新 あの日ある時

 

【第1回】   池田先生とオーストリアのウィーン 2009-7-3

【第2回】    池田先生とイタリアのフィレンツェ   2009-7-12

【第3回】    池田先生と沖縄         2009-7-18

【第4回】   池田先生と西大阪総県 2009-7-24

【第5回】    池田先生と新大阪総県  2009-7-28

【第6回】   池田先生と尼崎総県   2009-7-31

【第7回】   池田先生と横浜市       2009-8-4

【第8回】    池田先生と堺総県       2009-8-8

【第9回】   池田先生と東海          2009-8-11

【第10回】  池田先生と東京の北区   2009-8-18

【第11回】  池田先生と常勝大阪総県 2009-8-19

【第12回】  池田先生と神戸市       2009-8-2

【第13回】   池田先生と東北           2009-8-24

【第14回】   池田先生と千葉県      2009-8-25

【第15回】   池田先生と埼玉県     2009-8-26

【第16回】   池田先生とアフリカ    2009-9-6

【第17回】   池田先生とサンパウロ  2009-9-26

【第18回】    池田先生とフィリッピン 2009-10-9

【第19回】    池田先生と北京         2009-10-16

 

 

【第1回】   池田先生とオーストリアのウィーン 2009-7-3

 

信念の人に栄光は輝く

 

ベートーヴェンの家

 マリアは先ほどから、一人の来館者が気になっていた。東洋の男性がベートーヴェンの楽譜の前で、じっと動こうとしない。

 ウィーン郊外の「ハイリゲンシュタットの遺書の家」。

 ベートーヴェンの遺稿やピアノなどが展示されている。質素な一軒家が記念館になっていて、マリアは、その管理者である。

 世界から音楽ファンを自認する来館者があるが、『田園』の曲が聞こえそうな散歩道を楽しんで、次の目的地に去っていく。

 だが、この男性は──。

 かれこれ40分にもなろうか。板張りの床を踏みしめ、一室一室を丹念に回る。マリアは記念館を30年以上も守ってきたが、ここまで真剣な人は珍しい。

 鑑賞を終え、東洋人が近づいてきた。

 その感想を通訳が訳す。

 「死を間近に感じるほどの苦悩があったからこそ、世界一級の作品が残せたんですね」

 そう、その通り! この記念館は、それを感じてもらいたいの。

 難聴で自死までも考えた楽聖の苦悩が宿った館である。

 マリアは急に、うれしくなった。

 奥からアルバムを取り出す。記念に、あなたの言葉をぜひ。

 さっとペンが走った。

 「正義 青年時代に憧れの 大作曲家の家に来たる べートーベンと 常に生き語りし想い出を 思い出しながら しばし、この地にたたずむ ダイサク・イケダ」

 マリアは、通訳してもらい、うんうんと、うなずいている。

 ふと迷った顔になったが、遠慮ぎみに申し出た。

 「ここで一緒に写真を撮っていただいても、よろしいでしょうか?」

 1981年(昭和56年)5月27日の水曜日である。

 以来、日本からの来館者に写真を見せる。「あなたは、プレジデント・イケダを知っていますか」

 なかには、「なぜ、学会を宣伝するんだい」と聞く人もいた。

 マリアは笑みをたたえ、決まって、こう切り返す。

 「そう言うあなたは直接、お会いしたことがありますか? ベートーヴェンの心を深く知っていらっしゃる方だからですよ」

 

精鋭17人で出発

 オーストリアのウィーン。今日も、どこかでオペラの幕が開き、舞踏会のステップが聞こえる。

 石畳の道や、運河に吹く風の中に、いつも音符が踊っているような街である。

 ベートーヴェン。モーツァルト。ヨハン・シュトラウス。ハイドン。シューベルト。ブラームス。

 そうそうたる顔ぶれがウィーンから世に出て行った。

 世界から音楽家の卵がやってくるが、現実は甘くない。

 ベートーヴェンの記念館に行く前日のことである。新緑の森に、ひっそりと立つホテル・クライネーヒュッテでウィーン本部が結成された。

 祝賀の演奏。

 一組の夫婦がフルートを手に立ち上がった。音楽学校で講師をしているキヨシ・ツクイと、その妻でオーストリア人のエリカである。

 1966年(昭和41年)1月。静岡で「五年会」の淵源となる大会に参加したツクイ。池田大作SGI会長が演壇に立った。

 「学会は師子の団体である。まことの師子の後継者に育っていただきたい」「男ならば広く世界を見よ、世界に羽ばたけと申し上げたい」

 世界ヘ──。音楽好きな少年の針路が、大きく変わっていく。

 日本の音楽学校を出て、船で横浜港からソ連のナホトカまで渡った。

 えんえんとシベリア鉄道に乗って、ウィーンまで1週間以上かかった。

 ビザなしでの新生活。言葉が通じない。本場にいながら、音楽を学べない。日本に帰りたくても、もう旅費もない。皿洗いをしながら屋根裏部屋でふんばった。

 77年、ドイツのオーケストラに才能を見いだされ、音楽教育者の国家試験にも最優秀で合格した。

 そんな折にSGI会長をウィーンに迎えたのである。

 演奏を終えたツクイが、思い切って胸の内を明かした。

 「私は、オーストリア国籍を取りたいと思っています」

 SGI会長は、その覚悟を見て取った。「オーストリアの土になる。男らしい決意じゃないか」

 この日、小さな会議室に集まったメンバーを見渡し、このように指導している。

 「きょうはオーストリアに世界一、小さな本部を結成します」

 ウィーン大学に学ぶ女子学生。中南米出身の外交官。音楽を求めて苦学する青年……。

 集ったのは、わずか17人。

 「少数精鋭でいい。とにかく、いい人で。あせらずに、長い将来の基盤をつくっていこう」

 いかなる組織でも、まず中軸をかためる。なによりも、その国土世間に応じた人材を育てる。「真の信仰者ならば、文化を徹底的に愛しなさい!」

 ツクイの胸にずしりと響いた。

 徹底的──仏法にも芸術の道にも、中途半端はない。信念の人に栄光は輝く。

 ツクイは著名なフルート奏者に成長していく。現在は、オーストリアSGIの書記長である。国立放送局などでも活躍。市立ブラームス音楽学院に勤続30年。現在は副校長をしている。

 

カレルギーの友人

 ウィーン国際空港。

 オーストリア大使の小野寺龍二が到着ロビーでSGI会長を待ちうけていたのは、92年(平成4年)6月9日の火曜日である。

 特に出迎えの予定はなかったはずだが……。

 「日程をうかがい、やってまいりました。ぜひ私も、明日の叙勲式に出席させてください」

 オーストリア共和国から「学術・芸術最高勲位栄誉章」が贈られることになっていた。

 小野寺は知っている。

 SGI会長は60年代から、3人のオーストリア駐日大使と会見。世界への対話も、ウィーン大学出身のクーデンホーフ・カレルギー伯爵から始まっている。

 「本当にご縁が深い。両国の交流の恩人を、大使が、お祝いしないで、どうするのですか」

 小野寺が、胸を張ってみせた。

        

 たしかにウィーンでは、こんな光景が見られる。

 赤レンガのアパートで開かれた座談会。オーストリア人の男が初めて仏法の話を聞くが、正直、東洋的な思想についていけない。

 しかし、、話題がSGI会長の世界的な対話になると、ぴくんと顔を上げた。

 「クーデンホーフ・カレルギー伯爵と会っているのかい?」

 伯爵は、第2次世界大戦前に、欧州統合の構想を提唱した。ナチスにも、ひるまなかった闘士。オーストリアの誇りである。

 男は一冊の写真集を手に取った。あつらえたばかりの老眼鏡をかけ、目を凝らす。

 SGI会長との対談の場面。後日の伯爵の感想も。

 「この会談は私にとっては、東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つであった」

 男が初めて表情を崩した。

 「伯爵の本当のご友人ですね。それならば信頼できる」

 

叙勲式を終えて

 翌6月10日。

 叙勲式は、伝統ある文部省の建物で行われ、ホルンの音色が式典に花を添えた。引き続き「賓客の間」で祝賀会になった。

 ひときわ目を引いたのは、女優オーガスチン・エリザベートである。

 SGIメンバー。王宮劇場の専属で舞台に立つ。大河ドラマのヒロイン役でも絶賛され、国民的な女優になった。

 SGI会長が声をかけた。

 「ご活躍は、よくうかがっています。大女優にお会いできて光栄です」

 長身のエリザペートが、華やかな笑みを浮かべる。その心中を包みこむように、言葉を続けた。

 「でも女優である前に、立派な人間として幸福になってください。それが何よりも大事です」

 エリザペートは、はっとした。有名イコール幸せか。裕福イコール幸せか。つねに煩悶してきた。

 誰もが、ちやほやしてくれるが、心の奥の葛藤まで知ろうとしない。SGI会長のような人は初めてだった。

 式典を終えた夕刻。市立公園のヨハン・シュトラウス像の前で記念撮影会が開かれた。数人の少年少女と肩を組み、ゆっくり像の周りを歩くSGI会長。

 輪の中の一人が、エリザベートの長女バレリーだった。

        

 バレリーは、後にアメリカ創価大学に進む。イギリスの大学を経て母国に帰り、作家をめざしている。

 母のエリザベートは、オーストリアSGIの広報部長になった。かつて古城だったオーストリア文化センターで開くコンサートに、音楽の都のスターと友情出演する。

 いま、ウィーンつ子たちは口々に言う。

「夢の競演が見たければ、あの森の近くのお城に行くといい」

 

 【第2回】  池田先生とイタリアのフィレンツェ   2009-7-12

 

永遠の「勝利の都」を勝ち築け

 

黒革のサイン帳

 夜の帳がイタリアの古都を包み、フィレンツェのレストラン「ブーカ・ラーピ」の窓にも、赤みがかった明かりが灯った。

 1880年に創業された店。この日は、1981年5月31日で、新しい百年の節目を迎えていた。

 テーブルの間を回っていたウエーターの目が、ある席に吸い寄せられた。そこでは、東洋の紳士を中心に歓談していた。テーブルマナー、ゲストヘの気配り、人の話を聞く態度。どれも一流である。

 ただ者ではない。フロアの情報は逐一、スタッフに届けられる。キッチンで、名物のリゾットを調理していたシェフの顔も引き締まった。

 「シニョーレ(お客さま)」

 プレスのきいたスーツを着た支配人が近づいてきた。

 「よろしければ、ぜひお名前を」。手ざわりの良い、黒革の芳名録を開く。

 詩人、音楽家、画家……。名だたる著名人のサインが記されていた。

 あるページには一種、異様な筆跡。狂気の独裁で知られたドイツの政治家である。

 東洋の紳士は、眉をひそめた。民衆の側に立つ人であることがうかがえた。

 支配人が新しいページを開いてテーブルの上へ。

 さっとペンを走らせた。

 「山本伸一」

 

青年の都たれ!

 この時、池田大作SGI会長はフィレンツェを初訪問。ペンネームでサインし、「芸術の都」に敬意を表した。

 当時、イタリアSGIの勢力は約300人。8割が青年である。

 ミケランジェロ広場に行った日は、日差しが強かった。わざわざ露天で麦わら帽子を買い求め「ありがとう。かぶりなさい」。汗にまみれた役員の青年に手渡した。

        

 アルノ川沿いのカッシーネ公園。

 すたすたと足を進める。速い。若者たちは付いていくので精いっぱいである。SGI会長が振り返った。

 「悪いね。私は何でも速いんだよ」

 陽気で、マイペースなイタリア人気質の青年たちは、こんなスピードで世界を駆け抜けてきたことに、少なからぬ衝撃をおぼえた。

        

 郊外にある丘の街フィエーゾレ。フィレンツェ大学の学生と石畳の坂を歩き、カフェでエスプレッソを傾けた。

 「ダンテが『神曲』を書いたのは、このフィレンツェを追放される前だったか、後だったか」

 学生たちは顔を見合わせ、首を振る。過去に埋もれていたルネサンスの詩人の魂を、若い胸中によみがえらせた。

       

 フィレンツェの会員宅。イタリアに、マリファナやコカインが広がっていることが話題になった。深刻な社会問題だったが、それを食い止める哲学がなかった。

 SGI会長は、強く言い切った。「麻薬に頼ってはいけない。仏法に現実逃避はない。正面を向くのが仏法だ」

        

 イタリアの会員数は、92年に1万5千人、2000年に3万人になった。81年を起点にすれば、実に20年で100倍の拡大である。

 フィレンツェの青年が起爆力になった。

 

バチカンの枢機卿

 イタリアのバチカン市国は、広さ約0・44平方`。東京ディズニーランドより小さい。世界最小の主権国家だが、世界に10億人の信者をもつカトリックの総本山である。

 枢機卿セルジョ・ピニェードリは、バチカンの宗教間外交を一手に担っていた。非キリスト教信徒事務局のトップである。

 72年10月に、静岡で初めてSGI会長に会って以来、強烈な印象が消えない。

 バチカン駐日大使ブルーノ・ヴュステンベルク(大司教)からも、詳細なリポートが届いている。同大使とSGI会長は、計6度の会談を重ねてきた。

 文化や教育レベルの事業に高い意識がある。異なる文明の間を対話で結ぼうとしている。社会運動家としてみても精力的である。

  信頼できる。教皇は池田会長と会うべきだ……

 第262代ローマ教皇パウ口6世との会見が決まった。

        

 75年5月、SGIの代表がバチカンを訪れた。国際センター事務総長の原田稔、欧州議長のエイイチ・ヤマザキ、イタリアSGIのミツヒロ・カネダの三人である。

 何かあったな……

 ピニェードリは直感した。

 サン・ピエトロ大聖堂に近いローマ教皇庁舎の一室。

 枢機卿の証しである緋色の法衣に身を包んで、ピニェードリは現れた。

 「池田会長は、お会いできなくなりました」

 原田稔の声が大理石の床に響く。

 枢機卿の濃い茶色の目が、じっと見つめてくる。

 「そうですか。残念です」

 出会いが実現すれば、平和という宗教の根本使命を、分かち合うことができたに違いない。

        

 SGIの一行が再びバチカンを訪れたのは翌月である。

 「教皇との会見をキャンセルしたのは、池田会長が初めてです」

 枢機卿ピニェードリが微笑んだ。

 ただ、なぜキャンセルせねばならなかったのか。真意が知りたい。

 「理由は何ですか?」

 ピニェードリの目が真っぐに見つめている。

 「……宗門です」

 枢機卿が大きくうなずいた。「やはり。思った通りです」

 世界宗教へ飛躍しゆく学会と閉鎖的な宗門。

 その構図をバチカンは見抜いていた。

 

勝利を刻む広間

 「この広間に、フィレンツェの勝利の歴史を描いて欲しい──」

 宮廷画家のヴァザーリに、フィレンツェを治めるコジモ1世が命じたのは、16世紀なかばだった。今の市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の広間を飾る壮大な絵画である。

 すでに、ダーヴィンチとミケランジェロの両巨匠が筆を競ったが、それぞれ未完成に終わっていた。

 しかし、周辺の勢力との戦いに勝利し、フィレンツェを芸術都市に整備したコジモ1世は、あきらめない。

 フィレンツェは勝った。この歴史を描かせ、永遠に宣言したかった。

 命じられたヴァザーリは市庁舎の「五百人広間」にフレスコ画を描く。題材はピサ、シエナにおける攻防戦。

 敵陣に攻め込む兵士。勇敢に指揮を執る馬上の将軍の姿がある。まさに「軍には大将軍を魂とす」である。隆盛を決定づけた「勝利」の合戦だった。

        

 この「五百人広間」に池田SGI会長が足を運んだのは、92年6月30日の夕刻である。

 まもなく「フィオリーノ金貨」授与式典が隣の市長室で始まる。市長ジョルジュ・モラリスが待っているはずだ。

 左右の壁から、今にも騎馬と兵士が押しよせてきそうなヴァザーリの絵画が、SGI会長を見つめている。

 この日、フィレンツェのモラリス市長は語っている。

 「他の宗教を信じる人であれ、無宗教であれ、SGI会長の精神に必ずや共鳴すると確信します」

 宗門の黒い妬みで、ローマ教皇との会見が中止になったこともあったが、ルネサンスの都は、SGI会長を勝利の人として迎え入れた。

 2007年には「五百人広間」でSGI会長に「平和の印章」が贈られている。

 

今日は再び来ない

 天井にカンツォーネが響く。背筋をぴんと伸ばした老紳士が、ステージに拍手を送っている。

 1992年6月28日、フィレンツェのSGIイタリア文化会館で芸術音楽祭が行われていた。

 紳士の名はリベロ・マッツア。元内閣官房長官である。第2次大戦中、ナチスの魔手から幾多のユダヤ人を救う。フィレンツェの破壊を食い止めた英雄である。

 SGIに強く惹かれていた。麻薬におぼれていた青年を次々に更生させているという。陽気な祭典にも感嘆したが、SGI会長のスピーチにも唸った。

 「悪と戦わない人は正義ではない」「生きている限り、私は戦う。行動を続ける」

 マッツアの心と強く共鳴した。これまで命を狙われること34回。政界を退いてからも、マフィアと麻薬の撲滅のため戦ってきた。

 しかも、イタリア文化会館はメディチ家ゆかりの建物。国の重要文化財である。

 SGI会長は、文化を護る人でもある。

        

 イタリア政府が、国家的な顕彰のためにき出した。

 今こそ我らは「平和の同盟」を結ぶべきではないのか。池田会長のような世界市民を模範として!

 2006年1月30日。

 東京のイタリア大使公邸で、SGI会長に「功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章」が贈られた。

 公邸の中庭に、大きな池をたたえた日本庭園が広がっている。

 その空の向こうには、目黒駅を使って幾度も足を運んだ戸田城聖第2代会長の自宅があった。

 若き日から、フィレンツェの詩人ダンテをめぐり、戸田会長と語り合ってきた。

 「今日という日は再び来ないのだ」

 『神曲』の一節を引くと、恩師は「大作、その通りだな」と微笑んだ。

 

【第3回】  池田先生と沖縄    2009-7-18

 

ここから勝利の虹を架けよう

 

小説『人間革命』

 沖縄本島の南部。

 巨大なツメで、深くえぐられたような道を池田大作名誉会長が踏みしめる。太平洋戦争で米軍に破壊された痕跡である。

 密生した木々の暗がりにガマ(自然洞窟)が、ぽっかり口を開けている。沖縄戦では、大小のガマで島民が強制されて、集団で死を選んだ。

 1960年(昭和35年)7月。初めて沖縄を訪れた名誉会長は、糸満《いとまん》市内に点在する戦跡や摩文仁《まぶに》の丘を丹念に回った。

 ひめゆり部隊に動員された女子生徒たちを慰霊する「ひめゆりの塔」。

 沖縄県師範学校の男子生徒たちが亡くなった地にある「健児之塔」。

 それぞれの塔の前で真剣に題目を唱え、犠牲者の冥福を祈った。

 南部戦跡には、まだ鎮魂の公園や記念館も整っていない。那覇へ戻る道も、岩がむき出しで、ごつこつしている。あまりの揺れに車が横に倒れかかった。

 那覇市内の宿舎。部屋には小さな虫が出て、風呂場にはネズミが走っていた。ある朝、入室した青年が驚く。

 白アリが行列をつくっている。「知っているよ」。池田名誉会長は悠然と新聞を読んでいた。

        

 64年(昭和39年)に来島した際、名誉会長は小説『人間革命』を書き始めた。しかし、あえて沖縄での執筆開始を公言しなかった。

 第1巻の「はじめに」を記した折、欄外に「昭和三十九年十二月二日より書き始む」と、したためたのみである。

 その原稿用紙は後に人の目に触れるが、特に意識する者はいなかった。

 73年(昭和48年)6月。沖縄の三盛洲洋《みつもりくにひろ》が初めて、その日付に強く反応した。聖教新聞に何気なく出ていた記事がきっかけだった。

 12月2日といえば、あの日じゃないか──。

 「やあ、沖縄の学生部、元気にやっているな!」

 忘れもしない。沖縄本部で行われていた学生部員会に名誉会長が来てくれた日だ。

 「やがて沖縄から世界の指導者が出る。10年間、私についてきなさい」と励ましてくれた。

 学会本部に問い合わせると、名誉会長の伝言が返ってきた。

 「そのとおりだ。よく見つけた。『人間革命』は沖縄で書き始めた。誰が最初に気づくか。それを私は待っていた」

 

安同情されるな

 72年(昭和47年)1月30日。コザ市(現・沖縄市)で記念撮影会があった。

 会場はコザ市の諸見会館たった。

 空軍基地や弾薬庫も近くにあり、約1年前には「コザ騒動」が起きている。米兵の横暴に住民が怒り、米兵の車などが焼かれた。

 不穏な空気は消えない。名誉会長のコザ行きを危ぶむ声もあった。

 しかし「私は、人心が揺れているところに真っ先に行く」と決断した。

 高校生の久場紀子《くばのりこ》。母親は台湾からの引き揚げ者で、米軍の那覇エアベースのタイピスト。沖縄社会になじめない。父は失業している。

 名誉会長は、未来部に対しても厳しかった。

 「福運をつけなさい。誰かに頼ってはいけない。自分で幸せをつかむ。それが信心だ」

 久場は2年後に沖縄本部で再会。

 「安同情されるような生き方をしてはいけない!」

 何かに依存するのではなく、どこまでも強く、強く生きることを教えた。

 

