青木理著『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』より
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元慰安婦を探して韓国へ
植村氏が語る朝日の大阪本社社会部の雰囲気は、私も通信社の駆け出し記者としてほぼ同時期、大阪社会部に在籍したことがあるから、実感としてよく分かる。
在日コリアンや被差別部落が多い大阪の社会部には、各社とも人権問題や民族問題を主に担当する記者を置いていて、その世界に精通したベテランの記者やデスクが必ずいた。近ごろはめっきり少なくなってしまったらしいが、東京の社会部にだって、大阪ほどではないにせよ、平和や人権問題を担当するデスクや記者はいたものだった。
だが、そうしたデスクや記者は、どちらかといえば社会部の中で傍流というべき存在だった。東京や大阪に限った話ではないが、社会部記者の"花形"といえば、いまもむかしも事件記者である。東京なら警視庁、大阪なら大阪府警に多数のサツ回り記者が配置され、捜査当局の動向などにかんする特ダネを抜きあうために朝回り、夜回りを繰りかえす。
特捜検察をウォッチする検察担当記者も同様だ。彼ら、彼女らが放つ事件がらみの特ダネは紙面を派手に飾ることが多く、優秀と目された記者は警察や検察担当の記者クラブに突っこまれる。畢竟、そうした者たちが肩で風をきって社内を闊歩し、人権や平和問題、市民団体などの動きを地道にフォローする者は圧倒的な少数派となってしまう。人事的な面でも冷遇される傾向が強く、最近は各社の大阪社会部でも平和や人権問題などをフォローする記者が絶滅寸前らしい。
そうした記者、デスクのひとりだった「規さん」こと鈴木規雄氏に、私は会ったことがないのだが、その勇名は大阪でも東京でもいくどとなく耳にした。
1987年5月、兵庫県西宮市の朝日阪神支局が何者かに襲撃され、散弾銃で記者が殺傷された事件をきっかけにはじまった朝日の長期連載企画「『みる・きく・はなす』はいま」を記者、デスク、部長として一貫して手がけた。戦後補償や平和問題の取材にかかわり続け、同じような仕事を志す多くの後輩記者に慕われ、東京本社の社会部長や大阪本社の編集局長などを歴任した。
著者= 青木 理
講談社 / 定価1,512円(税込み)
◎内容紹介◎
朝日新聞は誤った。しかし、言論封殺的な一方的バッシング報道一色で慰安婦問題を論じてしまったなら、それは新たな誤りの始まりになりはしまいか。異様な「朝日バッシング」当事者たちの赤裸々な証言。慰安婦報道の「戦犯」と呼ばれた植村隆、市川速水、若宮啓文、本多勝一ら朝日関係者に徹底取材。問題の全真相をルポルタージュし、バッシングの背後に蠢く歴史修正主義を抉り出す。“闘うジャーナリスト”が、右派の跳梁に抗する画期的な一冊!
⇒本を購入する AMAZONはこちら / 楽天ブックスはこちら後の節であらためて述べるように、実をいうと朝日の慰安婦問題報道も鈴木氏がキーパーソンともいえる存在だったようなのだが、残念ながら直接話を訊くことはもはやかなわない。2006年1月7日、急性骨髄性白血病のため、この世を去ってしまっているからである。まだ59歳という若さだった。
その鈴木氏が大阪社会部のデスクだった90年の夏、若手記者だった植村氏は、「元慰安婦探し」の命を受けて韓国に飛んだ。
──ところで、韓国への出張取材は、どうして植村さんが行くことになったんですか。
「僕は慰安婦問題の取材はしたことがなくて、在日韓国人政治犯の問題をずっとやっていたんですけど、韓国語もできるし、規さんは広い目で(部下を)いろいろ見ててくれたから、そういうのがあって派遣されることになったんだと思います」
──それで2週間、出張した結果は?
