先日、台湾の総統選挙が行われ馬英九氏が圧勝、8年ぶりに国民党が政権を奪取した。そんなニュースに接したせいか、孫文の日本における足跡を訪ねたくなった。 そこで出かけたのが、以前から気にはなっていたが一度も行ったことのない「孫文上陸の地」。彼が第二革命に失敗し、袁世凱に追われて日本に亡命したときに船を着けた海岸だ。その記念碑が富岡の慶珊寺脇にある。 寺へ行くルートは2つ。一つはシーサイドライン「並木北駅」から入るコース。もう一つは、今回私が歩いた京急富岡コースである。 おすすめは後者のアプローチ。富岡には、まだ古いものがかなり残っているので、寺へ至るまでの散策も楽しめるからだ。 上の写真は、そんな中で見かけた民家の蔵。トタン張りが何ともいえぬ懐かしさを醸している。 昔は、こんな看板があちこちにあったよなぁ…。親戚がタバコ屋をやっていて、たしかこんなのを軒先に張り出していた記憶がある。 それにしても、電報なんて今でもあるのだろうか。 アパートの1階を使ったパブ。こんな構造をたくさん見かけた。この辺の特徴的なスタイルなのだろうか。 住宅街で見かけた焼き鳥屋。右端の部分がテイクアウト用の窓だ。子どもが1本、2本という単位で買っていた。 コンビニもどこか雰囲気が違う。何が変なのかなぁ…と考えてみたら、店頭で野菜を売っているのだった。地場の野菜なのだろうか。 これは、seikoMTDさんの記事で見た「将華」というラーメン屋。残念ながら昼時を過ぎていたため休憩に入っていた。ベタで店を開けているのではなく、間に休みを入れているんだね。 孫文上陸の地記念碑は寺の右角に立っていた。思った以上に大きな碑である。横には由緒と題した碑建立の由来。そこにはこんなことが書かれていた。 近代中国建設の父にして、三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し、袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸、東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満次より外務大臣牧野伸顕に充てた報告文により明白となりました。 孫文先生の富岡上陸亡命成功の蔭に当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わねばなりません。 しかも今回右の史実と意義を顕彰のため建てられたこの史跡碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣工したことは、両国親善の歴史に大きな金字塔を成すものと言えましょう。 昭和59年8月17日 孫文先生上陸之地記念碑建立委員会 孫文は、1866年に広東省香山県で生まれている。生家は貧しく村塾にも通えないほどだったが、彼が大成する陰には一回りも年の離れた兄・孫眉の存在があった。 孫眉は若いころハワイに渡り、借りた土地で始めた牧畜と農業が大当りした華僑の成功者だった。孫文は13歳のとき、その兄を慕ってハワイに向かい、兄の援助で教会系の学校に通うことができたのである。 外国で新しい知識を身につけて帰国した孫文は、アメリカ人牧師からキリスト教の洗礼を受けたのち、広州と香港で医学校に通う。もともと反体制的な傾向のあった孫文は、その間に排満興漢の思想が強くなり、それがやがて辛亥革命へとつながっていくのである。 亡命生活の長かった孫文は、この富岡上陸以降、十数回にわたって来日し、通算滞在年数は9年以上にも及んだが、その大半は横浜中華街での隠れ家住まいだった。横浜には彼を支援する華僑が多く、しかも東京が近くて革命活動をするのに好都合であったからだ。 横浜中華学院の校庭に孫文の胸像がある。構内には滅多に入ることができないので、ご存知の方は多くないだろう。だが、中華街で行われる大きなお祭りの際には、この校庭でさまざまな催し物が繰りひろげられるので誰でも入ることができる。そんな機会に中華街を訪れたら、ぜひとも孫文の胸像をご覧になっていただきたいものである。 慶珊寺の境内に佇み、しばらくそんなことを考え、歴史に思いを馳せていた。いま、山門から眺めても海は見えない。そこに広がる風景は、どこまでも続く巨大な団地群。 孫文がこの地に上陸してから95年が経つ。その間に海は埋め立てられ、海岸線ははるか彼方へ移動してしまったのだ。 春とはいえ、しばらく外にいると結構冷えてくる。昼メシ時に飲んだビールが効いてきた。早く駅まで戻らなければ…と思ったが、寺の側面に回ったらこんなトイレがあった。 いい寺だなぁ。これで、ゆっくりと町を散策しながら駅へ戻ることができた。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね 「ハマる横浜中華街」ランチ情報はコチラ⇒ |
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孫文がいた場所は52番地、121番地、137番地など、いろいろあるようです。
そのほかに華都飯店の位置でも隠れ住んでいたとか。だから、今、ここに中山記念堂があるのでしょう。
聞けば孫文の号「中山」も明治天皇の母親の実家「中山家」から取ったそうです。
それから今の台湾の国旗「青天白日旗」も横浜滞在中に考えられたとか。本当でしょうか??
5月に新総統になる馬英九は香港生まれの外省人です。台北を中心としたホワイトカラー層にはウケがいいですが、高雄・台南など南部では評判は芳しくありません。台湾語での発音をもじって「馬英狗(マー・イン・ゴウ)」というあだ名(悪口?)もあります。
「狗」とは「イヌ」のことです。
ちなみに彼は本当に犬を飼っていて、名前は「馬小九」といいます。
トリビアでした〜
青天白日旗は山下居留地(現中華街)の中で考案されたといいますね。国民党の前身である中国革命同盟会の旗として、孫文の幼なじみでもある同士・陸皓東がデザインしたそうです。
それがのちに国民党の党旗にもなたったのです。