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<戦後の地層 覆う空気> (1)国策漫才

漫才コンビ「おしどり」のケン(左)とマコ=東京・渋谷で(平野皓士朗撮影)

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父・秋田実さんの写真を持つ藤田富美恵さん=大阪市の道頓堀角座で

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 「戦争は嫌」。今なら言える。でもそれが口にできない時代があった。あれから七十年。戦争しないで積み重ねられた日々は、人々の小さな奮闘が支えてきた。「もの言えぬ空気」に再び平和が押しつぶされないように。

◆戦争とコンビ、もう2度と

 漫才の起源は萬歳(まんざい)。年の初めに長寿を祝う民俗芸能で、平安時代末期にさかのぼるようだ。新年の漫才師の忙しさは八百年以上の歴史の厚みがある。なのに…。夫婦(めおと)漫才「おしどりケン・マコ」のスケジュール帳には空白が目立つ。

 高校を卒業してパントマイムをしていたケン。大学を中退してちんどん屋をしていたマコ。三重県伊勢市の夏祭りの楽屋で出会って恋に落ちた二人は交際一週間で結婚、漫才を始める。デビューは順調だった。二〇〇三年、漫才のコンテスト「M−1グランプリ」に出ていきなり準決勝まで進む。師匠の横山ホットブラザーズが「こんなちっちゃい事務所にいるんじゃなく、吉本に行った方がいい」と背中を押してくれた。

 月五十、六十件の営業に追われていた二人に、3・11が転機をもたらす。ファンの子どもたちへの放射能の影響を心配し、マコが原発の取材を始めた。インターネットなどで情報発信を続けるうち、三カ月後には仕事がゼロになった。

 今は個人的につながりのある劇場の舞台や市民団体の講演会などがポツポツと入る。二人の心の支えは、漫才師喜味こいし(一一年死去)から楽屋で聞いた一言だ。「芸人は国のためにしゃべるな、目の前のお客さまのためにしゃべれ。そこ間違えたらあかん」

 戦時中、漫才は貯金や節米などの国策を庶民に宣伝する道具とされた。こいしは一九四〇年から兄とともに漫才の舞台に立ち、その後少年兵に志願。広島で被爆し、終戦を迎えた。「美談としては語っていなかった。時代に毒されて、みたいな感じで。こいし先生のアドバイスはすべてが『流されるな』だった」

      ◇

 四五年の終戦後、こいしら若手漫才師は大阪で笑いの復興に挑む。中核を担ったのが漫才作家秋田実(七七年に死去)だった。

 東大で左翼運動に関わった秋田は、満州事変の後の三四年に、思想犯の取り締まりに躍起となる国を、家庭内の父娘対決になぞらえた漫才「恋愛禁止法」を雑誌で発表したりしていた。しかし数年後には、国策漫才を量産するようになる。その経緯は死ぬまで明かしていない。

 再出発で秋田らが目指したのは、漫才の原点復帰。何げない日常生活の話で、家族そろってお茶の間で笑ってもらう。空襲で焼け野原になった街で、それがいかにかけがえのないものなのか皆、骨身に染みていた。先人らの語りがたい思いが注ぎ込まれた漫才は、戦後七十年の正月も初笑いを何げなく届けている。

 秋田の長女で児童文学作家の藤田富美恵(76)=大阪市中央区=の手元には「漫才 戦争中」と手書きされたB4判ほどの封筒がある。中からは父の国策漫才が掲載された雑誌の切り抜きが束になって出てきた。死後数十年たって実家で見つかった遺品だ。

 藤田は今年、父の「封印」を解き、戦争と笑いについて書こうと思う。本来対極にあるべきその二つを、二度とコンビにしたくはない。 

 (敬称略、飯田孝幸)

 

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