青木理著『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』より
今回の事態をめぐっては、一方の当事者たちの声がほとんど外部に伝えられていない。猛烈な朝日バッシングばかりが横行する中、朝日を叩く者たちの声や主張は過剰なほど喧伝され、あふれかえり、その論調に沿った形で朝日側の人びとの「言い訳じみた声」や「みじめな姿」はいくどとなく紹介されたものの、当の朝日幹部や現役記者、有力OBたちの声や反論は、まったくといっていいほど伝えられていないのである。
これは、朝日を叩く側の責だけに帰せない問題も背後に横たわっていると私は思っている。
そもそも日本は、所属する組織や団体への忠誠と帰属意識を求める風潮がきつく、メディア企業もけっしてその例外ではない。かつて大手のメディアに所属していた私にはよくわかるのだが、近年はその締めつけがますます強まっている。いつごろからのことかは判然としないものの、大手メディアに所属する記者たちは、外部で積極的に原稿を書いたり発言をしたり、そうしたことごとのハードルが以前よりずいぶん高くなってしまった。
スター記者の登場を望まないようなムードもはびこり、社の外でさまざまな活動をしたり、社の垣根を越えて幅広いメディアで発言するような記者は、どちらかといえば組織の秩序を乱す者として煙たがられてしまうケースの方が多くなっている。
これもまた、言論の自由をなによりも尊ぶべきメディア組織として大いなる問題をはらんでいるのだが、そうした風潮の中、今回の朝日バッシングが起こったせいもあるのだろう。朝日の社内ではそれなりの議論が巻き起こり、それはそれで健全なことではあると思うが、外部に向けて朝日の幹部や現役記者、有力OBなどが堂々と論陣を張るシーンにはとんとお目にかからなかった。せいぜいが朝日バッシングに便乗して奇妙な論を唱える幾人かの奇矯なOBの声が取り上げられた程度だった。
これは断じて好ましくない、と私は思う。世の大勢がひとつの方向に雪崩を打って流れた時、それに疑義をつきつけたり別の視点からの考察材料を提供したりするのもメディアとジャーナリズムの役割であると考えれば、ひたすら叩かれている側の言い分もきちんと記録され、広く伝えておかなければならない。
著者= 青木 理
講談社 / 定価1,512円(税込み)
◎内容紹介◎
朝日新聞は誤った。しかし、言論封殺的な一方的バッシング報道一色で慰安婦問題を論じてしまったなら、それは新たな誤りの始まりになりはしまいか。異様な「朝日バッシング」当事者たちの赤裸々な証言。慰安婦報道の「戦犯」と呼ばれた植村隆、市川速水、若宮啓文、本多勝一ら朝日関係者に徹底取材。問題の全真相をルポルタージュし、バッシングの背後に蠢く歴史修正主義を抉り出す。“闘うジャーナリスト”が、右派の跳梁に抗する画期的な一冊!
⇒本を購入する AMAZONはこちら / 楽天ブックスはこちらだから私は、今回の朝日バッシングの中、徹底的かつ一方的に叩かれまくった人びとを訪ね歩き、せめてその話に耳を傾け、記録し、伝えようと考えた。誰もそうした作業をしない中、叩かれた者たちの声を伝えることは、なんだか私の責務のような気分にもなっていた。
そう思い立つと、話を聞きたい人物は幾人も思い浮かんだ。しかし、真っ先に会わねばならない人物は明らかだった。まずはその人に会うため、私は空路、札幌に向かった。
植村隆氏との7時間の対話
2014年10月23日、札幌は紅葉が美しい季節を迎えていた。冬の気配がひたひたと近づき、肌に触れる空気はひんやりと冷たいが、秋晴れの青空はどこまでも澄みわたり、色とりどりに染まった公園の樹々や街路樹がまぶしいほどに輝いている。
なのに私は、憂鬱だった。これから会う人物が置かれている悲惨な状況を考えれば、ねほりはほり話を聞き出すのは決して楽しい仕事ではない。
たとえばネットで彼の名を検索すると、すさまじい罵詈雑言が次々に目に飛び込んでくる。
「国賊」「売国奴」「反日工作員」「捏造記者」「土下座しろ」「腹を切れ」「アカ」・・・。
彼への攻撃はこの程度にとどまらず、ネット上の罵詈雑言は彼の家族や高校生の愛娘にまで及んでいる。制服姿の写真や実名がさらされ、こんな書き込みがいくつも画面に浮かびあがる。
「国賊のガキ」「反日サラブレッド」「自殺するまで追い込む」・・・。
溜息しか出ない。どのような連中が、どのような気持ちで、どのような表情をしながら、キーボードを叩いているのか。
