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【千葉】

永遠の平和(6)「たゆまず励め」次世代へ 貫太郎と妻タカ

鈴木邸跡のそばにある鈴木貫太郎記念館。終戦の詔勅にある「万世のために太平を開かんと欲す」の碑が建つ=野田市で

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 鈴木貫太郎が妻タカと暮らした野田市関宿町には、終戦から七十年となる今も、その「記憶」が残る。

 終戦の三年後に亡くなった鈴木は、利根川を渡った隣町で荼毘(だび)に付された。「閣下は背が高かったから、棺おけは大工が寸法を測ってこさえたんだよ」。鈴木が設けた農事研究会のメンバーだった野中鉚市(りゅういち)(89)は振り返る。

 盛大な見送りの中、棺(ひつぎ)を乗せた車には綱がつけられ、皆で一緒に引っ張って運んだという。遺灰からは、二・二六事件で受けた銃弾が見つかっている。

妻は天皇の養育係

 研究会はタカが引き継いで面倒を見た。「穏やかで上品な人でした」と別の元メンバー。タカは鈴木の前妻が早世した後、鈴木に嫁いだ。若いころは、東京の幼稚園での働きぶりを認められ、昭和天皇の養育係を務めた。天皇が鈴木に親しみを感じたのはタカの存在も大きかったようだ。

 幼いころ、鈴木に抱っこされたこともある郷土史家の黒沢五郎(72)は、こんな思い出がある。「夫人は宮中にいたからか、しつけに厳しかった。私の行儀が悪いと母が叱られるので、母からは鈴木家にはあまり遊びに行かないように言われてましたよ」。とはいえ子どもには優しく、タカからお菓子をもらった思い出がある人も多い。

 鈴木邸は研究会の事務所になっていた。その作業とタカの身の回りの世話を兼ね、横田喜美子(81)は夫と鈴木家に住んでいたことがある。「夫人は水彩画が趣味で、特にぼたんの花がお好きでした」

 俳優の笠智衆が話を聞きに訪れたこともあった。御前会議のあった一日を描いた映画「日本のいちばん長い日」(一九六七年・岡本喜八監督)で鈴木役を演じるためだった。

 名誉町民だったタカは、小中学校の行事に来賓として出席した。「貫太郎は小さいころニンジンが嫌いでね。お母さんがだましだまし食べさせた。だから海軍大将になれたんですよ」。そんな話をよくしたらしい。鈴木の日常訓「正直に腹を立てずにたゆまず励め」の唱和もあった。卒業生らには、タカの絵や日常訓などの色紙が贈られた。

◆「貫」の字引き継ぐ

 タカは七一年に八十八歳で亡くなり、関宿小で町葬が営まれた。今は鈴木とともに関宿の実相寺に眠る。

 かつては研究会の元メンバーがそろって墓参りをしていたが、高齢化のため三年ほど前に途切れた。しかし昨年からは、元市職員の筑井正(64)らが墓周りの掃除を始めた。「この辺りは『貫』の字を名前にもらった人も多い。私の孫も。郷土の偉人を大切にしたい」

 関宿公民館長の大木葉俊泰(71)は、子どもたちに鈴木のことを教える講座の開催を計画している。鈴木が広めた酪農に携わる人々でさえ、鈴木のことを知る人が少なくなっているためだ。「貫太郎さんのことを知って、私も日本の平和のありがたみが分かりましたから」。記憶は次の世代へと受け継がれるだろうか。 (敬称略)

 <すずき・たか> 1883年、札幌生まれ。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業し、同校付属幼稚園で勤務。その後、昭和天皇の養育係を4歳から10年近く務めた。1915年、海軍次官だった鈴木貫太郎と結婚。天皇は78年の記者会見で「タカとは本当に私の母親と同じように親しくしました」と述懐されている。父の足立元太郎は札幌農学校(現・北海道大)出身で、新渡戸稲造らと同期。

 

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