「空振り。釜山なんかにも行ったり、いろいろ動いてみたけどダメでした。それからしばらくして、規さんも書いてました。『窓』っていう夕刊のコラムで『記者を2週間も韓国に派遣して探したが、見つけ出せなかった』って」
調べてみると、鈴木氏のコラムは92年9月2日付の朝日夕刊にたしかに掲載されていた。植村氏を攻撃する人びとは、さまざまな角度から植村氏の取材経緯に疑心を唱え、朝日側も14年8月5日付朝刊の検証記事で反論を掲載、取材経緯などに瑕疵はなかったと主張しているのだが、こうした経過があったとするならば、問題となった91年8月11日付の記事を植村氏が、しかもわざわざ大阪から出張して書くことになった理由が、納得のいくものとして胸に落ちてくる。
植村氏へのインタビューを続けよう。
──では、91年8月11日の記事を書くことになったのは。
「当時のソウル支局長から、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)共同代表の尹貞玉さんが元慰安婦のおばあさんの聞き取り調査をしているらしいよ、っていう話を聞かされたんです。
尹貞玉さんは韓国の慰安婦問題の第一人者なんですが、前年(90年)の夏にもお世話になってたし、支局長も僕が元慰安婦探しをしていたのは知っていましたから。だから『植村君、取材しに来たらどうかね』と声をかけられたんです」
──前年夏のことがあったのを知れば、そういう話になるのは納得できます。ただ、それでも疑問は残る。朝日のソウル支局には、当時でも支局長以外に特派員がいたでしょう。なぜ支局で取材しなかったんでしょう。
「当時の支局長は外報部の先輩だからよく知っていたし、いつも連絡を取り合っていた。当時のソウル支局は特派員2人体制だったけど、南北朝鮮の国連同時加盟問題など冷戦後の朝鮮半島問題の取材で非常に忙しかったんです。それで僕に声をかけてくれたようです。当時の支局長のメモ帳にも、尹さんから聞いた元慰安婦女性の情報が残っています」
──それで?
「それじゃあ是非行きたいっていうことで、大阪社会部はすぐに許可が出るから。ちょうど夏だし、夏の大型平和企画なんかでもできるんじゃないかということでね」
──まだ疑問は残ります。これは一種の特ダネになりうるわけでしょう。なのに、どうしてわざわざ大阪の植村さんに?
「いまになってそういうことを言われてて、僕を批判する人たちはあの記事(91年8月11日朝刊の記事)が『慰安婦問題に火をつける超重要な大スクープだった』なんて言うんだけど、当時はスクープだとか特ダネなんていう意識、ぜんぜんありませんでした。実際、ほとんど関心を呼ばなかったから」
──どういうことですか。
「朝日でも大阪本社版は社会面トップの記事になったけど、東京本社版は翌日(8月12日)の朝刊に4段の記事が掲載されただけ。僕の記事の3日後(8月14日)には北海道新聞が(当該の元慰安婦への)単独インタビューに成功して、同じ日に共同記者会見をして、韓国紙にはいろんな記事が掲載されたんだけど、この会見を毎日や読売の特派員もフォローしてないんです。
最近あらためて調べてみたんですが、全国紙だと、読売が最初に報じたのは8月の下旬。これもソウルの特派員じゃなくて、大阪の記者が書いてる。毎日が報じたのは9月に入ってから。大きなニュースだっていうなら、8月14日に記者会見をしてるんだから、その時にフォローするでしょう。
もし会見に行けなくても、次の日の韓国紙に記事が出てるんだから、転電(外国メディアの報道を引用して記事にすることを指す新聞業界用語)したっていい。でも、やってない。はっきりいって、その程度のものだったんです。どの社も大した関心を持たなかった」
スクープという意識はまったくなかった
このあたりは少し補足説明が必要だろう。
