重要な飛び道具だった石
投石と言えば、学生や労働組合のデモ隊が使うイメージがあって、本気で戦っているようには見えないというか、戦闘ごっこなんじゃないの?って思ってしまう。
しかし歴史上、投石は重要な飛び道具の1つで、古代ギリシア以前から戦争に用いられていました。
日本の戦国時代でも活用されており、剣豪・宮本武蔵は投石によって負傷したこともあったし、近年のパレスチナ民衆のイスラエル抵抗運動(インティファーダ)でも、主要な武器は投石です。
ということで、今回は主に投石部隊の歴史とその周辺のエピソードなど調べてみました。
投石がいかに強力か
まずはこちらの動画をご覧ください。
アメリカの少年がスリング(投石紐)を使って遊んでいる様子なのですが、
これを見るだけでいかに投石が恐ろしいか分かると思います。
石の飛ぶ早さ。当たったときの衝撃。まともに喰らったら確実に致命傷です。
しかもこれがいっせいに、大人数から放たれるのですから、敵からしたら脅威以外の何者でもありません。
古代の投石部隊・スリング兵
投石紐・スリング
人類はかなり早い段階から、スリングと呼ばれる投石紐を用いて投石をしていました。植物の繊維やウールで石の「受け」の部分を作り、紐の真ん中にくくりつけるだけのシンプルなものです。
南米ペルー沿岸で紀元前2500年のスリングが発見されていますし、
古代エジプトの少年ファラオ・ツタンカーメン王の墓からも、スリングが見つかりました。
小アジア カタル・ヒョユクで発見された壁画にはスリング兵が描かれていますが、この壁画はおよそ紀元前7000年前のものと推定されています。
古代ギリシアの詩人ホメロスの記述には、当時いかに投石が脅威だったかが描かれています。
ペルシアのアルタクセルクセス2世の投石兵にギリシア傭兵隊は苦しめられ、撤退を余儀なくされた
ギリシアはスリングを持たなかったため弓や投げ槍を使ったが、敵に届かなかった
古代世界のスリングの優位性
ホメロスの記述通り、古代世界では投石は最も強力な武器でした。
その射程範囲は400メートルほどにもなり、当時の弓をはるかにしのぎます。
いったん投げて次の投擲までの時間も短いし、手持ちの石が尽きても材料はそこらに落ちてるし、何より少し訓練するだけで誰でも簡単に扱えたため、
条件を満たせば戦いを圧倒的に有利に進めることができたし、近距離戦の歩兵を組織するより、はるかに安上がりに済んだのです。
ギリシア・ローマ時代には専用の鉛玉を用いることもあり、飛距離・打撃力・命中精度が格段にアップしました。
またこの鉛玉には
「降伏しろ!」「くたばれ!」「あ痛たた!」
など、敵を罵倒するメッセージが刻まれていたこともあったそうです。
投石の専門家、バリアレス・スリンガー
地中海・バリアレス諸島には、「バリアレス・スリンガー」と呼ばれたスリングのスペシャリスト集団がいたそうです。
ローマ軍は彼らを傭兵として雇い、数々の戦役に従軍させました。
4世紀ローマの軍事学者・ウェゲティウスがこう述べています。
バリアレス諸島の住民はスリングの発明者と言われていて驚くほど器用に操り、子どもの時から使い方を学ばせるのが慣習である。子どもはスリングで的に命中させないと、母親から食べ物を与えてもらえなかった。
アーマーを身に付いているのに、兵士たちは矢よりも飛んでくる石に悩まされる。石は身体を切り裂くわけではないが、血を流すことなく打撃で人を殺める。スリンガーは傭兵であることはよく知られている。スリンガーは足手まといになることは決してなく、特に石が多い地帯や山岳地帯、標高の高い地帯、城や町の防御戦では常に大きな役割を果たすため、例外なく彼らを雇い入れるのには大きな理由があるのだ。
ローマ以降の投石
ヨーロッパではローマ帝国以降、メイルや鎖帷子などが普及したことに加え、より強力な弓やボウガンが発展したこともあり、紐を使ったスリングは廃れていきます。
代わりに発展したのが「スタッフ・スリング」。
