担当編集者の太鼓判!
辞任後、(本人いわく)蟄居していた猪瀬さん。復帰にあたり、まず書いておきたかったのは、奥様のゆり子さんのことでした。でもそれはエッセイでも私小説でもなく、きちんと事実に基づいたノンフィクション。多くの人が気になっていた辞任の理由や、五輪招致成功の経緯も、この本で明らかになりましたが、やはりこれは、一種の青春小説だと思います。昭和と今と、恋愛と結婚と、政治と五輪と。どんな側面からも満足できる濃い作品です。
(マガジンハウス 広瀬桂子)
スーツのしつけ糸で妻の不在を気付かされた
—— 都政の仕事についてからも、奥さんのゆり子さんを連れだっての出張や遠征は多かったんですか?
猪瀬直樹(以下、猪瀬) 例えば、都知事になってからのオリンピック招致活動は、まさに本当のチーム戦になっていくのです。外国では、レセプションにはカップルで参加する文化もありますから。2013年3月にオリンピックの評価委員会が来日した際のPRで、車いすテニス金メダリストの国枝慎吾選手と僕がテニスをする機会があったんだけど、その時もゆり子はラケットを持ってプレーしていました。その後の4月にはニューヨーク出張にも一緒に行った。それで5月にロシアのサンクトペテルブルクで行われたスポーツアコード国際会議、大きな五輪招致のプレゼンテーションをすることになるのですが、そこにも当然、一緒に来てもらう予定で荷物の整理まで一緒にやっていました。
—— その直前に病状に気づかれたわけですね。
猪瀬 まさに本の冒頭だけど、その一週間前に、飼っていた犬の調子がおかしくなったの。どうしたんだろうねって。そうしたら、同じ週に妻の言葉ももつれるようになって、検査してもらったんです。そこでいきなり余命数ヶ月という宣告を受けた。なにもかも突然だった。
—— 都知事としての重い責任を負った一番重要な時期ですし、五輪招致活動の中で海外渡航の予定もずらせないわけですよね。一緒に行くつもりだったロシアへは、奥様を病院に残してひとりで行くしかなかった。
猪瀬 ロシアでのプレゼンテーションは、イスタンブール、東京、マドリードの順番でした。僕は新調したスーツで挑んだのですが、まさにイスタンブールがプレゼンをやっているときに、次が出番だからと気合を入れてスーツのボタンをかけ直したら、スーツのサイドのしつけ糸がついているのに気づいたんです。その瞬間に、ゆり子の不在ってものに改めて気づかされた。彼女がいたら、ホテルのクローゼットにスーツをしまう際に気がついて取っていてくれたはずなんだよ。僕は気づかなかった。
—— ずっと学校の先生をやっていたゆり子さんですが、猪瀬さんが政治の道に入った頃には、もう引退されていたんですか?
猪瀬 やめたのは、彼女が55歳のころ。もう十分だっていうのはあったね。子ども相手で、体力がすごく必要だったというのもあった。僕が、道路公団民営化の仕事が忙しくなったので、一緒にいる時間を作りたいっていうこともあった。ちょうど子供が独立した時期で、一緒に東京に出てきた頃に戻ったような感じもあったな。
—— それからはより一緒にいる時間が増えたわけですね。ゆり子さんはずっと同じ夢を見て走ってきた相手という話ですが、当然ケンカすることもあったわけですよね?
猪瀬 あんまりケンカはしなかったね。
—— 猪瀬さん自身はイライラしやすくて怒鳴ったりすることがあるって書かれてましたが……。
猪瀬 いや、でもそんなにないよ。イライラすることはあるけど、別にそれだけのことですよ(笑)。
—— ごく普通の夫婦だったと(笑)。では話を変えます。猪瀬さんがどのように作家になったかが、本書では書かれています。
猪瀬 雑文書きじゃなくて、作品を書かなきゃいけないって。それは漠然と思っていたの。
—— ちなみに、それまでは雑文書きだった時代は、主にどういうものが多かったですか?
猪瀬 まあ、あんまり意味ないよ、それは。
—— 猪瀬さんが本の中で、自分の過去をつぶさに書くことって珍しいわけですし、ぜひお聞きしておきたいところなんですが……。
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