Reconsideration of the History |
17.「北朝」は滅亡していた!! 南北朝秘史-其の壹- (1997.11.15) |
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南北朝時代。皆さんも日本史で習われたと思いますが、どのように教わったでしょうか? 大抵(と言うよりも、100%でしょうか)の方は、後醍醐天皇の吉野潜行から南北朝時代が始まり、1392(北朝明徳3・南朝元中9)年の「明徳和約」により南北朝は統一、以後、北朝系が皇位を継承した・・・と教わった筈です。しかし、真実は違っていたのです。ずばり言いましょう。「北朝」は滅亡していた・・・と。では、「明徳和約」以降、皇位を継承した「北朝」系の諸天皇とは一体何だったのでしょうか? それを解き明かしていきましょう。
「北朝」は滅亡していた。この衝撃的な事実を語る前に、まずは、南北朝時代の皇統譜(天皇の系図)を眺めてみて下さい。
1.北朝系図 註 (N1)等は、北朝の代数
(93)後伏見天皇┬(N1)光厳天皇─(N3)崇光天皇─伏見宮栄仁親王┬伏見宮治仁王
│ ├僧(法親王)
│ ├僧(法親王)
│ └僧(法親王)
└(N2)光明天皇─(N4)後光厳天皇─(N5)後円融天皇─(100)後小松天皇
2.南朝系図
┌(98)長慶天皇
(96)後醍醐天皇─(97)後村上天皇┤
└(99)後亀山天皇
通史では、南朝系の後亀山天皇(第99代)の後を、北朝系の後小松天皇(第100代)が継いだ事になっています。これ自体は間違ってはいないのです。では、なぜ、「北朝」は滅亡していたと言えるのか? それは、南北朝統一後の初代天皇となった後小松天皇の出生の秘密にあるのです。
後小松天皇。第100代(在位 北朝第6代:1382-1392・統一後:1392-1412)。名は幹仁。後円融天皇の第1皇子。
後小松天皇の出生にどんな秘密があったのでしょうか? これを語るには、新たな人物に登場願わなければなりません。その人物とは、室町幕府第3代将軍・足利義満です。
足利義満。室町幕府第3代将軍(在職 1368-1394)。将軍勇退後、明の皇帝・洪武帝に朝貢し、1395年、「日本国王」の称号を獲得。死後、朝廷より「太上天皇」の尊号を贈られるも、子息で第4代将軍・義持がこれを辞退した。
当時の東アジア世界の「盟主」・明(中国)の皇帝から正式に「日本国王」と認められ、更に、その死に際して、時の朝廷から、「太上天皇」の尊号を贈られたほどの大人物。この足利義満と後小松天皇との間に、どんな関係があるというのでしょうか? ズバリ言いましょう。
後小松天皇は、後円融天皇の第1皇子等ではなく、足利義満の子であったと。
なぜ、後小松天皇が足利義満の子なのか? それは、後小松天皇の「父」とされる後円融天皇と、足利義満との関係にあるのです。
後小松天皇は後円融天皇の子ではなかった。これは一体どう言う事なのでしょうか? まずは下の系図を眺めてみて下さい。
後円融天皇
┠──────────後小松天皇
藤原厳子(通陽門院)
これが通史で言われている両天皇の関係です。後小松天皇は、後円融天皇と通陽門院との間に生まれた子とされています。しかし、ここに足利義満が関わってくるのです。そして、それこそ、皇室も宮内庁も決して認めたくはない事実でしょう。それは、
足利義満は後円融天皇の皇妃・通陽門院を犯し、その結果、生まれたのが後小松天皇だった
のです。すると、系図はどうなるでしょうか?