門中制度の壁

 沖縄には独特の「門中制度」がある。父系の血縁団体で、一族の結束は固い。家長の意向には、きわめて重みがある。

 稲嶺有晃《いなみねゆうこう》が創価高校の1期生として入学すると、父・一郎の逆鱗にふれた。

 「ヤマト神の学校に行くのか!」

 父は「琉球石油(現・りゅうせき)」の創業者。後に参議院議員を3期つとめ、沖縄開発政務次官にも就いた。稲嶺が創価高校に進んでからは、二度と会ってくれない。門中から放り出されたも同然である。

 上京した稲嶺は成績もふるわず、すっかり自信をなくす。沖縄の島言葉には、独特のアクセントがある。東京で話しても、相手に意志が伝わらない。いつしか無口になってしまった。

 68年(昭和43年)9月に行われた創価学園のグラウンド開き。稲嶺は学園を訪れた創立者に呼ばれた。

 「沖縄の大統領になりなさい」

 何ごともトップになれ、という激励だった。

 翌年。寮生・下宿生の懇談会があった。

 創立者と、一人一人が握手する。

 稲嶺の番になった。

 「握手の力が弱い。男なら、もっとしっかり握るんだ」

 稲嶺は創価大学に進み、卒業後は沖縄県庁に就職した。

 寝食を忘れ、職場でめざましい実績を積んだ。その働きぶりが父や兄の耳に届く。

 89年、琉球石油社長だった兄から、うちに来ないかと誘われる。

 ついに一族から認められるまでになった。

 だが、門中制度のしきたりのなかで、学会員として生き抜いていけるだろうか。そんな不安がよぎり、創立者に手紙を書いた。

 即座に伝言が届く。

 信心の眼で見れば、小さな違いしかないことを指摘したうえで「とにかく沖縄に尽くしていきなさい。実証を示しきっていきなさい」と背中を押された。

 現在、稲嶺は「りゅうせきエネプロ」の社長。県内有数のプロパンガス事業会社を率いている。

 

創立者の外交

 名護市の松田晴江は創価大学の3期生。兄から「ここはいい。一流の教員がいる。必ず大発展する」とすすめられ、合格した。

 少女時代は教会で聖書に親しんだこともある。大学に電話して、宗教を強制されないか確かめ、上京した。

 誰もが創立者を「先生」と呼び、尊敬していることに戸惑った。恩師と教え子の間柄とも違う。不思議に思えてならなかった。

 入学から3カ月後。73年(昭和48年)7月12日に創立者を豊田寮に迎えた。松田が沖縄出身と知った創立者が「前にいらっしゃい」。小さな座机をはさんで、ジュースやスイカをすすめてくれた。

 秋には英語の授業を見学に来てくれた。松田のすぐ隣に座る。板書された学生の英文を見ながら「すごいね。優秀だな」。

 宗教の枠など超えた、人間と人間の信頼がある。

 「先生」と敬愛される理由が、よく分かった。

 沖縄県出身なので、やはり戦争と平和の問題には関心がある。

 在学中、創立者はキッシンジャー米国務長官、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見する。

 74年(昭和49年)11月、モスクワ大学のホフロフ総長をキャンパスに迎え、松田はギターで歓迎演奏した。

 一学生でありながら、平和外交の一翼を担う──こんな大学、ほかにあるだろうか。

 

南大東島の医師

 うるま市の祝嶺千明《しゅくみねちあき》は、かつて沖縄の離島・南大東島の診療医たった。急患は自衛隊機で那覇まで搬送するしかない環境だった。

 91年(平成3年)2月、沖縄研修道場に名誉会長を迎え、諸行事が行われたとき、運営役員の医療スタッフに祝嶺が加わった。

 チャンスがあれば、ぜひ南大東島のことを知ってほしい。報告のタイミングがないかと思っていると、ある朝、道場内の談話室に招かれた。

 「先生、私の島は……」

 切りだそうとすると、逆に質問された。

 交通、食糧、産業、天候、通信、医療・出産の体制、保安、島の同志の活躍ぶり……。祝嶺が報告しようと準備していた以上の内容だった。

 沖縄の離島を心から愛してくれていた。

 

雨上がりの虹

 南城市の新垣《しんがき》博(創大2期)。

 創価大学に在学中の72年(昭和47年)暮れ、同級生たち数人と創立者から食事に招待された。住みこみで新聞配達していた新垣は、創立者の心配りに恐縮した。

 「私も新聞少年だったから、苦労はよく分かる。東京の朝は寒いだろう……」。

 食事が終わりかけたころ、創立者から提案があった。

 「私が皆さんの故郷に行く機会があったら、そこでまた会おうじゃないか」

 74年2月9日、新垣は沖縄で創立者と再会した。名護市内の会場で待っていると、両手を広げて歩みよってくる。

 「さあ、車でまわろう」

 創立者のすぐ右隣の席に座らせてもらった。本部半島を周回する国道へと走りだす。

 「戸田先生は浜辺で育ったから、海が本当にお好きだった」

 左手には、コバルトブルーの海が広がっている。

 道中、突然のスコールが襲ったが黒雲《こくうん》の下を抜けると、ぱっと晴れ間が広まった。

 沖縄は、雨も降り始めるとすさまじいが、いったん晴れれば日差しも強烈だ。そんな南国の気候を肌で感じながら、創立者は語った。

 「沖縄は、戦争の道を行くのか、平和の道を行くのか、どちらかだ。中途半端はない。そう決めて進むことだ」

 雨上がりの空には七色のアーチ。沖縄から勝利の虹は架かった。

        

 「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」

 桜花に包まれた沖縄平和墓園で、創立者が力強く宣言したのは、それから25年後

の99年2月である。

 正義の拡大こそ平和の大道を開く。

 

【第4回】   池田先生と西大阪総県   2009-7-24

 

「常勝関西」発祥の地

 

白木の「2月闘争」

 1952年(昭和27年)。あの「2月闘争」の大旋風が画風・蒲田で巻き起こっていたころである。

 大阪市西成区。地下鉄「花園町駅」の薄暗い階段を、長身の男が、のっそり上がってきた。

 プロ野球選手の白木義一郎。地図を記したメモに目を落とす。練習の合間をぬってバラック街を折伏に歩く。

 2歳の娘・以知子や妻の文《ふみ》は、遠く東京に置いてきたままだ。

        

 この年、東急フライヤーズから阪急ブレーブスヘ。在阪球団へのトレードを機に、蒲田支部の白木は「大阪支部長心得」になった。単身、落下傘で飛び降りるようなものである。さすがの剛球投手も心細い。

 「義っちゃん、これは御仏意《ごぶっち》だ。大阪を頼む。一緒に75万世帯をやろう!」

 どんと背中を押してくれたのは、蒲田の池田大作支部幹事だった。

 「大阪」だ。「関西」だ。ここを強くしなければ75万世帯は達成できない。その突破口を白木に託した。本気の一人をつくるしかない。

 1月末、東京から夜汽車で大阪へ発つときも、固い握手をかわして見送った。

 「2月闘争」への闘志が白木の胸に火を点した。

 やがて、それは大阪で赤々と燃え上がる。

        

 「花園町駅」を出て、白木は目的の家へ大股で急いだ。紹介された山本福市は、妻が病弱で悩んでいた。仏法の功力を直球勝負で語った。

 「ほな、わたしら、やりますわ」

 52年2月17日。まず下町の西成で、関西の折伏第1号が実った。

 

西成の花園旅館

 55年(昭和30年)12月に関西本部が誕生するまでの間、しばしば本陣となった拠点があった。

 花園旅館。山本宅の目と鼻の先、西成を南北に走る南海電車の線路近くに立つ。電車の音が窓ガラスにピリピリと響く。木造の二階屋たった。

 宿の主が日蓮宗(身延派)の信者だった。戸田会長が声をかける。

 「ご主人、身延なんかやめなさい。この信心をすれば、いつの日か、必ず大きなビルが建ちます」

 あまりの確信に、そばで見ていた従業員が後で入会を申し出る。

 たちまち噂が広まった。

 「戸田先生が花園旅館にいてはるから、誰でも連れていきや!」

 生活苦、経済苦、病苦。それらが奔流となり、花園旅館の小さな一室に押し寄せた。

 不妊で悩む会員に真正面から言い切った。

 「子どもができなくて悩む親もいる。一方で、子どもを食い物にするような親もある。この信心をやりぬいて、宿命を転換するしかない!」

 青年部の池田室長への薫陶は厳しかった。

 ──ひとり室長が帰京する日。荷造りを終え、部屋へ挨拶に来たところ、いきなり会長が問いかけた。

 「大作」

 サッと居すまいを正す。

 「いま臨終になったら、従容としていられるか」

 「ハイ!」

 間髪を入れず、鋭い返事。大阪では常に「臨終只今」の精神だった。

        

 ある日。戸田会長を囲んだ懇談の折である。

 「誰だ、そいつは!」

 激しい剣幕で一人を指さした。不審げに目をぎょろつかせている。他宗の信者が紛れ込んでいた。ひそかに様子を探りにきたものと見えた。

 「そこの拝み屋! ここは貴様のような者が来るところではない!」

 一喝されるや、脱兎のごとく逃げ出した。返す刀で居ならぶ幹部に檄が飛ぶ。

 「なぜ分からなかったのだ! 戦いの中でこそ、邪悪を見抜け!」

 花園旅館は、実戦の道場だった。

 

庶民の町・西大阪

 大阪湾へ流れる木津川を、市民の足の渡し船が、ゆったりと進む。

 湾の奥にある西成、大正、住吉、住之江。

 「常勝関西」の発祥の地・西大阪は"ド庶民の街"である。隅々まで池田室長の足跡が刻み込まれている。

        

 住吉区の宮下伊平。戸田会長の気迫が今も忘れられない。

 「折伏は、この戸田がやる! ほかにやりたい人間は願ってついてこい。それでこそ戸田の弟子だ!」

 その会長に一番弟子がいると聞いた。さぞ強面の人やろう……。後に会合で室長と出会い、息を呑んだ。何とも爽やかな好青年ではないか。

 「私か舞を舞いましょう!」

 生れ故郷を あとにして……

 大きく振りあげた腕《かいな》に、射貫くような眼《まなこ》。キリッと結んだ口元。ああ……。やっぱり戸田会長と同じや。同じド迫力や!。

        

 西成区の西島夏子。57年(昭和32年)2月ごろ、会合の帰路、池田室長と一緒になった。「聞きたい事があったら、何でも遠慮せずに言ってごらん」

 「実は主人の仕事が忙しくて、地区幹事として活動できないことに悩んでいます」

 きっぱり言い切った。

 「信心は時間で決まるのではありません。心で決まるのです。

 たとえ30分でも、広宣流布のために真心を込めて戦うのです。あとは御本尊に、しっかり祈る事です。30分が3時間に値する戦いになります」

 ハッとした。誰よりも時間がないのは室長やった。

 笑顔で言われた。

 「必ず時間に困らない境涯になります。安心して活動に励まれるよう、ご主人に言ってあげてください。広宣流布のための願いは絶対、叶います」

        

 住之江区の粉浜《こはま》(当時は住吉区)。古い軒が連なる住宅街に、ひときわ目立つ白壁があった。企業の重役の家だった。

 56年(昭和31年)5月の昼下がり。室長が上がり框をまたいだ。

 20人ほど集まり、会合が開かれていた。まだ会場には十分なスペースがあった。

 組長と組担に目を向けた。

 「どれくらい折伏をやるんだい」

 「地区一番になります」。思い切って背伸びした。

 室長が笑って、手を横に振った。

 「地区一や大阪一ではダメです。目指すのなら、日本一!」

 翌年、室長は再び同じ会場へ向かった。1年前と熱気がまるで違う。広い部屋の隅々まで、住之江や住吉などの会員でいっぱいだった。

 「この家も、だいぶ狭くなったねえ!」

 一人一人に視線を送りながら、新しい指針をピシリと打ち込んだ。

 「一に団結。二に団結」

 ひときわ語気を強めた。

 「三に、団結です!」

        

 関西本部の勤行会に参加した大正区の前川ハル子。威勢よく立ち上がった。「大阪の戦い」の最終盤である。

 室長から声をかけられた。

 「あなたは自分が元気な間に、折伏を何世帯やるか。ここで私と約束しよう」

 あっ。計算している余裕などない。

 「に、200世帯やります!」

 にこりと相好を崩した。

 「20年、信心を真面目にやれば、世界にだって行ける。私も世界中へ行くからね」

 その約束を果たした前川。いま、90歳の卒寿を超え、室長が言ったとおりの境涯になった。

 

何でも一番になれ

 なんと気丈な方か。

 西成区の小林節子は身が引き締まる思いがした。

 73年(昭和48年)12月。中之島の公会堂での本部総会。

 小林は池田名誉会長の母堂・一さんと共に会場に着いた。半年前、東京の大田を訪れた際に交流を結んだ。

 総会は長時間に及んだ。端座したまま身じろぎ一つしない。じっと名誉会長の言葉に耳を傾けていた。

 「ぜひ西成にも、うかがわないと」

 来阪すると、小林の自宅や近くの聖教新聞の販売店までわざわざ足を運び、丁重に挨拶した。後々《のちのち》まで西大阪での思い出を振り返った。

 76年9月の逝去の際。名誉会長から小林のもとに揮毫が届いた。

 「母が 最も関西にお世話になり 最も関西の友が大好きであり 最も思い出をつくって下さったことを謝しつつ」

 母堂を偲び、西成文化会館の庭に「一桜《いちざくら》」の樹が植えられた。

 後に名誉会長は、母堂の名の由来にふれている。

 「母の両親が『一番幸福になるように。その子どもたちも何かで一番になり、社会に尽くせよ』という願いをこめて『一』と命名したんです」

 何でも一番!

 池田家の心は、最も縁《えにし》深い大阪の心意気でもある。

 2008年9月。

 本部幹部会で新リーダーが紹介された。関西婦人部長の山下以知子。

 白本義一郎が新天地の大阪へ来たとき、2歳だった娘である。西大阪の婦人部長を務めたこともある。

 スピーチの中で名誉会長が懐かしそうに声をかけた。

 「あの子が、こんなに立派になったんだもの。お父さん、お母さんも、きっと喜んでいるよ」

 壇上で名誉会長に誓った。

 「関西の同志とスクラムを組んで、必ず完勝します!」

 彼女の名前は以知子。

 母堂は一さん。

 「大阪の戦い」の金字塔は1万1111世帯。

 関西は、いつも一番で勝つ!

 

 【第5回】  池田先生と新大阪総県   2009-7-28

 

今再びの「勝利のVサイン」を

 

西淀川に会館を

 大阪市北区の中之島は、堂島川と土佐堀川にはさまれた中州である。

 中之島の中央公会堂から出て、堂島川にかかる橋を渡ると、大阪地方裁判所がそびえ立つ。

 今では橋の上を高速道路が走っているが、1962年(昭和37年)1月24日には、まだ視界をはばむものはない。大阪地裁も合同庁舎ビルに建て替えられる前だった。

重厚な赤レンガ造りで、中央に丸屋根の塔がある裁判所がよく見えた。

 この日、中央公会堂では関西女子部幹部会が開かれた。場内の空気が、ぴんと張りつめている。

 4年半にわたって審理されてきた「大阪事件」。その判決公判が明日の1月25日、対岸にある大阪地裁で開かれる。しかも法廷で、その判決を受ける池田大作会長を迎えての幹部会である。

 ボルテージは高まる一方だった。登壇者は権力への憤りを口にする。

 いよいよ会長がマイクの前に立った。「最初に申し上げたいことは……」。5500人の瞳が集中する。

 「台風で大きな被害をうけた西淀川方面の会館を、土地が買えましたので、すぐに建設します」

 第2室戸台風が襲来したのは、前年の9月だった。水が引いたばかりの西淀川で学会員を励まし、必ずここに会館を建設することを約束した。

 自身の判決公判の前夜であろうと、会長の心は被災した会員に注がれていた。

 公会堂を出た会長の車は、国道2号線に入った。長い淀川大橋を渡ると、そこは西淀川区である。

 

東淀川から突撃

 天下の台所・大阪。

 古くから経済の中心地として栄えてきたが、その要は、水運の大動脈・淀川である。

 学会の組織も「淀川」を軸に見ると、その発展するプロセスがよく分かる。

 52年(昭和27年)に発足した大阪支部の中軸は3地区だった。

 阿倍野地区(大阪市南部)。堺地区(大和川以南)。そして大阪市の淀川流域から北へ広がる「淀川地区」である。

 淀川地区は、特に女性陣が元気だった。班長4人のうち3人が婦人である。縁故で折伏する他地区と異なり、地域に密着していた。

 54年(昭和29年)9月、池田室長が大阪の教学担当として通い始めると勢いは増す。淀川地区と、そこから誕生した梅田、九条の計3地区が、11月の折伏で全国の上位3位までを占める。

 そして、56年(昭和31年)4月、淀川地区は日本一になった。翌月の大阪支部の折伏1万1111世帯を牽引したのである。

       

 東淀川区の阪急千里線・下新庄駅。北千里行きホームの端に立つと「吉田米穀店」の看板が見える。

 池田室長が訪れたのは56年6月ごろ。「大阪の戦い」の佳境である。

 店には茶色の米袋が胸の高さまで積まれていた。くすんだ銀色の精米機が、震えながらザーッと白米を吐き出していた。

 廊下をはさんだ二間続きの薄暗い和室に、約70人。むしむしと汗ばむ日たった。開襟シャツの室長も、じっとりと汗が噴き出ている。

 ハラハラと見ていた奥野敏子。店の夫人・吉田福栄《ふくえ》に声を掛けた。

 「水だして」「うち、ガラスのコップあれへん。湯飲みしかないねん」「ほんならコップを隣から借りてきてや」

 そんな、ひそひそ話も聞き逃さない室長。

 「大阪は『水の都』と言うけど、コップはないんだね」

 どっと笑いが弾けた。

 「私の家内は、小さな子の手を引きながら、学校の同級生の家をコツコツ回り、友だちと仲良く話しているよ」

 香峯子夫人を具体例に紹介した。難しい指導はいらない。毛筆をとり、模造紙に大書した。

 「突撃」

 せや、折伏精神や! 東淀川は全軍が「大阪の戦い」に突撃した。

 

淀川と7月17日

 淀川区の福田武子は長屋の住人だった。体を横にして、やっとすれ違える細い道が、迷路のように入り組んでいる。「あそこは、いっぺん入ったら出られへん。『地獄谷』や」と面白がられた。

 58年(昭和33年)4月に入会。翌日、ボロボロの座談会提灯を吊すと長屋は大騒ぎになった。無我夢中の対話が実り、折伏が決まると見てみい! 地獄谷にも地涌の菩薩がおるんやと叫びたいような気持ちだった。

 後年。大勢の人とともに、池田名誉会長と出会う機会があった。

 「1月2日が誕生日の人は?」と聞かれ、福田はさっと手を挙げた。

 「私と同じだね。どこから来たの?」

 「淀川です」

 「淀川か。あそこは昔、ずっと蓮池だったんだよな」

 名誉会長は懐かしそうな目になった。52年(昭和27年)の大阪初指導以来、淀川を見続けてきた。

 福田に即興で句を贈る。

 蓮池や   泥より出でたる       功徳かな

 ぬかるんだ路地裏を折伏に走ってきた福田は、すべての苦労が報われた気持ちがした。

        

 79年(昭和54年)7月15日。豊中市の関西戸田記念講堂で合唱祭が開かれた。

 池田名誉会長の名代で香峯子夫人が出席し、歌声に拍手を送った。

 翌日、納涼の夕べがあったが、香峯子夫人は「明日の17日、どこか家庭訪問させていただけない でしょうか」。7月17日は「大阪大会」が開かれた出獄の日である。

 淀川区の奥谷チエ宅が選ばれた。大阪事件で室長に何度も差し入れを届け、一度も欠かさず公判を傍聴してきた功労者である。

 奥谷宅に近くの婦人部員も集まってきた。香峯子夫人を囲んで、15人ほどが車座になった。

 夫の母を介護している婦人がいた。香峯子夫人は「大変ですね」とねぎらう。「でも、ご主人のお母様ですから、大切にすることは、尊い使命ですね」。

婦人はハッとした表情になった。グチをこぼせば母がかわいそうだ、と気がついた。

 奥谷も、子どもが難聴である悩みを語った。

 「一家和楽の信心をできること自体が、すごいことなんです」と励まされた。

 大阪大会で池田室長が「信心しきっだ者が、最後は勝つ!」と言い切った日。淀川の婦人を前にして、香峯子夫人も同じ確信だった。

 

