家族の問題としてではなく、女性の人権問題として取材している
ー妻が韓国人であるために、あなたが慰安婦などの問題に対して中立の立場ではないのではないかという指摘もあるが?植村氏:まず家内のことについてお話したいと思います。
私の記事は1991年の夏に書いた記事でございますが、前年、1990年の夏、2週間韓国に取材に行きました。当時、日韓で注目を浴びていた慰安婦問題で、慰安婦のおばあさんがもしかしたら生存していて、取材ができるのではないかと思って行ったんです。
ところがもちろん当時はそういう戦時中の辛い体験を語る方には一人も会えませんでした。私は慰安婦のおばあさんたちを調査している「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に行ったり、あるいは戦争の犠牲者たちの会「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の事務所などにもしょっちゅう行きました。慰安婦のおばあさんたちにはその2週間で全く出会えませんでした。
でも一人の女性に出会いました。先ほど言った遺族会で事務をしている若い女性でした。韓国は母親と娘のファミリーネームが違うので後でわかったのですが、その女性は遺族会の幹部の娘でした。その女性と恋に落ち入り、結婚しました。
91年の夏に、韓国の市民団体がこの慰安婦のおばあさんを調査しているという記事を書きました。
私を批判する人は、この記事が一番最初に、慰安婦のカミングアウトの前に、その存在を明らかにした記事だと、それで批判しているんです。私の妻の母親の情報によって記事を書いたんだと、私を批判しているんです。
この団体は、私のパートナーの母親の団体と違う団体なんです。そしてこの私の義母は、このおばあさんとは、私の記事の後に知ったというか出会ったわけです。当時のソウル支局長の情報を使って書いたわけで、親族関係を利用して書いた記事ではありません。
朝日新聞の8月の検証記事でも、先日発表された第三者委員会の報告でも、縁戚関係を利用して記事を書いたとういう疑惑はまったく否定しております。
私は先ほども申し上げた通り、私のパートナーと出会う前に、慰安婦問題を取材しております。
これはfamily affair、家族の問題として取材しているわけではないんです。女性の人権問題として取材しているわけです。だから結婚しようが、結婚しまいが取材は続けたと思います。
—慰安婦報道について謝罪した朝日新聞のスタンスについてどう考えるか
植村氏:朝日新聞は、私の2本の記事とは別に、「吉田清治証言問題」というのを抱えていました。
この吉田清治というひとは、済州島で女性を慰安婦にするために人狩り、強制連行をしたということを証言して、それが朝日新聞だけでなくいろいろな新聞にも記事が出た人です。
8月の朝日新聞の特集紙面で、私の記事については"捏造がない"と明快に発表しました。しかし、吉田さんの証言による記事については取り消しました。その記事を取り消した時に、謝罪がなかったということで大きなバッシングを受けたわけです。私もそう思います。だけれども、謝罪はして取り消したわけです、遅くなったけれども。
ところが、朝日新聞は、私が非常にバッシングされて、家族までバッシングされている状態になっている。それで非常に委縮していると思います。
私は捏造記者ではありません。それはこれから証明していきますし、「文藝春秋」1月号でも記事を書いております。
私に対するバッシングの理由は、私が元朝日新聞記者であること、私が慰安婦のおばあさんに関する記事を最初に書いたこと、私の家内が韓国人であること。そうしたことだと思います。私を攻撃して委縮させ、私の出身母体である朝日新聞を委縮させたいと考えている人々がいるんだなと。
もう謝罪して取り消したわけですし、改めて朝日新聞には元気を出して、慰安婦問題に取り組んでいただきたいと思います。慰安婦問題は解決したわけではないので。
—首相はフランスの事件について「言論の自由、報道の自由に対するテロであり、断じて許すことはできない。」とコメントした。北星学園大学の件については、首相にはどのような対応を望むか。
これまでも北星学園に対する脅迫、いやがらせ問題について、文部科学大臣がそれを批判する発言をされたりしております。 皆さんそういう気持ちを持っておられると思いますので、ぜひ北星学園大学を首相にも支えていただければと思っております。
—朝日新聞を辞めた背景は?朝日に辞めさせられたのか、それとも辞めたのは自分の意思なのか。か
