以前書いたファミコン世代の大衆文化の記事が反響を呼んでいる。
「ファミコン世代が日本をダメにしている」ということを彼らのゲーム感覚をもとに過去2つの記事にて触れた。
私はレトロゲーム全部を否定するわけではないし、ゲームボーイアドバンスとかPSPもいずれは旧世代の象徴とされる時代が来ることは明らかだということもわかっている。
むしろPC98のゲームからプレイしてきた人間だからこそ、古いゲームにも新しいゲームにもよいものはあるということは分かっている。その上で、「彼ら世代にバカ売れしたゲーム」はロクなコンテンツではないことは明らかだと考えているのである。
過去、良いゲームを作った会社はどんどん潰れたのに、スクエニのような「なれの果て」だけが残っていて、いまだにカビの生えたような一本道RPGを性懲りもなく作り続けているのは残念なことだ。
しかし、そういう日本のゲーム文化がガラパゴス化して凋落した流れにこそ、まさに「ファミコン世代の問題構造」が垣間見ることができる。
彼らはとても単純で、自分たちの若い頃にもっとも流行ったり当たり前だった概念をやたらめったら過信する性質がある。それより上の世代の文化は「老害」と一方的に否定し、若い世代の教授する文化は「ゆとり」やら「ガキ」やらと一蹴する。しかし、冷静に、客観的に膨大な時代のあらゆる文化を見ていけば、彼らの世代ほどジャンクなものはないだろう。
①ファミコン世代のインターネットは「ネット原住民」が当たり前
意外と知られていないが、ファミコン世代はパソコンに触れた時期が遅い。
平成生まれ世代の場合、父親が仕事で使うために自宅にパソコンがあったり、近所の家電屋にパソコンコーナーがあったり、情報の授業があったりするが、ファミコン世代の場合はパソコンとまったく無縁な子ども時代を過ごしている。
2000年代前半ごろになってパソコンを入手すると、彼らが埋没したサイトと言えば匿名掲示板である。ネット原住民のコア層がこの世代にある。ウェブニュースサイトによると2ちゃんねらーは30代が最も多く、40代が次いでいる。
「週刊アスキー」とかですら2005年の電車男ブームになるまで2ちゃんねる系のコラムはほとんどなかったが、ファミコン世代は2000年代前半より昔の良い意味で秩序だっていて自由で開放的なインターネットについては一部のテクノロジーに長けた人以外は全く無知だ。Yahoo!のカテゴリ検索や個人ホームページが滅んで以降にネットの原体験があるからだ。インターネット界でもごく一部の匿名原住民空間で話題の出来事や当たり前の概念をまるでネット界全体、ひいては世の中全体のものだと思い込む人間ともダブる。憎悪に躊躇のない逆張り冷笑系のアルファツイッタラーもここに一番多く、可視範囲に存在する不愉快な情報には脊髄反射的にわめきちらしたがる沸点の低さはキレる若者だった名残からだろう。ネトウヨやリベサヨもこの世代が中心だ。
だが、彼らの時代は終わっている。本来の秩序だったインターネット空間が巻き返しているからだ。2000年代後半以降、おそらくmixiとかが流行ったあたりから、「ファミコン世代でネットに疎かった層」や中高年世代、平成生まれ世代がネット上でじわじわと台頭するようになり、東日本大震災でライフラインとしてのSNSの重要性が明らかになると、YoutubeやFacebookやTwitterの知名度が爆発的に広まり、老人でも優先席でスマートフォンをさわるようになった。
ネット原住民と言う存在は暴走族のようなものである。ヤンキー文化やバイク文化の全盛期であれば、バイクを改造して夜の街を爆走する彼らは社会問題でありながら若者の先端にいたのかもしれない。
「湘南純愛組!」や「湘南爆走族」の流行っていた頃の湘南は渋谷のセンター街みたいなものだったのだろうが、しかしいまの国道134号線では夜間、3~40代の高齢化した人たちが三浦や足柄からはるばる上ってきてバイクを走っている光景しか見かけない。彼らは時代から取り残されている。しかし、神奈川県にはLINEで連絡をとりあうゆとり暴走族もいるため、中年の暴走族構成員からすれば「若い世代だっているじゃないか」と自分たちが常に中心にいるのだという態度を改められないのだ。
