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戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html
(回答先: 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 27 日 22:54:18)
憲兵だった私の父・大沢雄吉(1915年群馬県生まれ)は、1986年に肝硬変を患い、71歳で亡くなりました。その直前に私は父から紙切れを手渡されました。鉛筆書きのふるえる字で、次のように書いてありました。 「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其ノ間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)トシテ天津、北京、山西省、臨扮、運城、旧満州、東寧等ノ憲兵隊ニ勤務。侵略戦争ニ参加。中国人民ニ対シ為シタル行為ハ申訳ナク、只管オ詫ビ申上ゲマス」 父はこれを墓標に刻んでくれと言い残しました。しかし様々な事情により、その願いをかなえることができないでいます。(昨年、羽生市の翁抗日反戦美術館に、父の遺言文と写真を置かせていただき、ほっとしました。) 父は祖父の道楽のため貧しい少年時代を送り、中学校には行けませんでしたが、猛勉強して憲兵試験に合格したとのこと。高い給料が欲しかったのだと思います。敗戦を旧満州で迎え、二度逃亡して帰国できたそうです。 ゼロから始めた洋品店を大きくすることに心血を注ぎ、働きづくめでした。従軍看護婦だった母もまたよく働きました。父は枕元にいつも「中央公論」を置き、林芙美子の「放浪記」、深沢七郎の「風流夢タン」などがお気に入りでした。五味川純平の「人間の條件」を読んで泣き、その映画を私たちに見に行かせました。田舎には珍しく進歩的、合理的な人間で、尊敬されたり煙たがられたりしていました。 私は父に可愛がられ、人生観、世界観にその影響をもろに受けました、やたら正義感がつよくて突っ走ってしまうのは、父そっくりです。私は子供の頃から、父があの戦争に加わったことを悔やんでいたのは知っていました。しかし一度も、父が実際には何をやったのか聞いたことはありませんでした。 父の死後、謝罪の遺言を残すほど悩み抜いたことを思うにつけ、父があわれでなりません。その苦しみを分かちあってやれなかった自分が情けなくもありました。そこでせめて、父の戦友からどんな事があったのか、話を聞いてみようと思いたちました。
仕事だから仕方無かったのさ:
土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った綱にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」ど、士屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それて先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。・・・ 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき。脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。・・・ 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と士屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。 「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。・・・ 拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。・・・ 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並ペ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。・・・ 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。(p.81-86)
コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死んでいった。 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。 私は、そればかりはどうしてもできなかった。すると、 「これしきのこと、できんのかッ」 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。 中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であった。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。 日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。 1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、 鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、 あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。 http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html
「上官の命令は絶対」 の三つだったと言われます 水木しげる先生がラバウルに出発するまでがマンガで描かれています。本書の後半では新聞配達員をクビになった水木先生に突然、召集令状がきて鳥取連隊に入隊するわけですが、そこから水木マンガでおなじみの初年兵教育と称する上等兵殿のビンタとの戦いが始まるわけですね。*3 (ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気というのか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。
ぼくは分隊に新入りがこなかったため万年初年兵でした。古兵どのの無理難題に日々苦しめられるのです。ぼくは今でも初年兵の頃の夢をみます。これほど情けなく苦しいものは世界にまずないでしょう。(水木二等兵がこぶしを握りしめ歯を食いしばっている描写)
一等兵 上等兵 兵長
ビビビビビン
ビビビビビ の ビビビビビン
ビビビビビン ビビビビビーーーン☆
みなんさん「兵隊やくざ」という1965(昭和40)年に制作された映画を知ってました? 舞台は1943(昭和18)年、満州北端の孫呉に駐屯する関東軍部隊にヤクザあがりの初年兵・大宮貴三郎(勝新太郎)が入隊してきて次々にトラブルを起こす、という内容らしいんですが、封建的な軍隊内での私的制裁(ビンタ、鉄拳、足蹴りなど)の様子がけっこうリアルに描かれいるんですよ。これがまた。 http://d.hatena.ne.jp/dj19/20080527/1211981896
兵隊たちの陸軍史 (新潮文庫) 海軍が兵隊をバッターで殴るのであれば、陸軍は革製のスリッパで殴るというのは概ね事実のようです。 また、「精神的な屈辱と肉体的な苦痛を同時に与える私的制裁」として様々なものが考案されていたのも上記の本に書かれています。水が一杯に入ったバケツを両手に持って各内務班を回って班長に「ビンタをして頂き」、少しでも水をこぼすとまた殴られる・・・と言った類のものです。 そして、新兵を私的制裁以上に苦しめたのは、同じ内務班の「古兵」 (新兵より少しでも前に入営した兵隊) に対し、奴隷のように無限の奉仕を強いられたことのようです。新兵は、寝る時間を削って古兵の洗濯物を洗い、靴や銃などの手入れをし、内務班(兵隊が生活をする場所)を磨き上げねばなりませんでした。新兵は3時間寝れれば上等だったと伝えられています。 そのような苦しい生活に耐えかねて自殺する新兵が絶えず、各連隊には必ず「新兵の幽霊が出る場所」が存在したそうです。 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」 鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。 「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。 上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。 男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。 内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。 そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・
何時も上官から苛められている下っ端兵士が苛め返せるのはチャンコロ位だもんね: 860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg 死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。 漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。 『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。 ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』
