時期に符合する。まさに長江流域から直接、RM1-b遺伝子を持つ種籾などと共に、甕棺の風習が伝わった可能性が想定されるのである。 次表は長江流域や黄河流域、すなわち中国の古代文明地域における“ひつぎ”の変遷の様
人間の、あるいは親というものの、子供に対する思いには、中国においても日本列島においても、共通した観念があったのであろう。さらに推量を逞しくすれば、大陸とこの列島の交流の過程で、同じ思想やそれの具体的埋葬方法が出来上がっていたのかもしれない。 中国でかめ棺が見られるのは、上表の黄色部分、すなわち長江中流域の屈家嶺文化から石家河文化期である。 石家河遺跡では、70基あまりの土器棺が発掘され、その3分の2が成人を埋葬したものであった。しかも多くの墓に精巧な彫刻の玉器が副葬されていた。
文明のクロスロード・ふくおか 地域文化フォーラム実行委員会のパネルディスカッション 「墓制の変容から見た国家の発生」の中で、金関 恕は、結論を次のように纏めている。 ・・・中国で揚子江の中流域に発生し……歩みを重ねた墓制の一つにかめ棺墓があって、そのかめ棺墓の、かめ棺の造り方、利用のしかた、終わり方、それが広がっていく地域の広さ、そういう発生、発展を見ても副葬品を見ても、北部九州のそれと大変似ている。時代はずいぶん隔たっています。地域も隔たっている。しかし文化段階といいますか、歴史の歩みからいえば、ほぼ同じ段階にそうしたものが発生し、一方は新石器時代ですが、同じような歩みが九州にもう一度繰り返されている。・・・と。 しかし筆者は甕棺墓が、造り方や利用の仕方などの具体的なセットとして、長江方面からの稲作文化の中に含まれて伝播したと考えることは、時代の隔たりや形状の違いから推測して、はなはだ難しいと思う。 むしろ、祖先崇拝の思想やそれを具体化した墓制が、概念として稲作文化の中に含まれていて、北部九州にもたらされたということではなかろうか。それは十分あり得ることと考える。 そう考えることによって、甕棺が縄文土器から弥生土器の系譜の中から、自生的に生まれてきたという研究結果とも、矛盾することなく説明できると思うのである。 ここでは寺沢薫のいう“弥生文化の肉”となった、中国それも長江中・下流域からの水田稲作文化の伝播の痕跡を ・イネの遺伝子 ・水偏の環濠集落 ・石包丁 ・高床式倉庫 ・高床式大型建物 ・甕棺墓 と、多岐にわたり調べた。 そして、筆者はかなりの確信を持って、水田稲作文化が、朝鮮半島からの到来だけの一本道ではなく、長江中・下流域からの伝播もあったと言い切れると思う。 縄文時代の照葉樹林文化の伝播に加え、水田稲作文化の到来という二重の影響が、魏志倭人伝が記す北部九州や広く西日本地区の習俗が、中国江南地方の習俗を髣髴とさせること、現代日本語にもオーストロネシア語をはじめビルマ語など南方の影響が無視できないこと、モチをはじめ、(麹)酒、味噌、(ナレ)寿司や高床家屋、履物を脱ぐ習慣、鵜飼の伝統など日常的な生活文化に現在も残る深い影響を与えたと考えられる。 それはとりもなおさず、この地域から、多くの渡来人がやって来たに違いないことを、信じさせるに十分である。
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