セカイ系以後の生存の技法――ファウスト系はどうサヴァイヴしたか

セカイ系というものがあった。ファウスト系というものがあった。懐かしい。しかしそれらがきちんと総括されたかといえば、個人的に、疑問である。したがって、いちおう自分なりの解釈を書いてみた。

まず滝本竜彦の話から始め、舞城王太郎佐藤友哉に少し触れ、西尾維新について論じ、文芸批評的に総括した上で、最後に現代のアニメーションについてのサブカルチャー批評を付記した。

それでは滝本竜彦について。

滝本竜彦は『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』でデビューし、『NHKにようこそ!』で一躍人気作家となった元ひきこもりの小説家である。

現在の彼はスピリチュアリティに傾倒している。それを「あー滝本さんついにそうなっちゃったかー」という冷ややかな眼で見ている読者もいるだろう。しかし、なぜ彼がスピリチュアルにハマったか。それは本質的な問いである。その理由を思想的かつ文学的に叙述してみよう。

まず、もちろんのこと、彼はもともと自意識の問題に悩んでいた。そして知識を付けそれがルサンチマンの問題だと気づいた。そして外界への憎悪はすべて自分の悪しきメンタリティの「投影」、すなわち防衛に過ぎないと悟った。そこで彼は『超人計画』においてニーチェ的な超人を目指してルサンチマンの克服を図ったわけだ。

ニーチェの根本的な思想は、キリスト教批判である。ユダヤキリスト教は強者への怨恨から、天国や罪、未来における救済の概念を仮構し、ありもしない幻想に浸ったというものだ。つまり「いまここ」を肯定できない弱者に対し、「いまここが天国である」という認識を持てる超人にしようというのが彼の思想だったわけだ。すなわち背後世界を退けこの生々流転する世界を肯定せんとするものである。ニーチェが仏教を顕揚することからも理解できるように、それは「悟り」の問題と言える。

滝本竜彦の『ムーの少年』はまさしく「いまここが天国である」ということをテーマにした青春小説である。前作の『僕のエア』においてまず空虚を見つめた滝本が、空虚を仏教的な「空」として捉え返し、それを「聖性」としてリフレームしたのである。

ここまで来れば彼がスピリチュアルに傾倒していることも自然な流れのうちに納得できよう。スピリチュアルとは世界の聖性と自己の神性に気づくための思想であり方法論であるからだ。

現在の彼は、「我々はみんな涼宮ハルヒなのだ。彼女は自分が神であることに気づいていない」と述べ、そして「自分が神であることに「気付く」のが成熟でありスピリチュアル・グロウス(魂の成長)なのです」と述べる。

彼は現在ヒーラーをやりながら、スピリチュアルなヒーリング効果を持った小説を執筆中である。彼の新作『ライトノベル――光の小説』は角川書店の『ノベルアクト』に第一章が掲載され、また彼の公式ブログにおいても読むことができる。

滝本竜彦の思想の真髄をさらに詳述しよう。彼曰く、知性というのはプログラムである。また感性は身体的なものであり感性は感情体である。その両者はそれ自体において完結している。その両者を剰余するのが霊性である。感性/知性/霊性の三幅対はそれぞれ身体/精神/魂に対応する。

力動精神医学において自我というのは心的システムにおいてその一部にすぎないことは言うまでもないが、ユング心理学においては自我を含みつつ超えた全体性を自己=セルフと呼ぶ。このセルフへの到達が個体化と呼ばれ自己実現の過程なのだが、スピリチュアルの領野におけるハイヤーセルフとはユングの分析心理学のセルフに近いと言える。セルフを含みつつ超えているのでハイヤーセルフである。

ユングによれば自分の負の側面たるシャドウへの「気付き」とその統合が成熟である。スピリチュアル・グロウスはさらに霊的な上位の自己との連携によりトランスパーソナルなレベルでの開悟=エンライトメントを目指す。

滝本によれば知性=プログラムと感性=感情体に縛られていると魂はその自由を十全に発揮できない。ではいかに目覚めるか。そのために必要なのがハイヤーセルフへの「サレンダー」(従うこと)である。これは道教における「タオ」に従うことであり、その自然な流れに乗ることである。心的エネルギーのロスを最小限に抑えるために自然な流れが必要であるという点でフロイトの主張と同型的である。

こうしたサレンダーは宗教的伝統にあっては「祈り」と呼ばれてきた。ハイヤーセルフはキリスト教における聖霊と同一物であり、また仏教における仏性と同義である。これは非-自我的な上位とのコネクトである。

哲学の思考においてこの祈りはウィトゲンシュタインに酷似する。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とはすなわち論理の徹底による倫理的な沈黙、すなわち超越への静かな祈りの要請であった。一旦知性的な方法で超越へと至りそしてその「はしご」を捨てること。これがウィトゲンシュタインの超越論的哲学の本髄であり、また、神秘主義と倫理の要である。