小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。 放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。 小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。 予審調書の中で小平は言っている。 「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
「済南事件」:南京大虐殺の先駆けですね。住民の殺戮です。その時にもの凄く多くの中国人の女性が日本兵によって強姦されて殺された。この小平という人物は、その時の兵隊だったんです。 「連続強姦殺人魔」と言われた人の犯罪を重ねる下地が「戦時強姦」で培われていた、っていうことです。そのことが日本が戦争で負けた後に一気に吹き出してきた事件なんですね。 南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。 女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。 女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、 いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。
田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、 以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。 当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の 徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって 自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている
「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが…… 洗脳、と言う言葉がある。
自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
南京大虐殺関連資料集 南京事件資料集 南京事件の真実 仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。… 「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。 泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、 妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。 死体の山に石油をかけて焼き尽くす。 木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。 背中に石を結わえて水中に投げ込む。 輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。 赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。 鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。 婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。 生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。 南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。 おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。 南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。 また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。 そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。 さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。 日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。 中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。 この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。 家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。
女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。 しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。
金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。 子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。
生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。
(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。 (切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。 街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。 (火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。
(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。 (狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。 これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。 日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。 数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。 ”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。 子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです 日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。 妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。 そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。 このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。 しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。 正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。
12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。 南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。 彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。
お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。 血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。 YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。 日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。 南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T) 2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。 3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。 4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。 5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。 6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。 突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。
8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。 彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」
