angmarさんのエントリー
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さて話をワンピースに戻すとします。
ワンピースについては、ブログにて「描写に擁護すべき点もある」という論を立てる方も出てきており、重要なのは描写が何を企図してされたものかと、結果としてそれがどのような効果を及ぼしているかの切り分けだという話になってきていると考えています。
http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2014/12/31/172215
そうして考えたとき、話の焦点は主として尾田作品のキャラクター造形論になってくるのではないでしょうか。
こちらのブログでも、"「内面」への印象は変わっても、「外見」の描写が気持ち悪いままであることは変わりない。ボン・クレーはやっぱりいつ見ても気持ち悪いと感じる。"とある通り、LGBT描写批判に関しては「何を語っているか」ではなく「どう語っている(どのように描いている)か」が尾田作品の問題点とされているように思います。
実際のところ、尾田作品のキャラクター造形については、2chのアンチスレでも「奇人変人大集合」「何でもクリーチャー化すればいいと思っている」とたびたび批判の槍玉に上がっています。キャラクターが特徴づけられているとして強い支持を受ける要素である一方、これが苦手なためワンピースを敬遠する、という人も多いのが独特なキャラ造形であることは間違いありません。
このワンピースのキャラ造形の突出感は同じジャンプの人気漫画の中でも際立っていて、ワンピと並ぶ看板であるNARUTOやHxHにしてもワンピほど思い切ったデフォルメを取り入れたキャラクターデザインはありません。
上記ブログでも特徴を過剰に強調したと評されているこのキャラデザは、日本の漫画というよりはむしろディズニーのキャラ造形の手法に近いような感触を個人的には受けます(あるいはそのディズニーの影響を受けた手塚)。
つまり、ワンピにおいて極端なデフォルメは、ことLGBTに限られたものではないという前提がまずあるということです。
さてこの前提に立ったとき、二つの考え方があると思います。
一つは、「LGBTはそもそも現社会においてネガティブな立場に置かれているのであるから、その位置づけを向上させるためには平均より強く肯定的に描かれるべきである」というアファーマティブな考え方です。
ワンピースのそもそものキャラ造形は「万人が完璧ではないがそれでも尊重されるべきである」との考え方により、全員がどこか面白おかしく、しかし良いところは良い、と読めるように作られているのではないかと思いますが、上の考え方にしてみればそれでは不十分で、より積極的に弱者が肯定される描き方をすべき、となるということになります。
これはこれで悪いことではないと思います。実際、LGBTキャラが「美味しい」役どころを演じることは読者の好感度を上げることに役立ちますし、引いてはそうした人達への肯定にも繋がる部分はあるでしょう。
ただし、その場合注意すべきなのが、そうしたプラスの描写が結果として「良いLGBT、悪いLGBT」の分別に繋がることです。
例として、同じくジャンプの看板漫画である「暗殺教室」の主人公、渚君を上げます。
渚君自身はLGBTというわけではありませんが、女性的な容姿の持ち主であり内面的にも優しい、いわゆる「男らしさ」と対極な位置づけのキャラです(ただし作中屈指のバトル潜在能力もあり)。
「最終的に生徒が教師の暗殺を達成することが目的」という過激なプロットでありながら、男性性と対極的な主人公のキャラ造形を持ってきたあたりに作者のバランス感覚が現れているといえるでしょう。
この渚君は、当然ながら男性読者にも「萌え」的な意味での支持があり、好感度においてワンピースのボンクレーやイワちゃんより上と言えます。
しかし、もしこの渚君の容姿が今のように恵まれたものではなく、それでいて(作中の渚のように)家庭の環境で女性らしさを強いられ、心情的にも女性的なキャラであったら、同様に支持されていたか。
そのとき投げつけられる言葉は結局「勘違い君」的なものだったのではないでしょうか。
あるいはドラゴンボールのブルー将軍が、外見的にはメタリック軍曹だったら?
ザーボンが普段から美形の姿ではなく、変身後の姿でナルシスティックな台詞を喋っているとしたら?