これまでインターネット上の問題についての対抗言論といえばテレビや新聞などのマスコミにしかなかったが、最近では有名人中傷問題や単なるつるし上げのような炎上事案にネット原住民が飛びついても、デジタルネイティブ世代などのリアルの延長感覚のネットユーザたちが積極的に反対意見を示すようになっている。これは暴走族に対して地域住民が本格的にノーを示すような動きの電子版みたいなものではないか。
何にせよ、人口としてはネット原住民は世の中のごく一部で、声が大きいだけのノイジーマイノリティ集団であり、若い世代からみても、成熟世代からみても、「ファミコンにもネットにも疎くてバイクをふかしていた同じ世代」にとってもその存在は異様だ。2ちゃんねるやはてなの全盛期の感覚のままの人間だけが集団的な狂気に没頭し続けているが、世の中の流れは変わっている。
②低俗バラエティ番組がテレビの基準
2000年代後半ごろから日本のテレビ番組が劣化したという問題が生じている。世界で通用するようなコンセプトや映像編集センスのある番組は一掃され、スタジオにタレントを並べて司会者の芸人とのやりとりをテロップ・ワイプ・ナレーションでやかましく騒がせる番組が増えている。「総バラエティ化」だ。
この手の過剰演出のバラエティ番組が始まったのは1990年代前半のことで、1990年代に流行った番組に共通した「様式」が2000年代後半になると全体に波及した形になる。2000年代前半までは「鉄腕ダッシュ」のように人気の民放番組でもテロップの一切ないものもあったし、「トリビアの泉」や「特命リサーチ」のようなコンセプト勝負の番組も多かった。1990年代の番組で最も俗悪だった一部の特徴が全体に蔓延し、国営放送NHKすら土曜日のゴールデンとか深夜にはああいう作りの放送を当たり前にやっていて国会でやり玉に挙げられるのが、現代の特徴である。
これもファミコン世代の元凶である。今放送しているバラエティ番組は概してF2層と呼ばれるターゲットに向けて作られている。30代後半~40代の女性層だ。お笑い芸人やジャニーズがメシを食べたりする番組がやたら多いのはおばさん向けにしているからで、やはりファミコン世代なのだ。そして、1990年代の低俗バラエティ番組を最も好んでいたのも、若き日のファミコン世代の男性層なのだ。ついでに言うと、NHKの民法迎合番組を喜んでいる連中もファミコン世代が最も多い。
バブル世代より上であれば、低俗番組と呼ばれるものはドリフやひょうきん族くらいしかなく、黒柳徹子が司会をしていた「夢であいましょう」や「ザ・ベストテン」のように、国営放送NHKであれ民放であれ良質な番組をいくらでもやっていた。それらは海外の優れたテレビ文化を手本に企画されていたが、往時のテレビマンは1990年代に定年退職し、最近ではみんな死んでいるため、日本のテレビ界は輝かしい時代の価値を継承できずに斜陽化している。黒澤明や小津安二郎の時代の創造力を失い、寅さんやゴジラシリーズのマンネリ映画を猿のオナニーのように毎年量産しながら滅んだ日本映画業界と同じである。
海外であれば、たとえばアメリカでは1980年頃に多チャンネル化が始まっているから、この世代でもテレビ観は進んでいる。地上波がゴミでもCS放送にいい番組がある、と言う発想を持っている。日本でも若者なら同じことだが、ファミコン世代の子ども時代には「カートゥーンネットワーク」や「ディズニーチャンネル」は存在せず、誰もが「ポンキッキ」に没頭していた。
③「団地全盛」世代で、個室が当たり前
ファミコン世代にはやたらめったら内向きで閉鎖的で不穏な人間が多いように見える。もちろん一部だが、不気味な人間が一定数いればその「存在感」はでかく感じる。
若者でもそういう人間は一定数存在しているが、若い世代の場合はだいたいみんな「生育環境が特殊」だ。たとえば地方の田舎育ちで親が共働きやシングルマザーである場合がそれだ。イオン化したファスト風土地帯だから地縁社会とかは存在せず、ひたすら家でテレビ見るか漫画を読むかで引きこもっていればおかしくもなる。多摩ニュータウンの唐木田で、マンションの個室で閉じこもって育っていたという子も絡みづらい奴だった。これをそのまま中年にしたのがファミコン世代の不穏な部類だ。
ファミコン世代は、考えれば「団地全盛」世代である。今でこそ多摩ニュータウンの高齢化問題とか叫ばれているが、彼らの幼少時期は団地がやたら造成された時代だ。これはかなり重要な問題である。
