2015-01-06
芸術崇拝と表現規制
ツィッターで連続ツィートするくらいなら、粗くても短くてもブログに書こうという方針にしたので、思いつきをさらりと。
承前
日本においては、「表現の自由」という名目で差別表現が正当化されることが多いってのはまあ確かにソノトオリなんだと思いますにゃー。じゃあだからといって、表現の自由を理由に差別表現をも許容する人たちをただちに差別主義者といってしまってよいかというと、これはそんなに簡単な話ではにゃーとは思うのですにゃ。
絶版になっちゃってて手に入れにくい(あっても古本クソ高い)のでリンクしにゃーけど「芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神: 松宮 秀治」という書籍を以前に友人から借りて読んだことがありますにゃ。
刺激的な議論を展開しているので、ウェブ上にもけっこー書評がありますにゃー。代表的なものとして
ものすごく乱暴にいうと、近代国家・資本主義の要請により、芸術というものが聖性を担わされ崇拝対象となったということが書いてある本ですにゃ。
この芸術という【神】は、天才的な芸術家の切磋琢磨と魂の懊悩のはてに作品に宿る神であり、個人の内奥のさらに内奥において到達する神であり、あらゆる社会性や善悪を超えた深みあるいは高みにおいて触れることのできる神であり、言い換えれば近代の個人主義的人権思想・自由主義思想ときわめて相性のよい神様なんですにゃー。こうした芸術観は、多かれ少なかれ近代国家においては受容されており、僕たちもその影響を免れているわけではないのですにゃん*1。
小林よしのりなんかがよく「公と私」とか公私を対立物のようにいってて、これはほんとによくある通俗的な誤解なんですよにゃ。近代社会というのは個人が公的な存在である社会のことであって公と個に対立はにゃーの*2。憲法が個人主義であるとかいうのはそういうことなんですにゃ。
で、公的な存在というのは必ず聖性を帯びる、というか、聖性を帯びることなくして公的な存在たりえにゃーんだな、人間社会においては*3。
個というものの聖性を認める近代社会において、個の表出の究極的な形態(ということになってる)である芸術表現が崇拝対象になるのは、まあ必然といえば必然だよにゃー。
そもそも日本社会って、無宗教な人が多いのではなく、自分の信仰に無自覚な人が多いだけという話もありましてにゃ。個人主義的で政治的なものから距離をおきたい人ってのは、けっこうこの「芸術崇拝」に親和的になるのではにゃーかと。
なんで日本でこんなにゴッホが人気があるのかというと、あれは芸術という神への殉教者だからともいえますにゃ。中原中也とかジミ・ヘンドリックスとかな、ああいう殉教者たちを頭から否定できる人ってのはむしろ少数でにゃーの? 僕も大好き♪ 僕らはなんだかんだと芸術を崇拝してるのではにゃーの?
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近代国家において芸術崇拝が制度的に要請されているとすると、法における「表現の自由」というのはこの神様への信仰を法制度において確立する装置であるという見方もできるかにゃー。近代国家においてはあらゆる「自由」は聖性を帯びているのだけれど、その聖性において上位のヒエラルキーを占めるのが「表現の自由」ということになるんでにゃーのかな。
で
この個人の内奥を突き詰めるところに聖性が現出する芸術崇拝においては、芸術的営為の純粋性を阻害する要因はなににしろ排除されなければならなくなりますにゃー。
この観点からすると、保守派の表現規制もリベラル側のポリティカル・コレクトネスも同じことになるのではにゃーのか? これも、近代における個人主義のひとつの帰結だにゃ。
さて
冒頭リンクにおいては、アニメやマンガにおける「作家主義」が語られておりましたにゃ。ここでは、日本のアニメやマンガが作家主義に基いて作られているかどうかは問題にしにゃーです。しかし、作家主義のものとして、つまりは芸術崇拝の思想にのっとってこれらが受容されているというところは確実にあると思うのですにゃ*4。
というわけで、表現におけるポリティカル・コレクトネスを拒絶するのは、別に差別主義だけを要因とするものではにゃーだろうというお話でしたにゃ。
もちろんこの立場に問題なしというつもりはまったくにゃーのだが、このありえる立場に対して「差別主義者の自己正当化」とみなしては話がかえってややこしくなって仕方にゃーのではにゃーかと。
それと、ここでは「芸術崇拝の思想」に基づく表現規制反対について批判するのはパス。これ、真っ向から批判するのは考えてみると難儀だわーw
この文をここでやめておくとあっちこっちから批判されるだろうけど、本論はここでやめとく。
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だそく
作品におけるポリティカル・コレクトネスに関して、冒頭のtogetterまとめにある、ポリティカル・コレクトネスの考慮はSF考証や時代考証のようなもの、という視点は面白いと思いますにゃ。
あと、
多様な民族的あるいは性的指向性などなどにおける出自を前提としたチームによる制作を前提としたとき、作品におけるポリティカル・コレクトネスはグローバル市場での興行的成功のために必須である以前に、制作現場をまわすために必須なのではにゃーかと思われましたにゃ。
いいかえると
よりブラックでない、個々の多様な制作者を尊重した制作現場で作品をつくるのであれば、その作品はポリティカル・コレクトネスを考慮したものになるのは必然になるのではにゃーのだろうか? それとも日本の制作現場は、文化的に同質な中で、同化主義的に個々人を食いつぶしながら作品を作り続けるのでしょうかにゃ? それならばPCなんていらんだろうけどw
*1:僕は神様だとか宗教だとかいうコトバを否定的に扱ったことはにゃーからね。神様だから宗教だから駄目だとかいうつもりはまったくにゃーのよ
*2:公と私には領域設定がある
*3:もちろん科学も聖性を帯びる。芸術も科学も近代社会においては神の代替物だから
*4:このあたりの話には、ハイカルチャーとサブカルチャーとかいう話もでてくるかもしれにゃーのだが、個人の内奥の表出という視点でみればそのあたりに区別なんてにゃーしさ、むしろ、自らを周辺にいる存在という自意識を持つものにとってはサブカルのほうが投影と崇拝の対象になりやすいとすらいえるのではにゃーだろうか?
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