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ramensanstの屋台

2015-01-09

『日本語に主語はいらない』の文法教育史的記述を批判する


ダイアリーの最初がこんな記事になると思わなかったよ!

ひさしぶりに、以下の文献を読んで、率直に言ってイライラしましたw

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)



この文献については一時期ネット上でも議論が噴出しましたし、その議論のひとつの核としてはdlit先生の以下の記事が詳しいです。批判の方向性だけまとめると「先行研究の検討が足りないのに、軽々しく何かを位置づけたり批判したりするんじゃない」ということになると思いますし、その感想はわたしも激しく共有します。

http://d.hatena.ne.jp/dlit/20071216/1197757579

それじゃあなんで時期も逸したいま、わざわざこの本についてエントリをあげるかというと、自分の専門である文法教育史についても、以下のような軽率な記述があるからです。

「現に文部省(現・文部科学省)お墨付きの学校文法は、上記の大槻文法から橋本文法(1935年)へとバトンタッチされて、明治以来100年以上にわたり延々と長寿を保ってこられたのである」(金谷2002、p.13)


これ、この時期の文法教育史をなんとか書こうと思っている自分には、もう要素ごとに区切っていちいち批判を加えたいくらいの一文です。この分野で批判ができる(かつブログを書ける暇な)人間は少ないでしょうし、一言書いておこうかなというのがいきさつです。

では以下、実際に要素に区切って、逐一批判していきたいと思います。

(1)「文部省(現・文部科学省)お墨付きの学校文法は」

少なくとも、当時の文部省が権威づけした「一つの正しい学校文法」というものは、当時も、そして今も存在しません。かなりざっくりした計算ですが、1897(明治30)年以前だけでも、検定を通過した中学校文法教科書は10種類以上あります。その中には和学をベースにしたものもあれば、完全に洋学的な詳細な品詞分類をとるものもあります。明治30年ごろに一枚岩の「学校文法」があって、そこへ大槻が「主語」概念をとりこんだのだ、というのは歴史的に見て間違いです。
ついでにいえば、現代の教科書においてだって、各教科書の内容は完全に一致しているわけではありません。たとえば文の成分(文節間の関係)として並立の関係を立てるかどうか、助動詞や助詞の用法としてどういう機能を立てるか、については実は教科書ごとにかなり差異があります。昔も今も共通で確固とした「学校文法」がずっと続いている、ととれるような書き方はやめていただければなあというのが本音です。

(2)「上記の大槻文法から」

この部分だけだとどの文献を指してるのか不明ですが、1つ前のページに「1897年」(p.14)という記載があるので、たぶん明治30年の『広日本文典』(私家版)を指してるんだと思います。ただし「国語の時間に「文には主語と述語がある」と教え続けて来た」(同上)と教育の文脈での議論をするなら、検定通過教科書を使って議論するべきです。『広日本文典』は検定を通過していない(そもそもこれは教科書でなく理論書な)ので、『広日本文典』をもって「教え続けてきた」かどうかを議論することは、本当はできません。

ちなみに同じ1897年には大槻が『中等教育日本文典』(大林徳太郎、山崎庚午太郎)(※すみませんが筆者未見)という教科書も出していて、これは大槻の検定通過教科書で最初のものなので、もしここに「主語」と「述語」の議論があるなら、金谷の批判もあながち的外れではありません。もしこれを参照したうえで「1897年」といっているならお見それしました、って話なんですが、金谷の研究環境(フランス滞在)を考えると、その可能性は低いんじゃないかなー、と……

ついでに脱線だしこれで金谷を批判する気はないですが、検定通過教科書のうちで「主語」に代わる概念を出しているのは、大槻が最初ではありません。関根正直の明治28年『普通国語学』(渡邊兵吉)は、「主語」にあたる概念として「主部」という術語を提示し、「は」「も」「の」「が」などの助詞が「主部」をつくるとします(三十八ウー三十九オ)*1。文法教育に「主語」を持ち込んだ「犯人」探しをするなら、少なくとも大槻ではないといえます。さらに脱線すると、関根は「主語」という述語を学校文法でいう「自立語」にあたる概念(単独で用いられる語)に用いていて、「主語」という術語の用法が当時まだ揺れていたことがわかります。しかも関根は、日本語の品詞を「主語」になるか「助語」(付属語)になるかどうか、さらに体言(非活用語)であるか用言(活用語)であるかどうかで分類してまして、これ完全に現代の学校文法の品詞分類じゃん、という議論をしていたりします(七ウー八オには、どっかで見たことあるような品詞分類図まであります)。このあと大槻なんかは従来通りの意味を中心にした品詞分類に戻すことを考えると、なんで関根の品詞分類は当時無視されてしまったのか、そしてそれがなんで橋本進吉で復活したのか、っていうのは面白い点なんじゃないかと思います。

まさかの続く。

*1:もっと脱線すれば、この教科書は教師時代の山田孝雄が生徒から「は」は主語だけを表すとはかぎらないと指摘され、文法研究を志すに至った、という有名な逸話のときに使われていた教科書らしいです。いま出先でリファレンスを貼れないので、必要であればあとで探します(ぇ

フランスからでもフランスからでも 2015/01/10 14:35  本文の「(大林徳太郎、山崎庚午太郎)」という部分は理解できなかったのですが,大槻文彦『中等教育日本文典』(1897年)であれば,国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで簡単に閲覧でき,138頁(87コマ)に「文ニハ、必ズ、主語ト説明語アルトヲ要ス」とあります。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/864071/87
(なお,上記の85コマと86コマは重複のようです。)

ramensanstramensanst 2015/01/10 15:26 >フランスからでもさん
ああ、「中等教育日本文典」という組みのキーワードでしか検索していなかったので、所在を見落としていました。ご指摘ありがとうございました。だとすると、この資料も閲覧していた可能性はもう少し高くなりますね。

killhiguchikillhiguchi 2015/01/10 22:18 はじめまして。
近代デジタルライブラリーのインターネット公開は2002年からです。金谷本の出版年です。したがって、著者が近デジを見た可能性は低いと思います。

ramensanstramensanst 2015/01/10 23:08 >killhiguchiさん
情報ありがとうございます。いろいろ確認不足で申しわけありません……
やはり『広日本文典』が参照されていた可能性が高いと、考えておきたいと思います。

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