だが、ネットというヴァーチャルな空間だけの出来事なら、まだマシだといえるのかもしれない。詳しくはあらためて後述することになるが、リアルな世界でも彼への攻撃はすさまじい勢いで拡散し、彼が教員として再就職が内定していた大学には嫌がらせの電話や抗議などが相次ぎ、内定が取り消されてしまうという被害を受けた。いまは札幌の大学で非常勤講師の仕事を細々とつづけているが、この大学にも嫌がらせや抗議が寄せられ、ついには脅迫状まで送りつけられ、大学当局も頭を抱えている。
それでも私は、彼を攻撃する者たちが聞きたがっているだろうことも聞かねばならなかった。どうしようもなく低劣な罵声をネットに書き込むような連中の言い草はともかく、それなりの論理にもとづく批判や非難については、彼がきちんとした反論をできるかどうかを含め、問うべきことは徹底的に問わねばならないと思いさだめていた。憂鬱になるな、というほうが無理というものだろう。
著者= 青木 理
だが、札幌市郊外にあるホテルのロビーで待ち合わせた彼──元朝日新聞記者の植村隆氏は、こちらが拍子抜けしてしまうほど明るい様子で私を出迎えてくれた。
「青木さんさ、僕、性格が明るいんだよ(笑)。前向きで、あまり落ち込まない。いまでもね、みんなは『大変だ、大変だ』って言ってくれるし、客観的に見たら大変なんだけど、あまり落ち込まない。まあ、たまには落ち込むけど、何とかなるんじゃないかなっていう気がしてる」
それが本心なのか、同業の後輩である私に強がってみせているだけなのか、人の心の中を見通すことなどもちろんできはしない。ただ、長時間にわたったインタビューの途中、一度だけ植村氏が涙ぐんだことがあった。これもあらためて後述するが、涙ぐんでしまうのも当然のように私には思われた。
そんな植村氏へのインタビューは、苦境の植村氏を支援してくれているという老夫婦の居宅で行われた。
インタビュー時間は、夜の会食を交えたものを含めれば7時間以上に及び、植村氏が批判の俎上に載せられているすべてのことごとについて詳細に訊くことができた。
以下、インタビューの内容は、私の論評などとはきちんと分け、一問一答形式で順次紹介していこうと思う。記録としての重要性を担保するためだが、植村氏のことを詳しくご存じない方のために、最初に経歴を簡単にふりかえっておきたい。
1958年4月生まれ、高知県出身の植村氏は、早稲田大学政治経済学部を卒業して82年、朝日新聞社に入社した。以後、仙台支局や千葉支局、大阪本社社会部、東京本社外報部などに勤務しつつテヘラン、ソウル、北京の各地で特派員生活を送っている。
この間、外報部次長として取材班のデスク役を務めた「テロリストの軌跡 アタを追う」の連載が2002年度の新聞協会賞を受賞し、外報部を離れて北海道支社に異動後は函館支局長などを務め、14年3月をもって朝日を早期退職した。インタビュー時点での年齢は56歳ということになる。
早期退職前から教員として再就職が決まっていた大学に内定を取り消されたのは前述のとおりであり、このことについてはインタビューの中でも尋ねることになる。
その植村氏が凄惨なバッシングにさらされる原因となったのは、いまから四半世紀近くも前、大阪本社の社会部に所属していたころに書いた2本の記事であった。このうち、特に問題視されているのは1991年8月11日、大阪本社発行版の朝刊社会面トップに掲載された次のような記事である。
《 思い出すと今も涙
元朝鮮人従軍慰安婦
戦後半世紀 重い口開く
韓国の団体聞き取り
【ソウル10日=植村隆】日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた 》
見出しとリード部分のみの引用だが、この記事は、韓国の元慰安婦がみずから口を開いたことを伝えるはじめての報道となった。批判者たちはこれを「元慰安婦の存在と証言を特ダネとしてスクープした重要記事」と位置づけ、《植村記者はある意図を持って、事実の一部を隠蔽しようとした》と主張し、記事には《事実のねじ曲げ》や《事実の捏造》があると徹底した罵声を浴びせかけてきた(たとえば東京基督教大学教授の西岡力氏ら)。
さて、細かい批判の論点についてはおいおい紹介していくこととし、そろそろインタビュー本編に入っていこう。まずは植村氏の社歴をさかのぼり、なぜ元慰安婦の記事を書くに至ったのかについて訊く。やや迂遠かもしれないが、植村氏がどのような記者生活を送り、どのような思想信条の持ち主なのかを知るのは、この問題を解析するうえで必須だと思われるからである。
なぜ慰安婦報道に関わることになったのか
──植村さんは1982年の入社ですか。
「82年の4月です」
──学生時代から新聞記者志望で?
