東京レター
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【戦後の地層】戦争と文化芸能 戦争の道具にされた芸人
国力のすべてを戦争に−。1938年に成立した国家総動員法は、経済活動のみならず、文化・芸術・芸能までも戦争の道具にしていった。漫才師たちは海を渡って戦地で兵隊を笑わせ、国内で戦時スローガンを浸透させる役割を担った。(飯田孝幸、渡辺大地) 「移動中に崖の上から銃撃されたこともある。線香を供えられた遺体は、前日、漫才を聞いてくれた兵隊だった」 漫才師の内海桂子さん(92)は43、44年に、陸軍が編成する戦地慰問団に参加し、旧満州と中国北部を訪れた。 軍部につながりのある芸能会社が慰問の仕事を請け負い、芸人を集めていた。慰問先は戦地だけでなく、内地の部隊や軍需工場にも及んだ。芸人も、芸能会社も、戦争で仕事を増やした人たちがいたという。 「国には戦争でえらくなる人もいる。戦争をあおって飯を食ってる人がいたんだよ。そんなのがなければ、戦争しなくても済んだかもしれないのに」 ◆吉本は「わらわし隊」漫才師の戦地慰問は31年の満州事変の直後に始まった。大阪に拠点を置く吉本興業は38年、日本の戦闘機部隊「荒鷲(あらわし)隊」にちなんだボランティアの慰問団「わらわし隊」を派遣する。同社文芸顧問の竹本浩三さん(79)は「戦争が進むと国内の劇場は閉鎖されていった。吉本は軍に協力して、興行を継続させようとしたんだろう」と話す。
◆軍批判も反戦漫才も当時、国内の舞台は事前検閲の上、警察の監視下で行われたが、戦地は別だった。竹本さんは「あすの命もしれない兵隊の前で、ぬるま湯の漫才なんてできない。軍批判も反戦的なものも自由にやった」と話す。 陸軍情報局で言論統制の中心的役割を担った鈴木庫三(くらぞう)少佐は漫才を国策宣伝の有力な手段と認識していた。41年の雑誌の対談では「吉本興業で漫才師300人を集めて、午前2時まで講演したことがある。時局漫才は、笑わせながら時局認識を与えようというところがある」と話している。 漫才にとどまらず、文化芸能は戦争と深く結びついていた。「詩歌と戦争」の著者で東京外大大学院の中野敏男教授は軍の暴走だけでは、その背景は説明できないと考えている。32年の上海事変では、敵陣への突撃路を確保するため3人の兵隊が爆死し、爆弾三勇士と呼ばれた。新聞は関連記事を連日書き、映画、演劇、歌、講談、漫才になり、国民は熱狂した。「国民が求め、(見せる側が)大衆迎合した」と指摘する。 ◆秋田実が書いた国策漫才<貯金戦は> A 余らん金を無理に余らすのが真の貯金や。 …中略… B ぼくも明日から電車賃を節約しよう。天気のいい日は歩いて通う。 A 雨の日は、仕方がないから… B 会社を休もう。 A そんなむちゃなこと。 B 家のやりくりも節約しよう。 A それがよろしい。 B まず、節約の手始めに、諸事の支払いを延ばして、その金を貯金に繰り入れる。貯金もたまるし借金もたまる。 <国策百貨店> A いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます。こちらは国策百貨店でございます。 …中略… A 6階はお菓子売り場でございます。ご参考に申し上げますが、砂糖が統制の折から、当店のお菓子は、せいぜい、古いものを選びましたから、ご利用願います。 B 君、古い菓子なら腐敗して、味が酸っぱくなってるんと違いますか。 A それだから、壁に、酸っぱい(スパイ)にご用心とポスターを貼りだしてございます。 戦後70年の今年、東京新聞ではシリーズ「戦後の地層」を随時、掲載します。ご意見、ご提案をお寄せください。手紙は、〒100 8505 (住所不要)ファクスは03(3595)6919 電子メールはshakai@tokyo-np.co.jp 東京新聞社会部「戦後の地層」取材班へ。 PR情報
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