「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。 輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。 タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。 銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。 「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。 更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。 乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」 「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁) 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。 まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。 そして、女の股をひらかせます。 女の膣に釣り糸を挿入。 釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。
男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
南京大虐殺に一番近いのはこれかな。 1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。 お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、 ●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 苦しさのあまり何度も気絶する。その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う 大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、500ccの尿を 恐ろしいころに、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、 (殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。 死体には髪がなくなっていた。死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。 なお、死体は手足を縛られた状態であった。 ◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。 ◆ゴキブリを食べさせる。 ◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。 ◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。 ◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。 ◆小指の生爪を剥がす ◆左乳首はペンチのようなもので潰す。 ◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。 ◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。 ◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。 ◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。 ◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。 ◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。 ◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。 ◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。 ◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。 ◆遺体の乳房には数本の裁縫針が入っていた。 ◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。 ◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。 黒幕のエラーイ人とは コンクリでは: あのコンクリ事件では「被害者が監禁されている事を知り、あるいはその現場で犯行にも参加」していた不良仲間が100人もいた、という話だ。スマイリーキクチというお笑いタレントもネットで関与を噂されて騒ぎになったりしている. 警官になるときの教官がこの事件の取り調べをなさった方で、被害者が監禁されていた部屋を見てただの青少年の犯罪とは思えなかったとおっしゃったそうです。 「でもね、言っとくけどね。人を殴って天井に血はつかないよ。もう、だらだら血を流している人間の顎を更に殴り上げるようなことをなんべんもくり返したんだよ」と。 「さらってきた女の子相手に、いわゆるやくざや過激派のリンチ顔負けだよ」。 聞くところによると、ドラム缶の中から出てきた遺体には頭髪が残っていなかったそうです。なぶられ続けたストレスで、生きている間に全部抜けてしまっていたんですね。 「あの事件は本当に悪いヤツが実はつかまっていない。つかまったのはグループのメンバーで、一番悪どいその頭はつかまっていないんだよ」。
拉致して部屋に連れてくるなり暴行した、って言ってる主犯連中と 被害者に以前から目をつけてた黒幕が拉致を指示して最初に被害者に接触、最初のうち4人はただの拉致監禁役だった。 そのうち黒幕がどうでもよくなり、あとは好きにしろみたいな展開になってから殺人に至る暴行にまで発展した。 上の指示から始まってるから拉致に関しては計画性がある。その後、途端に無計画な暴行にエスカレートした感じあるね。 組織関係の命令で動いてるという感覚と、そのご褒美にもらったおもちゃという感覚が、あそこまで無茶苦茶な凶行の土台になってる気がした。 犯人はそれまでも何回かひったくりやレイプしたりしてたみたいだが、どれも短絡的で突発的なもの。 この件だけ集団行動してるし、最初から監禁する理由が黒幕の存在以外に見えない。
「そしてほんとは誰もつかまるはずじゃなかった。ほとんど完全犯罪だったんだよ」。 犯行グループの一人がオートバイの暴走行為でつかまり、他にもいろいろやっていたので少年院に送られたそうです。 彼がそこである晩以来、毎晩毎晩、壁をひっかきだすのです。同房の人間がやめさせようとしても、その手を振り払って、がりがりがりがりと爪がはがれるほどひっかきつづけ、やがてそれは所内の職員のお偉いさんの耳にまで入ることになりました。 どうしてそんなことをするのか尋ねられ、彼はぽつりぽつりと話し始めたそうです。実は、人を殺したことがあって、その娘が壁の中から出してくれ出してくれって言うものだから、と。 はじめは精神鑑定を受けさせよう(受けさせたのかな?)ということになったらしいのですが、どうも気が触れたにしてもうそをついている様子ではない。供述された場所に行くと、本当に空き地があって、ドラム缶があって、中から遺体が出てきたという事です。 話を聞き終わって、その友人がぼそり、「俺はお化けや幽霊がいるかどうかは知らない。だけど人には、自分の心を欺けない時っていうのがあるんだな」と言いました。 49 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 14:10:40
ヤン女に憎まれるのも大方解る。 …それで、結局大久保松恵って…?
松枝も関与してんだな。
拉致は「ヤクザが追っているからかくまってあげる」と言ったとか。 加藤の指示で、拉致、監禁、暴行。
暴行のあとが一番酷かったのが顔だったというから最初は案外松枝の嫉妬からの拉致監禁だったのかも知れない。 それがこんな結末を迎えるとは予想外だっただろうがな。
この事件の黒幕は加藤と xx なんだよ。一億円は宮野への謝礼金だ。
飯島は加藤の浮気と彼女への容姿のコンプレックスに逆上して彼女をトコトンいたぶるように命令した。 xxも暴行に加わってた可能性もあるね。AV女優になったのは全身整形で美しく生まれ変わった自分を見て欲しいという願望とか自己陶酔。 よほど芸能界を目指していた彼女が羨ましくて妬みや嫉妬が酷くてかなり自分の容姿にコンプレックスを抱いていたんだと思う 顔が変形するほどに殴るとか女性器を破壊するなんて… 全部 xx の妬みや嫉妬から始まった事件だろう。黒幕なら
俺、20年前に埼玉県の三郷の高校に通ってた。 ダチが何人かついてったら、コンクリ殺人の監禁場所の家だった。 あの時いたヤンキー女どもは、円光や風俗店でバイトとかAVに出演して 一方,南京大虐殺の黒幕の方は:
鬼頭久二(1916年8月生まれ) 南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。 とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。 命令が出てなかったらこっちはしませんよ。 北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。 皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。 南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?
