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【千葉】

永遠の平和(5)「閣下」の酪農 関宿で続く 貫太郎、故郷発展に尽力

鈴木が広めた酪農は、今も関宿で続いている=野田市で

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 終戦直前の一九四五年八月だった。当時十代で陸軍二等兵だった野中鉚市(りゅういち)(89)は、勝浦町(現・勝浦市)の海岸近くで一人用の塹壕(ざんごう)「たこつぼ」を掘っていた。本土決戦となれば、米軍は千葉の九十九里方面や九州から上陸してくると予想されていた。

 八月十五日の昼すぎ、将校がいつになく荒れていた。生け垣を力いっぱい軍刀でたたき切る。理由は後で分かった。終戦を告げる天皇の玉音放送がラジオで流れたためだった。

 死ぬ覚悟でいた野中も、肩透かしを食った気持ちだった。しかし「うちに帰れる」と思うと、やはりほっとした。その時はまさか故郷の関宿町(現・野田市関宿町)で、その終戦の立役者の一人となった鈴木貫太郎の世話になるとは夢にも思っていなかった。

◆私邸で農事研究会

 鈴木内閣は八月十五日、総辞職した。東京の家を焼かれた鈴木は一時、身を隠して居を転々としたが、秋には故郷の関宿に落ち着いた。ただ、半年は枢密院議長として新憲法の制定に関わり、多忙な日々が続いた。

 関宿は利根川と江戸川に挟まれた田園地帯だった。散歩が日課だった鈴木は、広い堤防を見て酪農を普及させることを思い付いた。北海道出身の妻タカの影響もあったようだ。近隣の若者を集め、農業の専門家らを呼んで学ぶ「農事研究会」を私邸で始めた。

 関宿の実家に戻った元陸軍の野中も、研究会に入った。目の前にいる温和な老人が、終戦内閣の元首相だとはなかなか結び付かなかったが、月に一度の勉強会が楽しみになった。その日の仕事を終えると、二十数人がふすまを外した畳敷きの広間に集まる。いつも熱気があった。「みんな自分のことだけではなく、関宿の将来をどうするか考えていた」。野中は振り返る。

 しばらくして、ほとんどの農家が牛を数頭飼い始めた。搾った乳を集める集乳所も、鈴木が開放した敷地を使った。食料難の時代、牛乳は高く売れた。「現金収入ができて助かった。畑の肥料にもなって。閣下のおかげだよ」。野中ら地元の古老の多くは、鈴木のことを「閣下」と呼ぶ。往時に比べれば少なくなったが、関宿には今も酪農家が点在している。

◆見守るのが責任

 鈴木は、故郷の発展に尽くした晩年をどんな気持ちで過ごしたのか。終戦の一年後に出版された「終戦の表情」(労働文化社)で鈴木はこう答えている。「ある人から『なぜ自刃しないのか』と詰問されたことがある。命が惜しいのでも何でもない。真に国家が健全な肉体になっていくまで、見守っていくのが自己の責任だと痛感している」

 鈴木は四八年四月、自宅で息を引き取った。うわごとのように発した最期の言葉は「永遠の平和」だった。臨終の際は家人だけでなく、庭に集まった関宿の人々が念仏を唱える声が響いていた。 (敬称略)

 

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