大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州) 日出島哲雄
『万葉集』に次の二首がある。仮名遣いは岩波文庫版による。
弓削皇子、吉野に遊びましし時の御歌一首
二四二 瀧の上の三船の山にゐる雲の常にあらむとわが思はなくに
或本の歌一首
二四四 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに
右の一首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出でたり。
弓削皇子は天武天皇の皇子であるという。母は大江皇女である。大江皇女は天智天皇の皇女である。熊本市には弓削町と大江がある。
熊本県城南町に吉野と宮地がある。城南町の今吉野の東部が吉野であり、西部が今である。今吉野の隣の坂野には吉野山がある。坂野は吉野山の北麓にあたる坂本と西麓の平野に分かれる。『城南町史』によると、平野に益城軍団があったという。
熊本県城南町の吉野山古墳−−−−−熊本県城南町の吉野山−−−−−−熊本バスの吉野バス停。
城南町の東隣の御船町七滝には高さ六0mの滝がある。吉野山は七滝の下流の近くにある。七滝こそ『万葉集』の吉野の滝である。御船町には天君がある。
熊本県御船町七滝の七滝−−−−−−七滝の傍からの眺め−−−−−−−七滝神社の入り口。
城南町の国府跡は熊本県にある国府跡の中では最も古いという。
城南町の内廃寺は、白鳳時代の寺であったという。近くには内瓦窯址があり、内廃寺の瓦が作られていたという。
内廃寺塔礎石−−−−−−−−−−−−内瓦窯址の説明−−−−−−−−内瓦窯址
城南町の吉野は、白鳳時代の中心地の一つと言ってよいのである。万葉集の上の二首の吉野とは、熊本県城南町の吉野のはずである。
他にも熊本県には、『日本書紀』に出てくる地名が多い。壬申の乱に関する地名を調べてみる。
島宮は熊本県菊池市七城町清水の島宮か熊本市島町。
百済は熊本県八代市坂本町百済来。
瀬田は熊本県菊池郡大津町瀬田。
山前は熊本県菊池市七城町山崎か熊本県宇城市豊野町山崎。菊池市七城町山崎は鞠智城の南である。宇城市豊野町山崎の近くには古い寺址と伝えられている浄水寺がある。
稗田は熊本市稗田。
龍田は熊本市龍田。
田は大分県豊後大野市清川町宇田枝。
大野は大分県豊後大野市大野町。
三重は大分県大野郡三重町。
越は熊本県合志市。
大坂は熊本市河内町岳の大坂。
尾張は熊本県山鹿市小原(おばる)か菊池市旭志小原(おばる)。
美濃は福岡県久留米市の耳納山とその近く。耳納山の近くには高良山神籠石がある。
天智紀に出てくる蒲生野は熊本県山鹿市蒲生。
吉野の次に注目すべきは、大津町瀬田である。壬申の乱では、瀬田の戦いで大分君稚臣が活躍する。大分君稚臣が活躍する瀬田は、滋賀県の瀬田では不自然であり、熊本県菊池郡大津町瀬田は納得できる。
大津町瀬田と外牧の間の内牧橋−−−内牧橋の北から西の瀬田観音−−瀬田観音付近の白川
滋賀県の瀬田唐橋は、瀬田長橋とも云われる。大分君稚臣は甲を重ねて刀を抜いて瀬田の橋を渡っている。甲を重ねて刀を抜いて長橋を渡りきれるであろうか。これは壬申の乱の最大の疑問といってよい。熊本県菊池郡大津町瀬田と外牧の間の内牧橋ならば、甲を重ねて刀を抜いて渡ることが信じられる長さである。壬申の乱の瀬田の戦いの場所は熊本県大津町の瀬田である。
瀬田観音から二キロほど西の大津町の吹田と森には、天子宮がある。天子宮は、荒金卓也氏が『九州古代王朝の謎』(海鳥社、二00二年)で、日出る処の天子ゆかりの地と指摘されている。
天子宮の近くには、白川が流れている。白川の河口の近くには、熊本市近見町と熊本市松尾町近津がある。近江とは白川であり、近江宮とは、天子宮なのである。
