いつもそうだった。
休み時間のチャイムが鳴ると4、5人で机を囲まれて、もみくちゃにされる。最初こそ抵抗していたぼくも、「ああ、抵抗しても無駄なんだな」と悟ってからは、諦めてされるがままに任せていた。いくつかの手に掴まれて、まるでそのためにあつらえたかのような掃除用具収納用のロッカーの中へ導かれる。
ぼくが中に入ると乱暴に扉が閉められた。中は暗くて、扉の表面にあるいくつかの穴からわずかに光が漏れていた。ガンガンガンと外側を殴ったり蹴ったりする音が断続的に聞こえてくる。耳を塞いでいればその内終わる。耳を塞いでいればその内終わる。外にいる連中に聞こえないように、口の中で何度も唱え続ける。
やがて予鈴が鳴り、固い金属の箱を殴るのにも飽きた彼らは、閉じ込めたぼくを一顧だにせず自分の席へと戻っていく。扉の外に誰もいないことを確認して、おずおずと外に出ると、何事もなかったかのような穏やかな教室がそこにある。時折向けられる好奇の視線が恐ろしくて、可能な限り小さくなって自分の座席に向かう。いっそ誰にも見えなくなるくらい小さくなれればいいのに、と思ったりもする。
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まぁこれはぼくが小学校低学年くらいの話なんだけど、当時のぼくにとっては非常に恐ろしい体験だった。あの暗いロッカーの中に響く打撃音と穴から漏れる光のコントラストはぼくの脳裏に深く刻まれていて、ぼくにとって一種の原風景のようになっている。
これだけ書くと「イジメ最低だな」とか思われると思うんだけど、当時のぼくは異常なくらいに自意識の塊で、空気も全く読もうとしていなかった。上のような行為が顕在化する前からクラスの中では浮いていた。友達もほとんどいなかった(いたけどすぐに転校してしまった)。誰ともまともに話をしようとしていなかったし、あまりに周りのテンションと乖離しているので、「根暗」と言われるのは日常茶飯事だった。
そういう、どこにでもいそうな自意識過剰の困ったちゃんだったぼくは、ある日クラスの大将格の男の子に対して、凄まじく悪意のある発言をしてしまった。基本的に空気を読まないぼくでも反射的に「あ、しまった」と思ってしまったほど。どういう発言をしてしまったかは差し控えるが、少なくとも彼のクラス内での尊厳を棄損するような発言であって、弁解の余地はないと今でも思っている。彼らの行為に抵抗しなかったのも、今思えば彼に対する引け目があったからなのかもしれない。
結局彼らの行為はクラスが替わるまで続いた。
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どうしたら良かったのかな、とは今でも思うことがある。
「3月のライオン」という漫画の中で、中学校内のいじめが描かれたことがある。この漫画の中では、加害者側の言い分はハッキリとは描かれなかった。もう少し正確に言うと「ハッキリとした理由はないんだけど、漠然とした不安」という理由が加害者側に与えられた。主人公と近い女の子が被害者側ということもあると思うけど、この描写を見て加害者側に同情する人はおそらく少数だろう。「いじめる側を肯定的に描いてはいけない」という物語の中のバランスを取る意味もあったのかもしれない。
当時のぼくがもう少し踏み込んでいて、あの漫画のように学校や親を巻き込んでいたら。そして、先生なり親なりが直接彼に「なぜこんなことをしたのか」と聞いていたら、彼はなんて言ったのだろう。
これはぼくの想像だけど、おそらく彼は「最初に俺を攻撃してきたのはあいつの方だ」ということを言うんじゃないか。そしてそれはそこまで道理の通らない見解じゃない。少なくともあの時、ぼくが彼の尊厳に対して攻撃を行ったあの瞬間に関してのみ言えば、彼にとってぼくは間違いなく「悪」だったのだから。
その程度で、と思われるかもしれない。しかし、ぼくが彼に対して更に非道なことを行っていたらどうか。社会通念上許されない領域までいってしまっていたら。はたしてどうなのだろうか。
それを考えた時に、ぼくの脳裏をこんな問いがよぎる。
「いじめはいついかなる場合においても絶対的に『悪』なのか?」
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「いじめ」は「悪」か。
これだけを聞いたら、おそらく大多数の人は首をタテに振るだろう。
しかし、そういう人のなかにも、性犯罪を起こしたと疑われる人、不倫をした人、女性に対して性差別的な思考を持つと推定される人、原発事故を起こした電力会社、異物を混入させた食品会社、気に入らない考え方をする著名人――その他諸々を攻撃することを躊躇わない人もいる。一つのおかしなコメントをきっかけに少なくない人から攻撃を受けることもある。それを見た周りの人も面白半分に攻撃に加わったり、自分が叩かれることを恐れて違和感を覚えていても傍観したりもする。
「いじめ」は「悪」だ。そう言い切る人が、だ。
世の中には「良いいじめ」と「悪いいじめ」があるのだろうか。そう考えたりもしたけど、多分そうじゃない。
もの凄くわかりにくい言い方だけど、おそらくこういうことだ。「いじめ」が「悪」なのではなくて、「いじめ」という言葉が「悪」なんだ。
ある人から見れば「いじめ」でも、また違う人からしてみればそれは「いじめ」じゃない。同じ物事に対する解釈は人の数だけ存在していて、その宙空には「いじめ」という万人から「悪」と属性づけられた言葉が煙のように浮かんでいる。
ぼくらは煙のようなそれを、自分にとって都合のいいように利用し、なすりつけたり剥がしたりするわけだ。
これは「いじめ」だけど、これは「いじめ」じゃない。あれは「いじめ」じゃないけど、これは「いじめ」だ。
政治家個人を誹謗中傷するのは、あいつら権力者なんだから「いじめ」じゃないよ。あいつは不倫してたんだから、あいつを叩くのは「いじめ」じゃないな。あの企業は人をゴミみたいに扱うブラック企業だ、あいつはレイシストだ、あいつはテロリストだ、あいつは、あいつは、あいつは…
どれも「正しい」。
しかし、どれも「いついかなる場合でも、どこのどんな人が相手でも成立する絶対的な正しさ」ではない。それだけのことだ。
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じゃあ、結局あの時のぼくはどうすれば良かったのだろう。
彼は彼の正義に依って動いていたように、ぼくはぼくの正義に依って動けばよかったのだろうか。あるいはそれも正解の一つかもしれない。そこに救いはなくとも、自分の身は自分で守らなくてはならないのだから。
ここでいつも考えは止まってしまう。わからない。わからないけど、わからないで終わっちゃだめだ、とも思う。
少なくとも、群衆に紛れて他人からの借り物の正義を無自覚に振り回すようなことからは距離を置きたい、とは思っている。これはごく個人的なぼくの正義だ。
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