韓国人の元慰安婦としてはじめてみずから名乗りをあげた女性の名を金学順(当時は67歳、1997年に死去)という。91年の8月11日、植村氏はたしかに彼女の証言を他メディアに先駆けて世に伝えた。ただし、あくまでも韓国の運動団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」から証言記録の提供を受け、それを記事化しただけであり、金学順には会ってもおらず、記事中に実名すら出てこない。
そして植村氏の記事が出てから3日後の8月14日、金学順は北海道新聞の直接取材に突如応じ、直後にはソウル市内で共同記者会見を開いた。翌8月15日付の北海道新聞朝刊はインタビュー内容を伝えたが、植村氏が指摘したように、その他の日本の新聞各社はこれらをまったく報じていない。
実際に各紙の縮刷版やデータベースを調べてみると、読売が金学順のことをはじめて報じたのは91年の8月24日。先の植村氏の話に「韓国の元慰安婦探しの第一人者」として登場した尹貞玉氏が来日したことを伝える記事中でのことだった。毎日の初報はそれからさらに遅れること1ヵ月以上あとの9月28日。東京社会部所属の女性記者が金学順に直接取材し、「記者の目」というコラムコーナーで執筆したのが初出である。
こうしてみると、植村氏の記事が「慰安婦問題に火をつけた」「重要な大スクープだった」などと評するのは、いかにも大げさにすぎることがよく分かる。私もソウルで特派員生活を送ったことがあるのだが、重大なスクープだったというのなら現地ソウルの特派員たちが直ちに取材し、「追っかけ記事」を書く。ソウル特派員のニュース感覚が鈍くて反応しなくても、東京本社のデスクから「すぐに取材して記事を書け」と発破をかけられる。
つまり、当時はそれほど重大なスクープだと認識されていなかった。しかも、最初に伝えたとはいっても、運動団体から提供された証言記録を書き写すのと、直接インタビューして書くのとでは迫力がまったく違う。
著者= 青木 理
また、一連の経過を眺めると、日韓関係に棘のように刺さった慰安婦問題は、別に植村氏の記事がなくともいずれ火を噴いたのは間違いないことが分かる。すでに金学順は挺対協に名乗り出て証言を寄せていたのだから、何らかの形で報じられるのは時間の問題だったし、実際に実名を明かして直接インタビューに成功したのも朝日ではなかった。
まして、当時の植村氏に「なんとしても慰安婦問題に火をつけたい」という思惑があったなら、北海道新聞と争ってでも直接インタビューを行い、わずか3日後に開かれた金学順の共同記者会見なども徹底フォローし、連続して記事を送ろうと躍起になったはずではないか。
ところが植村氏は、そうした記事を一行たりとも書いていない。いったいなぜだったのか。
──8月11日付の朝刊用にソウル発の記事を送ったあとはどうしたんですか。
「12日に大阪へ戻りました」
──どうしてですか。14日の共同記者会見に出ようと思わなかった?
「会見があるのを知ってたら、ソウルに残ったに決まってますよ」
──じゃあ、知らなかったんですか?
「知らなかった。前日(13日)くらいには(会見をすると)決まってたのかもしれないけど、少なくとも僕は12日に大阪へ戻ってしまっていたから、知らなかった」
──それほど急に会見が行われると決まったんですか。
「詳細は分からないけど、僕は大阪に戻ってから尹貞玉さんに電話してるんです。
どうやら北海道新聞はソウル特派員が以前から取材を申し入れていたようで、金学順さんが突然実名で取材に応じた。直後に韓国の新聞とテレビの記者を呼んで会見をやったらしい。もしそんな記者会見するのを知ってたら、僕は間違いなくソウルに残りました。わずか3~4日の話なんですから」
──なんだか北海道新聞にやられたような感じもありますね。
「そう。僕としてはスクープしたなんて思ってない。慰安婦問題に火をつけたとか、歴史を変えたとか、そんなことだって思ってない。もしそうなら、当時のソウル特派員がもっとバタバタして記事を書いてるはずでしょう」
──朝日の社内で何かの賞をもらったとかは?
