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【神奈川】

<平和って>孤児たちを語り継ぐ 満州の日本人難民収容所体験者 増田昭一さん(86)

孤児の思い出を語る増田さん=小田原市で

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 ひしゃく星(北斗七星)の瞬きは、美しい心のまま逝った戦争孤児たちの笑顔と重なる。過酷な時代を精いっぱい生き、ついに春を迎えられなかった。「最期まで愛情と思いやり、優しさと分かち合いの心を保ち続けた」という。至純の輝きを放つ孤児たちを語り継ぐ。平和を願う生涯をかけた責任と自らに課す。

 小田原市の自宅を訪ねると、増田昭一さん(86)の口から、七十年前に中国で出会った日本人孤児たちとの思い出があふれ出た。

 当時十七歳。家族のいる旧満州(中国東北部)に渡り、終戦後、小学校跡にある日本人難民収容所で過ごした。終戦直前に満州に侵攻したソ連軍などに家族を殺された孤児たちと暮らした。食料は地元日本人会が配るコーリャンや粟(あわ)と塩。氷点下二〇〜三〇度になる冬は水道が凍り、水も燃料もない。

 足首を片手で握れたら二〜三週間、はいずるようになったら三〜四日の命。経験でみな死期を悟る。粗末な服や麻袋をまとう孤児たちは自分の死体を運び出しやすいよう、死が近づくと部屋の入り口で寝た。

 「ひしゃくぼしがみえたら、おじさんにおくったきんのひしゃくだとおもってください。キラキラとまたたいてみえたとき、ぼくたちがありがとうとこえをそろえていっているのです」

 寒さと飢え、病気で半数以上が命を落とす事態に驚いた日本人会は、炊き出しを始めた。仲良し四人組は、ひしゃくでおかゆをよそったおじさんへの贈り物を金のひしゃくと決め、日本に帰れたら買おうと誓う。だが、二週間後の炊き出し前に次々死亡。最後に残ったよっちゃんは死の二時間前に人に預けた遺書で、もうお会いできないと謝り、北斗七星に願いを託す。自分の死より、お礼できずに死ぬのを恐れていた。

 町で靴下と物々交換したラーメンを親友に届けたさんちゃん。ラーメンをすすった親友は極寒の翌朝、裸で死んでいた。自分の服をさんちゃんに着てもらうために。号泣したさんちゃんも冬を越せなかった。

 水をほしがる幼児のため井戸に行き凍死した豊君はこんな環境でも、ごみ箱から見つけた五年生の教科書で毎日勉強していた。

 帰国後に小学校教師となった増田さんは、道徳の時間や児童がけんかした時、満州の体験を聞かせた。

 「孤児は学校に行きたくても行けなかったんだ」「先生、その話本当?」「本当だよ」。教え子はみな真剣に聞く。「感動する話が何もないから道徳の教材は使わなかった」という。

 教員時代、千冊の本を集めた。中国残留孤児の話はあっても、中国人に拾われずに死んだ孤児の話はない。「誰かが書かなければ」と退職後、原稿用紙を涙でぬらしながら執筆していく。反響が広がり、講演会や朗読会も開かれ、昨夏にはテレビドラマ化された。

 初任地の教え子四人が「ドラマを見た。会いたい」と十二月、自宅にやって来た。卒業以来の再会。七十四歳になった四人から「学芸会で孤児の演劇を熱心に指導され、人生に随分役立ちました」と感謝された。「国立大の名誉教授や写真家らに立派に育ち、孤児の話を覚えてくれていた」と熱いものがこみ上げる。天上の星々もほほ笑んでいた。 (西岡聖雄)

 <ますだ・しょういち> 1928年小田原市生まれ。45年春に満州に渡り、終戦後の9月から5カ月間、現地の日本人難民収容所で過ごす。発疹チフスで生死をさまよい、母は病死。60人以上の孤児の死をみとる。姉も中国で死んだ。帰国後、47〜85年まで小学校教師。著作は「満州の星くずと散った子供たちの遺書」(夢工房)など。

 

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