忘れられない一日になりました。
フランス時間で7日正午すぎ、インターネットのニュースを通じて『週間チャーリー』編集部襲撃について知りました。午後から区役所に行く予定でしたが、中止して部屋で待機することにしました。
Twitterで情報を集めていると、以下のツイートが回覧されてきました。事件現場に近いレピュブリック広場で午後7時より集会を開き、「報道の自由、民主主義、共和国」のための連帯を呼びかける内容です。
Rassemblement citoyen ce soir 19h, place de la République. Venez nombreux. #CharlieHebdo. RT SVP. pic.twitter.com/GcWuqa0tBe
— Xavier Frison (@xfrison) 2015, 1月 7
その後、集会の時刻は午後5時に変更。寮からは注意喚起の通達もありましたが、すぐに参加を決めました。理由は後で書きます。
行きがけの地下鉄車両内で撮影した写真です。ランプが消えているのは事件現場の最寄り、メトロ6番線のリシャール=ルノワール駅です。安全のため警察の指導により閉鎖されています。無人の駅を通過するさまは異様でした。このあとレピュブリック駅も同様の措置が取られました。
会場に到着したころはまだ人もまばらでしたが、日が暮れるにつれて広場を埋め尽くすほどの人出となり、周辺の駅や道路は全面封鎖、最終的には数万人規模のデモになったそうです。参加者はあちらこちらで手書きのプラカードや、インターネットからダウンロードしてきた「JE SUIS CHARLIE(俺はチャーリーだ)」のロゴマークを掲げ、何も持ってこなかった人は表現の自由の象徴としてペンを利き手に持つなど、思い思いに気もちを表現していました。
広場の中心にあるマリアンヌ像の下では「リベルテ・デクスプレシオン(表現の自由を)!」「リベルテ・ドゥラプレス(報道の自由を)!」「シャーリー、ヌソムトゥ(俺たち皆チャーリーだ)!」などとシュプレヒコールが上がり、中にはプロテストソングの名曲「We Shall Overcome」をフランス語で歌う人もいました。おじいちゃん世代の流行り歌だと思っていたので、自分とほぼ同じ年齢の若者が歌っていたのは少し意外でした。
一方では特に声を荒げるでもなく、周囲から黙って騒ぎを見守る参加者もいました。マリアンヌ像の下から撮影した写真を見返すと、さまざまな表情が写りこんでいます。不安、悲しみ、憤り、各自が色々な感情を抱き、じっとしていられずここに集まったのだと思います。
若者、赤ちゃんからおじいちゃん、おばちゃんまで様々な世代の人びとが、誰かによって統率された画一的な意志によってではなく、思い思いの動機から参加する。初めて見たフランスのデモは、自分にとって深い印象を残すものになりました。
後付けになりますが、今回デモに参加することを決めた理由は3つあります。
1. テロリズムに抗議するため
これは大前提でしょう。今回殺害された一人であるCabu(本名ジャン・キャビュ)は、福島の原発事故の後も何の知性も感じられない下品なマンガを描いた人で、正直言うと今まで嫌いでした。でもそれは「キミ面白くないよ」と伝えればいいだけの話で、殺人の理屈としては不十分です。犯人側にいかなる事情があろうと、暴力でメディアの口を封じる行為は許されるべきでないと思います。
2. 歴史的現場に立ち会うため
事物のうねりに参加し、歴史の流れを見届けたいという欲求はありました。要は野次馬なんですが、今回の事件は十年二十年と語り継がれるでしょうし、それに社会運動の歴史を研究していて目の前のデモに参加しないのは格好つかないので。
3. 自らの身を守るため
身を守るといっても暴力からではありません。フランス社会からです。ニュースを見て、これを機に外国人は今後ますますフランスで暮らしづらくなるだろうと思いました。もちろん普段の生活の中で面と向かって心無い言葉を投げかけられることはないでしょう。ですが深層心理は分かりません。案の定、デモ会場はきれいな身なりをした白人が大半でした。すでに各地でイスラム教徒が攻撃されているという報道もあります。この空気に水を差すには、一人でも多くのフランス人に「悪いのは一部のテロリストであって、外国人皆が危険なわけではない」と感じてもらうのがよいと考えました。だからこそ今回、フランス社会に対して文字通りの「デモンストレーション」を行うため、集会に参加しました。せめて自分の姿を見た周囲の参加者が何かを思ってくれると良いのですが。
状況が目まぐるしく移り変わる中、心境にも多少の変化がありました。以前はあれほど嫌いだったCabuを憎む気持ちが薄れてきたのです。もちろん『週間チャーリー』に掲載された漫画を下品で差別的と思うことに変わりはありません。ですが、彼らが差別的な漫画を描くのは、雑誌を買う人がいるからです。漫画が醜悪なのではなく、漫画は現実の醜悪さを映す鏡だったということ、漫画家は読者のステレオタイプを代弁したにすぎず、本当に醜悪なのは漫画よりも現実の方だということに気づきました。犯人は銃撃戦の末に死亡し、事件は収束に向かったかに見えます。ですが、差別と暴力に対する本当の闘いはこれから始められるべきです。その闘いに参加することは、私たち人文学を学ぶ者の責任でもあります。
フランス人権宣言 第10条 なんぴとたりとも、法によって定められた公序良俗を乱さない限り、自らの主義主張のために脅かされることがあってはならない。その主義主張が宗教的なものであった場合も同様である。
第11条 考えや主義主張を他人に伝える自由は、人権のうち最も大切なものである。ゆえに、すべての市民は、法によって定められた場合には自由の濫用として責を問われるが、そうでない限りは、自由に話し、書き、出版することができる。