「努力をしたら豊かになれる」の幻想


読んだ。

「努力が報われない社会(努力をしてもしなくても報われる社会)」

これがいいに越したことはないよね、という点については同意できます。ただ、他の部分でどうなのかなっと思うところがあったので、あくまで補足的に、単なる注釈程度の重要性として書いていこうと思います。

国への貢献

構成員一人一人の「努力」そのものが、 社会を発展させていく上で非常に大きなウェイトを占めているため

むかしはこれが確実な時代もありました。質を必要としない労働を、できるだけ大勢でやればやるほど国が豊かになれた時代です。そうした労働は機械で代替できるから、労働の質を高めよう、それが現代の考え方です。効率的にしよう、アイディアを出そう、付加価値の高い仕事にしよう。それと努力は関係するのかどうか?というのがまず一つの疑問です。

仮にそれが正しいとします。でも、ひとりひとりの力よりも構造の流れが強ければ全体に影響は与えられません。労働生産性の概念で考えてみましょう。

公益財団法人日本生産性本部 生産性とは

算出式を見ると、生産量/労働者数や付加価値額/労働者数です。頑張ったら生産量や付加価値額が増えるの?ということになります。

生産量や付加価値額を決めるのは個人の努力だけではありません。ひとりひとりが効率よくできても、アイディアを出しても、産業構造、企業間の競争、外国の景気、部分最適を積み重ねても全体最適にはならない、パワーバランス、そういった要因の方が与える影響は大きいという仮定が正しいならば、個人の努力は影響がないということになります。

公共事業や大企業とその下請けを想像してもらえばわかると思います。予算が決まって上から下へと投げられるだけで、基本的には下がいいものを作ろうと努力しても意味がない。対価が予算で決定されてしまうのであれば、付加価値をつけても高すぎるからと断られたり、予算内でその効果を発揮するように求められたりします。

だから、ひとりひとりの努力でどうこうというのは幻想の可能性があるよねーということです。特に、労働生産性が低い!上げるにはひとりひとりが頑張らねば!といった主張からは距離を取る必要があると思います。統計によってはこういうこともあるようです。

当該就労者には、国外からの流入者はカウントされていないために、国外からの就労者の多い国の指標が高くなる傾向があり、国外からの労働者の少ない日本は、比較的低い結果となってしまう。
労働生産性とは - MBA用語 Weblio辞書

個人

個人については、成功と努力は非関連だよね、という見方を強調しています。


一昨日の記事で一通り書きましたが、ざっくりまとめます。努力を目標達成のために最適だと判断した行動をとることだと定義するなら、問題点がいくつかあります。

外部環境の変動や限定合理性(確実な判断はできないことへとつながる)があるため、目標設定や最適な行動は正しいかどうかがわかりません。また、個人の性向や才能が関連してきます。一昨日の記事では、努力したという人は機会費用(機会費用とは|金融経済用語集)を払っている点は認められるべき、ただし、同じ負担をした人でも才能や性向、外部環境のリスク、成功と名のつく椅子の数は決まっている、そうした問題は残ると書きました。

努力は成功に関係ない可能性があるにもかかわらず、成功した人、してない人問わず、バイアスがあるように思います。それは「成功してないのは努力してないから」「努力してない奴は機会費用が軽い(俺より苦労が軽かった)」「だから現状で負担が増加しても仕方ない、自業自得だ」という見方です。また、そのように成功と努力をひもづければ、自分より下の階級へ再分配する必要性を否定できます。自分の損失最小化の一環として成功ー努力モデルを訴える可能性があります。

このとき問題になるのは、中流層はその生活故に再分配を過度に求める必要はないため、自分より上の層からそうした視線を向けられても、大して困らないということだと思います。それ故に、損失になりうる下の階級からの再分配圧力に対して上位階級と連帯するようになり、こうして下位階級は分断されます。

他方で、本記事を武器にして完全な平等を求めるつもりはありません。なにもしたくないが故のバイアスがかかった主張が存在する可能性もあります。私はニートですのでお察しください。どちらが事実として正しいかは興味がないのですが、多様な解釈のひとつとして書いてみました。