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【戦後の地層】

標語の魔力 「空気」に踊らされず

 「欲しがりません勝つまでは」−。子どもの歌から、おじいさんおばあさんの詩吟まで、気がつけば生活の隅々まで戦争協力に染まった時代があった。官と民が一緒になって、標語をはじめとする国策宣伝を浸透させ、戦時中の気分を作り上げた。 (岩崎健太朗)

戦時中の雑誌

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◆現代にも共通の構図

 当時一番売れていた少女雑誌「少女倶楽部(くらぶ)」の付録で付いていた「日の丸の歌」。売れっ子西条八十が作詞し、振り付けも付いていた。「日の丸を普及させたいというのはお上の通達でも、踊りまでつくれとは言ってないと思うんですよね。日の丸普及に乗っかって雑誌を売りたかったのでしょう」。編集者で「『愛国』の技法」の著書がある早川タダノリさん(40)は話す。

 標語などによる組織的な国策宣伝は、1937(昭和12)年9月、第1次近衛内閣の下の「国民精神総動員運動」から加速していく。「運動の推進本部があって、雑誌や自治体、職場などでも国民精神総動員実行標語みたいなものを募集した」

 早川さんは標語が好まれたわけを「短い言葉に国策や時代の空気が凝縮してるところ」と考えている。情報発信する側にとっては、論理的な説明をするよりはるかに簡単だ。地域の住民や子どもから標語を募集する現代の原発推進施策などにも共通の構図を見る。

塔の建設工事に従事した安田郁子さん=宮崎市の平和台公園で

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◆「八紘一宇」復権に懸念

 太平洋戦争開戦前年の1940年には、愛国心を植え付ける「キャンペーン」が盛り上がりを見せた。観光業まで巻き込み、日本の建国から数えて「紀元2600年」とされた年を国中が祝った。

 奉祝事業でこの年建てられた高さ37メートルの塔が、宮崎市に現存する。県内や、旧満州国、パラオなどから2000個近い石が集められた。「八紘一宇(はっこういちう)」という文字が刻まれる。

 「八紘一宇」は日本書紀に由来し、「天の下ではすべての民族は平等で、世界を一つの家としよう」という意味。戦時中、日本を盟主とする「大東亜新秩序」建設を進める標語として唱えられた。

 終戦直後、占領軍の指示で塔の文字は削られたが、1964年の東京五輪を機に復活する。塔の前が聖火リレーの起点となり、「五輪と八紘一宇の精神は同じ」という地元経済人らの意向を受けてのものだった。

 「あの時代、いかに踊らされ、戦争に突き進んでいったのかを知らず、『八紘一宇』も平和を目指したものだと肯定的に捉える人が増えている」。地元の市民グループ「『八紘一宇』の塔を考える会」会長の税田啓一郎さん(71)は懸念する。

 安田郁子さん(89)=宮崎県高鍋町=は女学校の時に塔の建設にかり出された。作業に向かう行進で歌いながら「よいしょ」とか「どっこいしょ」とか合いの手を入れたことを覚えている。

 八紘一宇という言葉に今も違和感はない。でも敗戦の時、痛感した。「地球の中じゃ、日本は点よ。舞い上がっとったね」。政治家にもそのことは忘れないでほしいと思う。

 

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