現在位置:asahi.com>ニュース特集>ニッポン人脈記> 記事

盗掘穴、「人の絵がある」

2007年05月07日15時12分

 高松塚古墳が発見されたのは、1972年3月21日のこと。日本中が、札幌五輪にわき、浅間山荘事件のテレビ中継にくぎ付けになってほぼ1カ月がたっていた。きょうは、日本考古学の金字塔であるこの発見のドラマをたどる。

写真網干善教さんと広瀬永津子さん=1972年の発見当時、高松塚古墳の前で
写真森岡秀人さん
写真上田俊和さん

 奈良県明日香村。あの日、関西大助教授だった網干善教(あぼし・よしのり)と学生ら計7人は小さな山「高松塚」の発掘調査をしていた。山にショウガを保管する穴を掘っていた村民らが変わった岩をみつけ、「古墳の一部では」と村役場に届け出た。調査はこの情報から始まった。

 ショウガ穴の先には、中世の「墓荒らし」が開けた盗掘穴があり、中は石室になっていた。

 昼過ぎ、盗掘穴をのぞいていた網干が叫んだ。「人の絵がある」

 石室の中を詳しく観察する大役に、3回生だった広瀬永津子(ひろせ・えつこ)(56)が選ばれた。盗掘穴は縦35センチ、横80センチほどの大きさしかなかった。広瀬は身長148センチと一番小柄だった。

 広瀬は、足を仲間に支えられて盗掘穴から石室内へ。石室内を懐中電灯で照らしながら、様子を次々に報告した。

 「からみあった亀と蛇が見えます」

 「トラのような動物も」

 「プリーツのようなスカートをはいた女性も描かれてます」

 広瀬は当時を振り返る。「興奮してハイな状態でした。帰宅して、母から、頭に細かい漆喰(しっくい)の破片のようなものがたくさん付いていると言われました。気づかなかったんですね」

 いまは主婦。「あの日の感動は、いまもそのまま心の貯金箱から取り出せます」

 2回生だった森岡秀人(もりおか・ひでと)(55)は広瀬の足を支えた一人。そして森岡がとり続けた克明な記録は、その後の報告書や著書の基礎資料になっている。

 大学を卒業後、森岡は地元・兵庫県芦屋市教委の考古学担当者になった。弥生式土器や古代の集落跡などを研究し、広く学界に知られるようになった。

 95年、芦屋市民だけで500人近くが犠牲になった阪神大震災がおこった。森岡は壊れた住宅付近に遺跡がないかどうかを調査し、建て替えに協力してきた。いくつもの大学から研究者として迎えたいと誘われたが断った。「高松塚と阪神大震災が私を鍛え、決定づけました。ここが私の舞台です」

   ◇

 「古墳の一部では」と届け出て高松塚発見に貢献した村人たちは、農業上田俊和(うえだ・としかず)(66)ら「飛鳥古京顕彰会」の面々である。

 顕彰会は発見の2年前に結成された。「祖先たちの宮や寺院の遺跡を、村外から来る学者らがわが物顔に掘るのが歯がゆかった」。上田は結成の理由をこう語る。高松塚の調査を指揮した網干は当時、明日香村に住んでいた。上田は調査の事務局を買って出た。2人の間には同じ村民という仲間意識があった。

 上田は言う。「実は、発見の20年以上前、中学時代から、自宅近くに高松塚古墳があることは知っていた」。だが、飛鳥地方は、歴代の天皇や蘇我氏など古代の遺跡の宝庫。直径20メートルほどの小さな高松塚は調査されないまま忘れられていたのである。

 83年、高松塚から約1キロ南でキトラ古墳が発見された。近所の話をもとに上田が見つけた。「道路沿いに露出していた地層を見て、古墳であることは容易に察しがついた」と上田。村民にとっては超一級の文化財も身近である。

   ◇

 考古学ブームの開幕を告げた高松塚。発見の半月後、調査と管理が、網干が属していた奈良県立橿原考古学研究所から文化庁に移された。国なら十分に管理してくれると期待してのことだった。

 しかし、04年、管理が悪くて壁画がカビなどで損傷したことが分かった。関西大の博物館長、飛鳥文化研究所長などを歴任した網干は傷んだ壁画の写真を見て嘆いた。病床で高松塚を気にしつつ、06年7月、78歳で死去した。

 その死から9カ月たった今年4月、石室の解体作業が始まった。

 日本にはっきりとした国家が初めてできた舞台・飛鳥。この地には、古代文化が薫る風が吹く。歴史のロマンを追う人々を通して、文化遺産のあり方を考えたい。

(このシリーズは文・天野幸弘、写真・塚原紘が担当します。本文は敬称略)

PR情報

このページのトップに戻る