肥後大津駅の隣の駅は瀬田−−−−−大津町吹田の天子宮−−−−−−−大津町吹田の天子宮
大津町の瀬田から北西に二0キロの所に鞠智城がある。不破は、難攻不落の城を意味することを、わたしが雷山神籠石の防人と不破乃世伎で指摘している。瀬田に最も近い難攻不落の城は、鞠智城である。壬申の乱の不破の第一候補は鞠智城である。その次に近い不破は筑後の女山神籠石、高良山神籠石である。
鞠智城の麓の山鹿市の菊鹿町と鹿本町には条里がある。菊鹿町と鹿本町の隣に菊池市七城町がある。ここは鞠智城の南麓である。七城町は天子宮と鞠智城の間でもある。
平野雅曠氏は『倭国史談』(熊本日日新聞情報文化センター、二000年)で、七城町には古代遺跡が豊富であることを指摘されている。また、『火ノ国山門』(私家本、一九九六年)で、鞠智城が倭の王城であったとの考えを述べられている。
また、平野雅曠氏は松野連系図により、七城町山崎の隣の菊池市野間口神来(おとど)に呉の大伯の子孫が住みついたと考えられている。呉は倭の故地と平野雅曠氏は考えられている。
鞠智城にあった米倉は、倭京の住民がたてこもるために必要な施設である。鞠智城は倭京を守るための城だったである。鞠智城の南にある七城町こそ倭京の地である。
菊池市野間口の神来(おとど)−−−神来と七城町山崎の間の山崎橋−−−七城町の山崎古墳。
鞠智城の池の尾門礎石−−−−−−−鞠智城跡の八角鼓楼と米倉−−−智城跡の歴史公園の入り口
田、大野、三重は、吉野からの天武天皇の逃亡先である。この東には海部郡がある。田、大野、三重に逃げた人物は大海人皇子だと思ってよい。ところが、吉野から田、大野、三重に行くには、近江宮(天子宮)と瀬田の近くを通るのである。
「天武紀」上では、天皇と書かれた人物は、田、大野、三重に逃れた後に不破に入る。その後に瀬田の戦いがある。これは無理である。田、大野、三重から不破(鞠智城か高良山神籠石)に行くためには、瀬田と近江宮(天子宮)を通るのが最も楽であり、他の道は非常に困難なのである。
田、大野、三重に行った大海人皇子と、不破(鞠智城か高良山神籠石)に入った天皇(高市皇子の父親)は、別人なのである。日本書紀の「天武紀」下には、草壁皇子、大津皇子、弓削皇子、舎人皇子の父親と、十市皇女、高市皇子、忍壁皇子の父親は別人であることが容易に分かる箇所がある。これは天武天皇は二人いたを参照。
大分県大野郡緒方町大化には「大化元年」の銘文が刻まれた木造獣があるという。
高市皇子の父親とは何者であろうか。不破道を塞いだ美濃の師に解く鍵がある。美濃は福岡県久留米市の耳納山とその近く。耳納山の近くには高良山神籠石がある。美濃の師とは高良山神籠石の軍勢である。高市皇子が入った不破は高良山神籠石の可能性もある。米倉があった鞠智城の可能性の方が高いと思う。
高市皇子の父親は筑後の権力者であったのである。壬申の乱とは、筑後の権力者が反乱を起こし、吉野の益城軍団が巻き込まれたのである。吉野の益城軍団がどちらについたかは不明である。
−−−−−−高良山神籠石−−−−−−−−−−−−高良山神籠石−−−−−−−−−−−−−高良山神籠石
大友皇子最期の地である山前は、「やまさき」という地名の中で最も瀬田に近い菊池市七城町山崎が自然である。ここは不破(鞠智城)の南で倭京(菊池市)の中にある。大友皇子が山前で亡くなったことは、呉の大伯の子孫であることを意味する。更に倭王であったことも意味する。不破(鞠智城)と倭京(菊池市)こそ大友皇子が日頃住んでいた所ではなかろうか。
反乱軍の首領の「不破道を塞げ」という命令は、大友皇子が不破道を通れないようにすることを意味する。ということは、壬申の乱が起きる前には大友皇子は不破道を通っていたはずである。