此花に幸せの花

 65年(昭和40年)6月1日、淀川区の新大阪駅(当時・東淀川区)に、新幹線が入線してきた。

 初代の「ひかり」号は、最近の長い流線形と違い、先頭部分は、丸みを帯びた「団子鼻」である。ワンピースにエプロンの二俣《ふたまた》政子が、ホームから乗りこんだ。

 二俣は、東海道新幹線の車内販売員。「ひかり」が新大阪を出ると、商品を詰め込んだ重いワゴンを中央の車両から後方へ押し始めた。

 京都駅を過ぎたあたりで、ある車両に入った。自動扉が開いて、あっと声を上げそうになった。

 池田名誉会長が乗車しているではないか。控えめに「わたし女子部です」。

 「そうですか」と笑顔が返ってくる。「このサンドイッチとお菓子、あとジュースも……」

 アルコール以外、京都土産の八橋まで全商品を注文してくれた。緊張して、なかなか計算できない。

 「損しちやダメだよ。しっかり計算してね」

 すっと楽になった。

 「こんなにたくさん買っていただいて、どうされるんですか」

 「心配しなくていいよ。これから名古屋に行くから、頑張ってる皆にあげるんだ」

 どこにあっても、脳裏には会員の幸福しかない。

 「幸せになるんだよ。人生に立派な花をいっぱい咲かせなさい!」

 会長の座席から離れると、ワゴンがすっかり軽くなっていた。

 2年後に二俣は結婚して、大阪市の此花区へ移る。

 淀川の河口にあり、阪神工業地帯の中心だが、公害で大気や水が汚された。やがて高度経済成長が終わると、工場の移転・閉鎖が続いた。

 それでも座談会は明るかった。油じみた作業着の労働者や、九州・四国からの単身者も多かったが、二俣は「人生に花を咲かせなさい」という指導を思い起こし、励まし合った。

 どこか、ほかに花が咲いているのではない。「此花」に咲かせるのだ! 町内会の婦人部長にもなった。

 2001年(平成13年)春、二俣の支部内の工場跡地に「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」がオープンした。

 

福島の三色旗

 1990年(平成2年)6月5日。帰京する名誉会長を乗せた車が、新大阪駅に向かっていた。

 阪神高速を下り、逆方向の福島区に入る。「聖天通《しょおてんどおり》」と書かれた商店街のアーチ。そこに大きな横断幕が張られていた。

 「祝 大阪平和講堂落成」

 学会の新会館の完成を祝う幕に、名誉会長はカメラを向けた。

 そのまま車は、大通りを北に折れ、大阪平和講堂の前を徐行する。門の前にいた会員に三色の旗を振った。

 「お元気で!」

 外まで駆けつけてきた婦人がいた。名誉会長は、窓から腕を出し、高々とVサインを示した。

 新大阪は常に勝利のVサインとともにある。

 

【第6回】 池田先生と尼崎総県   2009-7-31

 

尼崎は「日本の柱」 「広布の柱」

 

法廷闘争のスタート

 

法廷闘争のスタートきゅうきゅう詰めの人込みの中で、尼崎の寺井好子は、爪先立って背を伸ばした。

大阪拘置所の門が見える。

1957年(昭和32年)7月17日。青年部の池田大作室長が逮捕されてから、すでに2週間が経っていた。

「いよいよ池田先生が出てこられるんや……」

きのうも来た。おとといも来た。高い塀を、にらみつけた。朝から夕方まで拘置所をぐるぐる回った。

「きよう現場検証で、あそこに行かれるらしい」と聞けば、地区のみんなと自転車で走った。

正午すぎ。鉄の門が開く。

門をかこむ人々の肩越し。

白い扇子を右手に室長が現れた。後ろには、小さな風呂敷を抱えた香峯子夫人がいる。

寺井は跳び上がって、手を振った。

しかし、まだ戦いは始まったばかりであることを知るよしもない。

 

大阪事件の前まで、池田室長は尼崎の地に足を運んでいない。

ところがー「最近、先生は、よう尼崎へ行ってはる。大阪で会合をやって、尼崎から皆を呼べばええのになあ」

公判が始まると、大阪の幹部は一様に首をかしげた。

4年半に及んだ裁判。この期間に池田室長は集中的に8度も足跡を残している。

法廷で勝つか負けるか。その熾烈な戦いの渦中で、なぜ尼崎を育てたのか。どんな意

図があったのか。

 

一兵卒で戦う

 

大阪事件の当時、尼崎は組織的に、まだ半人前のあつかいだった。

兵庫県にありながら、大阪・梅田支部の傘下に置かれていた。 

世間の認識も似たようなものである。尼崎といえば、梅田の向こうにある工場街。

阪神エ業地帯を下支えする労働者の町である。

池田室長の視点は違った。

l尼崎の名の由来は、一説によれば、漁民の「海人」と、海に突き出た場所を指す「崎」。

思えば日蓮大聖人は御自身を「海人が子なり」と仰せになり、いばり腐った権力者でもなければ、見栄っ張りな貴族でもなく、庶民の子であることを誇り高く宣言されている。

この「庶民の共和国」を大阪と神戸の間で埋没させてはいけない。尼崎は尼崎だ。独り立ちさせなければならない。ひそかにタイミングを計っていた。

そんな折に、梅田支部の幹部会が尼崎市文化会館で開かれることになった。

57年(昭和32年)12月2日。大阪・堺の会合を終えた室長は、すかさず現地へ向かった。

これが尼崎への初訪問となった。

ただの幹部会ではない。結成したばかりの尼崎総ブロックの大会の意義もとどめた。

またタテ線意識が強く、ブロックという概念は乏しい。

ただ尼崎が自立する第一歩にしたかった。

訴えたのは「尼崎は尼崎らしく」。そして仲良く進むこと」

登壇した室長は、壇上にずらっと並んでいる幹部を見回した。

「いいかい。これは昔の話だからね。これから尋ねることに、正直に手をあげるんだよ」

いたずらっぽく笑みを浮かべた。

「これまで、酒好きだった人。博打好きだった人。夫婦げんかで周りに迷惑をかけたことがある人。さあ、手をあげて」

それまで胸を張っていた幹部が気まずそうに首をすくめた。おそるおそる、小さく手をあげる。

場内は爆笑の渦である。

「今でこそ信心で立派な幹部になっていますが、かつては皆さんと同じ悩みをもっていたんだよ」

しきりに参加者がうなずいている。幹部といっても自分たちと同じや。みんな先生の前では一兵卒や。

 

大物が出る

 

ブロック組織の次は、会館に手を打った。

尼崎市内を走る阪神電車に「大物」という駅がある。この駅近くに、兵庫で初めての地方会館が誕生した。

梅田支部会館・池田総務が名前を変えた。

「尼崎会館にしよう」

59年(昭和34年)9月5日の落成式にも駆けつけた。

「ここは大物にある会館です。その地名のように将来、ここから必ず大物が出ます。大人材が出ます。それを確信していただきたい!」

尼崎は感激した。ここから大物が出ると宣言した人がいただろうか。大阪からも神戸からも「アマ」と呼ばれ、どこか軽く見られてきた。

「いいですか、尼崎がしっかりすれば、学会は何があっても大丈夫です!」

 

会場の一隅に、入会を渋っていた重松勇がいた。

小学校を出て炭鉱で働いたが、長続きしない。長崎から大阪の造船所に渡り歩いてきた風来坊。

同じ年格好やのに、何て立派な人か。この信心をしたら、ああいう人になれるんか。

自分から進んで願い出た。

「やらせてもらいます」

後に重松は100世帯を超える弘教。地区部長、支部長として尼崎の柱となった。

 

世界に目を開け

 

組織。会館。人材。次のポイントは青年である。

このころからオール関西の会合も尼崎で開かれるようになった。

59年(昭和34年)9月20日、関西男子部幹部会が行われ、池田総務が出席した。

どこが全関西の急所なのか。砦なのか。大将自らが陣を移すことで、それを明らかにした。開催地・尼崎の士気も高まる。

この日、眼鏡をかけ、汚れた作業服を着た青年が真摯に質問した。

「今、安保闘争が社会の関心を集めています。学会は、どういう立場でしょうか」

安保と聞いて、会場で顔を見合わせる者もいたー何やそれ。そんなんでメシ食えへんで。

そんな空気を察した総務。

 

「青年は、社会に眼を向けなくてはならない。大事なことだ」

「でも、もっと大きな問題がある。広宣流布こそが最高の哲学だ。最高の平和運動であり、社会建設となるのです」

総務は続ける。

「フルシチョフとアイゼンハワー。二人とも貧乏な家庭に育った。かれらが今、世界を握っている」

米ソの首脳の名前が飛び出した。

「若いときに苦労した人が、本当に偉くなる。名誉、財産、家柄などではない。私たちは信心という最高の信念をもっている。みんなは全世界のために、貢献をしてください。いいかい」

「おおーっ」。雄叫びが起こる。尼崎から世界を動かせ!

気宇壮大なロマンを広げる訴えだった。

 

尼崎で鍛え上げられた人材は多い。ここで多感な時代を送った総関西長の西口良三。

「よく、言うんです。一番、底辺にいるから『底力』が出る。地べたから、はいつくばってきた人間が一番、強い。それを先生が教えてくださった」

判決の前夜最後の仕上げは、人権闘争である。

時は、62年(昭和37年)。

冬の1月24日。

ついに、あの大阪事件に判決が下る前夜だった。

場所は、尼崎市立体育館。

関西の男子部幹部会に1万2千人の精鋭が集った。

これまで大阪事件について、池田会長が公的に会員の前で話すことは稀だった。

この日は違った。

「初めて裁判のことについて、私は□をきる。関西の男子部の諸君に申し上げます」

場内に緊張が走る。

「どうしても正義の人が、いじめられる」

その根底に嫉妬があることを明らかにした。

「不法な逮捕であることは、どこから見ても明瞭です」

まじめな人々のために、まじめに尽くす学会員をいじめる勢力とは、一生涯、戦い続ける。烈々と宣言した。

幹部会が終わった。何人かの関西幹部がやってきた。彼らは、どれだけ会長が深い覚悟で尼崎入りしたか知らなかった。

「先生、申し訳ありません。我々は何にも知りませんでした」「必ず青年部が仇を討ちます」

それに対し、にこにこと聞き返す。

「じゃあ、みんなは何をするつもりかな?」

「それは権力を……」

言葉に詰まった彼らに、諄々と諭した。

「仇討ちとは、やみくもに相手を憎んだり、傷つけたりすることじゃない」

静かに続けた。

「広宣流布に勝利すること。正義の陣列を拡大すること。一人でも多くの味方をつくること。そして、敵をアッと言わせることだ」

翌25日。大阪地方裁判所。

判決は無罪。

この祈り続けてきた日は「関西婦人部の日」となった。

 

判決後、静かに尼崎を訪れている。阪神電車の高架下に近い、小さな飲食店である。

裸電球がぶら下がり、駅のベンチのような長いすが並ぶ。

尼崎の草創のメンバーを招いて、ささやかに懇談した。

「ここは〃尼が先〃というけれど、本当に女性が強い。婦人部が、しっかりしている」

判決前日の関西男子部幹部会に話が及んだ。

「盛大だった。尼崎は強くなった。関西を陰で支えてきた功績は絶対に忘れません」

正義を満天下に証明した法廷闘争。その戦いの真っただなかで「日本の柱」「広布の柱」は築かれた。名誉会長が全身全霊を込めた常勝のーその名を尼崎という。

 

 【第7回】   池田先生と横浜市  2009-8-4

 

世界一の「勝利の港」に

 

開港150年

 神奈川県の横浜は本年6月2日、150周年の開港記念日を迎えた。

 わずか100軒ほどの半農半漁の村が、大きく世界に開かれたのは、1859年(安政6年)だった。

 江戸幕府がイギリスと修好通商条約を交わした時、英国側の特命全権大使は、第8代エルギン卿だった。

 そのエルギン卿の直系の子孫が、チャールズ・ブルースである。

 ブルースは、グラスゴー大学名誉教授のマンローと交友がある。同大学は1994年(平成6年)6月、池田大作名誉会長に名誉博士号を贈った英国の名門である。

 ブルース自身、SGI(創価学会インタナショナル)に友人がいる。その一人から、学会の神奈川文化会館のゆかりを聞いて驚いた。

 正面にある赤レンガの洋館(戸田平和記念館)。

 一帯では、関東大震災で残った唯一の英国商館(1922年建造)だった。

 世界の港を結んだ英国の魂は、創価学会の中で生きていたのか!

 

恩師のために

 名誉会長と横浜。その絆は60年にわたる。

 ──連合国軍総司令部(GHQ)のジープが土ぼこりをあげて、鶴見市場の駅前を走り抜けていく。

 小さな家が並んでいた一角に、飯島キヨの家があった。ほそぼそと鶏卵を商っていたが、車が通るたびに屋内で鶏の羽根が激しく舞い上がる。

 夫は脊椎カリエス(結核菌が病巣を作る病)を患い、寝込んだまま。学会の幹部がやってきても、鶏の糞で臭う室内に上がりたがらない。

 1951年(昭和26年)の寒い日。一人の青年が訪ねてきた。使い古したカバンを手に、長靴を履いている。

 「お母さん、お題目をあげましょう」。礼儀正しく長靴をぬぐと、仏間で一緒に題目をあげてくれた。

 病床の夫の枕元に座り、固く手を握る。「お父さん。まじめに信心をやり抜けば、必ず春が来ます」

 池田と名乗るその青年は、毎月のように通ってきて、御書の一節を引いてくれた。

 偶然、京浜急行線の踏切で出会うこともあった。

 「女性が持つのは大変ですから」。魚のアラでいっぱいのバケツを、家まで運んでくれた。

 少しでも栄養になればと思い、キヨが選りすぐりの生卵を割り、醤油をたらして差し出した。池田青年は、実に美味しそうに飲み干す。

 「戸田先生は、お体の調子がすぐれないんです。この新鮮な卵を、ぜひ毎月、購入させてもらえませんか」

 恩師のため、古新聞にくるんで、大切に持ち帰った。     

        

 横浜の下町、南区吉野町。

 入り口に「日本橋」と書かれた小さな商店街のアーチが掛かっている。

 その下に学会員の営む下駄屋があった。

 この界隈に数世帯しか学会員はいないが、池田青年は、こまめに通ってくれた。

 ある時は、やかんや鍋を持っている。理由を聞くと、恩師の事業を支えるため、金物まで売り歩いているという。

 ひと仕事を終えるとアーチ近くの銭湯「大和湯」で汗を流した。食事は近くのうどん屋で、手早くすませているようだ。

 下駄屋の主人は感心した。

 ここまで身を粉にして師匠に尽くすのか!

 この青年なら信頼できる。

 思い切って商売の悩みも相談した。いかに下駄の売り上げを安定させるか。できれば芸者衆など大口の顧客をつかみたい。

 「ちがう、ちがう。同じ花街の人でも、下働きの人に買ってもらうんです。口から口へ評判が広がるじゃないですか。一番安い下駄を買いに来るお客さんを大事にすることですよ」

 目の前がパッと開ける思いだった。

 

日本一になれ!

 第3代会長を辞任後に回数を重ねた功労者宅の訪問。

 1979年(昭和54年)6月22日には、横浜の上郎《こうろう》悦子の家で当時の心情を明かしている。

 「立場がどうあれ、学会の師弟の絆は永遠に変わらない。どんことがあっても、私が会員を守る。今度は世界が舞台なんだ」

 上郎の目頭が熱くなった。先生は、あの時と微塵も変わらない。

 ──53年(昭和28年)春、文京支部の田中正一宅。池田支部長代理が上郎夫婦を面接してくれた。

 「広宣流布のためなら、何でもやる。そう決めることが大事だ。

 私も戸田先生のもとで、何でもやらせていただいた。だから今があるんです」

 師弟に徹すれば、無限の力が出る。

 「僕は、日本一の力をつける。あなた方は、神奈川一になりなさい」

 神奈川で一番! 夫と顔を見合わせると、一段と力強い声が響いた。

 「いや、僕は、世界一になる。あなた方は、日本一になりなさい!」

 ちっぽけな悩みで汲々としていた心の壁が、一気に吹き飛んだ。

 

保土ケ谷の一家

 横浜中華街の朝陽門《ちょうようもん》をくぐった先にある喫茶店「ミカド」。

 池田名誉会長が保土ケ谷区の大川剛行《たけゆき》一家を招いたのは、80年5月18日の午前10時半である。

 名誉会長のテーブルに、次男の輝男《てるお》(5歳)が、ちょこちょこ寄ってきた。「先生、お口を見せて!」

 名誉会長が、にこにこしながら、大きく口を開く。輝男の顔が、ほころんだ。彼には知的障害があった。

 長男で言語障害のある周一(6歳)は、店内のインベーダーゲームに熱中している。

 まだ乳児だった長女を抱き、母の茂子は、兄弟の様子をパラパラと見つめるしかなかった。

 池田名誉会長の口調は温かかった。

 「お母さん。子どもは誰でもみな福子なんだよ。たとえ、どんなことがあっでも、どんと構えるんだよ」

 障害のある二人の子育ては、並大抵ではない。世間の目。学校でのいじめ。突然、次男がてんかんで倒れ、救急車で運ばれたこともある。

 どんと構えろ。何度も自分の胸に言い聞かせ、歯を食いしばった。

        

 あれから30年目。

 長男の周一は、学校を出て焼き鳥店で修行した。

 焼き場で腕を磨きながら、牙城会員として横浜池田講堂に着任する。

 保土ケ谷養護学校を卒業した次男の輝男は、大手食品メーカーに就職。

 今では、創価班員として学会本部の担当につくまでになった。

 母の腕に小さく抱かれていた長女の江里子は、保土ケ谷を朗らかに走る区女子部長(星川太陽区)である。

 

旭区と「共戦」

 2009年4月14日の火曜日。名誉会長は、79年5月3日に神奈川文化会館でしためた「共戦」の大書を初めて公にした。

 力感のある太い墨痕が目に飛びこんくる。

 その場にいたSGI理事長の大場好孝の脳裏に、一つの出来事がよみがえった。

        

 先生が神奈川文化に! 旭区の土屋トメ子は思わず立ち上がった。

 79年5月。それまで名誉会長の動向は、誰に聞いても分からなかった。

 ひと目でいい。晴天の早朝、近隣の婦人部二人とバスに飛び乗った。

 満員の車内でもみくちゃになりながら到着したのは午前10時前。会館前の大きな樹木の陰に陣取った。

 「先生にお会いできるまで帰らないからね」。3人でうなずき、じっと正面玄関を見つめた。

 1時間、2時間。初夏の大陽が、ぐんぐんと中天に昇る。レンガ色のタイルに照り返す光が眩しい。

 3時間が経過した。土屋が汗ばんだ額に手を当て、何気なく見上げた。

 あっ、7階の窓! 名誉会長が、こっちに向かって右手を振っている。左手にカメラを持っていた。

 先生、先生!

 身をよじるようにして手を振り返した。

 元気だ、お元気なんだ!