彼らへの支持は、結局外見に付随したものではないのでしょうか。
これは結局現実にも敷衍され得ることだと思っています。
コスプレにおいて、美しくスタイルもいい少年が女装をすることは「OK」とされ、中年男性がそのまま女性キャラの姿をすることは「害悪」として扱われる。
もちろんこれは女性コスプレイヤーの評価に対しても同じことですが、結局「外見」が判断基準の最上位に置かれてしまう問題というのは常に存在します。
このような現実を踏まえて尚、「好感度を上げるために整った外見描写を行う」というのは、果たして本当に良い効果をもたらすのでしょうか。
ワンピースのボンクレーやイワちゃんが面白おかしく造形され、しかしながらその行動によって肯定的に受容されることに対し、「だがやはり外見を見ると気持悪いと感じてしまう」と述べるとき、それは結局「外見が美しいものが正しい」という価値観を表明していることになっていないでしょうか。
ワンピースでは、虐げられた女性が集まって自己防衛のために暮らす島・アマゾンリリーが登場します。この国の長であるハンコックは作中でも指折りの「強者女性」として描かれており、容姿も能力も優れている。
しかしながらハンコックの姉妹は必ずしも美しくは描かれていない。これはアマゾンリリーの他の住人についても同様です。
尾田氏が、虐げられた女性とその自立というテーマを作中で表現しようと考えたとき、彼女たちを全員美しい姿で描くこともできたと思います。
けれど、それはルフィが彼女たちに同情する描写を行ったとき、「彼女らが美しくそして哀れだから救おうとした」と受け取られかねない。だからこそ尾田氏は、敢えてアマゾンリリーの住人をバラエティに富んだ姿で描写したのではないか。
これは結局、読む者にリテラシーを要求する描写なのかも知れません。先に述べたように第一印象で「ボンクレーは気持悪いと感じてしまう」という感覚が根付いているのだとすると、「ハンコックの姉妹の描写はマイナス効果」でしかないのかも知れない。
日本の漫画・アニメのキャラクター描写は、美しいものをどう美しく描くかについて先鋭的になる一方で、美しいもの「以外」が「劣っている描写である」と受け取られかねない感覚を植えつけているとも言える。
その中にあって、尾田氏の試みは「美しさの画一性」や「外見による判断の否定」を目的としたものなのではないか。
少なくとも、そうした視座でワンピースを捉え直した上で、問題点の切り分けを行うべきではないのか。
ワンピースについて、「アウトローを描いた作品なのだからアウトロー的価値観がベースとなっているのは仕方が無い」というブクマも散見しました。
確かにワンピースが、アウトロー描写によってヤンキー的な支持を受けている面はあるでしょう。
しかし一方でワンピースは、身分格差による問題の打破を再三再四描いています。
現在進行中のエピソードでは病気による差別問題を取り上げてもいます。
社会問題を正面から取り扱うその姿勢は、他の週刊少年漫画誌を見渡しても類例があまりありません。
残念ながら今回のtogetterまとめ関連において、こうした尾田氏の姿勢を踏まえた上での論旨は僅かしか見かけることが出来ませんでした。
私自身はワンピースの良き読者ではありませんし、作品擁護に必死になるほどの情熱があるわけでもありません。
また、「ちょっと思っただけ」で連ツイすることもあってよいと思うし、そのことについて人格否定的な批判があってよいとは思いません。
しかし、それに喚起されたワンピース批判の方については、もう少し問題点を言語化されたものがあっても良いんじゃないかと考えています。
ワンピースについては、ブログにて「描写に擁護すべき点もある」という論を立てる方も出てきており、重要なのは描写が何を企図してされたものかと、結果としてそれがどのような効果を及ぼしているかの切り分けだという話になってきていると考えています。
http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2014/12/31/172215
そうして考えたとき、話の焦点は主として尾田作品のキャラクター造形論になってくるのではないでしょうか。
こちらのブログでも、"「内面」への印象は変わっても、「外見」の描写が気持ち悪いままであることは変わりない。ボン・クレーはやっぱりいつ見ても気持ち悪いと感じる。"とある通り、LGBT描写批判に関しては「何を語っているか」ではなく「どう語っている(どのように描いている)か」が尾田作品の問題点とされているように思います。
実際のところ、尾田作品のキャラクター造形については、2chのアンチスレでも「奇人変人大集合」「何でもクリーチャー化すればいいと思っている」とたびたび批判の槍玉に上がっています。キャラクターが特徴づけられているとして強い支持を受ける要素である一方、これが苦手なためワンピースを敬遠する、という人も多いのが独特なキャラ造形であることは間違いありません。
このワンピースのキャラ造形の突出感は同じジャンプの人気漫画の中でも際立っていて、ワンピと並ぶ看板であるNARUTOやHxHにしてもワンピほど思い切ったデフォルメを取り入れたキャラクターデザインはありません。
上記ブログでも特徴を過剰に強調したと評されているこのキャラデザは、日本の漫画というよりはむしろディズニーのキャラ造形の手法に近いような感触を個人的には受けます(あるいはそのディズニーの影響を受けた手塚)。
つまり、ワンピにおいて極端なデフォルメは、ことLGBTに限られたものではないという前提がまずあるということです。
さてこの前提に立ったとき、二つの考え方があると思います。
一つは、「LGBTはそもそも現社会においてネガティブな立場に置かれているのであるから、その位置づけを向上させるためには平均より強く肯定的に描かれるべきである」というアファーマティブな考え方です。
ワンピースのそもそものキャラ造形は「万人が完璧ではないがそれでも尊重されるべきである」との考え方により、全員がどこか面白おかしく、しかし良いところは良い、と読めるように作られているのではないかと思いますが、上の考え方にしてみればそれでは不十分で、より積極的に弱者が肯定される描き方をすべき、となるということになります。
これはこれで悪いことではないと思います。実際、LGBTキャラが「美味しい」役どころを演じることは読者の好感度を上げることに役立ちますし、引いてはそうした人達への肯定にも繋がる部分はあるでしょう。
ただし、その場合注意すべきなのが、そうしたプラスの描写が結果として「良いLGBT、悪いLGBT」の分別に繋がることです。
例として、同じくジャンプの看板漫画である「暗殺教室」の主人公、渚君を上げます。
渚君自身はLGBTというわけではありませんが、女性的な容姿の持ち主であり内面的にも優しい、いわゆる「男らしさ」と対極な位置づけのキャラです(ただし作中屈指のバトル潜在能力もあり)。
「最終的に生徒が教師の暗殺を達成することが目的」という過激なプロットでありながら、男性性と対極的な主人公のキャラ造形を持ってきたあたりに作者のバランス感覚が現れているといえるでしょう。
この渚君は、当然ながら男性読者にも「萌え」的な意味での支持があり、好感度においてワンピースのボンクレーやイワちゃんより上と言えます。
しかし、もしこの渚君の容姿が今のように恵まれたものではなく、それでいて(作中の渚のように)家庭の環境で女性らしさを強いられ、心情的にも女性的なキャラであったら、同様に支持されていたか。
そのとき投げつけられる言葉は結局「勘違い君」的なものだったのではないでしょうか。
あるいはドラゴンボールのブルー将軍が、外見的にはメタリック軍曹だったら?