「ない。あるわけない。むしろ当時は、まさに北海道新聞にやられたっていう感じで、悔しくてしょうがなかったのを覚えてます」
当時、慰安婦問題とどう向き合ったか
以上のような植村氏の話を裏づける証拠として、ある雑誌の記事をあげることができる。在日コリアンらに民族の文化、生活情報などを発信していた雑誌『MILE』。雑誌名は韓国・朝鮮語で「未来」を意味し、1988年6月に隔月刊の雑誌として発行され、90年からは月刊誌となっていたが、96年末を最後に休刊してしまっている。
この『MILE』誌の91年11月号に、植村氏は長文の原稿を寄せていた。90年の夏から91年の夏にかけ、慰安婦問題報道にどうたずさわったかをみずから率直に記した内容である。
いうまでもないことだが、当時の植村氏は、自身の記事がのちに猛批判にさらされるなどとは夢にも思っていない。したがって、批判やバッシングへの反論や言い訳を想定した内容ではない。そのことを念頭に置きつつ、記事の冒頭部分を読んでいただきたい。
《「ソウルにいる元朝鮮人従軍慰安婦が語りはじめたらしい。植村君、取材に来たらどうかね」。ソウルのO支局長(筆者注・記事原文は実名)に用事があって電話したところ、こんな内容の話を聞いた。
女性団体でつくる「韓国挺身隊問題対策協議会」の共同代表をつとめる尹貞玉さん=ユン・ジョンオクさん(六五)らが、元慰安婦の女性を捜し出し、聞き書きを進めているという。尹さんは元梨花女子大の英文学の教授で、定年後、この問題をライフワークにしている。
たくさんの元慰安婦が、祖国に帰ったにもかかわらず、昨年までは僕の知るかぎりでは韓国内でこの忌まわしい体験を公にする女性はいなかった。
驚きを感じるとともに、さっそく取材に行くことにした 》
そんな書き出しではじまる原稿は、まだ30歳そこそこの記者の若さというか、幼さというか、そうしたものがにじみ出ていて少し単調な感も拭えないが、私のインタビューに対する植村氏の証言に偽りがなく、まったく等身大の事実だったことが浮かび上がってくる。
少し長くなるが、続けて『MILE』誌から、一部を略しつつ引用する。
《 昨年の夏、二週間ほど、慰安婦たちの証言を求めて韓国各地を回ったことがある。
友人である韓国の女性ジャーナリストから「ソウルに話をしてくれる人がいる。以前、インタビューをしたことがある」という話を聞いた。行けば会えるだろうという軽い気持ちで訪韓した。ところが、その女性は既に死亡していた。
まったく、手掛かりがなくなってしまった。
それからは、当時梨花女子大教授だった尹貞玉さんをはじめ、いろいろな団体の情報をもとに、各地を回った。(中略)
しかし、「知らない」という答しか、返ってこなかった。(中略)
「元慰安婦たちは絶対にしゃべらない。それは死ぬことよりつらいことなのだから」と言われたこともあった。異国に取り残されたものたちは、祖国と絶たれているが故に、身の上を話すことが出来るが、韓国に住む女性はしゃべらないというのだ。ジャーナリストの友人たちに聞いても手掛かりがないという答が返ってきた。
結局、「幻の取材」となった。
それが、今年になって大きく変わったのである。
ソウルについて、すぐに梨花女子大近くにある尹先生の家に行った。尹先生は、十年ほど前から、慰安婦問題を調べている。昨年十一月には、十六の女性団体で「協議会」が出来、本格的な調査に入っている。(中略)
沈黙を破った慰安婦のことを聞いた。
つい最近、友人に伴われて協議会の事務所に来た、という。「日本政府が挺身隊があったことを認めないことに腹が立ってたまらない、と名乗りでたのです。おそらく現在、韓国で自分が慰安婦だったということを証言しているのは彼女だけでしょう」と尹先生。
次の日、協議会のメンバーが録音したこの女性の証言テープを聞かせてもらった。個人のプライバシーを守るため、名前も公表せず直接会わないことも約束した。
