こだわりアカデミー

本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞

弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作あったんです。

稲のたどってきた道

静岡大学農学部助教授

佐藤 洋一郎 氏

さとう よういちろう

佐藤 洋一郎

1952年、和歌山県生れ。77年京都大学農学部卒業。79年同大学大学院農学研究科修士課程修了。農学博士。国立遺伝学研究所助手を経て、94年現職に。著書に『DNAが語る稲作文明』(96年、日本放送出版協会)、『稲のきた道』(92年、裳華房)、『稲とはどんな植物か−コメ再考』(95年、三一書房)、『DNA考古学』(99年、東洋書店)、『森と田んぼの危機(クライシス)−植物遺伝学の視点から』(99年、朝日新聞社)、『縄文農耕の世界−DNA分析で何がわかったか』(2000年、PHP研究所)など。

2001年9月号掲載


朝鮮半島には存在しない、中国固有の水稲が出土!

──ところで、弥生時代の稲作でも興味深い発見があったとか。

佐藤 1995年に、私の勤務する静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ水田跡が発見されました。この水田跡は、古墳時代のもので、3−4畳半程の小区画が連続しているという形状をしています。

──5万−uとは、また随分広いですね。

佐藤 収穫量を計算してみたら、少なく見積っても15tくらい。100人以上が米だけで暮らすことのできる量ですが、当時のその地域の人口はそんなに多くなかったのです。

そこでその一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明しました。結局、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。

──せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?

佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。

そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性があると思うわけです。

──なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析というのは、本当にいろいろなことが分りますね。

佐藤 これだけじゃないんですよ。実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。

中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類
中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類

──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?

佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。

──確かに、有力な証拠ですね。

佐藤 求められるのはいつもそこですから(笑)。実際、柳田國男氏が「海上の道」と呼んだ、熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達するといわれる道筋は、南西諸島に稲作跡がないのを理由に、物語としてしか扱われていなかったですからね。

──お話を伺って、縄文時代だけでなく、弥生時代のイメージも随分と変りそうです。

佐藤 余談になりますが、私は卑弥呼も弥生人ではなく縄文人だったのではないかと思っているんです。というのも、まず入れ墨をしていた、そして海に潜って魚を獲っていたというのが弥生人らしくないですよね。さらに、生姜やみょうがなどのハーブ類を食べなかったというのも気になります。生姜やみょうがというのは、中国大陸から伝来したものですから、渡来してきた弥生人が食べないはずがないんです。

──そういわれてみると、卑弥呼がお酒を飲んでいたという記述も気になりますね。

本日は、大胆な仮説の数々を大変楽しく伺わせていただきました。ところで、今後はどのような研究をお考えですか?

佐藤 日本中のいろいろな時代のいろいろな遺跡の稲のDNAを調べて、どこからどのルートでその遺跡に稲作が伝わってきたのかを調べたいですね。それにより、日本人のルーツさえも見えてくると思うんです。

これまでいくつかの新説を発表してきましたが、周囲からは最近「今度はあなたが追われる番ですよ」なんていわれているんです。覚悟しなければ!

──いやいや、今後も新しい発見を伺うのを楽しみにしております。本日はありがとうございました。


近著紹介
『DNAが語る稲作文明』(日本放送出版協会)
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