社説:戦後70年 言論のゆくえ 勝ち負けの議論越えて
毎日新聞 2015年01月07日 02時30分
戦後日本を広く覆っていたのは、二度と戦争はごめんだという共通の感情だった。なぜあんな悲惨な戦争をしたのか。この国にどんな欠陥があったのか。やがて講和問題が浮上し、進歩派知識人が岩波書店の雑誌「世界」を舞台に論陣を張った。
1955年には自民、社会両党による政治体制が成立する。以後、自民党は長期政権を維持し、社会党は改憲阻止に必要な3分の1の議席を保持する均衡状態が続いた。60年には安倍晋三首相の祖父、岸信介首相の日米安保条約改定が論争を巻き起こした。安保闘争を経て「政治の季節」が終わり、高度経済成長のもとで大衆社会が生まれると、「中央公論」を舞台に現実主義が台頭する。
◇戦後をどう評価するか
68年には全共闘運動が各地の大学に広がるが、当時ファッションにもなった「朝日ジャーナル」の時代は長くは続かなかった。「田中角栄研究」が「文芸春秋」に発表されたのは74年。2度の石油危機を乗り越えた日本経済は80年代末に絶頂期を迎える。言論界は、昭和の終わり、冷戦終結、湾岸戦争、55年体制崩壊という現実に追われることになった。
論壇の戦後史を駆け足で振り返ると、こんな流れが浮かび上がる。
第2次安倍政権発足後、歴史認識や集団的自衛権の行使容認、原発からの脱却、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設が相次いで取り上げられ、新聞各紙の論調の違いが目立つようになった。雑誌メディアの一部には激しい非難の言葉も散見される。言い負かすことに勝利感をおぼえる向きもあるようだ。
しかし、脱原発も、沖縄の反基地運動も、近隣諸国との歴史問題も、集団的自衛権も、それぞれに経緯の異なる長い議論の積み重ねがある。国のゆくえを左右するような、慎重な対応を要する問題ばかりである。
課題が一気に顕在化したのは、初の戦後生まれの首相である安倍氏の再登板と無関係ではあるまい。だがそれ以上に国民の約8割が戦後生まれという時代を迎え、戦後的価値の点検を迫られているのではないか。
歴史認識を例に検討してみよう。
82年、歴史教科書の問題が中国、韓国との摩擦を引き起こした。95年度国民生活白書によると、戦後生まれは75年に50.6%と半数を超え、85年には59.8%、94年に66.5%になった。韓国でも、80年代に日本との強い人的つながりのない世代が政権の中枢を担うようになる。
日韓の歴史認識問題の要因の一つに世代交代があることを、木村幹(きむら・かん)・神戸大教授が近著「日韓歴史認識問題とは何か」(ミネルヴァ書房)で指摘している。戦後世代が80年代に社会の一線に立つようになり歴史の再発見を始めたというのである。