この女性は中国で慰安婦をさせられた。六十七歳で独り暮らし。中国の東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にさせられた。二、三百人の部隊がいた中国の街で日本軍人相手に売春をさせられたという。
約三十分のテープでは淡々と身の上をしゃべっていたが、協議会の人によると、話す前に泣いていたという。尹さんは「これからも聞き書きを続けていきます」と話していた。
取材を終えて、帰国した。数日して、尹さんに電話すると、(筆者注・八月)十四日の二度目の聞き書きの際に、この女性は「日本政府は挺身隊の存在を認めない。怒りを感じる」と言って、名前を公表し、自分の体験を発表すると申し出た。このため、それまでは非公開で調査を進めていたのが、急遽、韓国の報道陣に公開されることになった。
ソウル市鍾路区にすむ金学順=キム・ハクスン=さんという。テレビでは、その夜のニュースに流れ、十五日(光復節)の新聞では「韓国日報」が社会面に写真入りで六段記事で伝えたのを始め、各紙とも大きく伝えた。大きな反響を呼んだ。
尹さんたちは、さらにこの問題を調査するため九月からはソウルの事務所に、女性たちからの申告を受けつける電話を設置する予定だ。韓国のマスコミはさまざまな形でこの問題を取り上げはじめており、情報はさらに膨らんでいく可能性がある 》
(以上、『MILE』91年11月号から)
──『MILE』誌の記事は、いつ書いたんですか。
「あれはたしか91年の9月上旬ぐらいが締め切りだったと思うから、ソウルから大阪に戻ってきて1ヵ月後ぐらいです」
──この記事を読むと、当時の植村さんの動きや気持ちがよくわかりますね。
「ええ。僕も書いたのは記憶していたんだけど、内容は忘れていたんです。ところが今回、僕が猛烈に攻撃される事態になってから、朝日の慰安婦問題検証取材チームの記者が見つけてくれた。そうしたらここに取材の経緯なんかも全部書いてある。この時はバッシングを受けてたわけでもないし、別に何かのアリバイづくりのために書いてるわけでもなく、単に正直に当時のことを書いていただけですから。これが一番正確だと思います」
植村批判のすべてに答える
ここまで植村氏がどのような記者生活を経て慰安婦報道に携わり、なぜ問題の記事を書くに至ったかの経緯についてのインタビュー内容を紹介してきたが、植村氏の記事をめぐっては現在、いくつかの点で激しい批判が浴びせられている。
批判する側の主な論点を整理すれば、次の3つに要約されるだろう。
(1)植村氏の妻は韓国人であり、義母は元慰安婦の裁判も支援した韓国の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会(遺族会)」の幹部を務めている。この義母から何らかの情報提供や便宜供与を受け、植村氏の側も義母らの運動を利するため、問題となっている1991年8月11日の記事などを書いたのではないか。
(2)同じく問題となっている記事では「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」と書いてあるが、工場などでの勤労動員を意味する「挺身隊」と「慰安婦」はまったく異なるものであり、両者を意図的に混同することで国家による強制連行性を強調しようとしたのではないか。
(3)同じく8月11日の記事では、金学順が14歳の時からキーセン(妓生)学校に通っていた事実などを知っていながら触れず、事実を意図的に歪曲して国家による強制連行性と犯罪性を印象づけようとしたのではないか。
このうち(1)については、当時の朝日ソウル支局長からの情報にもとづいて取材を開始したことはすでに確実と思われるが、家族というきわめて繊細なプライバシーにかかわる部分も含むから、あとで詳しく触れることとし、まずは(2)の「挺身隊」と「慰安婦」の誤用について植村氏の話を訊き、検証していこう。