 その3カ月後、土屋は思いがけず神奈川文化会館に招かれた。

 会館の事務局長だった大場好孝が足早に近づいてくる。茶封筒から3人分の写真を差しだした。

 「先生から『この方々を探して、差し上げてください』とありました」

 六つ切りサイズの写真には、大樹の陰で、深い決意をみなぎらせた土屋たち3人が、それぞれ写っていた。

 3枚とも、撮影した角度が違う。

 名誉会長は、一人一人をレンズ越しに見つめ、一番いい瞬間に、シャッターを切ったのである。

        

 池田名誉会長の「共戦」の大書。

 その脇書には「真実の同志あるを 信じつつ 合掌」と、したためられていた。

 大場は深く息をのんだ。

 この30年間、師は、誰と共に戦ってきたのか──。

 わずかばかりの社会的地位、財産を鼻にかけて「いざ鎌倉」の土壇場で逃げ去っていった者も多く見た。

 小揺るぎもしなかったのは、庶民である。

 あの日、神奈川文化会館の前で立ちつくしていた名もない人々ではないか。

 「神奈川は、一番大事なところだ。私が会長を辞めて、真っ先に来たんだから」

 開港150年の港に、いま、共戦の旗は天高く翻る。

 

【第8回】  池田先生と堺総県   2009-8-8

 

新時代はいつも堺から

 

貴婦人たれ

 大阪府堺市に住む寺田享《きょう》(堺総県東総区総合婦人部長)の一家には、信仰の原点がある。「大阪の戦い」で、母の百合子が班長として奔走した。

 若くして夫を失い、市場で魚の行商をしていた。黒いゴム長靴に、くわえタバコ。男まさりで、強面の仲買人も顔負けである。

 1956年(昭和31年)6月27日。青年部の池田大作室長を迎え、班長会が行われた。男性陣にまじり百合子が最前列に腰を下ろす。

 じっと室長が見つめる。隣にいた者に聞いた。

 「このあたりでは、いくらで水油は買えるかな?」

 「はい……百円ほどです」

 ふたたび百合子の顔を見つめた。レントゲンと呼ばれるほど、ずばり本質を見抜く。

 「あなた、班長だね」

 「はい!」。野太い返事。

 周りの男性に聞かれないよう、そっと、ささやいた。

 「女性は身だしなみが大切だ。百円あるかい?」

 小さくうなずく。

 「すぐに水油を買ってきて、頭につけなさい」

 百合子は鏡をのぞき込んで赤面した。顔は日焼けで真っ黒。頭はクシャクシャ。髪をかき分けると、ところどころに魚の鱗がピカピカと光っている。

 彼女のように苦労してきた女性が、白百合のように輝いてこそ学会は伸びる。

 常々、室長は語ってきた。

 「貴婦人とは、相手がどんなに立場の高い人だろうと、おそれなく堂々と対話できる人です」

 ただ、お化粧してドレスアップすればいいというのではない。

 「もうひとつ、相手がどんな身分や境遇であろうと、なんの偏見もなく、大切にしてあげられる人。それが貴婦人です」

 どうせ魚屋のおばはんや。開き直っていた百合子。それが自分の住む世界を狭くしていた。

 水油をつけた日を境に「女性として、母として尊敬されなければ」と考える。子どもが嫌がっていたタバコとも縁を切った。

 室長のもと大阪中を弘教に走る。山口作戦にも志願した。不思議と行く先々で好感を持たれる女性になった。

 

教学の試験官

 国鉄・鶴橋駅を降りると、蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。堺支部の阪井鶴和《つるかず》は関西本部へ急いだ。

 57年(昭和32年)7月27日。教学試験の口頭試問を翌日に控え、池田室長を中心に役員会があった。

 阪井は伝言をあずかっていた。堺支部の中心者からである。「39度近い熱があるんや。今日は休む。明日の試験官はできへん」。軽い口調だった。

 風邪か、しゃあないな。

 阪井は何の気なしに室長に伝えた。

 雷のような叱咤が飛んだ。

 「明日のことが今から分かるのか。戦わずして病気に負けているではないか!」

 予想もしない答えに凍りついた。

 「教学の試験官は、師匠・戸田先生の名代として参加させていただくのだ。試験官として誇りを持つのが弟子ではないか!」

 一同は静まりかえっている。

 「今日、熱があるから、明日も下がるまい。だから欠席する。それでは戸田先生の名代としての誇りも、喜びも、戦いもない!」

 決して無理をしろというのではない。「大阪の戦い」でも病人は休ませ、睡眠や食事にまで気を配った。

 要は一念である。戦う前から臆病風に吹かれる。負けだと決めこむ。

 かねて周囲からも心配されていた幹部だった。

 「彼は、試験官として失格だ」

 真っ青になっている阪井に指示を与えた。その幹部に電話して、いま話した内容を一言もたがわず伝えなさい。

 阪井は事務室に飛び込んだ。震える手でダイヤルを回す。用件を伝え、すぐ室長のもとに戻った。

 「なぜ君に電話をさせたか、分かるかい。私に直接言われる以上に厳しく受け止めるだろう。おそらく今ごろ、必死に題目をあげている。これで病魔を打ち破ることができる」

 厳愛の真情から出た叱咤である。その幹部が見違えるように成長したのは言うまでもない。

 

堺の鉄人会

 堺文化会館(現・堺平和会館)の正面に名誉会長を乗せた車が止まった。76年(昭和51年)1月8日の午後2時すぎである。

 前夜から徹夜で準備していた男がいた。堺の本島《もとじま》義明である。

 設営グループ「関西鉄人会」の1期生。高校を出てから、看板屋の父のもとで腕を磨いた。

 立て看板、横断幕、会館の装飾、文化祭のステージ造り……どんな無理な注文にも首を横に振ったことはない。意地がある。プライドがある。

 別に光を浴びなくていい。舞台裏が性に合っている。

 池田先生に設営物を見てもらえればいい。それがオレのすべてだ。

 この日も会館の裏手で、鉄人会の黄色いジャンパーを着て、静かに待機していた。

        

 名誉会長は車から降りると、建物の左手に向かった。あまり人が通らない狭い路地である。

 目立たぬよう、奥で息を殺していた本島。背後に人の気配がした。名誉会長だった。

 「いつも、本当にご苦労さま。ありがとう。一緒に勤行をしよう」。力強い握手。夢のようだった。

 名誉会長は3階の会場へ。本島は遠慮して2階に控えていた。ここが分相応だろう。

 しばらくして役員が険しい形相で降りてきた。

 「すぐに3階にあがってください!」

 会場を見渡した名誉会長が「彼らが、いないじゃないか。なぜ入れないんだ」と呼んだのである。

 本島は鉄人会の仲間と猛ダッシュで駆け上がった。はじめての晴れがましい表舞台である。勤行を終えると、名誉会長が語り出した。

 「将来、堺に1000人ぐらい入る3000坪の会館を造ります」

 本島は度肝を抜かれた。堺文化会館は1000坪ほどである。それが3000坪とは。そんな大プロジェクトに加わってみたいものだ......。

 黄色いジャンパーの集団に名誉会長は目をやった。

 「ここにいるメンバーが、その会館建設の委員です!」

 設立委員会の名簿を見て、男泣きした。堺の大幹部とともに、本島たち鉄人会の名が記されていた。

 

鬼に勲章!

 観客が固唾をのんで中央の一点を見つめていた。名誉会長がカメラを構えている。

 82年(昭和57年)3月22日、関西青年平和文化祭。

 満員の長居陸上競技場では、クライマックスの六段円塔が完成しようとしていた。

 最上段の一人が、ゆっくりと立ち上がった。スタンド席がいっせいに「関西魂」の人文字に変わる。どよめくような歓声が沸きあがった。

 99人の力が一つになった六段円塔。頂点に立った青年部員の名は、たちまち関西に広がった。

 名誉会長の視点は違った。

 「一番下の方で支えた人は誰か。陰で誰が戦ってくれたのか。すぐに調べなさい」

        

 本番4日前。

 大阪の体育館で二人の男が腕を組み、厳しい表情で仁王立ちしていた。

 堺男子部の西脇義隆と身野幸一。六段円塔の演技指導者である。不可能を可能にするのだ。鬼軍曹に徹してきた。

 これまで20回以上も挑戦したが、ただの一度も成功していない。きょう失敗したら、きっぱり諦める。

 オール大阪から人選したが、円塔の99人中18人が堺たった。土台に近い、いちばん苦しい急所も支えている。

 堺の誇りにかけて、立たせてみせる! 新時代は堺が開く!

 「いくぞ!」

 下から慎重に積み重なっていく。一段また一段。最下段には2dもの重みがかかる。

 最後の一人が頂上へ上り始める。99人の二の腕に太い筋が青く浮き上がった。死んでも離すものか!

 「ウオーツ!」

 立った! 立った!

 すかさず西脇のすさまじい檄が飛んだ。

 「当たり前や! もっと早くできたはずや! 何を喜んどる。当日は風も吹くんやぞ!」

 本番は一発勝負である。

 そこで勝つまでは一瞬たりとも油断しない。いな、させない。

 目が吊り上がっている。

 鬼の形相だった。

        

 文化祭の翌日。

 関西文化会館に西脇と身野が呼ばれた。関西の最高幹部が急ぎ足でやってきた。

 二人に記念のメダルが手渡された。池田名誉会長からだった。

 「鬼に勲章! そう先生は仰っていで!」

 大阪という巨大な六段円塔。鬼神のごとく支え続けてきたのは堺である。

 

【第9回】   池田先生と東海   2009-8-11

 

天下を決する東海勢

 

大阪事件と名古屋

 「どうも地検の様子が、おかしいんですわ」

 関西の幹部が、大阪から息せき切って、名古屋にいる青年部の池田大作室長のもとへ駆け付けた。1957年(昭和32年)5月11日。弁護士も一緒である。

 直前の4月。参院大阪補選で、学会推薦候補が苦杯をなめた。これを機に、大阪地検は池田室長に魔手を伸ばしていた。

 「虎視眈々」と、室長を狙っとるんですわ」

 確かな筋の情報だった。

 室長は、うなずいたまま、顔色ひとつ変えない。

 ただ、戸田城聖第2代会長が4月末に倒れたことが気がかりだった。

 初めて本部幹部会を欠席した恩師。思わしくない体調のなか、室長の地方指導を心配していた。

 「戸田先生にご心配をかけることはできない」

 午後から降り始めた雨は、次第に雨脚を強めていた。

 名古屋駅前の「松岡旅館」で事件の対応を協議した。話し合いは翌日にも及んだが、 弁護士の口から出るのは悲観論ばかりである。

 「どんな展開になろうと、私は必ず勝ってみせる!」

 その場にいた木村四郎は、室長の烈々たる気迫に圧倒された。権力との闘争は、名古屋から開始された。

 協議は13日未明まで続き、午前2時過ぎの急行列車「月光」で帰京する。

 

浜松、沼津の思い出

 「大阪事件」。香峯子夫人は当時、陰で支えてくれた人たちへの感謝を、今でも忘れない。

 静岡の学会員たちの志を、先日も述懐している。

 それは、室長が大阪拘置所から出獄し、夫人と帰京する7月19日のことである。

 「池田先生が、お元気で帰られるぞ」。文京支部の関係者から聞いた木村松江(同支部沼津班)は、居ても立ってもいられない。

 浜松駅で待ちかまえ、室長夫妻の車両を見つけ、乗りこんできた。

 昼前後の列車なので、当時の時刻表によれば、急行「雲仙」か、特急「つばめ」ということになる。

 唐草模様の風呂敷包みを胸元にかかえ、木村松江はボックス席まで入ってきた。その結び目を解くと、ほのかに甘い香りがした。

 木箱の中に25個の桃が並んでいる。

 暑い季節に牢に入っていた室長。せめて甘み豊かな果実で疲れを癒やしてもらいたかった。

 木村松江は沼津駅まで同乗した。同駅で降りようとすると、ホームが賑やかである。

 やはり知らせを聞いた沼津班の会員が、40人ほど集まっていた。

 班長の望月剛たちである。

 室長と香峯子夫人が、列車の窓を大きく持ち上げ、全開にした。

 後ろから人波をかき分けるようにして、腕を伸ばす者もいた。室長は身を乗り出し、ひとりひとりの手を握った。

 いかなる嵐も、室長夫妻と東海の会員の間を引き裂くことはできなかった。

 

家康のふるさと

 愛知県の岡崎。徳川家康が幼名・竹千代として出生した地である。

 名誉会長は1986年(昭和61年)6月27日、名古屋から名鉄電車に乗って、三河方面へ向かった。

 藤棚で知られる岡崎公園で、茶店を営む学会の婦人部員を見つけた。「おばあちゃん、いい顔しているね」。88歳。励ましの言葉を贈った。

 「春夏秋冬 いつまでもお達者で」

 岡崎公園の藤棚は、毎年5月3日を前に咲き誇る。岡崎の会員も、この日を目指して前進している。

 三河文化会館(当時)の庭に、スイカが用意されていた。

 名誉会長が自ら包丁を取って、サクサク切り分ける。地元メンバーがおいしそうにかぶりつく。

 支部結成25周年の勤行会。

 「家康公ゆかりの岡崎城を仰ぎながら、もう一歩深く、愛知の広布を思索したいと考えていた。それが実現でき、本当にうれしい」

 岡崎の同志の名を次々に紹介し、共戦の思い出を語っていった。

 会合が終わり、題目を三唱。会場には、幼子を連れた多くの母たちが駆けつけていた。その時である。

 「先生!」

 呼び掛ける子どもたちのもとへ、名誉会長が歩みを運ぶ。姿勢を正すと「はじめまして。創価学会の池田です」。

 子どもたちに対して深々と腰を折った。丁寧に握手を交わす。

 創価の竹千代たちよ、未来の大将軍と育て!

 そんな思いが母たちの胸に伝わった。この岡崎から創価大学・学園への人材の流れが生まれていく。

 翌日も名鉄電車で、東海市の知多文化会館へ。

 「愛知は、信長、秀吉、家康という歴史上の三大英雄を輩出した地だ。重大な意義と力を秘めた国土世間です」

 東海の人材群に期待した。

 

富士宮焼きそば

 静岡県富士宮市の学会員、米内《よない》勝子は、大衆的な食堂を開いてきた。

 「焼きそば よない」。40年ほど前にオープンしたが、当初は赤字続き。そんな店を応援してくれたのが、名誉会長である。

 差し入れにするため、幾度も店の品々を買い求めてくれた。ふだん忙しくて遊んでやれない長男に話しかけ、相撲の相手までしてくれた日もあった。

 彼は創価学園に進む。卒業式の謝恩会で、名誉会長は言った。

 「お母さんを連れておいで」

 テーブルに呼ばれた米内は、店を繁盛させ、地域に根を張っていく決意を述べた。

 しかし、90年代に入り、学会の登山会が終わると、富士宮市内も客足が遠のいた。米内は閉店も考えたが、そこで踏みとどまる。

 名誉会長に応援してもらった焼きそば店である。学会の旗を降ろしたくない。ダシと水にこだわった伝統の味で勝負したかった。

 「富士宮焼きそば」が一大ブームを巻き起こしていくのは、その数年後である。

 昔ながらの店構えで、背伸びしないでやってきたが、その雰囲気が、折からのB級グルメブームにマッチした。

 「よない」は一躍、名物店になった。

 

トンボの楽園

 浜松市の飯山徳明《のりあき》・博代《ひろよ》夫妻は、なかなか子宝に恵まれなかった。

 結婚13年目、待望のわが子を身ごもった。しかし妊娠8カ月で、心音が消えた。

 半年後の1977年(昭和52年)6月、浜松平和会館が誕生し、名誉会長を迎えた。個人会館をしている飯山宅にも立ち寄ってくれた。

 まんじゅうを一緒にほおばりながら、博代は子どもを亡くした話を切々と語った。

 名誉会長は心のひだに染みいるように語ってくれた。

 「大勢の同志をはじめ、出会った人たちを、自分の子どもと思って大切にしていくことだよ」

        

 浜松市に隣接する磐田市。

 桶ケ谷《おけがや》沼は珍しいベッコウトンボなどが、すいすい空を泳ぐ。トンボの楽園として知られていた。

 しかし、その生態系にも危機が及び、なかなか保護運動も進まない。

 思いがけないきっかけが訪れる。桶ケ谷沼の美しい自然を知った名誉会長が、ふと口にした。

 「一度、そこに行ってみたい。写真に握りたいものだ」

 1985年(昭和60年)のことである。

 それを伝え聞いたのが、浜松の飯山徳明たちだった。

 広く地元地域に呼び掛け、学会が沼の保護に立ち上がった。住民と一体になった保護運動が巻き起こる。壮年・婦人部は「トンボ合唱団」を結成したほどである。

 保護運動は大きなうねりとなり、91年、県の自然環境保全地域に指定された。

 2001年1月に、磐田市で「自然との対話」写真展が開幕。

 会場で、鈴木望市長(当時)は語った。

 「池田先生に、いつ来ていただいてもいいように、この沼を守ります」

        

 三重県の四日市。                                                                                                          

 四大公害病のひとつ、四日市ぜんそくに悩まされた地に、名誉会長が足を運んだのは、1964年(昭和39年)12月である。

 公害病に認定される前年だった。煤煙だらけの街である。正直なところ、心からの郷土愛など持てない。これが本音だった。

 しかし、四日市会館(当時)で名誉会長は語った。窓の外には、コンビナートの煙突が炎を吹いていた。

 「信心があるじゃないか。私たちの信心で、素晴らしい街にしていくんだ」

 後日、代表に根本の指針を打ち込んだ。

 「法華経に勝る兵法なし」

 国土の宿命を変えるのも、すべて信心の戦いである!

 

天下分け目の戦い

 1969年(昭和44年)11月、岐阜羽島《はしま》の駅を降りた名誉会長は、関ケ原の古戦場を視察した。

 合戦跡を見つめ、東西の布陣の説明に耳をかたむける。天下分け目の決戦。勝敗を決めるのは何か。

 「布陣は西軍のほうがいい。しかし、団結がなかった。結局は攻め込んでいったほうが強い」

 攻め込んだのは三河武士。東海一の最強を誇った。東海が勝ったから家康は天下を制した。

 全軍の勝利を決する先陣に立つ。

 東海勢の使命である。

 

【第10回】  池田先生と東京の北区   2009-8-18

 

北の砦から勝利の烽火を!

 

王子に響いた婦人訓

 東京・北区の王子駅前に立つ「王子百貨店」のホールに、戸田城聖第2代会長の声が響きわたった。

 「本日、ここで『婦人訓』を発表したい!」

 1953年(昭和28年)5月17日。戸田会長から婦人部の新しい指針が発表されたのである。

 なぜ、この日、婦人訓が発表されたのか。

 婦人部が結成されたのは、51年(昭和26年)6月だが、いまだ本格的な指標が定まっていない。戸田会長には、それがずっと気がかりだった。

 ところが前日の5月16日、文京支部の会合に出席したときである。文京の井上シマ子が発表した「婦人の確信」に、大いに感ずるところがあった。

 師弟の道に生きる。戦うための実践の教学。怨嫉をしない。壮年部と団結する──婦人部に必要な指針が、すべて含まれていた。

 懐刀である池田大作支部長代理を文京に送り込んで、わずか1カ月あまり。

 さすが大作だ。もう婦人部を立ち上がらせたか!。

 即座に戸田会長は、井上の原稿に前文を書き加え、王子の地で発表したのである。

 「創価学会会長に就任以来、婦人の活動に期待するところ、重かつ大なり!」

 創価学会婦人部の本格的な前進は、北区から始まったのである。

 

江北から言論戦

 「王子なら、お願いしましょう!」

 戸田会長は、心から安心した口調で決断した。

 55年(昭和30年)、聖教新聞の印刷業者に、王子の紙を調達できる企業を選んだ。

 王子は、日本における洋紙発祥の地。新聞業界で「王子」といえば上質な紙の代名詞だった。

 戦前、戦後と出版業をいとなみ、用紙の手配に苦労してきた戸田会長である。これで一流の品質が確保できると安堵した。

 それから半世紀。聖教新聞は「王子の紙」に支えられてきた。

        

 王子駅からバスに乗った青年部の池田室長が、江北橋を渡って、藤田建吉の家を訪れたのは、55年(昭和30年)である。

 足立区への初訪問だった。

 その4年後、藤田の会社は学会関連書籍を全国に発送する仕事を担った。

 ある秋口の午後、従業員井谷水彦《いたにみずひこ》が一服していると作業場に人の気配がした。

 「あっ、池田先生!」

 真剣な眼ざして語った。

 「発送の仕事は、広宣流布の血管の役目だよ」

 王子の紙」と「江北の血管」。

 北区と足立区は隣接する「兄弟区」。

 ともに広宣流布の言論戦の屋台骨となっだ。

 

赤羽台が結ぶ縁

 芸術部の山本リンダが、大きな目を一段と丸くした。

 「えっ、この部屋にトインビー博士が来たの!」

 2008年秋、赤羽台団地の20号棟3階の一室で、懇談会が開かれていた。

 約20年前から、この部屋に住む稲垣泰子。

 団地内の知人から聞いた話を披露した。

 ──トインビー博士は、赤絨毯を敷いた部屋に靴のまま上がってね。かがむように背中を丸めて、ふすまをくぐったのよ。部屋の外で報道陣が待っていたんですって。

 67年(昭和42年)11月。佐藤栄作首相と会見したトインビー博士は、同行者に、日本の庶民の暮らしぶりが見たいと打ち明けた。

 白羽の矢が立つたのが赤羽台団地である。

 北区は鉄道網が発達し、都営桐ケ丘団地や豊島5丁目団地などマンモス団地が広かっている。

 トインビーには、持論があった。

 「時代を動かすのは、新聞の見出しの好個の材料となる事柄よりも、水底のゆるやかな動きである」

 この年は、公明党の衆議院進出に日本中が驚いた年でもあった。

 帰国すると、池田会長の著作を丹念に調べた。

 「あなたの思想や著作に強い関心を持つようになりました」

 やがて一通のエアメールを送った。

 愛くるしいリンダ・スマイルが去った数週間後、学会副理事長の池田博正が同じ部屋を訪れた。

 「庶民のありのままの姿を見せた赤羽台が、父とトインビー博士の縁《えにし》を結んだんですね」

 

獅子は一人立つ

 北区は、池田名誉会長と縁が深い。

 67年(昭和42年)10月25日。西が丘の旧赤羽会館。勤行を終えた名誉会長が振り返った。

 「今日は座談会形式で話し合おう」。小さな座卓を囲むと、口々に生活の苦しさを訴えてくる。

 悩みがあるから不幸。環境が厳しいから敗北。そんな惰弱な心を、名誉会長は断ち切った。

 「私にだって、悩みは100も200もあるよ。だが煩悩即菩提だ。悩みがあること自体が幸せなんだ」

 目の前のソーダ水の泡を、じっと見つめる少女がいた。

 「飲むかい?」。コクリとうなずいた。後に喜多戸田区の婦人部長になる大梶陽子である。幼い脳裏に、たった一つだけ、名誉会長の言葉が焼きついている。

 「一人の人が大切だ!」

 羊千匹より獅子一匹の精神を打ち込んだ。

        

 霜降橋から北区の滝野川方面に、一台の車が向かっていた。88年(昭和63年)11月15日の午後3時半である。

 車は本郷通りを進み、西ケ原の「旧古河《ふるかわ》庭園」へ。

 茶色の洋館が夕日に照り映えている。明治の元勲・陸奥宗光《むつむねみつ》の旧別邸には、バラが咲き薫っていた。

 香峯子夫人が嬉しそうに見わたす。

 「こんなに美しい庭園があるなんて素晴らしいですね」

 一目散に砂利を踏み散らして、名誉会長に駆け寄る壮年がいた。第3代会長辞任以来、招待の手紙を書き続けてきた福田理一《りいち》だった。

 北区の日本一の庭を見てもらいたい。会長を辞任されようとも、私たちの師匠は池田先生!

