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【埼玉】

語り継ぐ(5)疎開 2度の空襲 惨劇目の当たり 掘越美恵子さん(80)

「空襲の恐ろしさは言葉では表せない」と話す掘越さん=羽生市で

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 「ドカーン」という音。「ウワーッ」と叫ぶ人々の声。昼間のように明るい空の下、火の海が広がった。

 一九四五年三月十日未明、米軍爆撃機「B29」による焼夷(しょうい)弾で下町が焼き尽くされた東京大空襲。千葉県市川市に住んでいた国民学校四年生の掘越美恵子さん(80)は、江戸川の土手近くの防空壕(ごう)に逃げた際、対岸の東京の惨状を目の当たりにした。「本の燃えさしなんかが飛んできた。火の勢いで顔が熱くなった」

 夜が明けると、東京からの避難者で道路は埋め尽くされた。首のない子を背負う母親。着物がぼろぼろで乳房が丸出しになった女性。片方の腕がぶらぶらしている人…。みんな無言で、「ヒタ、ヒタ」とはだしで歩く音しか聞こえない。「地獄絵図でした。あの『ヒタ、ヒタ』という音は今も耳に残っています」

 父親は植物成長ホルモンなどの研究者だった。東京・深川にあった勤務先の研究所は空襲で焼失。掘越さんと両親、兄、弟、妹の一家六人は、研究所の移転先の熊谷市に疎開した。

 「兵隊さんの苦労を思えば何でもない」と、学校の規則で、はだしで通学しなければならなかった。自宅から学校まで約五十分。砂利の少ない所を我慢して歩いたが、足の裏から血が出た。

 八月十四日の深夜。母親の呼ぶ声で目を覚ますと、B29の空襲が始まっていた。自宅近くの道に落ちた焼夷弾の火が一列に並び、まるでちょうちん行列のようだった。「おかあさんたちは家を守るから、防空壕に行きなさい」と言われ、弟の手を引いて田んぼにある防空壕に入った。焼夷弾が落ちるたびに周囲の土が崩れた。弟を抱きかかえ、耳を押さえて震えた。

 自宅にいた両親と兄、妹も無事だったが、この熊谷空襲では二百人以上が亡くなった。焼夷弾は、集団疎開の子どもが暮らす寺にも落とされ、炎上した。疎開先も安全ではなかった。

 戦後、亡父の実家がある羽生市に越した。郷土史の小冊子「羽生昔がたり」の編集に長年携わり、現在は市文化財保護審議委員を務める。戦後六十年の二〇〇五年には、疎開先の静岡県で空襲に遭った女性など市民の戦争体験を羽生昔がたりで取り上げた。

 そして戦後七十年。二度の空襲に遭遇した掘越さんは、飛行機の音を耳にすると、思わず空を見上げてしまう。「私は生かされている。残された命に感謝しています。戦争は決してやるべきでない。一番大変な思いをするのは、結局は子どもたちなんです」と力を込めた。 (中西公一)

 <疎開> 太平洋戦争で国は1944年から空襲に備えて大都市の児童らの疎開を進めた。県平和資料館によると、県内には東京から子ども約1万人が学童疎開した。日本橋区、京橋区(現中央区)、神田区(現千代田区)の子ども1万人が疎開。比企、北足立、入間の3郡は日本橋区9校から、秩父、大里2郡と熊谷市は京橋区12校から、児玉、北埼玉、北葛飾、南埼玉4郡は神田区12校から児童を受け入れた。

 

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