長い棒の先端にスリングを取り付け、投げ釣りの要領で振りかざして石を投擲する武器です。(上図の右側にスタッフ・スリングを持った2人の兵がいます)
紐のスリングよりも遠くに重い石を飛ばすことができたため、
大砲などの火力が発達した時代でも、攻城戦や海戦で飛び道具として使われました。
攻城兵器としての投石
古代地中海
投石機は紀元前から、古代地中海で利用されていました。
動物の毛や植物の繊維で作った柔軟な縄を巻き、「てこの原理」を使って遠くに石を飛ばすものです。主に城壁や建物を破壊する目的で使われましたが、時には戦意を落とす狙いで捕虜の首や、疫病にかかった遺体を投げ入れたりしました。
アレクサンダー大王の遠征でも用いられ、
テュロス城攻防戦では、攻撃側も防御側もカタパルトを用いたことは有名な話です。
中世以降
ローマ時代以降のダークエイジでは、しばらくカタパルトの技術は忘れられていましたが、11世紀頃に「バリスタ」という名前の城壁破壊用の投石機が登場しています。
14世紀に大砲が登場するまで、攻城兵器として広く用いられました。
中国
唐の時代から投石機は用いられ、宋・金・元は特に投石機をよく利用しました。
最初は石弾が用いられましたが、火薬が普及してからは炸裂弾が利用されました。
日本はどうだったか
引用:www.geocities.jp/yasushinara/
小山田投石部隊
日本史での投石と聞いてまず思いつくのが、武田信玄の武将・小山田信茂の投石部隊です。
「信長公記」によると元亀三年(1573年)の三方ケ原の戦いの際、小山田信茂の部隊300名は「水股の者」と呼ばれる足軽を先頭にし、浜松城に籠る徳川軍1万を相手に礫(小石)を投げて攻撃した、とあります。
これは記録が残っているから名が知られているだけで、投石は日本の戦国時代でもポピュラーな飛び道具でした。
寛永14年(1637年)の島原の乱では、原城に籠城する一揆軍から投石の攻撃があったようで、従軍していた宮本武蔵は手紙で
拙者も石ニあたりすねたちかね
と、石に当たってすねを負傷したことを書き残しています。
ただし日本では、スリングのような投石紐は生まれず、手で投げるのが一般的でした。
日本に投石機はあったか
室町時代の禅僧・雲泉太極という人が、応仁の乱の際、
東軍が「発石機」という機械を用いて、石を飛ばして攻撃した、石が当たったところはことごとく砕けてしまう、ということを日記に書いています。その後この僧は東軍の陣営を訪れた際に「飛砲火槍」という武器を見たそうです。これについて詳しい説明はないのですが、石を飛ばす簡単な小銃のようなものだったと考えられています。
ただ以降の文献には投石機の記録はなく、いくつか作られたもののあまり需要もなく広がらなかったようです。
インティファーダ
現在では投石が実際に使われているのは、パレスチナの民衆によるインティファーダくらいでしょう。
インティファーダについてここで詳しく述べる余裕はありませんが、パレスチナ人による自然発生的な反イスラエル民衆抵抗運動です。
この動画には重武装のイスラエル兵に対し、ほぼ丸腰のパレスチナ人が投石で抵抗をしている様子が映っています。
まとめ
かなり粗粗ですが、投石の歴史について調べてみました。
投石機の運用や種類、活躍した戦役など、調べればもっと面白い事例が出てくるでしょうがまた今度。
投石部隊は昔から非正規だったり、傭兵だったり、当時からあまり高尚な連中と見なされていなかったフシがあります。
そのため、あまり記録に残ってないようなのです。
真の戦士たるもの、雄々しく突撃して剣を振りかざし、敵の首を穫って名を上げるべし!
みたいな考えは古代からあって、実際にそれをやった者が人気が出て人望も得て出世していくから、ますます投石部隊みたいな補助戦力の評価や地位が低落していく。
でも戦士が近距離から突進攻撃するためには、投石によって敵をひるませてからじゃないと無理だったわけで、遠距離攻撃の部隊は歴史の陰に隠れつつ、しっかり役割を果たし、歴史を動かしてきたのです。