「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。 そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。 三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。 略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった. どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。 日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには 日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は 天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。 中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4) 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5) 東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。 昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。 「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。 ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。 ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」 「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。 終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。 戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。 大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。 ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。 だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。 佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、 「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。 これは当時としては真実である。 しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。 それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。 キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。 みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。 その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。 裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。 戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。 そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。 その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。 天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。 1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。 彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。 私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。 彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。 公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。 _______________________________________________________________
731部隊の全貌 731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、 堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。 やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。 私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。 実験その1。 この場合限界まで外に置き完全に凍傷をさせる死の直前まで外に置く。 死んでは治療が出来なくなためです。そして体に出来た各部の凍傷を治療するという人体実験。 零下40度cの中に、長時間置かれるだけでも苦痛なのに。凍傷しているかを試すのに、
腹部に銃弾を撃ち込み、その銃弾の摘出手術をするという人体実験。
無理やり全身麻酔の注射をして、人体を解剖し、足、腕、を切断し、接続する人体実験。
「マルタ」の男女にセックスをさせる実験。目的は梅毒に感染させるため。
細菌に感染させる人体実験。チフス、ぺスト、コレラ、赤痢、結核、梅毒等に感染させて、
兵士の背負う重装備の「背嚢」→はいのう。約30キロはある重い物を あるいは飲料水と乾パンだけで、何日耐えられるか。 この実験には2人の中国人が使われた。何も与えない人。水と乾パンだけの人。
臓器摘出の人体実験。「マルタ」に全身麻酔をして、切り開かれた体内の臓器に、 そして摘出をして、ホルマリン漬けにする。まだぴくぴくと動いていたという。 実験その8。 「マルタ」を逆さつりにして、何時間何分で死に至るのかの人体実験。 実験その9。 猿や馬の血液と人間の血液の交換実験。「マルタ」の体内血液を全て抜き取り、
答えは、かってシベリア出兵の時日本軍は凍傷に悩まされた経験を持っていました。 この実験で手足を無くした「マルタ」の身体は、かろうじて残された頭部だけです。 その他「マルタ」を柱に縛り付け、空中から細菌爆弾を投下し効果がどの位あるのかを実験した。 毒ガス実験では、ガラス張りの中に「マルタ」を入れ、毒ガスで死亡していく経過を映像に記録したり。絵画を描いたという。
梅毒の実験の。スペロヘータの実験の。それは思い出ありますね。 えーと、やられた先生は、園田中佐。教育隊の中佐のね。 それで私たちが入ったのは梅毒のそれをやったあとですから、恥部をずうっと切り開いとったですね。 その実験がどういうようにしたとかはお聞きになりましたか? いやー、それは聞いてない。それは恥部と、それとあばらを開いとったですね。 その中をどうあたっていたかは覚えてないですね。顔とかはあたってないです。
結局カプセルの中に入れて空気を抜くわけです。そうすると穴という穴から腸とか全部飛び出してくるいうて、凄かったらしいです。 それを言われた方、覚えていますか? はい、1班におったのですね。茨木の方です。4年次になってちょっとして聞いたですね。 何班ですか? それは研究班になるんですね。岡本班ですね。どういう意味でやったのかそこまで聞かなんだけどね。
撤収作業で緊急を要したのは、マルタの処置であった。 ロ号7,8棟に、青酸ガスを噴出させて、かなりのマルタを殺した、 つまり、マルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープをまき、その中央に棒を差し込んで、2人がねじるのである。 もちろん、私たちはかたわらで銃を構えている。2,3分で2人とも自らの首を自らの手で締め上げていった。 この方法で私たちは多数のマルタを殺した。また、その他いろいろな方法で、マルタを整理したのである。 私たちは、マルタを殺す前、マルタ自身に溝を掘らせてから処置することも忘れなかった。 そんな時、彼らは足かせを引きずりながら、生気の無いドロンとした眼で、シャベルや鍬(すき)をにぎっていた。 アメリカが主導した○○○○の戦争犯罪の証拠隠滅 ○○○○と731部隊 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。) 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。 昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。 新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。 ※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房) ・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。 1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。 ・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。) ・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。 このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。) ・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。 ・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。) ・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。 ・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。 ・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。 ・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。 ・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。 ・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。 ・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き) ・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。 日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社) http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学や京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。 1947年、国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。 1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[7]。 1952年の名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644部隊にいた小川透、東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。 同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。 1956年、新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見、浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これはアメリカ軍の生物兵器部隊406研究所の出資により行われた、米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。 1967年、ミドリ十字は赤痢予防薬の人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。 1993年、大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。 近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。
