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<戦後の地層 覆う空気> (6)子ども合唱団

放送記念碑の傍らに立つ植村孝子さん=東京都千代田区で

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童謡作曲家の海沼實さんの孫、実さん(右)と合唱団の子どもたち=東京都品川区で

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◆童謡は軍歌に変わり

 東京・内幸町のオフィス街の高さ一メートルほどの植え込みに「放送記念碑」と刻まれた黒い石碑が立つ。かつて日本放送協会のラジオ局があった痕跡だ。戦後、姉妹で童謡歌手として名をはせた植村(旧姓・川田)孝子(78)=東京都新宿区=は、碑と同じくらいの背丈のときに、毎日そこで歌っていた。一九四五年春、一帯が空襲で焼け、火の玉のようなものが飛び交った日にも。

 「とにかく『お国のために』って一心だった」

 孝子が所属していたのは、童謡作曲家、海沼實(みのる)の児童合唱団「音羽(おとわ)ゆりかご会」。海沼は「お猿のかごや」などをヒットさせ、コンクールやラジオ放送の常連になっていた。

 だが、戦局とともに、優しい調べの童謡は影を潜めていく。「欲しがりません勝つまでは」。戦時中、誰もが耳にした標語も海沼の手で、軽快なテンポの一曲となった。

 本来、軍歌を歌う大人の歌い手たちは兵隊に取られ、合唱団は、持ち歌でなくとも駆り出されていく。「愛国行進曲」「同期の桜」「若鷲(わかわし)の歌」。ラジオの番組編成の打ち合わせには、内閣直属の情報局や陸海軍の担当者が顔をそろえ、勇ましい歌が好まれた。

 童謡を歌っていたときには郷里の長野のタヌキやキツネの話をしてくれた「海沼先生」も、放送直前に口移しで教えるのが精いっぱいとなった。

 意味もわからず歌う子どもたちも、戦意高揚の国策宣伝に組み込まれていった時代。孝子は今も「いざ来いニミッツ、マッカーサー」と、「比島決戦の歌」をそらんじることができる。

 「ニミッツやマッカーサーって出てきても、そのときは人だかなんだか。でも『地獄に逆落とし』って、今考えれば戦犯ね」。戦争の悲惨さを本当の意味で知ったのは戦後。南方から遺骨も帰らない叔父を忘れられず、婚約者だった女性が離婚を繰り返す姿を通してだった。

     ◇

 「ゆりかご会」は海沼の孫の実(42)=東京都品川区=が受け継いだ。戦前から続く唯一の児童合唱団として戦没者慰霊祭に招かれ、「海ゆかば」など、戦時中の歌を求められることもある。

 戦後、祖父の世代の作曲家は「戦争を美化した」と批判を浴び、消えていった作品もある。「歌にふたをしちゃう方が戦争が近くなる危険があるんじゃないのか。こんな普通だった人がこんなことやっていたのが戦争だよということを黒く塗らない方がいい」

 実のレッスンは一時間の大半が過ぎても歌唱指導に入らず、歴史の勉強になることがある。「兵隊さんたちは、皆のお父さんと同じ年代だよ。皆万歳して送り出すしかなかったんだ」。幸い、今は子どもたちに語りかける時間はたっぷりある。

 (文中敬称略、岩崎健太朗)

 

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