植村氏:言っておきますが、私は朝日を辞めさせられたわけではございません。私は1958年4月生まれで、今56歳です。だから、後4年ぐらいは働ける権利はあるわけですよ。ただ私は50歳を過ぎてから、勉強をするのが好きになりました。大学の後期博士課程に飛び込んで、博士論文にも取り組んでおります。2012年から北星学園大学では非常勤講師をやっています。教えているのは国際交流講義と言いまして、アジアの留学生たちに日本の社会事情、文化を教えています。
学生時代は勉強嫌いだったのですが、年を取ってから勉強が好きなことに気が付きました。そして、アジアの学生たちと交流するのがとても楽しかったです。それは私がソウル特派員、北京特派員、中東特派員を経験して、アジアとの関わりの大切さというものを知ったからです。
それで大学教員に転身しようと思いまして、いくつかに応募して、神戸の大学に採用が決まったんです。しかし、抗議のメール等で、神戸松蔭女子学院大学は非常にショックを受けて、事実上、私に辞退を求めたわけです。それは示談という形で、合意で契約を解消しました。
もちろん、その時に朝日新聞に戻る方法もあったかもしれません。だけれども、"捏造記者"というレッテルはもう貼られたままです。そのレッテルを剥がすため、レッテルを貼った者と闘うためには朝日に戻らず、一人のジャーナリストとして闘おうと思いました。
何故なら、闘うためにはたくさんの時間が要るんです。"捏造記者"という風に記事を書かれてから、私は捏造記者ではないという証拠を探すために、毎日とてもたくさんの時間を使ってきました。
そして、私を取材する色んなメディアがたくさんの質問状を送りつけてきます。時間がたくさんかかるんです。残念ですが、フリーになって時間があるので、それができるというのが現状です。
―嫌がらせの中に身体的な攻撃はあるのか?また、ネット上での中傷に対して、家族はどう感じているのか
植村氏:私は今のところ言葉で脅されてるだけです。パリの事件は本当に痛ましい事件です。何らかの憎悪が原因で起きたと思います。やはり寛容さが欠けている人々がこういうようなことをしたんじゃないかと思います。
私は、今物理的な攻撃を受けているわけではありません。私の記事が捏造という風に言われますが、当時は同じようなスタイルの記事が他の新聞にもたくさんあったんです。それが今こういう風な形でターゲットになって、個人が標的になってバッシングされている。やはり寛容でない社会で起きている現象という点では共通点があるかもわかりません。
歴史の暗部、日本でいえば、戦争中の触れられたくない過去。それに対して、目を向けようとする人たちに対して、それを怯ませようという動きが日本にあると思います。それが誰なのかわかりません。
例えば、私の家に嫌がらせ電話がかかってきました。私の家の電話は全く公開していません。だけれども後で調べたら、インターネットに私の電話とか、家の場所、娘の学校の名前、そういったものが出ていました。
弁護士にお願いして、誰が書いたか発信先を突き止める作業を何日もかけてやりました。しかし、わかりませんでした。こういう風な匿名性に隠れて非難する人々がどんどん増えていると思います。それが私の記事とは全く関係ない私の勤務先にもこれだけたくさんの攻撃がなされている。
日本は民主主義の社会です。こういう風な卑劣な行為は絶対に許さない。皆さんのお力を借りたいと思っています。
「私は自分で愛国者だと思っています」
―植村さんへの批判には「反日」というレッテルも貼られていると思う。こうした記事を書く際に、植村さんは日本についてどのように考えているのか。また、最近台頭しているといわれているナショナリズムについて、どのように考えているのか。
植村氏:今、ちょうど関連する資料をお見せします。
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しかし、私は反日ではないんです。私は日本が他のアジアから尊敬される。本当の仲間だと思える国になってほしいんです。そういう意味では、私は自分で愛国者だと思っています。
学生に言っています。僕の学生は、韓国、台湾、中国から来る学生が多いです。いつも言っているんですが、「もちろん今日本で不愉快なことがたくさんあるかもわからないけれど、日本もいいところがあるし、日本と隣国は大切な関係なので、是非日本でいろいろなことを学んでほしい」と。