知性とはプログラムであり、プログラムは超越論的問題に対し無力である。なぜならチューリングマシンは解決不可能な問題に直面した際には永遠に計算を続けるからである。つまり霊性は我々が思考不可能なものに対して取りうるソリューションなのである。西欧哲学は、滝本によれば、おおよそこうした霊性の問題を看過してきた。現象学的な還元もまた内省はすれど瞑想はしないからである。ユダヤ的な神秘思想を経由したウィトゲンシュタインはそれに肉薄した。

ウィトゲンシュタイン的なはしご外しはしかしまた、知性にとって一種の自殺である。なぜならそこにおいて我々の知性的プログラムのプロセッシングとは異なる世界へのスタンスが新生するからである。このようなものを宗教学においては「死と新生」(Death and Rebirth)と呼ぶ。

死と新生とはすなわちディセンションとアセンションのことである。一度心的ステートがディセンドし象徴的に殺害される。それからある特異点=シンギュラリティにおいて転換しアセンドしていく。そしてアセンションの到達点がハイヤーセルフである。

こうした理論的背景のもと彼はヒーリングも行っている。彼は理論的にも体系的であるうえに実践的にも極めて正当な誘導瞑想を行っているらしく、おそらくかなりの程度カウンセリング技法やまた言語的催眠療法を導入しているように見受けられる。

そうしたヒーラーかつ作家の滝本竜彦は現在、読者の彷徨える魂をアセンションへと導きハイヤーセルフへと至らせるための新作小説『ライトノベル――光の小説』を執筆している。完結したものが出版されるのが待ち遠しい。ちなみに第一章は拝読したのだけれど素晴らしかった。とても洗練されている。

おおよそ彼がスピリチュアルに傾倒している彼の内的必然性は理解できただろう。これを文芸批評的なパースペクティブへと接続する。

彼の作品は言うまでもなく、もともとセカイ系と呼ばれるジャンルに属していた。批評家の東浩紀によれば「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」のことである。

評論家の宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』において、こうしたセカイ系の想像力を現代の弱肉強食的なバトルロワイアルゲームにアダプトできていない古い想像力であり、ひきこもり的・心理主義的なものとして弾劾した。ゼロ年代の想像力とは彼曰く「決断主義」であり、自身のメンタルにおける「キャラ」ではなく「決断」とそこからの「行為」こそがこの社会をサヴァイヴしていくうえで肝要だというものである。

さらに彼は決断主義の暴力性問題を乗り越えるうえで「共同体主義」をその解法として提案する。すなわちセカイ系の問題とは承認の問題である。自らを承認してくれる共同体に属し適切な行為のもと行為する。この共同体は永続的ではないむしろアソシエーション的なものであり、したがっていつ終わるとも解らない死の意識とともにある(終わりある日常)。その死を直視しながらそれでも仲間とともに遊ぶこと、それが宇野常寛の出した回答であった。それゆえにこそ彼はホモソーシャルな関係にフォーカスし「日常系」のアクチュアリティに着目したのである。

さて、こうしてまず「セカイ系」への応答として、「決断主義」「共同体主義」「日常系」の三つがあることが確認された。とはいえ、単にセカイ系として糾弾されたファウスト系作家もまた、ある種の仕方で倫理的に自らの作風を発展させていったことを見逃してはならないだろう。

ファウスト系作家はおよそ滝本竜彦佐藤友哉舞城王太郎西尾維新の四名である。これらの作家はどのように作品を書いていったのだろうか。以下サマライズしよう。

私の考えでは、「スピリチュアリティ」が滝本竜彦の、「純文学回帰」が佐藤友哉の、論理に内在しながら「脱構築」するのが舞城王太郎の、「言葉遊び」が西尾維新の出したセカイ系への応答である。

滝本はセカイ系的自意識の問題を含みつつ超えるものとして霊性を考え、佐藤友哉は自意識を純文学に接続する形で描出、舞城王太郎セカイ系の自己批評的な内破を行い、西尾維新は自意識を崩しながら情動的に満足させるアイロニーをえがいた。

思想的なのが滝本竜彦であり、保守的なのが佐藤友哉、批評的なのが舞城王太郎、商業的に成功しているのが西尾維新である。滝本竜彦については論述したので、西尾維新についての話題にシフトする。

一方でセカイ系的な問題は言葉の問題でもある。自意識はすべて言葉でできているからだ。他方でそれは象徴秩序の機能不全に起因するものともされる。その両者を縫合するような仕方で「言葉遊びによる情動的なカタルシスと問題の解消」が現れる、というのが西尾維新の小説である。