 北区の皆の思いだった。

 その真心に、名誉会長夫妻は真心で応えた。

        

 手紙の内容に、婦人部の中根えみ子は跳びあがった。

 「この資料は厳密な内容分析の上、詳細な目録カード作製の上、絶対基本文献として大切に永久保存いたします」

 一里塚交差点に近い「東京ゲーテ記念館」。ゲーテの世界的研究拠点である。

 2003年3月、名誉会長の連載「人間ゲーテを語る」が載ると、中根は真っ先に聖教新聞を届けた。

 ほどなく東京ゲーテ記念館から丁重な返事が送られてきた。一人の婦人の果敢な行動が実を結んだ。

 設立者の粉川忠《こなかわただし》は、世界中の新聞や本にゲーテの文字を見つけ、収集していた。なかでも池田名誉会長がゲーテを語り、書き綴ってきた事実に驚いた。

日本きっての規模である。そもそも名誉会長の膨大な著作。世界との対話。まさにゲーテだ!

 「聖教新聞は日本一、ゲーテが載っている。その源は名誉会長の詩心です」

 

北区婦人部の日

 「太田道灌を知っているかい?」

 84年(昭和59年)8月18日。信濃町で北区の代表と懇談した折である。

 太田道灌。

 室町時代に江戸城を築いた名将だった。

 「彼が全関東の要衝としてクサビを打ち込んだのは、北区だった」

 東京の北の玄関口・赤羽駅。その南西の丘陵に、太田道灌が築城したという稲付城の跡がある。

 太田のもとへ、太田とともに──。

 いったん急あらは四方八方から関東武士が集結し、敵との決戦に討って出た。

 「北区は、日本の急所だ。北の砦から、勝利の蜂火をあげるんだ」

 この日が「北区婦人部の日」の淵源となる。

 きょう、25周年を迎えた。

 

十条銀座から立て!

 十条銀座は「北区の台所」として知られている。

 名誉会長が十条銀座を訪れたのは、79年(昭和54年)7月12日だった。学会員が営む飲食店で、東京婦人部や北区の代表と懇談した。

 7月12日は、特別な日である。57年(昭和32年)のこの日、蔵前国技館で「東京大会」があった。

 池田室長の身柄は、あの「大阪事件」の不当逮捕により、大阪の拘置所内にあった。戸田会長の怒声がとどろく。

 大作を出せ! 直ちに出せ!

 録音係だった北区・豊島の末広良安《すえひろよしやす》。放送室で、スピー力ーを突き破ってくる叫びに全身が震えた。

 この日は、香峯子夫人の入信記念日でもある。

        

 十条銀座の店には、電車が通るたびに、かすかな地響きが伝わってくる。

 名誉会長は婦人部にうながした。「さあ、東京の歌を歌おう」

 

おお東天に 祈りあり……

 

 山本伸一作詞の「ああ感激の同志あり」である。

 名誉会長も立ち上がった。拳を握り、唱和する。ひとり、また一人と口ずさみ始める。北区の橋元和子も必死に声をあわせた。

 

いざや戦士に 栄あれ 汝の勝利は 確かなり

 

 東京よ、雄々しく立て!

 北区から、師弟一体の「東京の戦い」が始まった。

 

【第11回】 池田先生と常勝大阪総県   2009-8-19

 

天下無敵の勝利の大剣

 

旭区と香峯子夫人

 「えらいこっちや、はよ旭会館に集まって!」

 大阪市旭区の婦人部の間で、緊急の知らせが飛びかったのは、1983年(昭和58年)3月12日の午後2時40分過ぎだった。

 この日の午後から同区の上原宅で懇談していた池田香峯子夫人が、大阪旭会館に向かったのである。

 ほんの10分足らずで、主要なメンバーに連絡が流れた。

 「ほんまかいな!」。サンダル履きで文化住宅を飛び出し、大阪旭会館へ集まった。

 2階建ての木造家屋を改修した会館である。老朽化していたが、ささやかな庭には植え込みもあり、昧のある建物だった。

 何よりも床の間には、旭区の宝物がある。「大阪の戦い」で青年部の池田大作室長がしたためた「大勝」の揮毫が掲げられていた。

 午後3時。上原宅から香峯子夫人が到着するころには、100人ほどが畳の上を埋めていた。

 「それでは、お題目を一緒にあげましょう」

 香峯子夫人を中心に朗々と唱題が始まった。

 ともに唱和しながら、上原慶子、令子の姉妹は胸にこみ上げるものがあった。美容院を経営する上原姉妹は、来店してくれた香峯子夫人に、旭区の前進ぶりを折にふれて報告してきた。

 特に「大勝」の揮毫は、旭区の旗印であることを熱く語った。

 200遍の唱題が終わると夫人は、くるりと体の向きを変えた。

 「戸田先生が関西から貧乏人と病人をなくしたいと言われていたことを思い出しながら唱題しました」

 そして「楽しく戦ってください」「必ず大勝利しましょう」と微笑んだ。

 

鶴見区と3・16

 81年(昭和56年)3月17日の夜である。

 午後7時前、鶴見区の「板原会館」に集まってきた女子部員たちが、ただならぬ気配に立ちすくんだ。

 鶴見本部の女子部で3・16記念の会合を開く予定だったが、個人会館に隣接する駐輪場にまで人があふれていた。会場に入ると、区幹部が勢ぞろいで、かしこまっている。

 「どうぞ女子部の方は前に来てください」

 幹部に促され、女子部員たちが前方へ進む。

 「実は、今、池田先生が向かいの板原宅におられます」

 もしかしたら……。

 期待が高まるが、その後の説明に、ますます戸惑った。

 「こちらに来られるかも知れませんし、来られないかも知れません。会合はそのままやってください」

 そんな……。いったい、どっちなんやろ。

 しばらくして、右手の入り口が勢いよく開いた。

 「こんばんは。ごめんやす!」

 大阪弁のアクセントをきかせ、名誉会長が姿を現した。

 近くにいた女子部員がサッと花束を差し出した。

 実は女子部の本部長が結婚するので、そのために用意したものだった。

 春らしい色の花々から、いい匂いが漂う。期せずして最高の形で贈ることができた。

 合掌するように手を合わせ、名誉会長は小ぶりな花束を受け取った。

 「じゃあ、今から一緒に祈ろう」「何でもいいんだよ」。仏壇の前へ進んだ。

 「今、皆さんが一番願っていることを祈りましょう」

 女子部にとって最高の3・16になった。名誉会長を中心に唱和する声が響いた。

        

 鶴見の地名の由来は、日本書紀に出てくる「草薙の剣《つるぎ》」の「ツルギ」が、なまったという説がある。これを裏づけるかのように、区内には通称「剣《つるぎ》街道」が走る。

 名誉会長は鶴見区で、香峯子夫人は旭区で、地元のメンバーと題目を唱えた。

 天下無敵の「勝利の大剣」を抜きはなった。

 

守口地区への手紙

 「大阪の戦い」で守口地区は、青年部の池田室長のもと快進撃した。

 しかし、地区担当員だった山本悦子は、決して丈夫な体ではない。心配をかけないよう繕ってみせていたが、池田室長は見逃さなかった。

 56年(昭和31年)春、東京にいた室長から、山本の家に手紙が舞い込んだ。

 4月11日の消印である。

 「身体の具合ハ如何。仏法ハ勝負であり、吾が身の鬼神、第六天の魔を打破れる信心に、起たねバならぬでありましょう」

 広布のため、学会のため、全地区員と前進ができるように念願した後、端的に指針が示されていた。

 @夜は規則正しく休み、くれぐれも身体を大事に。

 A水のごとく清く、つつがない信心を。

 B地区部長と力を合わせていきなさい。

 C次のリーダーを立派に育成せよ。

 D家庭も絶対に、おろそかにしないように。

 守口の同志に贈られた5指針である。

 やはり「大阪の戦い」の渦中だった。

 旭区内の拠点で、守口地区の稲岡正己が友人を折伏していたが、決まらない。

 あかん、誰か助けてくれんやろか。まだ入会して1年もたっていなかった。

 その時、玄関から「毎日ご苦労さまです」。池田室長の声だった。守口市内の座談会から、関西本部に戻る途中、立ち寄ってくれた。百万の味方を得た思いである。

 「日蓮大聖人の哲学とカントの哲学では、こんなにも違うのですよ」。室長は大きく両手を広げた。

 うヘー、カントってなんやろ。稲岡は、度肝を抜かれた。

 「私と友達になりましょう。どうか幸せになってください」

 その友人は即座に入会を希望した。

        

 守口市に住む一婦人部員には忘れられない信心の原点がある。

 57年(昭和32年)に高校を卒業し、1カ月間だけ関西本部で働いたことがある。

 辞めた後、当時の自宅で開かれた会合に池田室長が出席した。

 顔を見た室長は「あなたのお宅だったんですね」。

 直接、話をする機会もなかったはずなのに、覚えていてくれた。

 居合わせた会員たちのために、色紙や扇に文字を書き、地区ごとに大きな揮毫をしたためた。

 婦人の地区には「断」の一文字が贈られた。

 決断。英断。勇断。さらには一刀両断。間断なき戦い。油断大敵──。

 たった一文字だが、幾重にも深い意味をはらんでいる。

 戦いは決断や!

 敵は一刀両断や!

 

門真の松下工場

 73年(昭和48年)4月11日の夜であった。

 門真市にある松下電器産業株式会社(現・パナソニック梶jのラジオ工場では、就業時間も過ぎ、あたりに人気も少なくなってきた。

 遠くで京阪・門真駅(当時)に発着する電車の音が聞こえる。

 たまたま居残って雑巾だけをしていた従業員が、目を疑った。

 「あっ! 掃除してはる」

 腰を落として、床に落ちていたチリを拾っている人がいる。誰かと思えば、会長の松下幸之助ではないか。

 松下病院で療養されていると聞いていたのに……

 松下のラジオ工場は、来客を迎えたときの見学コースだった。

 しかも会長の松下が、自ら腕時計を見ながら、どれだけ移動に時間がかかるのかを計っている。

 付き添っていた社員が、松下の指示で、ベルトコンベヤーの下にもぐり、はんだ付けのカスをドライバーの先で削り取っていた。

 見たことがない光景だった。いったい誰が見学に来るのだろう?

        

 翌12日の木曜日。

 午後1時すぎから、松下本社で松下が立っていた。雨つぶの落ちてくる空を見上げてから、小一時間ほど経つ。

 予定の午後2時前、国道1号線から人ってきた車が、正面玄関に停まる。松下がパッと頭を下げた。

 「ようこそ、いらっしゃいました」

 降車してすぐに腰を折ったのは、池田名誉会長である。

 前日に第1回入学式が行われたばかりの創価女子学園(現・関西創価学園)から、到着した。

 見学コースは、門真のラジオ工場と音響研究所だった。松下が名誉会長にピタリと寄り添っていた。

 名誉会長は、工場で働く人に丁寧に会釈していった。ベルトコンベヤーの音の中で、従業員が顔を見合わせる。

 「こんな人、初めてやな」

 廊下にいた一人の女性清掃員に目をとめた。作業服の胸元に、学会のバッジが光っている。

 「婦人部ですね。頑張ってください!」

 松下は、社員が声をかけられる光景を誇らしげに見守っていた。

 見学後、赤じゅうたんが敷かれた貴賓室へ。

 名誉会長の訪問は5時間を超えたが、そばを離れなかった。国家元首クラスでも、ここまではしない。

 「先生は日本に無くてはならぬ大指導者です」

 「世界平和と繁栄を築いていく人は、池田先生の外にありません」

 後日、松下から届いた礼状である。

 

【第12回】   池田先生と神戸市  2009-8-2

 

「最後まで走り抜いた者が」勝つ

 

神戸を初訪問

 海岸線と平行して、屏風のように連なる六甲山系。

 青年部の池田大作室長が、その頂上近くから、じっと眼下を見つめていたのは、1957年(昭和32年)の3月16日だった。

 海と山の間に、帯のような市街地が伸びていた。阪急、国鉄(現JR)、阪神の鉄路が動脈のように具合、港に船影が動いている。

 三宮を中心に、建物が密集しはじめていた。

 東には、尼崎の工業地帯もあれば、西宮や芦屋の住宅地もある。

 西に目を転じれば、長田《ながた》区のような下町があり、海寄りから六甲の北にまで広がる兵庫区(その北部は現在の北区)のように、豊かな未来性を感じさせる土地がある。

 「うん、いいところだ」

 海あり、山あり、街あり。ここに暮らす人が団結すれは、限りない力が出る。

 必ず伸びていく。初めて訪れた神戸で確信した。

        

 ──つい先日も名誉会長は語っている。

 「兵庫は『兵の庫』と書くのだから、すごいところだ」

 7世紀、大輪田泊《おおわだのとまり》(現在の神戸港の一部)に置かれた「兵器庫《へいきぐら》」が県名の由来といわれる。

 ここには「精兵」が打ち集っている。戦いが伯仲すればするほど闘志が燃える! 力が湧く!

 

湊川の決戦や!

 62年(昭和37年)9月、灘区の神戸会館。

 湊川支部(当時)の浦嶋秀雄が、池田会長の前で居すまいを正した。

 「この生命の燃え尽きるまで、広布の旗を離しません!」

 会長が深くうなずいた。

 前月、神戸支部から分割して誕生した湊川支部。浦嶋は初代の支部長に任命された。

 かつて浦嶋は大手商社の海外駐在員だった。戦後、財閥解体の憂き目にあう。人生を模索する中で仏法を知った。

 すでに62歳。だが「実際の年齢から30歳を差し引いて」戦うと決めれば、たちまち32歳の青年である。勇んで前線に躍り出た。

 「ここ一番の戦いや! 全国一になって、日本中をアッと言わせるんや!」

 「湊川の決戦」が火ぶたを切った。

        

 60年代、新開地は、映画館や演芸場が軒を連ねる大繁華街だった。

 湊川支部も、芝居小屋を借り切って結成式を開いた。庶民による、痛快な活劇の幕が切って落とされたのである。

 兵庫区の古沢昭一は男子部の中心者。父親の借金を背負い、高麗人参や製菓原料などを卸す問屋に勤めていた。自身と一家の宿命転換をかけて奔走した。

 湊川の流れは、北区に源流がある。兵庫区の洗心橋付近で西に流れを変え、長田区を抜けて大阪湾に注ぎ出る。

 小さな工場や商店が多い長田区。

 六つの鉄道が乗り入れる兵庫区。

 緑豊かな北六甲にある住宅街の北区。

 3区の頭文字を取ってNHK──日本社会の縮図のような地域である。

 折伏戦の合間に湊川公園の銅像を見あげると、甲冑をまとった騎馬の楠木正成が虚空をにらんでいる。

 息子の正行を残し、わずか700騎で足利尊氏方の敵陣に切り込んだ武将である。

 正成は敗れたが、俺たちは違う。

 勝つ。必ず勝つ。勝って先生のもとに集うんや!

 

連合艦隊、団結せり

 北区の高橋敏子は、湊川支部の地区担当員(当時)だった。強烈な原点がある。

 56年(昭和31年)の「大阪の戦い」の時、結核の身をおして関西本部に通い、スケジュール作成など、書記係で動き回った。

 時折、胸をえぐるような咳に襲われる。池田室長の御書講義が救いだった。「如説修行抄」「当体義抄」「撰時抄」。病んだ胸の実にビシビシと響いた。

 57年7月、関西本部で行われた教学試験の口頭試問。面接官は室長だった。範囲は「撰時抄」である。

 意外な質問が飛んできた。

 「仕事をしているの?」

 「結核で働けなくて……」

 まじまじと顔を見つめた。

 「いや、あなたの病気は治っているよ。仕事を探しなさい」

 病気を理由に、内へ内へとこもる弱気な心を打ち破ってくれた。

 仏法は「時」である。環境が厳しい時こそ、勇んで打って出よ!。

        

 長田区の遠藤保夫。神戸の製鋼会社で高炉建設に携わっていた。

 共産党の活動に励んだが、カンパの金で呑んだくれる幹部に幻滅。「何か平等や!」。62年1月、入会した。

 その直後に参加した尼崎の関西男子部幹部会。熱気の向こうに池田会長がいた。

 「人のために戦う者を苦しめる。そんな権力とは、断固として戦う!」

 「大阪事件」の判決前夜だった。遠藤は身ぶるいした。

 これこそ、ほんまの革命家や!

 複数のタテ線組織で構成された湊川支部は、一枚岩になれない皮肉を込めて「連合艦隊」と揶揄された。

 一人一人の力量は折紙つきである。あとは一糸乱れぬ「団結」である。池田会長が、神戸に幾度も打ち込んだ一点だった。

 戦いが行き詰まると、皆で口癖のように励まし合った。

 「戦いなんや。途中で弱音を吐いたらアカン。最後まで走り抜く。それが戦いや!」

 「兵庫創価学会の興廃は、この一戦にあり」──ついに63年(昭和38年)10月、湊川支部は念願の全国第1位に輝いた。

 

神戸が見た名誉会長

 諏訪山の麓に立つ「神戸中華同文学校」。

 名誉会長と縁《えにし》の深い黄世明《こうせいめい》(中日友好協会元副会長)や、林麗丈・sりんれいうん》(周恩来総理の通訳)など逸材を輩出してきた華僑学校である。

 校長の愛新翼《あいしんよく》は、いまも忘れられない。

 創立100周年の99年(平成11年)、学会から1000冊の図書を寄贈された。震災のため神戸の教育機関が本に困っていないだろうか。名誉会長の配慮で実現した事業だった。

神戸中華同文学校の蔵書も多くが傷んでいた。

 誠意に打たれた。

 「わが校から創価学園に進学した卒業生は、中日友好に尽力する名誉会長の役に立ちたいと言っていました。

 わが校の建学の理念を見事に体現してくれています」

        

 2000年(平成12年)にオープンした関西国際文化センター。「大三国志展」 「第九の怒濤展」など展示会やフォーラムに200万人を超える人が訪れた。

 何かイベントがあるたびに、最寄りの三宮の駅の利用者が増える。周辺の百貨店やショッピングモールも一段と賑わう。

 関西の財界人も脱帽する。

 「学会の国際文化センターが、神戸の経済を大きく底上げしてきた。学会が発展すれば、神戸も関西も発展する」

 神戸、関西の経済界で活躍する慶応義塾大学の出身者は多い。

 その一人、「ウエシマコーヒーフーズ」の会長の上島康男も、同センターで名誉会長の写真展を鑑賞した。

 一度きりのシャッターチャンスで、ここまで事象の本質を凝縮できるものなのか!

 写真が各国で絶讃されている事実も知る。長年、彼は珈琲貿易で海外と渡りあってきた。世界で認められてこそ本物という自負がある。

 「大震災で傷ついた神戸が、どれだけ文化の力で元気をもらったか、計り知れません」

 誰よりも神戸を愛する男の実感だった。

 「いま、大勢の人々が、あの震災を乗り越えた偉大な神戸の歴史を讃嘆している。『こうべ』(頭)を垂れている。不思議な国土世間だ」(池田名誉会長)

 

勝利の方程式

 あの「大阪の戦い」で、戸田会長は候補の白木義一郎に厳命した。

 「まず白木一家が真剣に祈り、支持者に礼を踏んで、真剣に戦うんだぞ。でなければ、みなが、かわいそうだ」

 白木は深く頭を垂れた。

 「何でもいたします!」

 公示日の朝。池田室長は、白木の家族全員を関西本部に呼び、ともに出発の勤行を行った。

 「いよいよ今日は公示です。ご主人だけの出陣と思ってはいけません。

 あなたがた一家の本当の出陣となるのです」

 一家の表情が引き締まる。

 「今日の出陣は、今後の白木一家の、すべてを決定する出陣である。忘れないでください」

 この日のことを、娘の山下以知子(関西婦人部長)は深く心に刻む。

 「まだ幼かったのですが、両親が幾度も幾度も語っていました。

 戸田先生、池田先生の指導通り、父も母も真剣になって戦いました。その姿を見て、皆さんも喜んでくださった。やりがいをもって支援してくださったのです」

 最後の正念場で白木家は立ち上がった。大阪中を猛然と走り、叫びぬいた。彼らの死にものぐるいの姿に、支持者も打たれた。爆発的な支援の渦が巻き起こったのである。

 「まさかが実現」も「最後の詰め」で決まった。この勝利の方程式を誰よりも知るのが、全関西を阿修羅のごとく支えてきた大兵庫である。

        

 「過去を振り返れば、みな勝ち戦。未来を見れば、無限の宝の中に入っていくような人生。これが、本当の幸福であり、成仏であり、仏の大境涯である。

 兵庫よ、立て!