私は幸いなことにソウル特派員と北京特派員という二つのアジアの街の特派員をさせていただきました。その時の政治状況で国と国との関係は良くなかったりというのはありますが、どの街も人間として同じように触れ合えて、本当に隣国の人たちと仲良くなりました。
そういう風な学生と接しているわけです。僕はアジアの中で隣国との関係はとても大切だと思っています。それをずっと記者としても、考えてきましたし、訴えてきました。
まったく知らなかったのですが、僕の学生が日本語スピーチコンテストでスピーチをしてくれました。「植村先生をやめさせないでくれ」と。日本に「言論の自由」とか「学問の自由」とかがなくなっていたら、それは隣国にも影響がある。そんな学生を持って僕は幸せですので、絶対にこんな卑劣な脅迫で大学を去りたくないと思っております。
こういう卑劣な書き込みとか攻撃する人たちのことを、何故そういうことをするのかわかりません。ただ一つだけ言えるのは、多分そういう人たちは、韓国や中国の友達がいないんじゃないか。そういう人たちと触れ合ったことがないんじゃないか。だから、心の中で排外主義が高まっているんじゃないかと思います。
―昨年11月、脅迫電話をかけて逮捕された人間がいたが犯人は略式起訴でした。処分が軽すぎると思うのだが、こうした処置や今回の事件に関する政府の姿勢をどのように考えるか。
植村氏:確か新潟県の男性が逮捕されたと思います。全く面識のない人です。名前も私は存じ上げませんでした。
一つ私がジャーナリストとして残念なのは、何故この人がまったく見知らぬ私、大学を脅迫したのか。その後のフォローの記事が日本のジャーナリズムにないことです。逮捕された時は大きく出て、処分・略式起訴の段階になると小さくなりました。事件で一番大事なのは動機であります。 この人がどういう動機でこのようなことをしたのか。それを考えることこそがこうした行為を防止する方法ではないかと思っています。
この処分が重かったかどうかはわかりません。ただ、抑止効果になったとは思います。北星学園というのは学生数がたった4200人の小さな学校です。しかし、明治時代にアメリカの宣教師がつくったミッションスクールであります。1995年の戦後50年の時に「北星平和宣言」というのを発表した学園でもあります。アジアの侵略戦争の反対と人権教育の大切さを訴えています。
こんな小さな大学が、この激しい攻撃に耐えて、私を雇い続ける、「学問の自由を守る」と言ったんです。小さな大学が大きな勇気を示したんです。北星学園のこうした平和宣言というのは、日本政府が歩む道でもあると思います。必ずや政府も北星学園を支援して、こうした卑劣な行為を食い止める力になってくださると思います。
神原弁護士:今の件について、一言だけ。札幌の現地の弁護士から、現地の警察はこの脅迫問題について、必ずしも熱心ではないという情報をもらっています。そこで弁護士が300人以上、名前を並べて刑事告発をする。そのような運動も行っております。
日本の警察はキチンとこのような卑劣な犯罪を取り締まるために戦うべきだということもここで訴えさせていただきたいと思います。
「吉田清治証言についての記事は一本も書いていない」
―「吉田清治証言」については、何本記事を書いたのか?虚偽であった吉田発言は結果的に反日を煽ったわけだが、これについて植村さんはどう考えるか?
植村氏:先程も少し触れましたが、「吉田清治証言」の記事がありますね。私は一本も書いておりません。私は「吉田清治証言」の後に慰安婦問題の取材を始めた世代です。「吉田清治証言」の取材はしておらず、その後に慰安婦のおばあさんに直接取材を始めた世代です。
本屋さんに売っている本に、「朝日バッシング」の本があるんですけれども、そういうのにも「吉田清治証言についてたくさん書いている植村記者」という表現がありました。だいたいこういうのこそ捏造というのではないかと思います。今月号、昨日発売された「世界」にその辺のことを書いています。以下に、デマ情報が活字にまでなっているのか、ということを書いています。
私が書いた金学順さんの記事というのは、当時のことを調べましたら、8月11日の記事は、まったく韓国でも報道されていませんでした。このため、私は「反日気分を煽った」と言われても煽ってません。むしろ、日本がアジアの中で本当に信頼される仲間になるための作業をしていると思っています。
・《慰安婦報道問題》植村隆 元朝日新聞記者 記者会見 主催:日本外国特派員協会 - ニコニコ生放送
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