安東洪次(大連衛生研究所→武田薬品顧問) 石川太刀雄丸(731郡隊→金沢大医学部) 江島真平(731部隊→国立予防研究所〔予研〕) 緒方富雄(防疫研究所〔防研〕→東大医学部) 岡本耕造(731部隊→兵庫医大・東北大等) 小川透(1644部隊→名古屋大医学部) 笠原四郎(731部隊→北里研究所) 春日仲善(731部隊→北里研究所) 北野政次(731部隊→ミドリ十字取蹄役) 木村廉(防研→京大細菌学教室) 草味正夫(731部隊→昭和薬科大) 小島三郎(1644部隊→予研第2代所長) 児玉鴻(731部隊→予研初代所長) 正路倫之助(防研→京大) 園口忠男(731部隊→陸上自衛隊衛生病学校、熊本大) 田中英雄(731部隊→大阪市立大医学部長) 田部井和(731部隊→京大医学部) 所安夫(731部隊→東大病理学、帝京大医学部) 内藤良一(防研→ミドリ十字会長) 中黒秀外之(731部隊→陸上自衛隊衛生学校校長) 細谷省吾(防研→東大伝染病研究所長) 増田美保(731部隊→防衛大学) 湊正男(731部隊→京大) 村田良介(防研→予研第7代所長) 八木沢行正(731部隊→抗生物質協会) 山口一季(731部隊→国立衛生試験所) 吉村寿人(731部隊→京大航空医学教室、京都府立医大) 柳沢謙(防研→予研第5代所長)
帰国した次の日、二十日の「しんぶん赤旗」で、私は「ミドリ十字」の見出しの 某病院の照会に、C型肝炎汚染の血液製剤の納入はしなかったとうそをついていたミドリ十字が、実は納入していたことを認めていたニュースだった。このため、医師は汚染血液製剤を患者に使ってしまっていた。 薬害エイズの問題を初めとし、人工血液で捏造問題を次々起こしている「ミドリ十字」の前身「日本ブラックバンド」は、 命を何とも思わない考えは脈々と流れているではないか。 七三一部隊の責任者だった石井四郎は、許しがたいことにアメリカ軍との取引で、 アメリカの侵略戦争は、マルタとなった命を踏みつけて、 ____________________________________________________________________
「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中という者は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。 この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。 ある日、田中という者は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に とそそのかし、私に×××させた。 私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」 日帝野獣は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。 かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、 日帝は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、 『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』 耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で 731部隊やら南京大虐殺と並んで有名な従軍慰安婦問題。 兵隊は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいまし た。ところが、両親は私たちを残して死ん でしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお 母さんに続いて死んだのです。 住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして 弟たちを養いました。 私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋 に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。 彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。 その中には、幼い少女から20歳前後までの 娘たちでいっぱいで100人くらいいました。 水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大 連へ連れて行かれました。 兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江な どで娘たちの一部を汽車から次々と降ろし て行きました。 私は東寧県で汽車を降ろさ れ、20人くらいの女性たちとトラックでプ チャゴルに連れて行かれました。 到着する と将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを 聞かないと殺す」と言いました。 私は5号室に入れられ、着いたその日か ら強姦されたのです。 ある日、2人の女性が兵隊の相手をする のを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。 兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。 その娘たちは兵隊に「犬のよう なお前たちの言うことなんか聞かない」と 言いました。 そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。 血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。 彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って 沸いた湯の中に入れました。 拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。 女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。 ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。 板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。 すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。 この時の火傷はケロイドになってし まったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。 ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。 私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいま した。 私はここの「慰安所」に8年間いま した。 体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。 日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか: A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのか さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で
C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦
F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。 G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。
「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」 と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。 (上記の申立書、ならびにハウスフェルド法律事務所の各種資料は、 http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
日本の戦争責任資料センターの声明では「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。 未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。
出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている) 注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。 名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所 崔イルレ 15 31 拉致 軍人 霊岩 満州 陳キョンベン 16 39 拉致 軍人 狭川 基降(台湾) 鄭学珠 14 38 拉致 軍人 釜山 ハルピン 文玉珠1 16 40 拉致 軍人 大邸 東安省(中国) 姜ムジャ 13 41 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール 林グマ 16 39 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国) 李相玉 14 36 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ 金春子 16 39 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国) 洪愛珍 14 42 就業詐欺 民間業者 統営 上海 李玉粉 11 37 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾 金ブンソン 15 37 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾 金ボットン 15 41 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東 *1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。
現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。 もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。
しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。
彼はわたしに何度もいった。 『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きなければならない』
ポンス記者はこう書いている。 『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。 汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された」 台湾の特攻機地の慰安所での体験を、イさんはポンス記者にこう語っている。 「(慰安所になった)船上で、わたしたち5人は300人の兵にあてがわれました。年上のお姉さんがわたしを隠してくれました。その基地で、わたしは殴られ、犯され、死ぬまで放置されました。わたしの手は針金で縛れていました」 そんな地獄の日々のなかで、イさんはひとりの特攻隊員(パイロット)に会った。 「ひとりのパイロットがわたしにやさしくしてくれました。彼はわたしに何度も言いました。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きねばならない』と。その人だけが、わたしを犯しませんでした」 イさんの証言は続く。 「何ヶ月かが過ぎていきました。わたしがあてがわれた小さな船室には毎日、10人の兵士がやって来ました。船室には寝床と布団と消毒液がありました。 最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していました。(特攻隊員の)彼らもまた犠牲者だったのです」
「ある朝、日本兵が突然、いなくなりました。街の方から中国語の叫び声が湧き上がりました。『戦争は終わった』と」 http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/992.html
”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。 本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。 朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より
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