 神戸よ、勝て!」

 本年7月17日の出獄記念日。名誉会長が神戸の友に贈った言葉である。

 

【第13回】 池田先生と東北  2009-8-24

 

東北は「2倍戦い」「2倍勝つ」

 

北国の熱い夏

 遠くで汽笛が聞こえた。

 C57型。スマートなスタイルをしていて、後年、SLファンから「貴婦人」と呼ばれる蒸気機関車だ。

 「あれでね」

 「んだ」

 古びた弘前《ひろさき》駅。青森支部弘前地区の十数人が首を伸ばす。1960年(昭和35年)8月29日。大時計は午後3時20分をさしていた。

 あの急行「津軽」に、池田大作会長が乗っているはずだ。

        

 青森の8月は、ねぶた祭の「ラッセラー、ラッセラー」の掛け声で始まる。弘前、黒石、五所川原でも灯籠山車が満を持して出陣する。

 しかし、今年は第3代会長が誕生して最初の夏。夏休み返上で折伏に討って出た。「みっけだ!」。田んぼの人影に声をかける。返事がない。よくよく見ると案山子だった。  行く先々で水をまかれ、塩をまかれた。

 「いらね、いらね! もぉ来《く》な!」

 反発されるほど燃えるのが、津軽のじょっぱり精神である。

 29日、情報が飛び込んだ。池田会長が訪問先の北海道から、秋田経由の急行「津軽」で帰京する。

 こうして弘前地区の面々は、弘前駅で待ちかまえていたのである。

 「津軽」の茶色の客車の窓がサッと開いた。「お元気ですか!」。池田会長だった。

 停車時間は短い。しかし、渾身の指導が奔《はし》った。「題目をあげ抜いてください!」「皆さまによろしく!」

 祭りも盆も関係なく、弘教に汗を流してきた一人一人の顔が、くしゃくしゃになった。

        

 ねぶた。竿灯。七夕。花笠。東北は冬が厳しいぶん、夏の祭りは燃え上がる。だが学会の夏は、もっと熱い。

 82年の夏も、そうだった。8月22日、第1回宮城平和希望祭。

 会場の宮城県スポーツセンターにクーラーはない。水銀柱は、ぐんぐん上がり、館内は40度に達した。最後にマイクを握った名誉会長。

 「私は身体が弱かった。ならば精神を鍛えようと19歳の時に信仰した。いかに批判さ れても、精神を鍛えた私には何でもない!」

 翌23日、仙台空港に向かう途中、閖上《ゆりあげ》漁港の「南雲魚店」に立ち寄った。2階で懇談していると、3人の孫がパタパタと走り寄る。

 「昨日は出演したの?」

 名誉会長が尋ねると、一番上の孫娘が答えた。

 「豊年こいこいです」

 香峯子夫人が「まあ、あの難しかった歌ね」。名誉会長もうなずいた。

 「そうか。将来、創価大学にいらっしゃい」

 約束どおり創価女子短大に進んだ孫娘。卒業後、故郷に帰り、女子部、ヤング・ミセスで東北を走った。

 仙台の帰路、名誉会長は語った。

 「暑い日に何かを成し遂げたということは、一生の思い出になるんだよ」

 

会津藩の覚悟

 「会津に鶴ケ城という城がある」

 東京・八王子で創大生と懇談していた創立者が、福島の話を始めた。

 「行きたかったけれど、今回は寄れなかった」

 つい3日前、福島から帰京したばかりだった。

 78年(昭和53年)6月2日の夕刻である。

 幕末、会津藩の鶴ケ城は猛攻撃を受けた。

 「なぜ狙われたか分かるかな」

 学生たちが首をかしげる。

 「敵は急所しか狙わない。鶴ケ城だけは怖かったからだ」

 会津は教育に力を入れていた。藩校「日新館」で文武両道を鍛え、精兵を育てた。

 「頼んだよ。あの額の下で記念撮影をしよう。みんなは会津グループだ!」

 『自身鍛錬』の額の下で記念のカメラに納まった佐藤修。集まった創大生のなかで、ただ一人、福島出身者だった。

 福島に帰り、小学校の教員になった佐藤は、2004年に48歳で校長に抜擢された。

        

 福島に難攻不落の城を築いてきた。

 第3代の会長になって、最初の正式な東北指導も福島を選んだ。

 60年6月4日、郡山市民会館。人があふれ、第2会場、第3会場まで用意された。

 なんだ第3会場か……。

 会津から来た川宮康雄は29歳。若い漆塗り職人である。

 ところが終了後、突然、新会長が姿を現した。

 「池田でございます。私は第3代会長ですから、第3会場の皆様とは縁《えにし》が深い」

 どっと笑いがはじけた。

 それから35年──。

 川宮は、福島研修道場で名誉会長と再会する(95年6月)。

 来場者を歓迎するための特設コーナーが並び、会津塗のブースには伝統工芸師になった川宮がいた。

 6月19日、ブースに立ち寄った池田名誉会長から質問された。

 「御書に『うるし(漆)干ばいに蟹の足一つ』と仰せですけど、あれは本当ですか?」

 「はい。漆でかぶれた皮膚に沢ガニの汁を塗ると治ります。漆は蟹ですぐにダメにな ります。ですから本当です」

 「そうか、大聖人はウソを仰しゃらない。何でもご存知なんだ」

        

 この御文は、いかに信心を貫こうとも、正法に背けば水泡に帰す譬えである。

 89年(平成元年)7月、宗門の阿部日顕が福島県内の禅寺に墓を建立し、こっそりと墓参した。

 後に、福島の幹部が、この事実を突き止め、有名な「禅寺墓」事件が白日の下にさらされた。日顕宗の邪義は、福島で正体を暴かれ、破折されたのである。

 

詩心と米沢、八戸

 池田名誉会長が、青森・奥入瀬の滝に寄せて詠んだ滝の詩

 今、全国の壮年部員が奮い立つ詩の源流も東北にある。

 この奥入瀬渓流をはじめ、東北を讃えた名誉会長の長編詩「みちのくの幸の光彩」が、山形の地元紙「米沢日報」の新年号を飾ったのは99年(平成11年)である。

 社長の成澤《なりさわ》礼夫《のりお》が、この詩には東北人の心がある、と惚れ込んだ。数日後、名誉会長から自筆の漢文が届く。

 「特立而独行」

 (世の風評に左右されず、自己の信念に立って行動するの意)

 自分の目で確かめてみよう。成澤は創価大学、アメリカ創価大学、イギリスのタプロー・コートなどへ取材に飛び、特集記事を書いた。

        

 八戸に拠点を置く三八五《みやご》グループの代表・泉山元《はじめ》(青森経済同友会の代表幹事)は、名誉会長の詩を事業の指針にしている。

 「強くなれ! 強くなれ! 絶対に強くなれ! 強いことが幸福である……」

 2004年、関連37社の全事業所に、詩を印刷したポスターを張り出した。

 「厳しい経済情勢の中で奮闘する全社員に、この強い心を浸透させるためです」

 

口と口の戦いだ!

 「たいへんだ! 池田先生が水沢に寄られるかもしれないぞ!」

 東京で下宿していた岩手出身の学生部員の吉田裕昭や鷹觜《たかのはし》猛男は、こんな電話をかけ合った。取るものも取りあえず、午後11時32分上野発の夜行列車「いわて3号」に飛び乗った。

 79年(昭和54年)1月11日、池田名誉会長は完成まもない水沢文化会館を訪れる。

 翌12日、名誉会長の来県の報を受け、8000人の会員が駆けつけた。

 名誉会長は全員参加の自由勤行会を提案。自ら司会役を務め、雪道を越えて続々と訪れる友を励ました。

 役員を慰労する会合で吉田ら学生役員を見つけた。

 「岩手は大変なところだ。一人一人を守りなさい。そういう人に、君たちがなるんだ!」

 この時に馳せ参じた若者たちは、やがて岩手のリーダーに育つ。

        

 「秋田には学会の原点がある」と指導したのは、94年8月27日の鹿角《かづの》会館である。

 この年の秋田の勝利は轟いていた。新年勤行会を日本一の結集で荘厳。春先には、機関紙の大拡大で、正義の言論戦に勝利した。

 4月の本部幹部会。名誉会長は師匠直結の秋田を掲げて前進する秋田婦人部を最大に讃えた。

 「秋田大班《だいはん》」。草創期に、蒲田支部から伸びていったのが秋田である。

 「勝って、池田先生と、蒲田の白木のおばさんに報告するべ」

 十和田の支部長だった対馬久夫の口癖だった。鹿角会館を出発する時、対馬の娘・成田智枝子に、香峯子夫人が声をかける。

 「いつも私の実家にお手紙をくださる対馬さんの娘さんですね。本当にありがとうございます」

 この夜。対馬は、いつものように香峯子夫人の母堂・白木静子さんに電話をかけた。

 「池田先生を鹿角にお迎えすることができました。ますます戦います!」

 勝ちに勝って師を迎えた8月27日。この日は「総秋田女性の日」になった。

        

 八戸市で食堂を営んでいた内城《ないじょう》重次郎《じゅうじろう》。

 71年6月14日、八戸会館。

 「何でもいい。功徳の実証を2倍にしよう」という名誉会長の指導に奮い立つ。

 「人間は目標がないと茫漠としてしまう」。経済力でもいい。友人の数でもいい。「何か」で2倍の境涯を広げよう。

 よし、だったら自分は商売で2倍になろう。内城は妻のツナと2倍の対話に徹した。気がつけば4年で倍増の売り上げになった。

 2倍戦い、2倍勝つ!

 東北に、新しい指標が生まれた。2倍革命に燃える東北の戦いは、東京、神奈川、関西をはじめ各地の勝利をリードしてきた。その使命は今、一段と重い。

        

 「戦《いくさ》」という文字について池田名誉会長は東北で訴えている。

 「かつては口を二つ書く『戰』だった。戦は、口と口の戦いだ。言論戦だ。広宣流布は、語りに語っていかなければならない」

 勢いよく! 元気よく! 人々がアッと驚く大音声で!

 この夏、東北は語り抜いて勝つ!

 

【第14回】 池田先生と千葉県  2009-8-25

 

広布流布の「勝利の旭日」

 

成田から世界へ

 

房総半島の沖で、機体が高度を下げている。

ベルト着用のサインも出て、池田大作名誉会長は座席でシートベルトを締めた。

北京から上海を経由した国際便が、着陸態勢に入ったのは、1978年(昭和53年)9月20日の夜9時ごろである。

第4次訪中の帰途だった。

成田の空に、名誉会長を乗せた飛行機が見えてきた。

この年の5月に開港した成田国際空港を初めて利用したのは、この時だった。

往路と復路が別々の場合もあるが、これまでに50回以上、成田空港を使用している。

米国のハーバード大学にも成田から出発した。統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領にも会いに行った。イギリスのメージャー首相のもとへも翼は風を切った。

「大鵬の空をぞかける姿して」と恩師から贈られた歌のままに、東へ西へ。

千葉は名誉会長にとって、世界へ離陸する地である。

 

SGI(創価学会インタナショナル)メンバーや名誉会長の賓客も、成田から日本への第一歩を印す。

佐倉総県と池田総県の婦人部を中心とする「凱旋クループ」。空港を擁する地の代表が、真っ先に海外の友を出迎えてきた。

初めての日本に戸惑う来客も、歓迎の笑顔にふれた瞬間、ホッと胸をなで下ろす。学会

に対する認識も一変する。

池田名誉会長夫妻も折々に讃え、感謝している。

ー常に凱旋グループが、最高の真心の笑顔で海外のお客様を歓迎してくれる。その時点で、創価の外交戦は勝っている。

香峯子夫人もまた、どこにあっても、相手が誰であろうと、常に微笑みを絶やさない。そんな姿を、戸田城聖第2代会長は〃送迎部長〃と呼んで、嬉しそうに讃えた。

凱旋グループに加わったことで語学力を磨き、身だしなみを整えるようになった人も多い。世界が身近になった。

皆の心は常に、名誉会長夫妻と共にある。

ハスの花が咲くまで「千葉」の名前は「千葉の蓮華」に由来するという説がある。

古来、蓮華の花が多かった土地だが、ハスの花は泥の中から出て、美しく咲く。

千葉の発展の陰にも、目に見えない泥の中に、黙々と種を植えた人がいる。

 

53年(昭和28年)ごろ、男子第1部隊の折伏戦は、とどまることのない勢いを見せていた。

東京の下町が主戦場だが、池田部隊長を先頭に東京湾岸にも旋風を巻き起こした。

江戸川の橋を渡って、市川市、習志野市、千葉市へと転戦していく。

「外に打って出よう。これは出稽古だ」

池田部隊長が立案した作戦だった。青年は小さくまとまってはいけない。大きく動くことだ。

バス部隊。自転車隊。徒歩部隊。いくつものチームに分かれ、千葉県内を開拓していった。

ある男子部員は、角のタバコ屋で買い物しながら尋ねた。「このへんに、何かを信仰している強信者はいませんか」。敵は強い方がいい。

「強敵を伏して始て力士をしる」。佐渡御書の精神が池田部隊長から、たたき込まれていた。この第1部隊の精神を受け継いだ千葉が、こんどは東京、神奈川、関西へと打って出るようになる。

激戦地ならどこでも駆けつける。強敵であるほど「燃える心」で勝ちまくる。誉れ高き千葉青年部の魂である。

 

51年(昭和26年)、香峯子夫人は女子部の班長だった。

蒲田支部の矢口地区に所属していた船橋の班へ幾度も通った。

総武線の下総中山駅で京成線に乗り換え、葛飾駅(現・京成西船駅)で下車。西船橋の拠点まで徒歩で向かう。

矢口渡の自宅から1時間半はかかったろうか。

まだ区画整備もままならず、野良犬が暗い夜道をウロウロしていたような時代である。

だが座談会では、疲れた色など微塵も見せない。朗らかに女子部の活動の様子を語った。

2008年12月、船橋池田講堂がオープンした時、立派な会館に集う同志の晴れ姿の写真に、誰よりも喜んだのが香峯子夫人だった。

青年時代、船橋に通いながら、神奈川の鶴見・川崎にも足を運んだ。

千葉と神奈川。まさに「南関東」こそ、香峯子夫人の青春の舞台だった。 

 

まだ学会の会館も整っていない時代に、名誉会長が拠点にしたのが、市原市にある相川仁保の家だった。

この相川宅には、かつてはハスの池があった。

のちに埋め立てられたが、美しいハスの花が咲いていたという。

69年(昭和44年)1月15日に、名誉会長が相川宅へ。ハスの池があった場所に立ち「よく草が刈ってあるね」

「ここに、広布の城を築いていこう」と語った。

相川は開業医だった。折伏に来る人も、最初は裸足同然で、泥んこの足をしていた。

それが回数を重ねるうちに、玄関に並ぶ履物が、下駄になり、靴になり、上質な革靴になる。

「うーん、これはすごい」

泥の中に何か光るものを感じて入会したのである。

この地域には、今、市原文化会館が堂々と立っている。

 

強気でいけ!

 

プロ野球の投手だった白木義一郎が、チームメートを学会本部に連れてきた。バッテリーを組むキャッチャーの上林繁次郎である。千葉の船橋に住んでいた。

「紹介したい男がいるから」。戸田会長は一人の青年を呼んだ。

「池田です。よろしくおねがいします」

51年(昭和26年)7日13日。白木に折伏された翌日であった。

 

56年(昭和31年)、青年部の池田室長は上林を「大阪の戦い」の戦列に加えた。折伏戦の渦中、マスコミに中傷され、弱気な姿を見せる。

ある日、関西本部の一室で厳しい目で見据えた。

「この戦い、あなたは、絶対に勝てると思っていますか!」

「はい、そのつもりで戦っています」ー室長より一回りも年上だが、背筋をピンと張り、顔を強ばらせた。

しかし室長は納得しない。

〃そのつもり〃などで勝てる道理がない。

「本当ですか!」

「はい……」

こうした、やりとりが8回も繰り返された。ついに、ぼろっと本音をもらした。

「いや、その、本当は自信がありません……」

室長の檄が飛んだ。

「その弱気が一凶なんです!」

強気でいけば勝てる。切り開いていける。何ごとかを成し遂げられる。弱気になり、受け身になったら負ける。敗北の根本だ。

「人生は強気でいけ」

その鉄則を打ち込んだのである。

太陽の仏法が昇る浦安市の東京デイズニーランド。ここを運営するオリエンタルランドを設立した江戸英雄(三井不動産相談役)は、池田名誉会長と親しく対談を重ねてきた。

「池田先生、ぜひディズニーランドにお越しください」。

ようやく実現したのは87年(昭和62年)11月10日だった。

多忙なため短時間しか割けなかったが、次のように記帳している。

「全世界の 少年少女の夢とロマンとの 『平和』の金の城の 永遠の栄光を祈りつつ 大作 香峯子」

後日、名誉会長から御礼の手紙が社長に届く。

「多くの若い職員の方々が礼儀正しく溌剌と働いておられる姿、また謙虚な中にも自らの仕事に誇りと責任を持っておられる姿に、たいへんさわやかな印象を強く受けました」

社内報「LINE」の新年号に、全分が掲載された。

嵐の79年(昭和54年)。名誉会長は、千葉文化会館で陣頭指揮を執った。

本部幹部会(2月23日)。

市原地域本部の勤行会、青年部との記念撮影(2月24日)。

東京支部長会(3月4日)。

「人間、誰にも負けないものがあればいい。私は権力も財力も何もない。たった一つ、戸田先生を思う気持ちがあるだけである」

師弟の真髄を言い残した。

82年(昭和57年)6月9日、松戸会館(現・松戸平和会館)で松戸・市川・柏圏の勤行会が開かれた。

名誉会長は「この三つの圏は千葉の心臓部に! 日本の心臓部に!」と呼びかけた。

本年3月には心臓部にふさわしく、松戸池田講堂が完成した。喜びの波動は大東京へ

広がった。

91年(平成3年)11月8日。宗門が学会本部に〃解散勧告書〃なる文書を突きつけてきた。

その8日後、千葉ポートアリーナでの文化友好祭。名誉会長の悠然たる振る舞い、青

年たちの圧巻の演技に、来賓もマスコミも驚嘆した。

「宗門に叩かれても、学会は微動だにしていない。さすがだ!」

あの「創価ルネサンス」の開幕の烽火も、千葉から上がったのである。

名誉会長の本家は、「干葉庄池田郷」、現在の千葉城(千葉市中央区)の周辺にルーツがあったとされる。

「千葉には深い縁を感じる。故郷のような愛着がある」(名誉会長)

千葉の蓮華l千葉は、日蓮大星人が誕生なされた地である。約21年間も在住された。神奈川の鎌倉で12年、山梨の身延で8年、指揮を執られた。どこよりも長く千葉や南関東の周辺に、仏縁を残された。

大聖人は〃釈尊はインド、天台は中国、伝教は日本〃と三師を挙げられた上で、御自身を、生まれ故郷の「安州(安房の国)の日蓮」と名乗られた。千葉の名を誇りも高く掲げられ、末法広布の道を開かれたのである。

太陽の仏法は、創価学会によって今、世界を照らす。

新しき広宣流布の「勝利の旭日」は、干葉から昇る!

 

【第15回】 池田先生と埼玉県   2009-8-26

 

新時代を開く 「関東の師子王」

 

三代会長と川越

 

「この戸田の名代として、毅然と行ってきなさい!」

師の厳命によって、青年部の池田大作班長が、埼玉・川越の御書講義に討って出たのは1951年(昭和26年)の秋である。

戸田城聖第2代会長の事業を一身に支える苦闘の真っ只中だった。池袋駅から東武東

上線で約45分。発車ベルの鳴る電車に、飛び乗ることもあった。

成増駅を過ぎると埼玉に入る。大和町(現在の和光市)、朝霞、志木、鶴瀬、上福岡、新河岸ー。

やがて埼玉が大発展する日を祈りに祈りながら、電車に揺られた。

53年2月10日の日記。

「埼玉、川越地区に講義。

ー『佐渡御書。受講者、約五十名。次第に、人材、人物が、輩出して来た様子」 その5日後の2月15日。

川越会館(当時)で志木支部の総会があり、戸田会長が出席した。

さすがは大作だ! よくぞ埼玉を育ててくれた!