象徴界が失調し(ちなみにこれはもっとも正統的なラカンの弟子であるジャック=アラン・ミレール自身が論じその教育を受けたスラヴォイ・ジジェクも支持するまっとうなラカン理解である)、セカイ系化しそしてサヴァイヴ系化した後期近代とはいかなる時代か。それは情報社会化によるネットワークの増大と並行的だ。我々のネットワーク環境は一方でセカイ系的ひきこもりを許し、他方で無数のコミュニティの共同体主義を認め、そして複数のコミュニティ間の衝突やコミュニティ内部でのサークルクラッシュ決断主義バトルロワイアルを招来する。そうした「きみとぼくの壊れた世界」において、私達はディスファンクショナルな言葉を発さなければならない。そうした環境において「ほどよく壊れた言葉」こそが「戯言」なのである。それは私たちに、無意味であることによって快楽を与えるだろう。あえてロラン・バルトのタームを借りればテクストの快楽とでも言ったところだろうか。

また、こうした「戯言の情動的カタルシスの機能」の活用という西尾維新の戦略それ自体を自己言及的にえがいたのが『化物語』に端を発する「物語シリーズ」である。西尾維新が「物語シリーズ」において扱った現代の「怪異」というのはすべて言葉によってなりたち言葉によって解きほぐされる、一種の「ナラティブ」=「物語り」にほかならない。あれは西尾維新自身のスタイルの寓意になっている。

このようにして我々は、セカイ系とポストセカイ系についての概要を総括をすることができたように思われる。すなわち「ポストセカイ系的想像力」=「決断主義」「共同体主義」「日常系」「スピリチュアル」「純文学回帰」「自己言及的内破」「言葉遊び」である。また、おそらくさらにこれらを可能にしている情報社会についての環境分析的な批評の言語が必要となる(今回の記事はそれを意図しそうした言説に寄与することを目指した)。セカイ系とそれ以後の作品はそもそもいずれも消費環境との往還によるある種のメタセカイ系でもある。

そうしたわけで、ゼロ年代の想像力と以後の展望について私なりの見解を述べた。もちろん分析対象をファウスト系に限局したため、たとえばアニメーション作品などについては取りこぼしている。アニメ批評については他の論者に任せたい。いちおう付記すれば、昨今のアニメーションで私が楽しめたのは「化物語」、「魔法少女まどか☆マギカ」、「アイドルマスター」である。化物語については先述した。

ひとまず、それ以前の『けいおん!』についてざっくり述べると、あれはハイデガー的な現存在の頽落をあえて倫理的に肯定する身振りであろう。ハイデガー的な「決断」はナチズム的な暴力を招くからだ。ハイデガーが『存在と時間』における実存論的分析のなかで剔抉した頽落の三要素たる「好奇心」「曖昧性」「空談」はモロにけいおんである。放課後ティータイムはどうでも良さそうなことを楽しくおしゃべりする会なので。でもそれはとても良いこと。あずにゃんは天使。平沢唯は神。

魔法少女まどか☆マギカ』はつまるところグローバルなシステムによる疎外の問題を扱った作品。これはいわば環境分析的。女性の格差や欲望、セクシュアリティや主体化の問題を魔法少女物のフォーマットに落としこむやり方がとてもスタイリッシュ。また労働問題についても扱っている。インキュベーターはもちろん資本主義のアーキテクト的なエージェントの比喩、つまり匿名的だが現実的に力を持つ下部構造の擬人化です。つまりあれば現代のアイドル志望の女の子がセクハラされながら低賃金で働かされたあげく闇堕ちするって話なのよね。より露骨に言うと地下アイドルが風俗に沈められると魔女になる。まどかは運動家かつ革命家で、争いはある程度は仕方ないけどセーフティネットはあるべきみたいな思想の持ち主で、最後はチェ・ゲバラみたいに神っぽい扱いを受ける。

アイドルマスター』は、弱小プロダクションのアイドルたちがトップアイドルへと成長していくビルドゥングスロマンである。最終的には765プロの女の子たちはみなトップアイドルになっていき、それ自体としては喜ばしいことだが、しかし全員で揃って活動する機会が少なくなっていくことに、主人公の女の子、天海春香が悩む。その子といわば対比的にえがかれるのが星井美希であり、彼女は「個」として「きらきらする」ことをためらいなく肯定できる女の子である。それに対して「みんなで、みんなで」とときにヒステリックに見えるほど「仲間」に固執するのが春香だが、この「個」と「集団」の疎隔において、それを媒介し縫合する機能を果たすのが如月千早であり、その際に765プロは「家族」として表象される。この擬似家族的媒介はまた千早の視点から見れば、機能不全家庭に育ったトラウマからの回復過程でもある。つまり、個人主義集団主義を綜合する擬似家族的共同体主義がえがかれた。

こうした内容であるためそれらは流行する必然性があったと言える。時代に対して批評性を持たないサブカルチャーは強度が低いことが多い。もちろん忘れ去れれる作品も大事。でも良いものは良い。

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以上が現在の僕のだいたいのゼロ年代総括と近年の作品のサブカルチャー分析となります。長文失礼致しました。少しでも面白く書けていれば幸いでございます。ではでは。