電波犯罪と超科学

電波犯罪を告発する。98年ネットで日本初の告発。被害は20年。彼らの手口を詳しく解説。また最先端の精神世界を紹介する。

人権教育は道徳の代替になりうるか?

2015-01-09 12:07:45 | 電波犯罪
こんにちは
 晴れ。
 深夜に根室で地震があったけど、私の予知がなんとか成功した。詳しくはブログで。場所は根室までつきとめられなかったが、あまり厳密にしなくても。

 人権教育は道徳の代替にならない 
 
 人権は、そもそも社会制度だ。精神理論ではない。日本人は、なんにでも「精神」とつける。憲法の精神、柔道の精神、平和の精神、囲碁の精神。人権にも同じように"精神"をつけ、"人権の精神"と、した。が、それを精神論と勘違いしてはいけない。人権は「精神論」ではない。フランス革命ではじめて国家に認められた社会制度である。

 人権の精神といっても、それは社会制度の意義や理念のことをさす。憲法で考えてみよう。"日本国憲法の精神"では、三権分立、民主主義、人権、政府、裁判、警察などが説明される。ほとんどは、国家の制度である。よって、"憲法の精神"は、精神論ではない。

 人権は、信教・思想、表現、集会結社の自由などある。それらは、精神論ではない。違いがわからない? 道徳は明らかに精神論だ。指導要領では、「親切」、「友情」、「善悪の基準」、「正直」、「勇気」、「節制」、「真理追究」などがある。こういう徳目が精神論であって、人権の理念にはそういうことは書かれていない。

人権は精神論ではない。それは内容を比較してみると、一目瞭然なのだ。つまり、人権を教えても、国家制度の一つ、人権制度について知見が深くなるだけで、精神自体はよくならない。これは自明である。

 人権は、国が国民に保障するものだ。国が、国民に人権を保護するように働きかけている。外的なものだ。精神論は、内的な規律だ。愛、信頼、尊敬、信仰など、心理的なものだ。心の法則なのだ。社会の法則は、社会慣習や法律、権利であるが、それは心の法則ではない。つまり、人権は、分類上、心の法則たりえない。

 よって、人権には内的な規律がほとんどないから、道徳の代替になりえない。つまり、人権教育をしても、心の美しく、勇気があり、正義感が強く、友情あつき、思いやりがある子供は育たない。

 人権を教えても、精神の優れた子供が育たない。それには他の理由もある。人権では、思想・信条、信仰の自由とあり、国が特定の思想を強要することは、認められていない。義務教育のように、バランスのよい知識を教育することはよいのだが、特定の知識は教えない。つまり、人権だけでは、それら精神の実質は教えられないのだ。

 戦後、日教組が道徳教育を教えなくなった1980年頃から、しだいに学校が荒れだして、校内暴力が盛んになった。いまやいじめが陰湿化する。それは、子供の精神性の低下。つまり、管理教育が原因ではなく、道徳教育をなくしたことによって、引き起こされた。その間、人権教育はたくさん時間をかけたが、子供の精神は一向に改善しなかったのである。

 最近の左派は、思想・信条の自由を、曲解して、道徳教育の反対論に使っている。国は道徳だけは何も教えてはいけない、と。だが、算数、国語、社会は日本人の精神・思想基盤だ。日本人は誰でも、科学的な心をもち、日本人の伝統や歴史をよく知り、それが自身のアイデンテティーになっている。これらは国が教育している。つまり、国が思想を教えていることになる。日本人を日本人たらめしている多くは、歴史教育だが、それはよい。が、道徳だけはいけない、という。

 道徳も教えてよいのである。実は、現在教えられる道徳は、日本が長年の培った精神文化の一般的なものだ。特に、戦後に形成されたもので、天皇崇拝は排除している。国家や社会が許容するバランスのよい精神規律である。特定の思想や宗教に偏るものではない。左派はそういうことを知らないから、間違ったことを言う。