総会は大成功に。この日、戸田会長は川越にある旅館「佐久間」に投宿した。

 

この旅館「佐久間」には牧口常三郎初代会長も泊まっている。

1907年(明治40年)10月、川越中学(当時)で講演するために滞在した。

女性教育に力を入れていた牧口会長は、3日間にわたり、学資がなくても学べる女性のための「教書所」の実現を市民に呼びかけている。

「佐久間」の創業は1894年(明治27年)・皇族や文豪の常宿として愛されてきた。島崎藤村も、ここで小説『夜明け前』を執筆した。

そんな名だたる賓客をもてなしてきた「佐久間」だが、戸田会長を迎えた日のことは、いまだに語り草になっている・2代自の女将・佐久間スミが「すごい方が来られた!」と家族に熱っぽい口調で語っている。

その人柄に魅了され、わざわざ信濃町の学会本部まで、旅館の将来などを相談しにきたほどである。

3代目社長の佐久間勇次。

「歴代の会長が市民のために足を運ばれた川越です。学会の川越文化会館も素晴らしい。新しい名所ができたような思いです」

香峯子夫人と共に明治時代、埼玉の川越で女性の幸福を願った牧□会長。

名誉会長の香峯子夫人は、その牧口会長が出席した座談会に参加した経験をもつ。香

峯子夫人もまた折にふれて埼玉の女性を勇気づけてきた。

82年(昭和57年)8月、長野県。

関東から参加したメンバーの研修が終わり、香峯子夫人が、ねぎらいの声をかけた。

めざとく関東女子部長だった栗和田薫を見つけた。

「親孝行してくださいね。あなたがリーダーとして戦われていること自体が、立派な親孝行ですから」

栗和田は、これまで胸の内にしまってきた思いを語り出した。

母と姉妹4人で信心を貫いてきたこと。第3代会長の辞任を知った時の悔しさ。病弱だった母が、聖教新聞の配達をしながら、100世帯を超える弘教を成し遂げたことーーー。

薫峯子夫人は静かに、すべてを聞いてくれた。

「お母様を大切にしてくださいね」

翌日、栗和田の母に名誉会長から一首の和歌が届く。

「埼玉の 陰の陰なる母ありぬ その名忘れじ その名薫れと」

池田名誉会長が、全埼玉の婦人部、女子部に贈る思いで詠んだ歌であった。

 

89年3月12日、埼玉婦人部の代表が、香峯子夫人と懇談していた。

「どうしても関西を超える戦いをしたいんです!」

夫人は少し困ったように微笑んだ。  

「関西は主人がつくった組織ですから……。皆さんらしく戦うことが重要ではないでしょうか」

その年の10月。

関西入りした池田名誉会長は、京都の会合に出席した。

「〃大変な時こそ、まかせてください。関西は何倍もやりまっせ"との心意気。それが『関西魂』の素晴らしさである」と讃えた。

続いて、埼玉に刻まれた史実を通してスピーチした。

ー埼玉の行田市に、忍城という美しい城がある。

戦国時代、城主と軍兵が出陣した隙に2万もの豊臣勢が押しよせた。城には年配者と女性しかいない。絶体絶命である。

しかし城主の妻が、わずか300の兵と立ち上がる。城を落としてなるものか。妻みずから泥にまみれて堀を掘り、ついには豊臣勢を圧倒した逸話を通じた指導だった。

埼玉は、埼玉らしく!

不朽不滅の歴史を築け!

名誉会長夫妻は、常勝関西の地にあっても常勝埼玉にエールを送ったのである。

川口で文化祭1985年(昭和60年)9月29日午後、池田名誉会長が川口市立芝スポーツセンターに到着した。埼玉青年平和文化祭に出席するためである。

名誉会長は体調をくずしていた。それでも来賓の到着を知ると、畳をバンと叩き、勢いよく立ち上がった。

文化祭が幕を開けた。

東京の北区、足立区に隣接する川口市の名物「キューボラ」(鋳物工場の溶銑炉)の火をイメージしたダンスが始まった。

青年たちが、炎暑のなかで練習を重ねた演技が続く。

名誉会長は、拍手を送り続けながら、来賓に声をかけ、飲み物にも気を配った。

終了後の懇談会では、川口の同志の近況に耳を傾けた。

奮起した川口は、埼玉屈指の組織に発展。3年後、待望の川口文化会館が落成した。

 

テレビ埼玉の社長

 

埼玉西武ライオンズ。

涌和レッズ。

大宮アルディージャ。

埼玉のスボーツファンは、ホームチームの試合を中継する「テレビ埼玉」を愛してやまない。

社長の岩崎勝義。創価学会に興味を抱いたのは「人間教育実践報告大会に招かれて

からである。

埼玉県深谷市で行われた。

胸を打つエピソードに涙があふれた。

テレビマンとして、この団体の本質に迫ろうと、特別番組を手がけてきた。

切り口は豊富にある。

まず「母」という角度。

名誉会長の長編詩をモチーフにした「母に贈る歌」。2000年(平成12年)から3年にわたり「母の日」に放映した。

中国という側面も、見逃がせない。

02年は日中国交正常化から30周年の節目だった。「世代から世代へ伝える〃金の橋〃を制作。中国ロケも敢行し、名誉会長の足跡、功績も取材できた。

文化交流。

06年5月、「大ナポレオン展」が埼玉で開幕されることを知り、特番を組んだ。子孫であるナポレオン公と名誉会長の会見映像も流した。

「番組をつくる以上、池田先生、学会のことも徹底的に調べさせていただきました」

現場のプロデューサーやディレクターはもちろん、営業部門も巻き込んだ。

「未来を築く教育や、郷土を守る農村にも光を当てている。池田先生は大変に素晴らしい」

 

笑顔で進め!

 

85年(昭和60年)の師走。

第3埼玉県(当時)の代表が聖教新間社の前で名誉会長に出会った。

「どこから来たの?」

平川良子たちが答える。

「第3埼玉です!」

具体的な地名がイメージできないせいか、少し首を傾げた名誉会長。

「中心は、どこ?」

圏婦人部長が次々と声をあげる。

「春日部です!」「越谷です!」三郷です!」「久喜です!」「羽生です!」「熊谷です!」

それぞれの地域名を聞き、「分かった。本当にご苦労様! またね」。心から、ねぎらってくれた。

埼玉の東部から北部に広がる地域である。県民の間でも知名度が高いとはいえない。

〃勝つことだ。見事な勝ち名乗りを上げて、先生に知っていただくしかない〃

ことあるごとに活動の結果を報告し、86年11月24日、その夢が三郷で実現した。

この日、名誉会長は三郷文化会館を初訪問。三郷市、八潮市をはじめ第3埼玉の代表らが集った。

懇談の際、こんな場面もあった。   

三郷婦人部の岩田栄子が悩みを打ち明けた。長男の下肢がマヒしていた。その惠子を

抱きかかえ、婦人部本部長として活動してきた。

池田名誉会長の指導は明快だった。

「信心は明るくするものだ。感傷に涙する婦人部ではいけないよ」

その確信に圧倒される。

「太陽のごとく! 明るく前を向いて生きなさい。それが仏法だ」

その夜、和歌が届く。

 「あげ香しき秋の実りにつつまれし 笑顔と笑顔の 三郷城かな」

笑顔で進め! 新たな指針を胸に進む三郷には、勝利の 城がそびえる。

岩田の長男も、三郷圏の男子部主任部長になった。

 

師弟の埼玉たれ

 

2000年(平成12年)9月に行われた埼玉の記念大会。名誉会長はメッセージを寄せ、呼びかけた。

「全員が、師子王となってて、戦い、走れ! 勝ち抜け! これが日蓮仏法の真髄であり、創価学会の魂であるからだ。埼王よ、世界一の埼玉として、永遠に、その名を残せ!」

「私は、埼玉の大勝利を待っている。夢に見た埼玉の大勝利を待っている」

埼玉は立ち上がった。

機関紙誌の拡大、記念展示等の参加人数も常にトップに立つ。

いざ戦いとなれば、東京、神奈川、関西も押し上げる「関東の要」である。

後継の陣列も整った。

08年9月には、3万60O0人の広宣流布の闘士が、さいたま市のさいたまスーパーアリーナに堂々と集結。

その波動は、来賓として参加したブラジル青年部の代表の心も動かす。本年5月、ブラジルの地でも2万人の文化総会が行われた。

 

07年5月8日、埼玉池田研修道場で、名誉会長は新たな指針を示した。

「師弟の埼玉になりなさい。創価の三代は自分を捨てて、会員を守ってきた。その心が異体同心につながる。勝って、また会おう!」

「関東の師子王」埼玉が新時代を勝ち開く。

 

【第16回】  池田先生とアフリカ    2009-9-6

 

人類の希望の新大陸を

 

マンデラの願い

東京・赤坂のオフィス街。

貿易振興をテーマにしたビジネスセミナーが終わり、受講していた創価大学の教員が、仲間と連れ立ってカフェに入った。

1998年(平成10年)の春。日本は金融不安の渦中にあり、国際的な信用も失墜気味である。

それでも、そのカフェが活気づいたのは、南アフリカの事情にくわしい企業人が、創大の教員に、ひとつの秘話を明かしたからである。

──3年前の夏、南ア大統領のネルソン・マンデラが日本に来た。アフリカ民族会議(ANC)の副議長として90年に初めて日本の土を踏んで以来、3度目である。

マンデラには、どうしても会いたい日本人がいる。だがスケジュール表のどこにも、空きがない。

日本側の関係者も口々に言う。今回は国賓としての来日である。民間人との会見は無理だ。滞在期間も短い……。

それでもマンデラは納得しない。27年半、約1万日の投獄にも屈しなかった男だ。アパルトヘイト(人種隔離政策)の分厚い壁にくらべたら大した障壁ではない。

「こっちの持ち時間なら構わないだろう?」。南ア大使館主催のレセプションを欠席することに決めた。

これには、さすがの日本側も折れた。95年7月5日、迎賓館で会見が実現した──。

話し終えた企業人が、飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置き、創価大学の教員を見た。

「その民間人というのはね。おたくの創立者だよ。田会長。まったく凄い人だ」

 

カイカン・ソング

大西洋に面した、西アフリカのガーナ。

ブロックを一つ、もう一つ シャベルが一本、また一本……

工事現場から、太鼓のリズムに合わせて「カイカン(会館)・ソング」が聞こえる。

79年(昭和54年)、首都アクラではガーナ会館が建設中だった「カイカン・ソング」のビート乗って杭を打ち込む。セメント入りのバケツを頭に乗せて、ステップを踏む。

メンバーは赤土の道を歩いたり、卜口トロと呼ばれる小型バスに乗って工事現場までやって来る。

露天商やパイナップル農園の労働者もいれば、主婦、政府高官までいる。それぞれシャベルやハンマーなどの工具を持参。自分たちの手で会館を完成させたい。思いはひとつだった。

ある日、メンバーのもとにプレゼントが届けられた。映写機と映画「人間革命」のフィルム。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長からである。

狭い部屋に肩を寄せ合い、即席の上映会を開いた。

日本の創価学会の歴史を知って驚いた。もともと学会は、満足な会館ひとつないと ころから開拓していったのか……。

できうる限り、立派な会館にしたかった。針金やガラスを調達するため、町中の店を当たり尽くした。

ドアノブはナイジェリア、鍵はトーゴまで足を運んだ。

起工から足かけ7年。経済の混乱による中断を幾度も乗り越え、アフリカ初のガーナ会館が完成した。

 

ガーナの英雄

ガーナ共和国の大統領ジェリー・ローリングスが、2bはあろうかという堂々たる体躯を演壇に運んだ。

97年(平成9年)12月1日、信濃町の聖教新聞社で、創価大学名誉博士号の授与式が行われた。

厚い胸板に、隆々と盛り上がった肩、大きな手。ガウンのような民族衣装が似合う。 ガーナの議場で、その野太い声を響かせて腐敗を一掃。伝説の英雄「ロビンフッド」にも譬えられる。

授与式のスピーチが進むにつれて、口調が激しくなってきた。

アフリカの民は貧困と対立に喘いでいるのに、先進国は何をしているのか!

同席者たちが、ハラハラし始めた。

軍人出身。激しやすい。怒りを隠そとしない。一度、火がつくと、もう誰も止められない。

スピーチが終わった。と同時に池田SGI会長が立ち上がっだ。

大統領の肩をポンと叩く。

「ならば、一緒に戦いましょう! 徹底して話し合いましょう!」

1時間後。会見から戻った大統領は、にっこり上機嫌である。

あの「怒りのローリングス」を一変させるとは。

随行していた外交関係者が一驚した。

 

アフリカの総意

聖教新聞社の1階ロビーにナイジェリアのドゴン=ヤロ駐日大使が入ってきた。

母国の伝統的衣装と帽子を身につけている。真っ白い服が、精悍な黒い肌を引き立てていた。

夢だった池田SGI会長との会見が実現したのは、1988年(昭和63年)4月26日だった。

対談中、うれしい言葉があった。

「貴国は、アフリカでも格段に多くの大学を持つ教育大国ですね」とSGI会長。ナイジェリアの経済力に注目する人は多い。だが、教育に目を向けた人は初めてだった。

「ピカソもアフリカ美術に強い影響を受けました。ジャズなど多くの音楽の淵源もアフリカです」

数多くのリーダーと会ってきたが、これほどアフリカに敬意を払ってくれた人は見たことがない。

「池田会長は、ジャイアント(巨人)だ!」

        

 91年(平成3年)秋。

在東京アフリカ大使館の定例会が行われていた。

東京に大使館を置く26力国の代表が一堂に会している。

ナイジェリアのドゴン=ヤロが発言を求めた。

「アフリカの総意として、SGIの池田会長に賞を贈りたい」

「おー、ミスター・イケダ!」「あの方か!」

大使たちの記憶がよみがえってきた──。前年の10月31日、彼らは在京アフリカ大使館主催のレセプションに出席していた。

折から来日していたアフリカ民族会議副議長のネルソン・マンデラがスピーチに立ったのである。

「きょうは、ある方とお会いした。日本を代表する仏教団体のリーダーだ。青年の大歓迎にも、とても感動した。うれしかった」

マンデラの発言が、大使たちの脳裏に残っていた。むろん、アフリカに対するSGI会長の提言や行動もよく知られている。

ドゴン=ヤロの提案は全会一致で採択され、SGI会長に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られることが決まった。

授賞式は91年11月29日。

在東京アフリカ外交団として、SGI会長のもとにずらりと勢ぞろいした。

日本の一民間人のためにアフリカが一つになる。異例のことだった。

        

その直後のことである。

いつものように朝、英字新聞を開いたドゴン=ヤロが破顔した。

なに、宗門が学会を破門した?

正義の人が、時代遅れの聖職者たちに妬まれる。古今の歴史が物語っている真実じゃないか。

やっぱり会長はジャイアントだ!

 

月桂冠を君に

2001年(平成13年)8月16日。創価大学のアフリカ訪問団が、ケニアの首都ナイロビにあるセント・ジョージ小学校を視察した。

男の子が駆け寄ってきた。

「きょうはイケダセンセイも来てるの?」

この場には創立者が来ていないことを伝えると、少し残念そうな顔になったが、こんなメッセージを託された。

「そうなんだ。僕たち、センセイに会えるのをずっと楽しみにしてるの。センセイに会ったら、そう伝えてね!」

続いて開かれた交歓会。

一人の少女がすっと立ち上がり、朗々と詩をそらんじていく。身ぶり、手ぶりを交え、豊かな情感を表現する。

現地通訳が教えてくれた。

「創立者の詩です。桂冠詩人でいらっしゃいますね」

一行は再び目を丸くした。

少女の父親は、ナイロビ大学の教授ヘンリー・インダンガシ。

ケニア作家協会の会長。口承文学協会の会長などを務めた。SGI会長とも対談を重ね、交換教員として創大に滞在した経験もある。

インダンガシ家では毎晩のように、娘へSGI会長の詩を読み聞かせてきた。この小学校で教員をする妻も、会長の詩を教材にしている。

        

八王子の東京牧口記念会館。SGIの春季研修に参加しているメンバーの前でご池田SGI会長がマイクを握った。2004年(平成16年)3月のことである。

「ご苦労さまです。一番、遠くから来た人は?」

コフィ・コアメ・レミと、ズーズー・コアシ・ポールが手を挙げた。

はるか西アフリカのコートジボワールから、3カ月分の給料を旅費に充てて、日本まで来た。かつて象牙海岸と呼ばれた地である。

壇上からSGI会長が手招きした。「遠い所から、よく来たね!」

青年部のコフィの頭に「月桂冠」を載せた。勝者の証しである。二人の肩に腕をかけ、ぐっと引き寄せる。「福運だよ! 勇気だよ! 忍耐だよ!」

帰国後、コフィは300力所の会合を猛然と回り、1万人以上のメンバーに、その感動を伝えた。

アフリカ人の心に勇気と希望を贈ってくれた人は誰か。

アフリカ人の未来のために、祈り、行動してきた人は誰か。  ──アフリカの庶民は、誰よりもよく知っている。

 

 【第17回】  池田先生とサンパウロ 2009-9-26

 

青年を伸ばす「太陽の都」

 

市長は見た

 オレンジ色の屋根が続くリベルダージ(東洋人街)を、1台の車が風を巻くように走り抜けていく。

 2008年(平成20年)6月20日。

 ブラジルのサンパウロ市。

 南半球は秋から冬へと移る時期である。午後7時も過ぎれば、秋風が頬に心地よい。

 ポインセチアの赤い花が、ひときわ鮮やかに咲く年、サンパウロの冬は冷え込むという。さて今年は……。

 市長のジウベルト・カサビは、車を降り、長身をぐんと伸はした。

 眼前にブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の平和講堂がそびえている。

 まもなく講堂を会場として、市の慶祝議会が行われる。カサビは市を代表して、池田大作SGI会長に「銀のプレート」を献呈する。

        

 サンパウロは、幾度となくSGIを顕彰してきた。

 初代会長の名を冠した市立「牧口先生公衆衛生技術学校」。第二代会長の平和闘争を讃える「戸田城聖公園」は市民の憩いの広場だ。

 この日、カサビは名代の池田博正副理事長に、銀のプレートと「市の鍵」の授与決定通知書を贈った。

 「市の鍵」はサンパウロの最高栄誉。どうしても池田会長に直接、手渡したい。

 翌年、自ら訪日団を組んだ。09年5月。サンパウロ郊外のグアルーリョス国際空港を飛びたった。

 見送りの人波から、友人の声が聞こえた。SGIの壮年部メンバーであるカルロスが、陽気な声でエールを送ってくれた。

 「市長! 私の師匠のスケールに驚かないでくださいね!」

        

 「ようこそ! 市長!」

 カサビが乗ったエレベーターの扉が開く。池田会長が両腕を広げて立っていた。

 5月13日、聖教新聞社(東京・信濃町)で「市の鍵」の授与式が挙行された。

 こぼれるような笑顔を浮かべ、カサビが右手を差し出す。

 「市長は美男子ですね!」

 カサビの精悍な顔立ちが、ほころんだ。

 ウィットにあふれる言葉に、同行の市議から甲高い声が上がる。思いがけない提案があった。

 「市長、ぜひご両親の桜を、創価大学に植樹させていただこうと思います」

 ありかたい。厚情に言葉を失う。

 ブラジル人は家族のきずなを大切にする。つい先年、母を亡くしたばかりだった。そのうえ医学者の父の健康まで気遣ってくれるとは……。

 日本まで来てよかった。東洋の宗教指導者は、世俗から遠く離れた人ではなく、人間の心のひだまで敏感に感じ取る人たった。

        

 翌日。宿舎でカサビは国際通話の受話器を取った。

 電話の相手は、空港で見送ったカルロスである。

 カサビは声を張り上げた。

 「アミーゴ! 君の言った通りだ。途方もなく大きいスケールだったよ!」

 

日本人移住100年祭

 サンパウロ州の人口は約4500万人。そのうち日系市民は約100万人。ブラジル全日系人の7割にあたる。

 カズアキ・シンジョウも、その一人。沖縄から移民船に揺られ、一家でサンパウロに辿り着いたのは1959年(昭和34年)。

 待っていたのは土ぼこりが舞う荒野だった。

 慣れないバナナ栽培。肌が焦げるような太陽の下で鍬をふるう。出てくるのは石ころばかりである。

 ひと旗揚げたい。腕まくりで乗り込んだ父は、たちまち鍬より酒のコップを手にするようになった。

 喘息にあえぐ母と姉。薬がない。医者に診せる金もない。ほどなくバナナ園を手放し、都市部へ移った。

 露天商やクリーニング店を細々と営み、何とか糊口をしのいできた。

 そんなシンジョウー家が移民仲間に折伏されたのは69年である。

 まず健康を取り戻した。仕事も軌道に乗った。うつむいていた家族が太陽を見あげて笑うようになった。あまりの短時日の変化に驚いた親戚が、次々と入会した。

        

 池田会長が初めてブラジルを訪れたのは60年10月。海外初の支部をサンパウロで結成した。

 だが4年後に軍事政権が生まれると辛酸の時代がはじまる。座談会場のそばに、目つきの鋭い政治警察の監視が立ち続けた。

 その渦中の66年ごは2度目のブラジル訪問を果たす。

 朝の来ない夜はない。会長の確信は微動だにしない。帰国の折、居合わせた女性たちに語った。

 「時代を変える本当の原動力は、女性の祈りと、生活に根ざした活動だ。女性の力は大地の力である。大地が動けば、すべては変わる」

        

 日本人の移住開始から100周年となる2008年。サンパウロで慶祝記念式典が開催された。

 式典委員会からSGIに、出演者と役員の応援を依頼された。

 サンパウロ都市圏出身の役員を率いるのは婦人部のリーダーだった。

 あのシンジョウの妻シルビアである。

 子どもや甥、姪たちも、それぞれ創価班、牙城会、青年部の合唱団、女子部ダンスグループの一員として式典を支えた。

 シンジョウの家が、うらやましい──。

 友人たちが驚いている。これほど青年をしっかり育てられるシステムが開かれているとは!

