会 告
学会会員 殿
本会倫理委員会は、胚提供による生殖補助医療に関して、かねてより慎重な協議を重ねてまいりました。本会会員および各界の意見を十分に聴取しました結果、本見解をまとめ理事会に答申致しました。理事会(平成15年度第2回、平成15年6月28日)はこれを承認し、さらに第56回日本産科婦人科学会総会(平成16年4月10日)においても承認されましたので、会告として会員にお知らせします。
平成16年4月
社団法人 日本産科婦人科学会
会 長 野澤 志朗
胚提供による生殖補助医療に関する見解
わが国には現在まで生殖補助医療に関し法律やガイドラインによる規制はなく,生殖補助医療は日本産科婦人科学会(以下本会)の会告に準拠し,医師の自主規制のもとにAIDを除いて婚姻している夫婦の配偶子により行われてきた.しかし,平成12年12月の厚生科学審議会・先端医療技術評価部会・生殖補助医療技術に関する専門委員会の『精子・卵子・胚の提供による生殖補助医療のあり方についての報告書』において,「第三者からの精子・卵子または胚の提供を受けなければ妊娠できない夫婦に限って,第三者から提供される精子・卵子による体外受精および第三者から提供される胚の移植を受けることができる」と報告され,本件は現在,厚生科学審議会生殖補助医療部会で審議が続いている.この胚の提供による生殖補助医療に関する議論により,わが国の胚提供による生殖補助医療の是非の問題に対し,社会的関心が高まった.
胚提供による生殖補助医療は生まれてくる子とその家族のみならず社会全体にとって,倫理的および法的な種々の問題を内包していると考えられる.このため本会は平成13年5月,胚提供の是非について本会倫理審議会に諮問し,平成14年6月4日に答申を受けた.これをもとに本会倫理委員会は本会会員からの意見募集を経て,以下の見解をまとめた.
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「胚提供による生殖補助医療に関する見解」
1. | 胚提供による生殖補助医療について | ||
胚提供による生殖補助医療は認められない.本会会員は精子卵子両方の提供によって得られた胚はもちろんのこと,不妊治療の目的で得られた胚で当該夫婦が使用しない胚であっても,それを別の女性に移植したり,その移植に関与してはならない.また,これらの胚提供の斡旋を行ってはならない. | |||
2. | 胚提供による生殖補助医療を認めない論拠 | ||
1) | 生まれてくる子の福祉を最優先するべきである | ||
2) | 親子関係が不明確化する |
胚提供による生殖補助医療に関する見解とこれに対する考え方
1) | 生まれてくる子の福祉を最優先するべきである | |
[解説] | ||
胚提供による生殖補助医療の結果生まれてくる子には,遺伝的父母と,分娩の母および社会的父という異なる二組の親がいることになる.兄弟姉妹についても理念的には二組存在することになる.精子・卵子ともに提供され体外受精させた胚を用いるとしたら,不妊治療で用いられなかった胚を用いる場合よりも,さらに問題は複雑になる.胚提供によって生まれた子は,発達過程においてアイデンティティーの確立に困難をきたすおそれがあり,さらに思春期またはそれ以降に子が直面するかも知れない課題(子の出生に関する秘密の存在による親子関係の稀薄性と子が体験し得る疎外感,出自を知ったときに子が抱く葛藤と社会的両親への不信感,出自を知るために子の生涯を通して続く探索行動の可能性)も解明されてはいない(参考文献1,2). また,胚提供によって生まれた子が,障害をもって生まれ,あるいは親に死別するなど予期せぬ事態に遭遇した場合,前者では社会的親に,後者では事情を知るその親族に,その子の養育の継続を期待することは難しくなる可能性があり,子は安定した養育環境を奪われる危険にさらされるかもしれない.生まれてくる子の福祉に関するこれら諸問題に対応する継続的カウンセリング制度などの社会的基盤がなお未整備である我が国の現状においては,子の福祉がともすれば軽視される恐れがあるといわざるを得ない. |
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2) | 親子関係が不明確化する | |
[解説] | ||
実親子関係は遺伝的なつながりがあるところに存在する.そのようなつながり(たとえ親の一方とだけだとしても)に,子に対する自然の情愛と撫育の基盤があると感じるのが一般的な捉え方であろう.我が国の民法798条においても,「未成年者を養子とするには,家庭裁判所の許可を得なければならない.但し,自己又は配偶者の直系卑属を養子とする場合は,この限りでない.」と規定されており,実親子関係における遺伝的つながりの重要性はこの法律からも窺い知ることができる. 胚提供における法的親子関係については誰が親であるのか(遺伝的親なのか,分娩の母とその夫なのか)が必ずしも自明ではない.親となる意思をもたない配偶子提供者を親とせずに,その意思のある分娩した女性とその夫を親とするためには,以下の二つの根拠付けが想定される. ・「分娩者が母である」というルールに従って,分娩した女性を母とし,さらにAIDの場合の父の確定方法に則って施術に同意した夫を父とするという考え方である.この場合の父の確定方法は,実親子概念に対して変則を設けることになる.