 道徳は、人間を人間たらしめるもので、人間として生きられるようにするための教育である。人権では国は国民を一人一人を人間らしく生きさせる義務がある。そのために、生活費を与え、義務教育を受けさせる。ならば、道徳教育も、人間らしく生きるための自己を律する知識を教えること。人権の一つとして、国が国民各自に与えなくてはならないものである。

 道徳なき者は野獣で、感情に支配され、すぐに暴力をふるい、他人をいためつける。彼らは悪心に満ち、己のことだけをする。国民の規律の低い国は、すぐに暴徒が生じ、内紛が絶えない。国の法律も守らない。他人の人権も守らない。国は、こんな人間を大量に生産しては、社会が無法化して、秩序がなくなり、国が滅ぶ。よって、精神のあり方を子供に教えるのは、国が乱れないようにするためで、国のつとめだ。

 道徳教育は国家にとって必須、不可欠である。人権が教えてはいけないとする偏った思想教育とは、あまりに極端なイデオロギーである唯物史観のほうである。

 人権教育では中身がない、精神性の薄い人間が育つことが、みえてきただろうか? 人権教育で育った子供達は、いじめばかりしている。それが人間同士のコミュニケーションだと思い違いをする。人権には、人間愛や正義、信頼、友情、節制、責任、勇気、希望といった精神の基本が一つもない。人権を学んでも、社会ルールを丸しかできなくて、心からよき人間になれないである。人権教育は、道徳のかわりにならない。

本日の被害
 針刺しキズが皮膚にある。朝、鼻の横にわずかに血が固まっていた。指先も刺されたあとのように小さな痛みがある。また目も痛む。あちこち、睡眠中に針で刺されたようだ。
 
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道徳は家庭で教えられない 2

2015-01-08 11:51:38 | 電波犯罪
こんにちは
 曇り
今日は、東北か北海道で強い地震があるかも。地電流がすごい反応なので。

 私は精神論を常日頃、考えている。だから、得意。


 道徳は、家庭で教えられるか?

 ユーチューブを見ると、若者がいろんな物事に挑戦する。日本のキャンデーを食べたり、シャボン玉の中に入ったり、乳児用食品を食べたり。人気があるようだ。

 「道徳は家庭で教えられる、学校で必要ない。」と、日本人を精神性豊かな国民に育てあげることに反対する者達は、当然、家庭で道徳を教えているのだろう。まさか、彼らは口先だけで "できる"とは言いながら、家庭で教えてないのか? 反対派は嘘つきなのか?

 では、やってみよう。どこまでできるか?

 絵本の読み聞かせは、子供の語学力、想像力を高めるだけでなく、教訓的な話によって道徳心を養える。3-5歳になった子供には、毎夜、母親が絵本を読み聞かせる。それが子供の心を発達させる。さて、それを日課とする母親は何割いるだろうか? 忙しくて子供の要望をきかない母親が多いのではないか?

 神父や僧侶は心を清らかにする感銘のある話をしてくれる。西洋では教会で精神のあり方を学ぶ。親は日曜に、そんな教会に子供を連れてゆく。こんな両親は日本に何割いるだろうか? 何もしない親が大半ではないか。

 子供同士遊ばせる。子供は友達と一緒に活動することで、人づきあい、人を信じること、友情、遊ぶ楽しさ、正義、嘘をつかないこと、リーダーシップを身につける。書物や教室の学びよりは、こちらは実践的だ。放課後に何割の子供が友達と遊んでいるだろうか? 塾通いや電子ゲームばかりさせては、身につかない。

 アニメや子供番組を見せる。大切なことはすべてどらえもんから学んだ、という本を出す人もいる。アニメの精神的な効果は大きい。仮面ライダー、戦闘ものアニメは正義の心を育む。プリキュアは友達を大切にする心。妖怪ウォッチは、ドラえもんと似て、悪いことをするとひどいことになることを、具体的にみせる。ケチ、だらしない人、不良、無理とばかり言い何もする気がない人。