 「鼓笛隊に入りたい」「息子を立派に育ててほしい」

 青年が伸びゆくブラジルSGIに、入会を希望する人は多い。

 

大統領に会わせたい

 「こんなにお若い方だったのか!」

 ブラジル大統領府の文官長ジョアン・アブレウは、SGIの担当者から手渡された一冊の写真集を開き、驚いた。

 1984年(昭和59年)。首都のブラジリアにある大統領府。

 大統領には各界から来客が引きもきらない。会うに、ふさわしい人物か。最終的な人物の見たてがアブレウの重要な職務だ。

 膨大な報告書類や資料に、入念なチェックを入れる。

 写真集を手に取ったのも、そのためだった。池田会長と各国の指導者の交流の様子が収められている。

 憲法学者のアブレウは最高裁判所で判事を務めた経験を持つ。

 前年の83年、海外の都市を訪れた際、歴史学者アーノルド・トインビーと池田会長との対談集を買い求めた。

 あまりにも高度で広範にわたる内容なので、てっきり池田会長も高齢の方だと思いこんでいた。

 興奮の面持ちで写真集を閉じたアブレウが、会見へのゴーサインを、政府関係者に告げる。

 こうして数年間にわたって準備されてきた大統領ジョアン・フィゲイレドと池田会長の会見が、ついに現実のものとなった。

        

 84年2月21日午後5時25分。フィゲイレドは、池田会長と香峯子夫人を大統領執務室で迎えた。

 文官長のアブレウも会談の機会を得た。ようやく書物の中でしか知らなかった人物と会える──。

 といっても、会見のスケジユールを調整する立場である。40分間、池田会長を独り占めすることで、大いに満足した。

 

一歩も引くな

 「先生! どうか、どうかブラジルに来てください!」

 日系2世のジュリオ・コウサカが身を乗り出して訴えたのは、1983年(昭和58年)7月である。

 鹿児島県の霧島で行われた研修会。ブラジル男子部の中心者として参加した。

 「必ず行くよ。広宣流布は私の生涯の使命だ」

 翌84年2月、会長は18年ぶりにブラジルを訪問。だが、出迎えのメンバーにコウサカの姿はなかった。

 ブラジルSGIの機関誌の内容に、軍事政権から横槍が入った。編集担当のコウサカは責任を問われ、組織役職と併せて解任されていた。

 サンパウロ市内で行われた勤行会。会場の隅にコウサカがいた。唯一出席が許された行事だった。

 会長は言いきった。

 「20年、頑張れ。真の信用を勝ち取るには、最低20年が必要だ」

 85年4月、コウサカは再び訪日した。時差の抜けない体で飛行機を乗り継ぎ、会長のいる四国へ飛んだ。

 徳島、愛媛、奈良、和歌山……各県で創立55周年を祝賀する青年平和文化祭が開かれていた。

 四国3県、関西4府県を18日間で訪問する強行軍。コウサカは会長に同行した。

 行く先々で青年の圧倒的な演技を目の当たりにする。すごい。さすが日本だ!

 だが会長の視点は違った。

 「あの方は今も元気かな?」

 「あの功労者は、どうしてる?」

 青年の檜舞台を切り開いた功労者、陰の人に光を当てていた。真の将軍学とは何か。身をもって教えた。

        

 2008年9月。コウサカはブラジルSGIの理事長に就任する。軍事政権の横暴に拳を震わせた日から、25年が経っていた。

 会長は短い伝言を託した。

 「リーダーは一歩も引いてはいけない。力強くいきなさい。何事も引いたら負けだ。本当の勝負は『これから』だよ」

 南米最大の都市・サンパウロ。「太陽の都」の前進はブラジルのみならず、世界を照らしゆく。

 

【第18回】 池田先生とフィリッピン 2009-10-9

 

マニラ湾の夕日

 ヤシの木が茂るマニラのホテルの入り口。

 「ようこそ! フィリピンヘ」

 玄関前で日本人客を迎えたジョイ・アルベスは、流ちょうな日本語で頭を下げた。

 従業員の彼女は、名古屋大学に留学した経験が買われている。

 しかし、高級車から出てくる日本人は、たいていアルベスには目もくれず、さっさとロビーヘと向かってしまう。

 「これだから、日本人は……」。最後の言葉は、ぐっと飲み込んだ。

 ホテルは空港から15分。客室から有名な「マニラ湾の夕日」が一望できる。

 どうやら近々、日本の宗教団体のトップが来るらしい。アルベスは「また失望させられるのか」と思ったが、迎える側の地元メンバーの熱意に打たれ、ともに準備に奔走してきた。

 1991年(平成3年)4月19日の午後11時過ぎ。

 池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長を乗せた車がホテルの入り口に止まった。

 車から降りた会長は、アルベスに折り目を正し、深々とおじぎした。

 「うちの人が無理難題を言って、困らせたでしょ。本当に、ありがとうございます」

 アルベスの小さな手を両手で握りしめた。隣に立っていたホテルのマネジャーに語りかける。

 「彼女は本当に陰で良くやってくれたと伺っています。日本から贈り物を持って来たので、渡してもいいですか」

 マネジャーは驚いた様子を見せた後で、にっこりと微笑んだ。

 その深夜。アルベスはSGIメンバーと遅い夕食を共にした。

 「実は私、今まで、日本人は傲慢な人ばかりだと思っていました」

 SGI会長から贈られた写真集に視線を落とすと、大粒の涙をためた。

 「でも、池田会長にお会いして、日本人が好きになりました」

 

一人立てばいい!

 コバルトブルーの海に浮かぶ7000余の島々からなるフィリピン。

 派手な塗装をしたジプニー(乗合自動車)が、大音量の音楽をかけながら疾走する。日曜の朝には、町中の人が石造りの教会に足を運ぶカトリック社会だ。

 1964年(昭和39年)5月12日。火曜日の夜たった。

 男子部の柴田昌男が、マニラ支部の伊藤四郎(支部長)の家に立ち寄った。伊藤と妻・富貴子が、よそ行きの服装をしていた。

 何かあるな……。柴田は直感した。

 じつは数日前、伊藤宅に電報が届いていた。オーストラリアに向かう途中、SGI会長がマニラ国際空港を経由するという。深夜の到着なので、夫妻だけで来るように、とも書かれていた。

 伊藤は悩んだが、柴田にウソがつけなかった。一緒に空港へ向かう。

 午後10時過ぎ。待合室のドアが開いた。

 「夜も遅いのに、わざわざありがとう!」

 SGI会長に声をかけられ、3人はソファに腰を下ろした。

 当時はまだ、日本軍の残した爪痕が人々の記憶に生々しい。反日感情は強い。

 「ハポン(日本人)が来た!」

 日本人メンバーは、町に出て、小石や木の枝を投げつけられることもあった。しかも仏教徒である。カトリックが全人口の8割以上を占める国では異端視された。

 そんな地で信仰に励んできた。SGI会長は温かい口調で語りかけた。

 「大丈夫だ。地涌の菩薩が出現しない国は、絶対にない!」

 その場で、柴田を部隊長に任命した。しかし現地に男子部は、ほとんどいない。柴田の戸惑いを断ち切るように言った。

 「君が一人立てばいいんだ。来年の5月3日、日本に来なさい」

 翌65年の5月3日。柴田は東京の日大講堂で、SGI会長から部隊旗を授与された。

 

伝説のスピーチ

 国立フィリピン大学。

 フィリピンの最高学府で、日本で言えば東京大学にあたろうか。池田SGI会長に 「名誉法学博士号」を授与している。

 マニラ郊外のケソン市に、メーンキャンパスが広がる同大学。国花・サンパギータの白い花が咲き誇っていた。

 1991年(平成3年)4月21日、卒業式典の席上での授与式だった。

 壇上のSGI会長は、卒業生が前を通る度に、椅子から身を乗り出す。拍手を送り、呼びかける。

 「よくやった!」

 「勝ったね!」

 日本語を解さない学生にも、心は確実に伝わる。前を通り過ぎる時、うれしそうな笑みを浮かべる。

 ホセ・V・アブエバ総長も穏やかに見守った。

 学生の列は、途切れなく続いた。

 1時開が経過すると、随行メンバーは、だんだん不安な顔になった。

 常夏の島。気温は30度を超え、じっとしていても汗が噴き出る。会場にクーラーはない。扇風機だけである。

 それでも、スーツの上にガウンをまとったSGI会長が、身体全体で歓呼を送っている。

 この直前に経営学部で記念講演を行ったばかり。疲労はピークのはずだ。体調は大丈夫なのか。役員が香峯子夫人に尋ねた。「学生がかわいくて、しかたがないんですよ」。静かに微笑んだ。

 ようやくSGI会長の謝辞になった。用意した原稿を伏せ、話しはじめた。

 「マニラを訪れ、私は思いました。世界一荘厳なる旭日を仰ぎ、世界べ尊厳なる夕日を望む皆様の心もまた、美しき宝の心であると」

 拍手が一斉に沸き上がった。鳴りやまない。この日、一番の大歓声である。スタンディング・オベーションが起こった。

 2年後。アブエバは授与式を振り返り、誇らしく語った。

 「あの後、学生たちが『池田会長のスピーチ原稿をください。もう一度、心に刻んでおきたい』とやって来ましたよ。学生たちの伝説になっています」

 

イケダ・ホール

 授与式の3年前の1988年(昭和63年)。アブエバは国立フィリピン大学の総長になった。

 その時、一人の男を紹介された。大学職員や警備員にも「アキ」と呼ばれていた人物である。SGIの新津《にいつ》泰昭《やすあき》。10年以上も大学に渉外で通い詰めている。

 日本人か。アブエバの脳裏に、少年時代の苦い記憶がよみがえる。16歳の時、アブエバの両親は日本車に拷問されたあげく、虐殺されていた。

 しかし、新津から、学会の歴史を知り、顔つきが変わった。初代会長は、命を賭して軍部権力と戦い獄死。これが学会の平和の原点になっているという。

 90年4月。アブエバは日本でSGI会長に会った。

 「貴国に対し、日本の軍国主義は、あまりにも残酷な侵略をしました」

 フィリピンも創価学会も、軍部に蹂躙された。その学会が、こうして謝罪してくれている。

 この人は、本当に日本人か!。

 「戦争のリーダーは多くいたが、平和のリーダーは、わずかしかいない」。アブエバが強く要望して、93年5月11日、フィリピン大学に、その名を冠した「イケダ・ホール」が開設した。

 

振り返ったリサール

 SGI会長は、フィリピンを公式に3回、訪問している(91年4月、93年5月、98年2月)。

 アキノ大統領、ラモス大統領をはじめ、幅広い人物と会見し、日比友好の道を開いてきた。

 その一人が、リサール協会の会長だった口ヘリオ・M・キアンバオである。

 二人は、幾度もフィリピンの国民的英雄ホセ・リサールをめぐって語り合った。

 1896年12月30日、リサールは35歳の若さで非業の死を遂げる。

 処刑の直前。リサールは、ひざまずかなかった。目隠しも断った。銃弾を後ろから受けながら、振り返ろうとし、鋭い眼光を残したまま、仰向けで倒れた。

 その場面をめぐって、SGI会長は、キアンバオに質問した。

 「リサール博士は、なぜ、振り返ろうとされたのでしょうか」

 そこまで知っているのか。見識の深さに度肝を抜かれながら、キアンバオは答えた。

 「『私は正しい!』という、リサール博士の毅然たる意志だったと思います」

        

 98年2月13日の午後8時半。テレビ局「ラジオ・フィリピン・ネットワーク」が特集番組を放映した。

 この4日前、SGI会長は「リサール国際平和賞」を受賞していた。その理由に迫った番組である。

 ラストシーン。リサールに続き、SGI会長の顔が映し出された。

 「リサール博士も、池田博士も、名もなき民衆の力と強さを信じる。そして、共に限りない人々に希望を贈り続けている」

 番組のタイトルは「旭日の騎士・池田大作氏の横顔」。

 民衆の苦悩の闇を破り、暁を呼ぶ旭日──タイトルそのものが、SGI会長への限りない讃辞を表していた。

 

【第19回】 池田先生と北京  2009-10-16

 

友好の大樹は民衆の大地に育つ

 

五輪のエース

 時が止まったかのような静寂が、ひとりの女性を包んでいた。

 バシッ!

 銃口のかすかな煙が消える。射撃場から、ため息が漏れた。

 2008年(平成20年)8月9日。北京オリンピックの開会式翌日である。中国人民の視線は、女子射撃のエースである杜麗《とれい》に注がれていた。

 焦点は「首金」、すなわち第一号の金メダルを、いったい誰が取るかである。

 4年前のアテネでも、彼女が最初に表彰台の真ん中に立ち、中国のメダルラッシュが始まった。

 しかし──金メダル確実と見られたエアライフルで、まさかの5位に沈む。

 あるコラムニストは即座に記事を書いた。

 「彼女の姿は非常に心が痛むものだった」

 「だが私は、日本の哲人・池田大作の言葉を、彼女に心から贈りたい。『青年は、いかなる困難な環境の中からも立ち上がっていく力を持っているのだ』と」

 5日後、別種目・女子ライフル3姿勢の決勝。表彰台の中央には、薔薇のブーケを天に突き上げ、金メダルを手に笑う杜麗が立っていた。

 

北京の大学生

 北京で本屋をのぞく。

 文字の国らしく、天井までとどく書棚には、びっしり背表紙が並んでいる。

 池田名誉会長の本はどこですか、とたずねる。店員は「ああ」とうなずき、一直線に連れて行ってくれた。

 儒教の大家であるハーバード大学教授ドゥ・ウェイミンとの対談集『対話の文明』。2007年の「良書100冊」に選ばれた。

 中国を代表する大学で、名誉会長について聞いてみる。

 北京大学の1年生。「心理学の先生が、よく読めと言っています。池田先生の言葉は深さがあります」

 清華大学の大学院1年生。

 「日本の作家ですよね。友だちがすすめてくれ、じっくり読みましたよ」

 北京師範大学の教授。「あの創価大学の創立者? 金庸対談には、本当に感動しましたね」

        

 第5次の訪中をしていた池田名誉会長が、北京大学の貴賓室の門をくぐった。

 窓から「未名湖《みめいこ》」が見える。冬には厚く凍りつき、学生がスケートを楽しむが、今は湖面を渡る風が、しだれ柳の緑を揺らしている。

 1980年(昭和55年)4月22日である。北京大学で初の講演を行う会場だった。

 テーマは「新たな民衆像を求めて」。孔子、司馬遷、魯迅が出てきたかと思うと、トインビー、ユゴーの言葉も自在に操る。スピーチが終了するや、学生の中へ。

 「みんなは、日本のことを勉強しているの?」

 「そうです」と流ちょうな返事。日本語学科の男子学生である。

 「質問を出すよ。かつて日本で『土佐』と呼ばれた地方は、何という県かな」

 互いに目を合わせて考え込む。「四国」「高知県です」

 「じゃあ、日本の古代文学で知っている書物を三つあげてみて」

 すぐさま「万葉集」「源氏物語」「竹取物語」と返ってくる。

 「みんな優秀だ。今度は、日本でお会いしましょう!」

        

 86年、北京大学に留学した学生部員がいた。

 ある日、学内の郵便局で背中に視線を感じた。ちょうど窓口で封筒を差し出そうとした時である。

 「君、ちょっと待ってくれ。その封筒は……」

 手にしていたのは、池田名誉会長宛の手紙である。声をかけてきた中国人学生は、やや興奮している。

 「もしかして、君は池田大作先生を知っているのか」

 「僕は、池田先生の弟子なんだ」

 ぽかんと驚く学生。「いいなあ。うらやましいよ」

 当時、歴史家トインビーとの対談集(中国語版)が北京の書店で売り出され、大人気だった。

        

 北京大学に隣接する創価大学「北京事務所」がオープンしたのは2006年。

 当局の正式な認可を受けて、国外の大学の連絡事務所が設置されたのは、ごくわずかである。

 

釣魚台《ちょうぎょだい》の国賓館

 1984年(昭和59年)の第6次訪中から、名誉会長の宿舎には、釣魚台の国賓館が用意された。

 「あれほど礼を尽くす人を私は知らない」(中国大使館関係者)

 緑色の制服に身をかため、入り口で直立している衛兵にまで、名誉会長は感謝の揮毫を贈った。

 魔法瓶の湯を入れ替えるため、若い男性が建物の2階へ向かう。天井の高い廊下を動く人影が見える。

 名誉会長だった。つかつかと大股である。すさまじい勢いを発散していた。手には5センチはある分厚い報告書の束。歩きながら、一枚一枚に目を通していた。

 「二ーハオ! ごくろうさま」

 ねぎらいの言葉をかけてくれたが、すぐに手元に視線を戻す。

 ばさっ、ばさっ……。わずかな移動の合間も、書類の束が猛スピードでめくられ、処理されていく。

        

 飛び込み取材を仕掛けてきた新聞記者がいた。

 「日本と中国が交流する上で、大切なことは?」と聞いてくる。

 「民衆です」

 間髪を入れず答える。

 「政治や経済の交流を船にたとえれば、民衆が大海原になります。民衆と民衆の交流があれば、政治と経済の船は前進します」

        

 中国側のスタッフが、池田名誉会長と車に乗って国賓館を出た。

 北京の大通りは人の波である。歩道はおろか、車道にまで人があふれていた。

 先導車がランプを回転させる。かん高い警報音が鳴り、人と車の波が、ぱっと割れた。分刻みのスケジュールを確保するための中国側の配慮だった。

 しかし、名誉会長は、車の窓から左右に目を配り、頭を下げている。小声で「すみません」とつぶやいている。

 車を下りると、先導車の運転手にまで謝意を伝えた。

        

 中日友好協会の会長を務めた孫平化。90年5月の第7次訪中では、江沢民総書記、李鵬首相の会見に、それぞれ同席した。

 前年に天安門事件があり、中国政府は国際社会で孤立していた。世界中のマスコミから警戒され、トップの実像も伝わりにくい。

 しかし、名誉会長は両者との会見で、国家を論じるだけでなく、人柄を表すエピソードや、個人的な思い出にまで突っ込んだ。

 孫平化は舌を巻いた。

 「江沢民総書記も、季題首相も、あそこまで話をされるとは……」

 

創大への留学

 「日本の小学生が北京に来ているから、行ってみないか?」

 なにげなく友人に掛けられた一声が、董芳勝《とうほうしょう》の転機になった。北京師範大学に学んでいた1991年(平成3年)の9月である。

 名門の北京第一実験小学校。利発そうな児童が、首にそろいの赤いチーフを巻いている。そこを、交流のある関西創価小学校の児童6人が訪れていた。一目で驚く。

 「なんでこんなに自主性があるのか」。エリート小学生に見られるような、教員の顔をうかがうところがない。

 「この子どもたちを育てた学校には、何かがあるにちがいない」。師範大学に行くほどだから、董は教育への関心は高い。その探求心から96年、創価大学へ留学した。

 創価教育の謎を読み解くキーワードは、創立者だった。

 キャンパスにいると、よく分かった。学生に会って激励するだけではない。遠く離れていても、伝言や書籍が届く。1年365日、片時も学生のことを忘れない......。

 董は現在、准教授として創価大学の教壇に立っている。

       

 北京に生まれた李珍《りちん》は、その生い立ちゆえに過酷な娘時代を送った。

 母親が在日華僑だったため、文化大革命で、白眼視される。「日本の特務(スパイ)!」。父親は衆人の前で吊し上げられた。

 ぬぐいがたい人間不信が残る。夢だった大学進学も半ばあきらめた。

 75年4月、両親が奉職していた武漢大学に、ある知らせが届く。

 「日本から立派な人が来る」。母から聞かされ、一緒に出迎えることにした。

 日本と関わって一家が辛酸をなめた経緯があるので、李珍には違和感もあったが、そこに池田名誉会長が現れた。

 中国側が、日本語で童謡を歌う。

 夕焼 小焼の あかとんぼ……

 歌うほどに、心がひとつに溶け合っていく。

 名誉会長は、一人一人に話しかけてくれた。そのたびに、弾けるような笑いが起きた。李珍の目をじっと見て「日本に留学にいらっしゃい。待っているよ」。

 その7年後、李珍は創価大学へ。

 だが、しばらくして父の訃報が届く。文革時代、労働改造農場に連行されても家族を守り抜いてくれた父である。

 悲しみの中で創立者と再び出会ったが涙が止まらない。

 「頑張れ!」。握手した手に、父の温かさがあった。

 その後、彼女は日中を結ぶ映像プロデューサーになり「大地の子」「新シルクロード」などの名番組に携わる。

 映画「故郷の香り」は2003年、日本の東京国際映画祭でグランプリに輝いた。

        

 昨年秋、中国からの創大留学生OB・OGと、中国在住の創大卒業生が、北京で一堂に会した。

 そこには、新中国からの留学第一号だった中日友好協会副会長・許金平《きょきんぺい》もいた。同協会もこの開催を喜んでくれた。

 互いに初めて会う者もいたが、どちらも創立者という一点で、旧知の間柄のように語らいが弾む。日本と中国の垣根は悠々と乗り越えられた。

 創価大学が、日本で初めて新中国の正式な留学生を受け入れたのは1975年──明年で35周年を迎える。

 

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