なぜなら、それより上の世代であれば「三丁目の夕日」や「20世紀少年」の時代である。フラフープやケンケンパを路地裏で遊んだり、神社の境内で知り合った子どもとポコペンやドロケーをやっているだろう。自分の個室は無いかわりに、同居している祖父母から昔の遊びを教わったり、地域や地縁のつながりがあった。
しかし、団地の通路ではそういう遊びはできないし、駄菓子屋もない。高度成長期の名残で都会の川には工業汚染がまだ存在していて釣りを出来る環境でもない。そうやって、自室で引きこもってファミコンにいそしんだりしていれば、社交性や他人への思いやりにかける人間が増える。
①でもふれたように、ファミコン世代にはネット上で憎悪をまき散らす人間が物凄い多い。その原因は、幼少期の育ちが悪かったことが第一だろう。それに加え、大人になったら平成の不景気で、就職後も浮かばれないことでたまったストレスをネット上にまき散らすから、「84歳のステーキ発言」のようなしょうもないことで炎上が発生するのだ。
④ジャンクフード世代
ファミコン世代はジャンクフードの世代でもある。
1990年代くらいまでには「名残」があったが、かつて若者のたまり場と言えばマクドナルド一択だった。彼らの生い立ちにはクアアイナ的な凝った本格ハンバーガー店は存在しない。色々外食の選択肢を選べる今の若者の方がよっぽどよいのだ。
三丁目世代の好んだ「駄菓子」はあからさまにジャンクだがしょせんは菓子である。駄菓子屋はお店のお婆さんや地域の子どもたちの人情にあふれていたが、ファミコン世代のたむろすマクドナルドには店員やほかの客との交流はない。
マクドナルドをはじめとする安価な全国チェーンがロードサイドに蔓延する「ファスト風土化」を引き起こしているのも、ファミコン世代に他ならない。
たとえば2000年代以降、比較的最近に地方都市でニュータウンが建造されると、街の中心にイオンモールやイオンショッピングセンター(かつてのジャスコ)ができ、その周辺の幹線道路沿いにはヤマダ電機とかガストとかが立ち並び、ついでに小学校もできる。「上京できなかった子育て世代」が古き良き集落の実家を脱して引っ越しており、彼らの文化資本がそこにあふれているのだ。
私は中学生の頃に秋田市郊外でこの風景を見た時、絶望を感じたものだった。そんなに古くないチェーン店街道がやたらと醸成されていて、あの北関東文化圏の植民地になっていた。そこにはうつくしき「みちのく」なんてなかった。ちなみに北関東文化圏が国道4号線沿いに形成されたのも1980年代のこと。群玉千葉城のファミコン世代にはこれが心の原風景なのだ。
感覚的には、60代世代が子育てしていた時の総合スーパーの基準は「長崎屋」や「ダイエー」で、40代後半~50代の場合は「マイカルサティ」や「イトーヨーカドー」であるが、まさに今を生きるファミコン世代の場合は「ドンキホーテ」だ。
昭和の古い世代は選択肢がない代わりに日本人本来の健全で豊かな文化的程度があった。若者の場合、選択肢が豊富な時代に生まれ育っている。それから「度の過ぎた現代病」への反省意識から、ファストフードでもヘルシーメニューを充実させたり、地域活性のために駄菓子屋が復活したり、農業体験を学校でやらされたりしている。
従って、素直なゆとり世代が若者になって、慣れ親しんだマイカルサティが田舎くさいイオンに転換されたり、ゆったりした長崎屋がメガドンキになったりして「悪性文化」を過信する中年たちがメチャクチャやっているのを見ているとドン引きするしかないのだ。
⑤本を読まない
これも重要なことだが、ファミコン世代は本を読まない傾向にある。
たとえばこのアンケート調査を見るとファミコン世代である30代の読書量は20代や40代と比べてやたら少ない。小中学生の読書量は2000年代以降改善しているというから、本当に本を読んでいないのはファミコン世代なのだ。
書籍文化は多様な考えに触れ、感性を刺激するということに最大の価値がある。若い世代に穏当で寛容な人間が多いのは、読書体験の豊富さの結果だろう。
バブル世代以上であれば当たり前に備わっている教養というものがある。たとえば夏目漱石とか三島由紀夫とか小松左京の代表作なら大卒程度の大人なら誰でもわかる。理工系の「おたく」でも、二次元キャラに欲情するアニメに没頭せずに、アーサー・C・クラークとかフィリップ・K・ディックのSF小説などを読みふけったわけである。しかし、30代の場合は、アニメやアイドルに没頭するオタクか、トレンディドラマや浜崎あゆみに没頭していたヤンキーしかいない。