 日本昔話からは、最近は放送されないが、教訓的な話が多く、伝統的な日本人の精神を会得できる。世界の偉人伝のアニメは、世界に通じる精神がそこに描かれる。これらを見て、子供は心の持ちようを知る。親は子供にテレビを見せ、この点は寛容だ。だが、最近の子供アニメは1970年代よりは貧弱である。

 こんなに家庭で子供に精神的な体験をさせると、どうなるか? もちろん学校では人権教育は行なわれている。

 学校でいじめが蔓延する。いじめは陰口を叩き、嫌がらせを日常行い、人を敬う心がない。気に入らないものをすぐに攻撃して、ストレス耐性が弱い。またすぐに人をいじめるのは、その子供の集団のリーダーシップがなってないからだ。いじめが蔓延するのは、誰も大きな声でそれを言わなくて放置されるから。つまり今の子供は特に正義心が欠ける。

 現代の子供達はこれだけ家庭で精神的な物事に接しても、倫理観に欠ける。人間として、やってはいけないことをたくさん知らない。家庭や子供が育つ社会だけに道徳教育を任していては、不十分である。

 家庭で教えるだけなら、すべての子供達が美しい精神をもち、愛を行い、社会に奉仕する精神になれない。そのきっかけすらつかめない。なぜなら、そんな倫理教育をどの家庭もしないからだ。そして、子供はいじめグループの一員になっている。

 家庭で、道徳教育などどこもしない、というのが問題である。母親は仕事や買い物、友人づきあい、家事、さらにはストーキングで忙しい。子供にかまってられない。父親は、仕事から帰ってきて、家では休むもの。日曜は遊ぶもの。子供の教育は、塾や学校任せだ。自分の家で、そんなことを教えている親は少数である。

 いじめの増加、つまり子供の精神性の低下は、当初から、学校で道徳を十分に教えないで、家庭や社会にそれらを任せてきたここ20-30年の社会慣習が限界にきた、という問題なのだ。従来どおり、道徳の否定、家庭にそれら精神教育を任すというやり方では、根本的に解決できない。反対派は、何が問題なのかすらわかっていなかったのである。

 この現実を直視しなくてはいけない。家庭で教えないならば、どこでするか? 子供に教会を通わせるわけにもいかない。塾が倫理的なことを教えてはくれない。サマーキャンプなどで健全な子供のあり方は教えられるが、精神性の向上という点では効果がはっきりしない。道徳教育は、学校でしっかりと教えるしかないのである。

 今の道徳教育は、天皇に忠義を尽くせ、など明治神道のようなことは教えない。いつまで、そんな間違いを信じて、反対するのだろうか? 子供のたちのあまりの規律のなさを見よ。いじめ、嫌がらせ、暴言。名を隠してネット上で、こそこそ中傷しあう。ただ罵倒しあい、悪口を言い合う。陰湿極まりない。まるで地下共産ゲリラのミニチュアのようだ。一部の子供はそこまで落ちている。

 またこの希薄さは子供だけでなく、大人にまで広がっている。このまま、何もせず日本人の精神性を貶めてよいのだろうか? 日本人の高い精神が消え失せるだろう。

 道徳を再興しなくてはいけない。学校で教育して、しっかりとした人間を育てあげなくてはいけない。そうでなくては、日本人の良さは、長くは続かない。現在は、世界の人々との交流も多い。我々は責任をもって、子供達を世界の中で特に慕われ、好まれる賢明で良き人間に育てあげなくてはいけない。

本日の被害
 左目がやや痛む。口の中に、針刺しキズがある。電波で熱くなる。また居間にいると、過剰に眠たくなった。

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道徳教育は学校で。家庭では躾しかできない。

2015-01-07 11:46:07 | 電波犯罪
こんにちは
 曇り

 北海道地震を予知して、3日目。今日はやばい。日本の地磁気はね。

 You-Tubeで、英語の勉強中。TYT Showsは顔の薄暗いキャスターがしゃべる。彼は金持ち(Rich people)、バイヤー(大企業)の政治、市民(citizen)という。民主党系だ。論理が最近の左派テレビのキャンペーンと同じなのがひっかかる。日本のリベラルは、アメリカの直訳? 彼らの対処法がみえてきた。メディアがアメリカの民主党のロジックを使うのなら、そこが解決の糸口だ。