──問題の記事が「挺身隊」と「慰安婦」を誤用したことに大きな批判があります。
「僕らのとき、韓国では『慰安婦』っていう言葉は使いませんでしたからね。青木さんも韓国にいたなら分かると思うけど、慰安婦のことを『挺身隊』っていうでしょう」
──たしかにそうですね。
「だいたい元慰安婦のハルモニ(おばあさん)たちも『挺身隊』っていう。『慰安婦』なんてあまりいわない。あの当時でいえば、日本の他紙も同じように書いていたし、金学順さんの記者会見を受けて91年8月15日の韓国紙に掲載された記事をみると、本人も会見で『挺身隊』っていっている」
【以下は書籍版をお読みください】
1966年長野県生まれ。共同通信入社後、成田支局、大阪社会部など経て、東京社会部で公安担当。オウム真理教事件、阪神淡路大震災はじめ、様々な事件・事故取材に携わる。2002年から4年間、ソウル特派員。2006年退社し、フリーとなる。主な著作に『日本の公安警察』(講談社現代新書)、『絞首刑』(講談社)、『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』(小学館)、『国策捜査』(角川書店)、『誘蛾灯』(講談社)、『青木理の抵抗の視線』(トランスビュー)などがある。現在、『情報満載ライブショー モーニングバード!』(テレビ朝日系)月曜日コメンテーターも務めている。
著者= 青木 理
『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』
(講談社、税込み1,512円)
慰安婦報道の「戦犯」と呼ばれた植村隆、市川速水、若宮啓文、本多勝一ら朝日関係者に徹底取材。報道の現場から問題の全真相をルポルタージュし、バッシングの背後にうごめく歴史修正主義をえぐり出す!
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目次
第1章 朝日バッシングに異議あり!
朝日問題はなぜ「歴史的な事件」なのか/朝日バッシングの本質と背景
第2章 歴史を破壊する者たちへ
黒々とした歴史修正主義の蠢き/ 総転向状態に陥ったメディア
のんきな「良識」を超えて/ 『週刊現代』の「逆張り」
脅迫に屈する大学、抗う大学/ 普通が特異になる異常な状態
深代惇郎と『天人』/ 巨大誤報に頬被りするメディア
朝日新体制はジャーナリズムの使命を果たせるか
第3章 全真相 朝日新聞「従軍慰安婦報道」
【1】「売国奴」と呼ばれた記者の現在---植村隆の証言
叩かれた者たちの声に耳を傾ける/植村隆氏との7時間の対話/なぜ慰安婦報道に関わることになったのか/元慰安婦を探して韓国へ/スクープという意識はまったくなかった/当時、慰安婦問題とどう向き合ったか/植村批判のすべてに答える/なぜキーセン学校の件に触れなかったのか/義母の存在は記事に影響したのか/差別を受けた人への共感が原点/「右翼が街宣車で行くぞ」/「人間のクズ」が横行する社会
【2】朝日で「記者トップ」をきわめた男---若宮啓文の証言
若宮啓文氏との対話/「反日記者」と呼ばれた元・主筆/もう一つの「慰安婦」検証記事/吉田清治証言と検証記事/朝日の体質とメディア内バッシング/特報部と「吉田調書」問題/なぜ「竹島コラム」を執筆したのか/偏狭なナショナリズムを超えて/政権との対立/本多勝一氏と「朝日的なもの」/朝日は「反日」「左翼」なのか/真に「捏造」を繰り返すのは誰か
【3】現役編集幹部は何を語るか---市川速水の証言
前報道局長・市川速水氏の証言/なぜこのタイミングで「検証記事」を発表したか/池上コラム事件の真相/戦後補償と慰安婦報道にかかわるまで/元慰安婦たちの証言が明らかにしたもの/特ダネ「慰安所 軍関与示す資料」と宮澤訪韓/朝日のシステムの何が間違っていたのか/絶望と希望のはてに
エピローグにかえて---外岡秀俊氏との対話
朝日新聞と従軍慰安婦問題 関連年表/記事資料