思いつきのメモ帳

2015-01-11

[][][]反論のための反論、それと個人攻撃

はてなブックマーク - 教科書からの「従軍慰安婦」、「強制連行」記述削除の意味を考える - 思いつきのメモ帳で良いサンプルがあったので指摘しておく。

hitouban びびり虫だね、シェア率高い大手出版社の歴史教科書ならともかく。「我々サヨクは教育現場の教師を信用していない」と言ったらどうなのさ/繰り返す。「教科書の記述を押さえたら勝利」はつくる会と同じ。


the_sun_also_rises シェア数%の現代社会と政治経済の教科書からの削除だから大きな影響はないよ。例えば山川出版の日本史から削除だったらかなり大きい影響があると思うが山川のは強制連行も慰安婦もきちんと記述はある←日本史Aで確認


主にid:hitouban氏のブコメに対してだが、「教科書の記述を押さえたら勝利」に引用スターを付けているid:the_sun_also_rises氏についても言及しておく。

1コメント内で整合しない二つの主張

 彼らは「シェア率高い大手出版社の歴史教科書ならともかく」 とか「シェア数%の現代社会と政治経済の教科書からの削除だから大きな影響はないよ」と言いながら、「「教科書の記述を押さえたら勝利」はつくる会と同じ。」などと言って相手を批判するのは論理的におかしいと思わないのだろうか?
 教科書シェアの大小が社会に影響を与えると言うのなら、彼らは教科書の社会的影響力を認めていることになるので「教科書の記述を押えたら勝利」(そもそも「教科書の記述を押さえたら勝利」はつくる会と同じ。自体が藁人形論法のようなものだが)とかいう命題も誤りと彼らの立場ではいえないだろう。つくる会が歴史教科書の作成にこだわるのは合目的的だろう。それ自体は問題視するようなことにはならない。つくる会を問題視するのは、彼らの主張内容、教科書の内容、質に難があるからだ。
 このような一つのコメント内で論理的に整合しない主張をしてくることこそが反論のための反論だろう。また、教科書の記述の有無を重視することに共通性を見出して「つくる会と同じ」と言われても、「それが何か?」という話でしかない。はっきり言えば印象操作でもある。

ある種の人質論法

「我々サヨクは教育現場の教師を信用していない」と言ったらどうなのさ


 まず、元エントリでは日本の学校教育における教科書の位置づけから立論し、それを基に削除の申請をした出版社とそれを認めた国の判断を批判している。現場の教師以前の話である。そして、現場の話として「教科書に載っていない」ことを理由にした副教材の回収の事例を提示した。この例は教育委員会の指示により学校が教材を回収したケースだ。学校内外の権力関係から教師が抵抗しえなかった事例であり、教師を信用するしないの問題にはならない。最後に教育現場の萎縮を懸念したが、部外者が教師に対して「職を懸けてでも従軍慰安婦や強制連行を教えろ」と求めることもできないと考えるからだ。伝習館高校事件を考慮すれば「職を懸けてでも」というのは決して大げさな話ではない。「教科書に載っていない内容を副教材で教えた」ということで、その教師は免職までいかなくても何らかの懲戒処分を受けることもあり得るのである。「信用しているから」と言って、教師の側に一方的にそのようなリスクを背負わせる態度こそ無責任だ。
 また、このような被支援者や被害者を人質にしたような論法はいかがなものか。例えば北星学園大学の件で、大学に対して植村隆氏の雇用を打ち切らないよう求める言論に対しても彼は同じように「大学を信用していない」と言うのだろうか。

個人攻撃

びびり虫だね

はもう正に個人攻撃だろう。

将来に対する懸念

hitouban氏とthe_sun_also_rises氏はシェアの大きい出版社の教科書だったらまだしもというようなことを言っているが、この先そうなってしまってからでは遅いと思うから声を上げているのである。

弱小、零細ブログの記事でも理解してくれる人が一人でもいれば良いと思っている。

追記「教科書の記述を押さえたら勝利」はつくる会と同じ。」は二重の印象操作

 一つは「つくる会と同じ」という箇所で、これはつくる会のマイナスイメージを利用した印象操作。もう一つは「勝利」という言葉の使い方。これは党派の勝ち負けを競う政治的闘争は汚いという先入観を利用した印象操作

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