 道徳教育は学校で。家庭では躾しかできない。

 朝日や毎日の投書には、道徳教育は家庭や近所で十分だ、本人がそんな育ちだったから、とある。人の子は犬猫じゃあるまいし。それは躾である。箸の持ち方、服の着かた、車は怖い、見知らぬおじさんにはついていかない。家庭の躾は、そんな簡単なものだ。日本人がそんな程度の規律でよいわけがない。道徳をしっかり学校で教えないと、アメリカにおける犯罪の多さ、中国の金満主義などの台頭、精神の荒廃を招く。日本人のよき精神は失われてしまう。

 道徳は、高度だ。人を信じる、尊敬、畏敬、愛する、忠勤、正直さ、裏切らないこと、短気・直情にならないこと、軽薄、安易、犯罪を犯さないこと。他人への親切、博愛。もっと発展すると、倫理、宗教にゆきつく。学問になると哲学、倫理学、心理学、脳科学、思想で専門的に研究される。
 こういうことは、親から教わらないし、テレビを見て身につくものではない。物好きな近所のおじさんが、語り聞かせてくれるものではない。

 なぜなら、現在、中高年の全共闘世代は道徳を侮蔑して、その知識がほとんどないから。近所のそういう倫理的とはいえない老人達は、道徳・倫理を子、孫に教えることすらできない。

 論語読みの論語知らず、とは論語を読んでも、それを実践しない人を戒める諺だ。まずは論語を知らなくては、はじまらない。その上で、普段、人の道を行なうと努める人がよいとされる。つまり、論語すら教わってない、読んでいないようでは、道徳について何も実践できはしないのである。それが現代日本の問題である。

 学校でまずは、道徳をきっちりと教えること。それが日本人を日本人たらしめ、よき心を養うきっかけとなる。道徳も知らない者が、精神的に人々を感化するよき振る舞いなどできない。

 道徳や倫理は学校で教科にして、習わせるのがよい。それは、戦後、ずっと続けられてたことだ。それは正しいことだった。道徳教育は、戦後に始まったものではない。もっと古来から行なわれてきた。

 道徳は人の道。江戸時代には、寺子屋や藩の学校で、論語や古典、武士道を学ばせた。それ以前は、僧侶が寺で文字、お経、仏道を教えていた。明治維新後は、小学校に通わせたから、そこで明治神道にかえたようなものを教えた。忠孝や仁は武士の精神だから、神道に変え、忠勤が天皇に尽くすものにした。戦後は、天皇への崇拝は削り落とされ、道徳、世界の偉人などが奨励された。

 昔から日本では、躾で道徳が十分身につくとは考えられてこなかった。僧侶、師範、先生、教師から教わるものだった。道徳は、私がそれを学んだ1979年にはあったから、かなり続いた。学校で道徳を教えるものと、社会は共通の認識をもっていたからだ。

 道徳は一つの学問である。そのために宗教では、仏教は仏の道を求めたし、キリスト教はイエスと同じものや神の求める生き方を目指した。が、現代の親はそんな本も読まないし、体験もない。ドラマを見て、料理を作る母親や、会社の仕事に忙しい父親が、日曜に寝転がって休んでいるのに、時間をかけて子に人の本分を教えてくれるのだろうか? それは義務づけられたものなのだろうか? そんなことを何もしないで、子供は賢明に育ち、精神的に申し分ない人格になるのだろうか? それはありえない。

