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<戦後の地層 覆う空気> (3)住職の張り紙

「祖父はお経を唱えながら亡くなった」と話す義門寺の小野弘雄住職=宮崎県国富町で

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小野温雄さんの張り紙について記された特高月報(複製版、国立国会図書館所蔵)

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◆世に悪しき平和なし

 ほのかな光の差し込む義門寺(宮崎県国富(くにとみ)町)の本堂で、住職小野弘雄(こうゆう)(68)は眼鏡を取り出し、記者が差し出した一枚の紙に目をこらした。「祖父がした張り紙は、こんな内容だったんですか…」

 反戦的不穏文掲示

 義門寺住職 小野温雄(おんゆう)

 世に善き戦争なく悪(あ)しき平和なし 無謀の戦は一年に於(お)いて數年(すうねん)の事 業を毀(こぼ)つ、と掲示せり  (処分内容)厳諭

 戦時中、特別高等警察(特高)は、子どもの替え歌に至るまで、人々の反戦的なふるまいに神経をとがらせた。摘発内容をつぶさに記した「特高月報」にあった住所氏名をたどり、義門寺が現存していることが分かった。

 温雄が掲載されているのは一九三九年十、十一月分。日中戦争の局面は行き詰まりをみせていた。弘雄が知る温雄は、怒ったところなど見たことがない、穏やかなおじいちゃんだった。大正時代、桜島が大爆発したときに救援に駆け付けたとよく話していた。

 「反戦の張り紙をして特高がきた」という話は父から聞いたことがある。温雄は当時、五十代半ば。「善き戦争なく…」は米国の建国の父、政治家ベンジャミン・フランクリンの言葉だ。戦争協力はあたりまえの時代。「命懸けだったんじゃないでしょうか」

 この出来事は、寺にも役場にも記録はない。ただ七〇年代後半か八〇年代になって、県議約十人が「あんな時代によくやってくれた」と寺を訪ねてきた。誰もが平和を求めることができる時代の訪れを見届け、七〇年、温雄は亡くなっていた。「仏を大切に自信を持って生きたよ」との遺言を残して。

 四五年八月十五日の敗戦で、月報をはじめ特高の捜査資料の多くは証拠隠滅のため焼かれた。大阪府警の特高係井形正寿(まさとし)(故人)はその日、ドラム缶で焼こうとした資料の中に、戦争に反対する内容のはがきや手紙の写真を目にした。摘発の危険を冒して出された手紙に心を打たれ、一部をポケットにねじ込み持ち帰った。

 戦後は不動産業のかたわら、持ち出した写真を公開し、特高経験を語った。三十年近く付き合った映画監督の島田耕(こう)(84)=大津市=は「あの時代に戻しちゃいけないという一念で語り続けていた」と振り返る。

 井形とは、飢饉(ききん)の時に乱を起こした江戸時代の儒学者大塩平八郎の研究会で出会った。「自分を犠牲にして巨大な幕府権力に抵抗した。大塩事件が私の人生を変えた」と熱弁を振るっていた。

 元特高係は、大塩の弟子の子孫を捜し当てるなど、精力的な郷土史家として二〇一二年、その一生を終える。「井形さんのドキュメンタリーを撮りたかったな」。一度、本人に断られたが、島田にはちょっぴり未練もある。社会派の作品が影を潜めてしまった今だからこそ。

(文中敬称略、飯田孝幸)

 

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