「もともとは山登りが好きで、登山家になりたかったんです(笑)。高校も山岳部で、北海道大か京都大の山岳部に入りたかったけど、落っこっちゃって。僕にとっては大都会の京都で浪人生活を送っているうち、新聞記者になりたいと思うようになって、それで早稲田へ」
──朝日に入社後の配属は?
「まずは仙台支局と千葉支局。県警と司法の担当が長かった。千葉支局でも県警担当のキャップだったし、特に裁判の取材が好きでね。仙台では死刑再審の松山事件の取材に熱中してました。だから僕は当然、社会部に上がるもんだと思ってたんです。ところが87年に韓国への留学が決まってね」
──留学先は、韓国語の教育機関となっている延世大学の韓国語学堂ですね。
「ええ。社内から若手の記者を選抜して1年間、語学を学ばせてくれる。僕は千葉支局でそれに選ばれて、外報部に上がることになりました」
──韓国への留学は希望したんですよね?
「いや、当時はそんなに希望した気もなかったんです」
──というと?
「もちろん大学時代から韓国には関心があった。住んでいた寮には在日コリアンの先輩もいたし、大学時代には朴正熙元大統領の暗殺(79年)や光州事件(80年)が起きて、その背後の首謀者とされた金大中氏への死刑判決(81年)もあった。
そういう時代だから韓国には関心がありました。アルバイトしたカネを貯めてはじめて外国旅行したのも韓国だったし、自分でもコツコツと韓国語を勉強したり、金大中氏を救えっていう運動が世界中であって、そのデモなんかにも行っていた。
ただ、別にソウル特派員になりたいとか、漠然とした希望はあっても、それは現実的なものじゃなくて・・・。サツ回りに夢中になってましたからね」
──じゃあなぜ留学を?
「角川(書店)の『朝鮮語大辞典』を支局の机に置いてたんです。そうしたら当時の千葉支局のデスクが『お前、韓国語できるのか』って。『いや、少しは・・・』って言ったら、『語学留学に応募しといてやったからな』って、いつの間にか応募されてた(笑)。ぜひ行かせてくれっていう感じでもなかったんだけど、選ばれちゃいましてね。それで(韓国留学に)行ったのが87年の8月」
──そして1年間留学してから国際ニュースを扱う東京本社の外報部に?
「88年の8月に(留学から)帰ってきて、その後は外報部で内勤を1年ちょっとやってました。(新聞社内で)"原籍"みたいなのってあるでしょう。僕は最初に支局をふたつやって、あがったのが外報部だから"外報部籍"みたいな感じだったんだけど、海外特派員をやるためには社会部とか政治部とか(本社の)出稿部門を経験した方がいいっていう当時の伝統があって、僕の場合は大阪の社会部に出された。まあ、"修業"みたいな感じですね」
──大阪本社の社会部には何年くらいいたんですか。
「89年11月からの2年5ヵ月。それから外報部に戻って1年半くらい内勤をして、93年8月にテヘラン特派員になった」
──大阪社会部にいた2年半は、警察や官庁などの記者クラブ担当はしなかったんですか。
「いや、遊軍(特定の記者クラブなどに所属せず、社会部で比較的自由な取材をする記者たちを指す新聞業界用語)で、主に在日韓国・朝鮮人の担当。僕らは『民族担当』って呼んでたんだけど、民族問題や被差別部落の問題、それに気象台も担当しました。まあ、気象台はサボってしまってあまりやらなかったけれど」
──大阪には在日コリアンや被差別部落が多いから、主要メディアは大阪社会部に各社、必ず1人はそういう人権問題を担当する記者を置いていましたよね。
「そう。僕は韓国に留学して、言葉も生かして取材できるっていうことでね。それに当時は在日韓国人の政治犯問題があったんです。70年代から80年代にかけて、在日韓国人の若者たちが母国語の勉強などのために韓国に留学して、北のスパイだとか政治犯として捕まっちゃうことがあった。そんな取材もしていたから、ソウルにも出張していました」
──そこで問題の核心に入っていきますが、大阪社会部に"修業"でやってきた若手記者の植村さんが、どうして慰安婦問題の取材にかかわることになったんですか。
「当時、鈴木規雄さんっていうデスクが(大阪社会部に)いましてね。人権問題とか戦後補償の問題とか、そういう問題にも深い理解があった。非常にヒューマンな人で、朝日新聞の中でも多くの人に慕われ、尊敬されていた人だった。