 家庭の躾で、十分なのは、トイレの使い方や箸の持ち方くらいではないか? 家庭で算数も国語も社会も教えない。道徳も同じように奥が深く、高度なものなのだ。二桁の足し算や九九くらいは親が子に教えられるだろう。だが、家庭で分数や一次関数、二次関数、英語も教えられない。

 道徳も、恋愛の初歩的なこと、嘘をつかないこと、犯罪をしないこと、友人とけんかしないことくらいは、家庭でできる。しかし、それ以上に深い精神的なこと、哲学的な話題、論語の内容、宗教の意義、倫理基準、博愛を徹底すること、人に尽くすこと、欲望に走らないことなどは、親の力量を超える。義務教育でやってもらうほうがよい。

 物質的なものが充足する昨今、これからは精神の時代でもある。精神をより豊かに開花させるために、そういう人格を育てる教育環境が必要である。道徳教育を科目にすることは、安倍首相の強い思い入れもあるが、本当は時代の要請である。
 
本日の被害
軽い中毒で、体がだるい。頭も痛くはないが、頭が働かないほどに、ふらふらする。これはひどい。左目と右目は刺されて、違和感がつきまとう。
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左派の平和論は、廃れた

2015-01-06 11:51:13 | 電波犯罪
こんにちは
 曇り
 正月明けた。

 反共を徹底するのは、日本は共産主義の脅威に直面しているからだ。中国に北朝鮮、国内では日本共産党の増加。日本は外交で、拉致、中国内の日本企業の焼き討ち、尖閣、北方四島、違法漁民など、彼らにひどい目にあわされている。国内では、彼ら中共の謀略で、新聞社などは中共・北・韓国の左翼勢力の非を指摘しないで、公正に欠ける報道ばかり。で、世論がかく乱される。

 日本が平和になるには、極東アジアの共産勢力を駆逐する以外にない。彼らとの共存はありえない。それは民主主義と人権を否定することだ。このために、私だけでなく、大勢が闘って、日本国も彼らに反論し、成果を着々とあげていかなくてはいけない。

 そうしないと、チベットや内モンゴル、ウィグルの人々に幸福はなく、朝鮮半島は分断されたままで、北方四島も返還されない。極東アジアは今、世界で3番目に緊張が高い地域だが、共産国の解体なしには永遠に平和はこない。日本から反共活動をして、アジアの真の平和を実現させなくてはいけない。みなさんも彼ら中国の少数民族や私に、続こう。

 彼らを救おうと思わないのか?

 "平和"は、戦争論の一種
 日本共産党が"平和"、"平和"と叫ぶ。日本の左翼はなぜか、"平和"という言葉を好む。共産主義は、国内でも外交でも戦いばかりする。戦争がお似合いなのに、平和から最も遠い連中なのに、なぜ平然と"平和"というか?

 実は、平和は戦争論の一種なのだ。戦争がない状態が平和だ。軍事力のないことが平和ではない。が、戦闘状態がないと平和である。つまり、平和は、戦争の有無で規定される。好戦的な性格で、中身が薄っぺらな人ほど平和を口にしやすいのである。

 常に、軍事的な闘争を考えている左翼勢力は、平和か戦争かという極端しか考えない。平和は戦争論、兵学、兵法、軍事学の範疇に属する。それで、戦争が好きな者は、それをしないと、平和であると単純である。それで、平和、平和と口先から出てくる。

 共産党の著者の一人、マルクスの相手、エンゲルスが軍事オタクだったから、資本論などを読むと、軍事的な発想に通じる。それで、著者の思想に染まり、戦争ばかり考える面も強い。

 彼らの平和とは、単に戦争しない平和だ。戦争をなくすことしか考えない安易さがつきまとう。いかに平和な状態を高めてゆくか、という発想はない。彼らは、戦争か平和という二者択一を好む。それが、彼らは平和を築けない最大の理由なのだ。

