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<戦後の地層 覆う空気> (2)カーキ色の街

大森諏訪神社での集合写真。後列右から6人目が白瀬一郎さんの父栄一さん

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◆国民服?つまんねえ

 「これ見て」。東京都品川区のテーラー店主、白瀬一郎(77)が一枚の写真を記者の前に置いた。太平洋戦争中の一九四三年、東京・大森諏訪神社の祭り。大人の男性二十二人のうち二十人近くが軍人のようないでたちだった。「国民服がほとんど。こんな時代があったんだよ」。父栄一も大森で国民服を作っていた。

 陸軍が国防色としたカーキ色の国民服が法令で定められたのは四〇年。街は次第に一色に染まった。「国が業界に介入した。人がいろんな服を着たがるのは洋服屋のせいだと」。国力のすべてを戦争につぎ込む総動員体制で、「おしゃれ」は異を唱えるものとして、目の敵にされた。

 生地もカーキ色しか出回らなくなった。「カーキ色で背広を作った人もいたらしいけど、それはちょっと国賊的」

 「国民服? つまんない取材だね」。口をとがらせた星野穣(じょう)(92)は、「普段着」という真っ赤な上着で現れた。

 十八歳のころ、仕立職人の修業を終えて品川で独立。初めはコートなどを仕立てたが、国民服の注文が増えていった。「よし稼いでやる」。朝から晩までミシンを踏み、収入は逓信省に通っていた母親の倍以上になった。

 だが、心に引っ掛かるものもあった。「国が決めたつまんない服ができたなって」。自らは一度も袖を通さなかった。

 二十歳で召集され、中国内陸部の戦線で「灰色の世界」を見た。緑がない、川がない、海がない。終戦後に帰国。ぼろぼろの軍服を脱ぎ捨て、すぐに青色の背広をまとった。

銀座に店を出すのが夢だった星野穣さん=東京・銀座で

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 国民服の水脈は戦後、奇抜な「個」と交錯した。米軍横田基地(東京都福生市など)近くに店を構える仕立職人唐鎌(からかま)照雄(77)は歌手の故忌野清志郎の衣装を数多く手掛けた。戦時中、父龍雄は、東京・西荻窪に国民服専門の製造工場を構えていた。

 チャイナドレスに使う布地などが持ち込まれ、照雄は父から「目で盗んだ」独自の採寸技術で、細身の体にぴったり沿うスーツを仕立てた。「清志郎さんは派手なものを求めていた。無口だったから、なぜかは分からない」

 親交のあったスタイリスト高橋靖子(73)も理由を聞いた記憶はないが、彼が舞台を跳びはねた七〇、八〇年代の空気は覚えている。「男の子たちがお化粧したりして、人に何か言われても皆、気にしてなかった。希望を持っていたから」

 清志郎のエッセー集「瀕死(ひんし)の双六(すごろく)問屋」(小学館)の中にこんな一節を見つけた。「みんなが着ている服を買って(中略)それでOKなのかね」。九九年、ロック調にした国歌「君が代」が収録されたアルバムを外資系レコード会社が発売中止にした後、書かれた。縮こまっていくように感じる社会。清志郎は自分の色の大切さを語りかける。「君にしかできないブルースがあるんじゃないのか」

 (文中敬称略、渡辺大地)

 

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