その規さんが地方支局のデスクだった時代、日本人の元慰安婦のおばあさんの連載を地方版でやったことがありましてね。僕は当時、詳しくなかったんだけど、韓国にも元慰安婦がいるんじゃないかって言い出した。いま考えれば鋭いんだけど、証言が取れないだろうかっていう話になった」
──それはいつの話ですか。
「90年の夏。大阪の新聞って、夏の平和企画が一大仕事なわけですよ。青木さんはご存じだろうし、新聞各社はどこもそうだと思うんだけど、大阪って政治部とかがなくて、社会部しかないから、広島の原爆とか終戦記念日前後の平和問題は力を入れた独自の取材で大きく扱う。毎年の"伝統行事"みたいなものです。その平和企画取材で、規さんのサジェスチョンで90年の夏に2週間、元慰安婦を探すために韓国へ出張することになった」
〈後編につづく〉
1966年長野県生まれ。共同通信入社後、成田支局、大阪社会部など経て、東京社会部で公安担当。オウム真理教事件、阪神淡路大震災はじめ、様々な事件・事故取材に携わる。2002年から4年間、ソウル特派員。2006年退社し、フリーとなる。主な著作に『日本の公安警察』(講談社現代新書)、『絞首刑』(講談社)、『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』(小学館)、『国策捜査』(角川書店)、『誘蛾灯』(講談社)、『青木理の抵抗の視線』(トランスビュー)などがある。現在、『情報満載ライブショー モーニングバード!』(テレビ朝日系)月曜日コメンテーターも務めている。
著者= 青木 理
『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』
(講談社、税込み1,512円)
慰安婦報道の「戦犯」と呼ばれた植村隆、市川速水、若宮啓文、本多勝一ら朝日関係者に徹底取材。報道の現場から問題の全真相をルポルタージュし、バッシングの背後にうごめく歴史修正主義をえぐり出す!
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目次
第1章 朝日バッシングに異議あり!
朝日問題はなぜ「歴史的な事件」なのか/朝日バッシングの本質と背景
第2章 歴史を破壊する者たちへ
黒々とした歴史修正主義の蠢き/総転向状態に陥ったメディア
のんきな「良識」を超えて/『週刊現代』の「逆張り」
脅迫に屈する大学、抗う大学/普通が特異になる異常な状態
深代惇郎と『天人』/巨大誤報に頬被りするメディア
朝日新体制はジャーナリズムの使命を果たせるか
第3章 全真相 朝日新聞「従軍慰安婦報道」
【1】「売国奴」と呼ばれた記者の現在---植村隆の証言
叩かれた者たちの声に耳を傾ける/植村隆氏との7時間の対話/なぜ慰安婦報道に関わることになったのか/元慰安婦を探して韓国へ/スクープという意識はまったくなかった/当時、慰安婦問題とどう向き合ったか/植村批判のすべてに答える/なぜキーセン学校の件に触れなかったのか/義母の存在は記事に影響したのか/差別を受けた人への共感が原点/「右翼が街宣車で行くぞ」/「人間のクズ」が横行する社会
【2】朝日で「記者トップ」をきわめた男---若宮啓文の証言
若宮啓文氏との対話/「反日記者」と呼ばれた元・主筆/もう一つの「慰安婦」検証記事/吉田清治証言と検証記事/朝日の体質とメディア内バッシング/特報部と「吉田調書」問題/なぜ「竹島コラム」を執筆したのか/偏狭なナショナリズムを超えて/政権との対立/本多勝一氏と「朝日的なもの」/朝日は「反日」「左翼」なのか/真に「捏造」を繰り返すのは誰か
【3】現役編集幹部は何を語るか---市川速水の証言
前報道局長・市川速水氏の証言/なぜこのタイミングで「検証記事」を発表したか/池上コラム事件の真相/戦後補償と慰安婦報道にかかわるまで/元慰安婦たちの証言が明らかにしたもの/特ダネ「慰安所 軍関与示す資料」と宮澤訪韓/朝日のシステムの何が間違っていたのか/絶望と希望のはてに
エピローグにかえて---外岡秀俊氏との対話
朝日新聞と従軍慰安婦問題 関連年表/記事資料