鳥船塚鳥船塚左:奥壁の壁画、朧気にしか文様を把握できない
右:現在の鳥船塚、小屋があるのみ

 鳥船塚古墳は現うきは市(旧吉井町)富永にあり、珍敷塚古墳から水縄山側に登り、原古墳の前を過ぎて更にしばらく登ったところにあった。
 ここも最初に訪問したのは1974年9月30日、珍敷塚古墳、原古墳に続いてであった。案内板を見て所在地と思われる場所に来ても古墳らしき盛り土が見あたらない。そこには前二つの古墳で見たのと同様の木製の小さい倉庫があるだけだった。

鳥舟図

鳥船説明左:パンフに付いていた壁画の復元図
右:説明版

 まさかと思いつつ錠前に鍵を差し込むと解錠され、観音開き戸を開けると中には奥壁とおぼしき石材が二段に積まれてあるだけであった。この古墳で現存しているのはこの2個の石材だけなのだ。

 装飾古墳を4基も含む屋形古墳群ではあるが、先ほどからまともな形で保存された古墳が一つもない。特にこの鳥船塚古墳に至っては2個の石しか残ってない。装飾古墳の故郷のこの様な状況は全く嘆かわしいばかりだった。
 仲間一人一人が同じ思いだったのだろう。我々は誰からとも無く互いに顔を見合わせたが、言葉はもはや無く、目だけで語り合うばかりだった。

 この古墳は珍敷塚再発見の直後に確認されたが、開墾のため墳丘と石室が破壊され、僅かに装飾のある2石だけがそこに取り残されたのである。

 しかし、我々に元気の無い原因はそれだけではなく、壁画の保存状態がかなり悪く、簡単には全容を把握しがたい事にも起因していた。多分長い間放置され雨風に曝された後に小屋が建てられたのだろう。肝心の壁画は褪色が著しくて復元図を見ながらでないと把握が困難なのだ。

 掲載した写真はかなり条件の良い時に撮られたものと考えられ、実際はもっと条件の悪く、見えない時の方が多かった。本当は非常に興味深い図柄なのだが。

 その全容は次の通りである。

 ここでは石材が他の古墳より小さいため、文様も小さめに描かれている。使用した色は赤一色であり、石材が表面の荒い花崗岩であるため、文様はぼやけ気味でシャープな線ではない。
 まず、上段の小さい方の石材には2重の線で得かがれた盾が一個だけ描かれている。そして、下段の石材には、まず上段石の盾に接するように同心円文が描かれ、その左側には非常に小さな靫と太刀と思われる文様が、少し傾いて2個ずつ描かれている。
 最も中心的な絵柄なのが下段中心から右寄りに描かれた、舟を中心とする文様である。それはあの珍敷塚に描かれた「天の鳥舟」を更に複雑に発達させた内容となっている。
 ゴンドラ形の舟には船首と船尾の両方に鳥が留まっており、舟の上には立って櫂を漕ぐ人物が一人、中央やや後方にいる。中央付近には帆のような縦長の長方形と、船首と船尾には帆柱のような垂直線も描かれる。さらに、舟の後方により沿うように人物が一人立っており、前方には直行する2重線が舟と接している。
 何とも複雑で興味深い図柄である。人物は二人とも三度笠の様な物をかぶっており、船外の人物は更にモンペ様のズボンをはいているように表現されている。

 これらの文様はやはり天の鳥舟を指すと考えられており、前方の直行する二重線を船着き場、舟後方の人物を舟の寄せ手とみ見、死者の魂がいままさに冥界の船着き場に着いたところを示し、葬送儀礼の表現と見る向きもある。
 
 そのような誠に興味深い叙事詩的な装飾文様であるが、惜しむらくは舟の部分の褪色が激しく、文様を眺めてもそのようなイメージがなかなか脳裏に浮かばないのが残念である。

 我々はここでも少しばかり時間を取って装飾を凝視して文様の復元を試みた後扉を閉じ、最後の古畑古墳への坂道を更に登り始めたのであった。

 現在は保護のために見学が厳重に禁止されており、毎年恒例の公開日にも見学することは叶わない。数年に一度くらいは拝ませて貰いたいのだが。

 珍敷塚の影響を強く受けつつも、武器がすたれて文様の中心が舟に集中しており、原古墳より更に後の時代の建造と推定されている。