ザーボンが普段から美形の姿ではなく、変身後の姿でナルシスティックな台詞を喋っているとしたら?
彼らへの支持は、結局外見に付随したものではないのでしょうか。
これは結局現実にも敷衍され得ることだと思っています。
コスプレにおいて、美しくスタイルもいい少年が女装をすることは「OK」とされ、中年男性がそのまま女性キャラの姿をすることは「害悪」として扱われる。
もちろんこれは女性コスプレイヤーの評価に対しても同じことですが、結局「外見」が判断基準の最上位に置かれてしまう問題というのは常に存在します。
このような現実を踏まえて尚、「好感度を上げるために整った外見描写を行う」というのは、果たして本当に良い効果をもたらすのでしょうか。
ワンピースのボンクレーやイワちゃんが面白おかしく造形され、しかしながらその行動によって肯定的に受容されることに対し、「だがやはり外見を見ると気持悪いと感じてしまう」と述べるとき、それは結局「外見が美しいものが正しい」という価値観を表明していることになっていないでしょうか。
ワンピースでは、虐げられた女性が集まって自己防衛のために暮らす島・アマゾンリリーが登場します。この国の長であるハンコックは作中でも指折りの「強者女性」として描かれており、容姿も能力も優れている。
しかしながらハンコックの姉妹は必ずしも美しくは描かれていない。これはアマゾンリリーの他の住人についても同様です。
尾田氏が、虐げられた女性とその自立というテーマを作中で表現しようと考えたとき、彼女たちを全員美しい姿で描くこともできたと思います。
けれど、それはルフィが彼女たちに同情する描写を行ったとき、「彼女らが美しくそして哀れだから救おうとした」と受け取られかねない。だからこそ尾田氏は、敢えてアマゾンリリーの住人をバラエティに富んだ姿で描写したのではないか。
これは結局、読む者にリテラシーを要求する描写なのかも知れません。先に述べたように第一印象で「ボンクレーは気持悪いと感じてしまう」という感覚が根付いているのだとすると、「ハンコックの姉妹の描写はマイナス効果」でしかないのかも知れない。
日本の漫画・アニメのキャラクター描写は、美しいものをどう美しく描くかについて先鋭的になる一方で、美しいもの「以外」が「劣っている描写である」と受け取られかねない感覚を植えつけているとも言える。
その中にあって、尾田氏の試みは「美しさの画一性」や「外見による判断の否定」を目的としたものなのではないか。
少なくとも、そうした視座でワンピースを捉え直した上で、問題点の切り分けを行うべきではないのか。
ワンピースについて、「アウトローを描いた作品なのだからアウトロー的価値観がベースとなっているのは仕方が無い」というブクマも散見しました。
確かにワンピースが、アウトロー描写によってヤンキー的な支持を受けている面はあるでしょう。
しかし一方でワンピースは、身分格差による問題の打破を再三再四描いています。
現在進行中のエピソードでは病気による差別問題を取り上げてもいます。
社会問題を正面から取り扱うその姿勢は、他の週刊少年漫画誌を見渡しても類例があまりありません。
残念ながら今回のtogetterまとめ関連において、こうした尾田氏の姿勢を踏まえた上での論旨は僅かしか見かけることが出来ませんでした。
私自身はワンピースの良き読者ではありませんし、作品擁護に必死になるほどの情熱があるわけでもありません。
また、「ちょっと思っただけ」で連ツイすることもあってよいと思うし、そのことについて人格否定的な批判があってよいとは思いません。
しかし、それに喚起されたワンピース批判の方については、もう少し問題点を言語化されたものがあっても良いんじゃないかと考えています。
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