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【千葉】

<黒沼ユリ子の御宿日記> 人生の区切りに思う戦後70年

 昨年はメキシコや東京で引っ越しに追われた。「後期高齢者世代」のことをメキシコでは「これまで決しての世代」(エダー・デ・ラス・ヌンカス)と冗談まじりに言う。つまり私にとっての昨年は、「これまで決して」無かったほどの大型引っ越し年(イヤー)で、「もうこれで引っ越し嫌(いやぁー)」と言いたくなる年だった。

 以前にも大西洋や太平洋をまたいだ引っ越しを何回となく経験していた私だが、何しろ今回は四十年余りも自分の生活の本拠地としていたメキシコから日本への引っ越しなので、たまりにたまった、全く記憶になかったモノたちが次々と目の前に現れ、ビックリし通しだった。

 これもメキシコ人たちが言う「悪いことは良いことのためにしかやって来ない」と考えて、この引っ越しが人生最後の「ひと区切り」をつけてくれたのだと、ありがたく思うことにした。

 古今不滅の有名交響曲には、コントラストに富んだ楽章が次々と現れるからこそ、百年を経ても名曲として生き続けているのではないだろうか。

 歴史とは交響曲の楽章を重ねるようなものだ。二〇一五年を戦後七十年という大きな「区切り」と考える時、過去から学んだことを明日につなげなければ、と切実に思う。

 一九四五年八月、日本が無条件降伏した後の空腹の度合いは、当時五歳だった自分の記憶にもはっきりと刻まれている。そして、その後の日本の経済発展は、平和憲法の下で「戦争知らずの七十年間」であったからこそ、ということを忘れてはならない。

 さらにこの間、日本が見て見ぬ振りをしてきたアジアの隣国との関係にも、この際「ひと区切り」をつけて改めることはできないものだろうか。

 今回の引っ越しで一九五八年にプラハへ留学して以降、私が海外から親元に送り続けた絵はがきの束が東京の母の家から出てきた。

 その中に「中国人留学生と仲良くなって話をしていたら、彼女に『日本人は中国人を嫌いでしょ?』と決め付けて聞かれたので、びっくりしました。はじめから否定形だったので…」と書いてある一枚を見つけた。それは五十年以上も前に書いた手紙なのだが、もし現在そう聞かれても、誰も不思議には思わないのではないだろうか。

 同じ敗戦国のドイツは、侵略、占領したフランスと和を結び、欧州連合(EU)の統合を進めているのに対し、日本と中国、韓国、東南アジアとの関係は残念ながらまだその域には達していない。

 ドイツのガウク大統領は二〇一三年九月、大戦中にナチス親衛隊が村民ほぼ全員を殺害したフランス中部オラドゥール村を独首脳として初めて訪ねた。そして虐殺現場が当時のまま保存された廃虚の中をフランスのオランド大統領と一緒に、奇跡的に虐殺を免れた生存者と手を取り合い慰霊したという。

 欧州の歴史家たちは、歴史認識を共有し、各国共同で使う現代史の教科書を作った。私の夫は、ポーランド南部にあるアウシュビッツ強制収容所跡の国立博物館前にドイツ人学生を乗せたバスが並んでいるところを目の当たりにしている。

 自己の犯した罪を心の底から認めて謝罪しなければ二度と再び友人にはなれないことは、小学生でも知っている。

 日本の歴史を創る政治家たちも、各楽章に変化を加えつつ最終楽章の結尾部(コーダ)に運ぶ大作曲家のように、「世界平和」という最終目的に向かって大胆な変革の「区切り」を歴史にもたらすよう、果敢に挑んでもらいたい。 (バイオリニスト)

 

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