このような変則を父だけでなく,母とも遺伝的関係がない子の場合にまで及ぼすことは実親子概念の度を越えた拡大であり,容認することは難しい. ・「分娩者が母である」というルールによって母を確定したうえで,分娩した女性の「直系卑属」である子を夫が養子とするという考え方である.この場合は,社会的父母と,そのいずれとも遺伝的関係のない子との間に家庭裁判所の関与なしに親子関係を成立させることになる.これは現行の特別養子制度(民法817条の2〜11)との整合性からみて問題である.子と遺伝上の親およびその血族との親族関係を断絶して,胚の提供を受けた夫婦との間に法的親子関係が形成されるためには,特別養子制度に類似した制度(例えば家庭裁判所の審判を要するとする)を新設するなど,子の福祉に反する関係の成立を排除するための機構を設ける必要があろう.また,受精後のどの時期をもってヒトとしての個体の始まり(生命の萌芽)とするかについては一概に決定することは極めて難しく,この点からも胚提供の場合には特別養子制度類似の制度を創設して対処するのか,公的第三者機関の関与を介在させるか等の検討が必要である. ただし,いずれの考え方を立法化するとしても,親子概念に全く別の要素を取り込むことになり,1)に上述した子の福祉の見地から,胚提供による生殖補助医療を許容する意義を認めることは難しい. |
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参考文献 1 | |
A.J. Turner, A. Coyle. | |
What does it mean to be a donor offspring? The identity experiences of adults conceived by donor insemination and the implications for counselling and therapy. | |
European Society of Human Reproduction and Embryology, Human Reproduction 2000;15:2041-2051 | |
参考文献 2 | |
A. McWhinnie. | |
Gamete donation and anonymity Should offspring from donated gametes continue to be denied knowledge of their origins and antecedents? | |
European Society of Human Reproduction and Embryology, Human Reproduction 2001;16:807-817 | |
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付帯事項 | ||||
1) | 本会倫理規範の自主的遵守の重要性 | |||
本会はこの胚提供による生殖補助医療が生まれてくる子とその家族のみならず社会全体にとって倫理的・法的な種々の問題を内包している点を会員各位が認識し,会員各位が高い倫理観を持ち,専門家職能集団としての本会倫理規範を遵守することを強く要望する. | ||||
2) | 将来の検討課題 | |||
胚提供による生殖補助医療は認められない.平成11年に発表された『生殖補助医療技術についての意識調査』(厚生科学研究費特別研究 主任研究者 矢内原巧)によれば,不妊患者に対する「第三者からの受精卵の提供を利用するか否か」との質問に対して,84. 1%が「配偶者が望んでも利用しない」と回答している.このことは不妊患者も「第三者からの胚提供」の利用には抵抗感を抱いていることを示している. しかしながら,以下の二つの理由から提供胚をもって生殖補助医療を行うこともやむを得ないとの考え方もある. |
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・ | 不妊治療に用いられなかった胚の提供による生殖補助医療は,卵の採取など提供する側に新たな身体的負担を課するものではない.そのため,胚を提供する夫婦と,これを用いて不妊治療を受ける夫婦の双方に対してそれぞれ十分な説明を行ったうえで,自由な意思による同意を得て行われるのであれば,医学的見地からはこれを認めないとする論拠に乏しい. | |||
・ | 卵子の提供が想定されにくい日本の現状に鑑みれば,卵子提供があれば妊娠できる夫婦に対しても,提供胚をもって生殖補助医療を行ってもよい. | |||
これらの状況を考慮すると,将来において社会通念の変化により胚提供による生殖補助医療の是非を再検討しなければならない時期がくるかもしれない.ただし,その場合には,以下の二つの規制機関について検討がなされなければならない. | ||||
(1) | 医療としての実施を規制するための機関(登録または認可された医療機関内倫理委員会,公的第三者機関等) | |||
(2) | 血縁的遺伝的親とのつながりを法的に断絶し,分娩の母とその夫を法的親とすることの是非を判定する機関(公的第三者機関,家庭裁判所等) | |||
この際にも生まれてくる子の福祉が最優先されるべきであることから,上記の規制機関の整備の他,以下の条件が充足される必要がある. | ||||
・ | 確実なインフォームドコンセントの確保 | |||
・ | カウンセリングの充実 | |||
・ | 無償原則の保障 | |||
・ | 近親婚防止の保障 | |||
・ | 子の出自を知る権利の範囲の確定とその保障 |