よくよく考えてほしい。ファミコン世代の子どもの頃の日本では書店は徐々に減りつつあった。そのくせブックオフのような新古書店もなく、ジュンク堂のような巨大書店も存在しない。良書を揃える小粋な個人経営の書店や古本店はあるには会ったが偏在していた。蔦屋書店もヴィレバンもある今の若者の方がよっぽど恵まれているのだ。
はるかぜちゃんは読書量がものすごい多いために、優れた洞察力のある主張を繰り広げていると言う。彼女に噛みついて、憎悪をまき散らしている連中を見ていると、罵倒語以外の語彙はなく、感受性がワガママで不穏な方向にだけ突出していて、不寛容だ。言いがかり的な炎上事案も少なくないし、文面から若者言葉がほとんど見られない。
これもつまり、そういうことである。
ファミコン世代のネット原住民の反知性主義者が、自分の子どもくらいの年齢の少女を苛めているのだから日本は末期なのである。
「日本本来の価値」と「グローバルスタンダード」を両立させなければいけない
ネット原住民も、低俗バラエティ番組も、北関東を基準値としたチェーン店も、書籍を読まない人達も、すべてがすべて、日本の恥のようなものである。
もちろんファミコン世代すべてが俗悪ではない、この世代でも著名な作家もいれば、歌舞伎などの伝統文化のプロもいるし、世界的に評価されるパフォーマーもいる。大晦日に「ガキ使」を見ることなく、ドンキにも一切行かない人だっている。しかし、よいものは一部であり、その世代における平均値の質が物凄い劣っているというだけのことである。
ファミコン世代が台頭すればするほど、地方から日本本来の価値ある文化は失われ、都心からセンスのいいシティ・カルチャーが損なわれていった。これが問題なのである。そのうち白川郷に「合掌造りのイオン」ができたり、関内の日本大通りに「戦前の近代ビルを居抜きにしたドンキ」が作られたり、七里ヶ浜に豪邸を改築したラウンドワンができあがったりするんじゃないかと不安で不安でしょうがない。首都圏に限って言えばパチンコ屋は激減しているものの電車内はパズドラ・オヤジだらけの絶望的な現実がある。ガラパゴス日本の恥部だ。
今の日本で重要なことは、ファミコン世代の伝染力のある悪性文化をどうにかしてふさぎ込め、殺菌消毒し、よりよい伝統文化を守りぬいて後世に継承しつつ、グローバルスタンダードの先端的な文化を取り入れるかだと思う。
それは「近代国家であればどこでも当たり前のこと」である。お隣の韓国でもいいから、ソウルの書店に行ってほしい。どんな小さな本屋でも立派な装丁の書籍がいくらでも並んでいる。韓国であれば極端な反日愛国に走る人間は「本を読めない中高年」だが、日本であれば都心の立派な書店ですら桜井誠や三橋貴明や竹田恒靖や山野車輪(すべてファミコン世代でネット原住民)の著作の愛国ポルノの、情動的な表紙が並んでいて、大卒で公人や立派な会社に勤めるサラリーマンとかでもネトウヨかぶれはやたら多い。
韓国ではネット原住民のことを「イルベ虫」と呼ぶが、反社会的勢力と同じ扱いだ。人気アイドルがイルベ虫のネットジャーゴンを用いたときはそれだけでマスコミの間でニュースになったが、日本では新聞社やテレビ局はむしろネット原住民に迎合傾向にある。マスコミの内部にもファミコン世代がじわり台頭しつつある。
ちなみに日本では朝日新聞の社会面やNHKのニュースがAKB48の話題を伝えることが当たり前だが、韓国では芸能ニュース以外にK-POPが出てくることはない。政治や社会の深刻な問題と大衆娯楽は分別がついている。NHKと朝日新聞は従来高級メディアだったがファミコン世代の記者の反知性性が「総東スポ・ゲンダイ化」を招いてしまっている。
こんなことは隣国の韓国でもありえないわけで、アジアや欧米などの世界の標準的常識にも合致しない特殊な潮流である。
2000年代後半ごろから、「ニューヨークでもロンドンでもパリでも香港でもソウルでもシンガポールでも当たり前のこと」が東京だけには成立しなくなっている。つまり、諸外国の当たり前から日本が孤立している問題がある。北関東的空間はいまさらどうでもいいので、せめて首都圏と、美しいふるさとのある地方のディープ地帯に蔓延しつつあるファミコン世代文化をどうにかしなければ、日本は先進国からハブられるだろう。