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【戦後の地層】

国民服と日本人 敵・欧米の洋服着る矛盾

雑誌「国民服」(文化学園図書館所蔵)

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 戦争中、街をカーキ色に染めた国民服。生地を軍用に回すという現実的な理由とともに、敵国である欧米の洋服とは一線を画したいという自意識のあらわれでもあった。身にまとうものは今も、人の心や社会のありようと影響を及ぼし合っている。 (渡辺大地)

 「剛健なる精神は質実な服装を要求する」「個人主義、自由主義は許されるべきではない」−。1941(昭和16)年、陸軍の影響下にあった大日本国民服協会が発刊した雑誌「国民服」。その創刊号をめくると、国民服の普及に向けた大号令にあふれている。

◆「戦争楽しむ」道具にも

 男性を対象とした国民服は陸軍や厚生省が中心となってデザインを決定。軍服と同じ国防色のカーキ色で、襟の形などが異なる「甲号」と「乙号」の2種類が定められた。

 「洋服と日本人−国民服というモード」の著書がある武庫川女子大講師の井上雅人さん(デザイン史)は国民服誕生の背景として「鬼畜米英と言っている時代に洋服を着るのは大きな矛盾。『一等国』を目指した日本の自意識の問題でもあり、国民の側からの機運も大きかった」と指摘。「太平洋戦争の開戦当初、日本軍が破竹の勢いを示していた時期には、戦争参加を楽しむための道具ともなった」と話す。

 まだ和服が多かった時代。国民服は空襲時の逃げやすさに加え、「儀礼章」と呼ばれる飾りを胸元に着けるだけで礼装となる便利さも受けた。40年に制定された国民服令に強制力は無かったが、終戦直前にはかなり浸透し、戦後の洋装化に貢献した側面もあるという。

国民服を仕立てていた父親を持つ白瀬一郎さん=東京都品川区で

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◆着る自由=民主主義

 戦後、国民服令は廃止。井上さんは、「着る自由」は戦後民主主義の一端を担ったと考えている。「意見を表明することが苦手な傾向がある日本人にとって、ファッションは違いを表現する手段。誰もがそれぞれの形で幸福になりうるという民主主義の生活像を共有するのに、視覚的にすごく意味がある」

 モードの世界では国際的に活躍するデザイナーが現れた。2014年、ブランド「コムデギャルソン」の創始者・川久保玲さんは反戦をテーマにした作品をパリコレクションで発表している。

 しかし、今も「着る自由」は、思わぬ壁に直面することもある。

 昨秋、絵本作家いわさきちひろさんの孫で自身も絵本作家の松本春野さん(30)は、ネットで自分に寄せられた「反日」「非国民」という批判に困惑した。東京都新宿区であったヘイトスピーチ(憎悪表現)に反対するデモに参加するにあたって、朝鮮の民族衣装「チマ・チョゴリ」を着て歩くとネットでつぶやいたのが原因だった。「単純にかわいいから着たかっただけなのに」

 1面に登場するテーラー店主で、全日本洋服協同組合連合会顧問の白瀬一郎さん(77)はリクルートスーツが不思議だ。「自分を売り込むときに、何であんなに没個性の格好していかなきゃいけないの。自分の顔や体形に合った色や装い方だって自己表現の一つなのに。逆に言えば選ぶ側に素養がないのかな」

 

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