後円融天皇
┃
藤原厳子(通陽門院)
┠──────────後小松天皇
足利義満
となるのです。更に衝撃的な事は、足利義満は後円融天皇の正式な皇妃・通陽門院だけでなく、三人の寵妃までも悉く陵辱−つまり、後円融天皇の全ての后妃を犯し、その為に、後円融天皇は心身共にやつれ、36歳の若さで死んでしまいました。勿論、全ての后妃を足利義満に犯された訳ですから、後円融天皇の血を引く者はおらず、後円融天皇の系統は、その死をもって「断絶」してしまいました。そして、足利義満は次なる矛先を北朝のもう一つの系統・伏見宮家へ向けたのです。
伏見宮家。北朝第3代崇光天皇の子・栄仁(よしひと)親王を初代とする宮家(親王家)で、明治まで続いた名家中の名家。その名家が実はたったの二代で「断絶」していたのです。これはどう言う事なのでしょうか? まずは下の系図を眺めてみて下さい。
伏見宮家系図 註 (N3)は北朝の、(F1)等は伏見宮家の代数
(N3)崇光天皇─(F1)伏見宮栄仁親王┬(F2)治仁王
├僧(法親王)
├僧(法親王)
├僧(法親王)
└(F3)後崇光院(貞成親王)┬(102)後花園天皇
└(F4)貞常親王・・・
これが通史での伏見宮家の系図です。伏見宮第3代・貞成(さだふさ)親王は、子の彦仁親王が第102代・後花園天皇となったので、「天皇の父」つまり「太上天皇」となり後崇光院と呼ばれました。そして、この貞成親王こそ、伏見宮家を二代で「断絶」させた張本人なのです。
伏見宮貞成親王。伏見宮初代栄仁親王の子とされている人物ですが、元をただせば伏見宮家の居候で、実父はなんと足利義満だったのです。それを端的に示す証拠の第一は、明治天皇が勅命をもって編纂させた「皇室系図」や、山岸辰蔵氏の『大日本百科全書』に記載されている下の系図です。
○─貞成親王─後花園天皇
通史では貞成親王の父は伏見宮初代栄仁親王の筈です。それをなぜ「○」印で記載したのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。それは、貞成親王と栄仁親王とが親子関係ではなかったと言う事。そして、貞成親王の父が素性(名前)を明かせられない人物であったと言う事です。
貞成親王が伏見宮家の人間ではなかった証拠の第二は、彼自身が書き残した『看文御記』(かんもんぎょき)中の記載です。それらを要約すると、
となります。これらを見て皆さんはどう思われるでしょう。なぜ名家中の名家・伏見宮家の人間が40歳になる迄、他家に氏素性を隠して暮らしていたのか? なぜ、父を「御主人様」、弟を「新御主人様」等と呼んでいたのか? これらが示す事は、貞成親王が伏見宮家に連なる人間ではなかったと考えて初めて納得がいくのです。
- 貞成親王は40歳まで、菊亭左大臣家に匿姓(氏素性を隠す)の暮らしを続け、後に伏見宮家に参候(居候入り)した。
- 父である筈の栄仁親王の事を、「御所様」(御主人様)と呼んでいる。
- 自分よりも十歳も年下の「弟」治仁王の事を、栄仁親王の「一の宮」(第1皇子)、「新御所様」(新御主人様)と書き、席次も自分よりも「上座」に迎えている。
『看文御記』の詳細は省きますが、様々な状況証拠から、栄仁親王・治仁王等、伏見宮家直系は貞成親王と黒幕・足利義満によって悉く「毒殺」されてしまいました。そして、一族全てが「断絶」した伏見宮家を貞成親王は「相続」したのです。つまり、北朝は後円融天皇の系統も、伏見宮家も、全て、足利義満によって滅ぼされたのです。そして、それ以後の「北朝」系は、足利義満の血を引く者が継承したのです。最後に下の系図を眺めてみて下さい。
┌貞成親王(後崇光院太上天皇)─(102)後花園天皇・・・上の系図の通り、室町時代とは、幕府も、朝廷(皇室)も、全て足利氏に連なる人間が牛耳っていたと言えるのです。そして、この事が、新たなる争乱の芽を蒔いたのです。
├(100)後小松天皇─(101)称光天皇
足利義満(鹿苑院太上天皇)┼義持(4代将軍)
├義嗣
└義教(6代将軍)
参考文献