 なぜなら、例えば、人を殴って言うことを聞かすか(戦争)か、穏やかに言うことをきかすか(平和か)。と二つしか選択しをもっていない人は、言って通じないなら、すぐに殴る。北朝鮮は、その典型だ。彼らは平和を選ぶか、戦争を選ぶかと、よく米国、中国、日本、韓国を脅す。中共も同じく、すぐに軍事力に打って出る。戦争か平和かと言う人ほど、危険である。

 戦争か平和か、とアピールする者は、左派に多いが、おとなしくしていると思ったら、すぐに凶暴になる。彼らには、戦争と平和しかないからだ。左派は、戦争まで遠いのに、すぐに戦争と騒ぐ。おとなしそうなみかけに騙されてはいけない。実は、すぐに人に争いをしかける危険人物である。彼らは外交オンチも甚だしい。

 大人は、様々な手段をもって人とコミュニケーションできる。経済制裁を課したり、外交圧力をかけたりする。外交に長けていなくては、平和は保てないのだ。大人の外交では、平和裏に物事を成し遂げ、百戦錬磨である。

 より大きな見方をしよう。戦争とは、外交の手段だ。これは軍事学でも常識だ。外交は平和・戦争論の上位の概念だ。外交が、戦争という手段を選ぶか否かを決める。平和は国内の内乱をさすこともあり、治安(秩序)の状態とみなすこともできる。そのとき、平和策は、治安の手段である。

 その外交は政治の手段だ。日本の国益を考え、外交の方針を決定する。その外交でどうするかと、手段(戦争、経済制裁、貿易)を決定する。大局的に物事を考えると、外交には選択肢が無数にある。そして、最後の手段として戦争にいたる。このように体系的にみてゆくと、平和ではなく、政治・外交が上位の概念もしくは全体像となる。下位の概念である平和と戦争ばかりみては、平和を実現することもできない。

 手練手管の政治家は、多くの政治手法を使いわけることができる。そんな優れた政治家ほど、国際法、国家秩序、国際関係、貿易など多種多様な視点で外交を考える。平和や戦争という言い方はしない。安易に、平和を唱える者ほど政治的力量、つまり平和を保つ能力が低いといえる。

 平和と言う者に気をつけよう。彼らに、日本とアジア、世界を平和にする力はない。世界の平和を保つためには中共、北やイスラム国の侵攻を阻止し、彼らを壊滅する軍隊を持たなくてはいけない。だが彼ら左派・左翼はその平和のための軍隊を不要という。また日本が自衛戦争ができるよう法整備することを、阻止しようと企む。現行法では、邦人の救出など自衛すらままならない、というのに。

 よって、彼らは日本の平和のみならず、世界平和を実現することはできない。日本は世界の平和に貢献しなくてはいけない時代。まったくそれに関与できない無能左派の平和主義は、聞く価値もない。

本日の被害
昨日は、左目の奥上に弱い痛みがある。網膜周辺が傷ついた症状。かなり悪質な輩である。多田からきている。正月にいつもこれをやられる。だいたい犯人はわかっている。

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ベトナム共産党の狂気を軽蔑しよう

2015-01-05 11:10:55 | 電波犯罪
こんにちは

 晴れ 

 私は日本の思想界の歪みを正すことを、中心に論じている。今日は、ベトナム戦争の真実を書く。

 頭の弱い人は、ベトナム反戦運動は正しい、と左翼に洗脳されている。しかし、彼ら活動家は反戦などしていない。共産軍の軍事侵攻に抵抗するな、と訴えたのだ。それは、ベトナムが赤化することを見逃せ、ベトナムに住む多くの自由と人権を愛する人々を見殺しにせよ、という主張である。とても反戦運動ではなく、共産軍の軍事侵略を賞賛するという軍事主義的運動なのである。彼らは、実際に、殺戮者であるベトナム解放戦線を熱狂的に支持した。ベトナム民族を殺すことに加担した日本人の一味なのだ。これら、日本のベトナム反戦活動家は、アメリカに住む何十万人の元ベトナム人から、祖国を赤い恐怖に包んだ仲間として、白い目で見られ、共産シンパとして憎まれ、軽蔑されている。