不破道とは何であろうか。不破(難攻不落の城)を結ぶ道と考えるのが自然である。わたしは、鞠智城と他の城を結ぶ道だと思う。他の城とは高良山神籠石,水城などである。「不破道を塞げ」とは、鞠智城と高良山神籠石,水城などを結ぶ道を大友皇子が通れなくするようにせよという命令だったのである。
鞠智城が大友皇子の居城だったと考えられる。高良山神籠石の美濃師が不破道を塞ぐとは、大友皇子が高良山神籠石を通って鞠智城に帰るのをできなくすることである。大友皇子は筑紫大宰に使いを送っている。以上の事から、壬申の乱勃発直前に大友皇子がいた範囲を推測できる。わたしは肥前にいたと思う。
不破道とは白村江の戦いの後陣になる城を結ぶ道だったのである。それならば、大友皇子は白村江の敗戦の王朝、すなわち九州王朝の王であったことになる。白村江の敗戦後も不破道が倭国すなわち九州王朝を守っていたのである。白村江の戦いの勝者が倭国すなわち九州王朝を滅ぼすために、白村江の戦いから9年(定説による)かけて不破道を塞ぐことを準備したのである。
白村江の戦いの勝者が不破道を塞ぐためには、大友皇子を油断させる必要があった。大友皇子を油断させた事件とは、天智十年の筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜麻)の帰国と、天武元年五月(壬申の乱の前月)の郭務の出国である。
古田武彦氏は、筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜麻)が白村江の時の倭王であると、『失われた九州王朝』(角川書店、一九七九年)で述べられている。『日本書紀』には、白村江の時の倭王を特定する箇所がもう一つある。天命開別天皇(天智天皇)の皇后である倭姫王は、古人大兄皇子の子である。天命開別天皇(天智天皇)は、古人大兄皇子の娘婿として即位している。古人大兄皇子は天皇だったはずである。古人大兄は吉野太子とも言われている。ということは、古人大兄は吉野にいたときには太子であったということである。
「孝徳紀」では、吉野山に入った古人大兄皇子は、刺客を送られて斬られている。しかし、吉野山の麓は軍団の拠点であり、吉野山に刺客が入れるとは思えない。むしろ、軍団の拠点である吉野に行っていた古人大兄皇子は、倭王にふさわしい。古田武彦氏は、『壬申大乱』(東洋書林、二00一年)で持統紀の三一回の吉野行幸が白村江の戦いの直前に行われたことを指摘されている。白村江の戦いの前に吉野に行っていた人物は古人大兄皇子である。
「皇極紀」と「孝徳紀」は、古人大兄皇子が天皇になれなかったと主張している話である。というより、古人大兄皇子が天皇であったことを消し去る話である。古人大兄皇子は倭王であり、筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜麻)と同一人物である。
吉野がある熊本県城南町は宇土の隣でもある。宇土といえば、馬門石(阿蘇ピンク石)の産地である。馬門石(阿蘇ピンク石)を宇土から近畿に運ぶ実験航海が二00五年に行われた。
吉野の益城軍団は馬門石(阿蘇ピンク石)の輸送船団と深い関係があったはずである。そのものだったかもしれない。
古田武彦氏は七0一年(大宝元年)に王権が九州から近畿に移ったと主張されている。
壬申の乱後の王権は、肥後から筑後に移り、七0一(大宝元年)年に馬門石(阿蘇ピンク石)の輸送船団により筑後から近畿に移ったとわたしは考えている。天武十三年(六八四年)の大地震が筑後から近畿への王権移動を決定づけたと思われる。
関ケ原は不破関でない、雷山神籠石の防人と不破乃世伎、天武天皇は二人いた、「不破道を塞げ」と瀬田観音も読まれてください。
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