 それらベトナムを廃墟するために暗躍した共産ゲリラ軍に立ち向かうアメリカやフランスこそが、正義だった。彼らは、ベトナムの多くの国民と財産を守っていた。それは、ボートピープルになった真のベトナム人が認めるところである。

 ベトナム戦争について、日本人の多くは思い違いをしている。殺戮者の共産軍が正義で、人々を解放したと思っている。アメリカは、枯葉剤をまいて、ベトナム人民に悪いことをした、と思いこんでいる。では、共産軍はその何倍も殺戮をしつくしていたことをここに書こう。

 実際は、共産軍は狂気で、各地で虐殺を繰り返した軍隊である。南ベトナム軍と北ベトナム軍は同じ。解放とは、共産主義者による資本家や知的職業の絶滅をさす。それは虐殺という戦争犯罪だった。

 そのため、共産支配下となってからは、南ベトナムから3百万人以上が命がけで逃げ出して、ボートピープルとなった。海に出たら、数割から半数は死ぬ。それほどの危険を犯してまで、ベトナムを出国する。それは、ベトナムに残ったら、死刑になるからだ。それを恐れていた。

 カンボジアのポルポト政権の残虐さは世に知られている。それと同じことが、共産支配下の町、ベトナムで行なわれた。それら、民族を殲滅する勢力と戦った欧米や韓国は、自由を守る尊い戦士だった。あの米国のベトナム戦争は、正義の戦争だった。

 『朝日新聞の大研究』(扶桑社文庫、小森義久、稲垣武)を読み、私はそれを再認識した。

ベトナム共産軍の虐殺
 少なくとも3万7000人を共産軍は虐殺した。

 フエの虐殺
 南ベトナム解放戦線(名前からして共産軍)という北軍の一派が、フエの町で3000人以上の市民を虐殺した。英語のWIKIより

 ホアの虐殺がある。クメールルージュは200万人を殺害したと見積もられている。
 なお、こんな残虐の共産軍がベトナム全土を支配すると、南ベトナムからは殺害を恐れて、数百万人が逃げ出し、ボートピープルとなった。国内では逃げ出した人数の1割以上の市民が犠牲になったと考えるべきだろう。(参考より)

 この殺戮マシーンのような狂気の共産独裁政権は、北朝鮮よりもひどい。民主主義と人権と自由を知らず、虐殺を喜ぶ者のみが、この北ベトナムをいまだに讃える。自由主義国のベトナム戦は、これら共産勢力の弾圧から市民を守るために、正しい戦いだったのである。

 必要な戦争はある。横暴な彼らの軍事侵略を放置すると、より多くの国民・民族が殺されるからだ。文化革命で3000万人、ポルポトは何百万人、ベトナムのクメールルージュも何百万人。ヒトラーの国家社会主義で、ユダヤ人が何百万人。戦死者の何倍、何十倍、何百倍が、共産軍、共産かぶれによって秘密裏に殺された。

 その虐殺者の群れである共産連中が政権を軍事力でクーデター起こして、奪うことを見逃すような過ちを繰り返してはいけない。彼らが近隣諸国を戦車、戦闘機、爆弾、銃などの軍事パワーで侵略することを見逃していけない。彼らを追い返し、その破壊的な共産の軍隊を打ち砕くには、戦争しかない。

 それしか、国民は守れない。正義と秩序も守れない。それをなお実践して、世界を守ってきたアメリカ・イギリスなどを見習え。兵士はそのために戦った。必要な戦争はある。


本日の被害
昨日は、左目の奥に痛みが生じた。今朝も同じく、左目奥に痛みが生じた。一日の朝は、視野に黒い線が見えたほどだ。網膜が切られたようだ。音声送信では、眼球がをさしたという。これは、危険極まりない犯行なので、厳しく対処したい。正月に毎度、こういう悪質なことをする川西多田の赤がいる。この赤は、多田駅の北側に住む、と音声送信はいう。
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