政治・行政

安倍政治を問う〈11〉 目を見開き耳澄ませ 作家・辺見庸さん

 インタビュー前日の6日、辺見庸さん(70)は都内で行われた特定秘密保護法反対デモに赴いた。街頭デモに出掛けるのは、脳出血で倒れて右半身が不随となった2004年以来だった。

 「何メートルかでも歩こうと思って。行ったけど、ほぼ終わっていてさ」。週末の午後、銀座の街にイルミネーションが瞬いていた。「驚くほど盛り上がってなかった。本当のことを言うと絶望的だった」

 クリスマス前のきらびやかな風景と盛り上がらないデモ。安倍政権に反対するということが力の問題としてマイノリティー化していないか。帰途、辺見さんは思った。「マイノリティーとしての自覚をどう持てばいいのか」

■策謀的選挙

 「間接民主制の弱点を使った策謀でしかない」。今回の総選挙をそう断じる。「勝てると踏み、重大な問題を引っ込め、アベノミクスというメッキが剥げないうちに選挙をやってしまえという話だ」

 2年前の総選挙で自民党は憲法改正草案に盛り込んだ国防軍の創設を公約に明記していた。今回の公約では末尾に「国民の理解を得つつ憲法改正原案を国会に提出し、憲法改正のための国民投票を実施、憲法改正を目指します」とあるだけ。具体的な改正内容は示されていない。波風を立てず、争点化を避ける思惑が透ける。

 〈与党3分の2の勢い〉〈自民300議席うかがう〉

 投開票日を前に各メディアに与党圧勝の予測が大きな見出しで躍る。「策謀的にもかかわらず、本質を問わず、反発しない。政権が仕掛けてきたシナリオに乗って、メーンテーマは『アベノミクスの是非』か。言いなりじゃないか」

 「策謀」に加担するがごとくの報道を難じる辺見さんの言葉が、胃に重く沈む。集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法、武器輸出、原発の再稼働…。戦後の最も枢要な問題について、結果が予測通りなら、安倍政権の方針を追認したと解釈されてしまう。

 「まさにキャッチ=22だ」。ユダヤ系作家ジョーゼフ・ヘラーの小説タイトルである。

 作中にある軍規では、狂気に陥った者は戦闘機に乗らずに済むとある。しかし、狂気を申告できるのは正常さの証明となり、戦闘機に乗るはめになる-。「こっちの主観的な意図も、結局は向こうのわなに引っ掛かるという意味だ」

 〈彼ら(人民)が自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれるやいなや、人民は奴隷となり…〉

 ルソーの言葉を引き、辺見さんは続けた。「犬が餌を投げられ、取ってこいと言われている。選挙民を侮蔑しているよ」

■見込み違い

 戦後70年を目前にした年の暮れの総選挙。議会制民主主義に安住し続けたわれわれの楽観主義、そして戦争責任を追及せず、歴史を忘却してきた帰結として、今の風景があると辺見さんは考える。

 昨夏、憲法改正についてナチスドイツを引き合いに「あの手口に学んだらどうかね」といった麻生太郎副総理の発言が思い起こされる。「あれはジョークじゃなかった。恐ろしい。気付くのが遅い」

 国会に憲法改正の早期実現を求める意見書や請願がいくつかの地方議会で可決、採択されている。自民党本部の要請を受けた同党会派による全国的な動きだ。投票年齢を18歳に引き下げる改正国民投票法も成立。改憲に向けた準備は着実に進みつつある。

 アベノミクスを最大の争点に据えた選挙後、改憲の信任も得たとして論議を加速させるはずだ。

 「民主的な全体主義」-。そうした語義矛盾でしか、現状は語れないと辺見さんは言う。民主主義はもろい。絶えず勝者を監視し、働き掛ける動きがなければ死んでしまう。そのことに私たちはどれほど自覚的であったか、と問う。

 「日本国憲法、9条は自明の事実として正当性を語る必要はなく、徹底的な反戦主義に俺たちは生き方を合わせることができた。そうやって過ごしてきたことが、俺は見込み違いだったと思う」

 自身を語る人称はいつしか「僕」から「俺」に変わり、声は怒気をはらんだ。「日本の思想、文化、メディアを含め、平和憲法、9条というモラルスタンダードの補強作業をしてこなかった。安楽死だ。闘ってこなかったんだ」

■内なる特高

 NHK会長らの人事、公示を前にした民放各社への選挙報道に対する要望に権力の策動を見る。「今、血相を変えて努力し、工夫をしているのは保守勢力の方だ」

 芸術家のろくでなし子さんと作家の北原みのりさんが警視庁にわいせつ物公然陳列などの疑いで逮捕された。特定秘密保護法を治安維持法とみなす辺見さんは強い危機感を抱く。「身柄逮捕に驚いた。逮捕しても大丈夫だと見くびっている。警察は芸術論争をするつもりなんか毛頭ない。2人は警察批判や政権批判をしていた。狙い撃ちの恫喝(どうかつ)。そして周囲の萎縮だ。警察が特高的になっている」

 辺見さんがそれ以上に驚いたのは、逮捕に関してメディアをはじめ世論に反発する声がほとんどなかったことだ。「政権に対する恐怖心がない。僕は怖い。はっきり言って今のやり方は怖いんだ」

 一層、不気味に思うことがある。「彼女たちの逮捕を軽視し、冷ややかに笑う世間の反応まで権力に見透かされている。社会全体が自警団のようになっている」。特高は外部ではなく、私たちの内部にいる。権力に瀬踏みされ、自由の幅はさらに縮んでゆく。

■感性の戦争

 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが用いた「感性の戦争」という言葉を辺見さんは口にした。

 株価とにらめっこしつつ生活保護基準を引き下げる。「弱者や貧困者に対するこの政権のまなざしは、残忍だよ」。辺見さんは続けた。「貧困も可視化されずに見えにくくなっている。目を見開き、耳を澄まさなければ。民主的な全体主義の中で『感性の戦争』は決してオーバーな言い方ではない」

 6日のデモをまた振り返った。

 「派手なイルミネーションの中で、すごくしょぼくれて見える。でも、自分の生活圏から数ミリでも足を延ばし、行動する以外にない。今は普段と違う状況だ。こっちも普段と違う目つき、身ぶりで、怒り、いら立ちを自分で表現する。たとえマイノリティーになっても、臆せずものを言う。やれると思うんだ」

 選挙後も日常は続く。戦前から、戦争が始まる時も突然、風景が変わったのではないように。

 日常の至るところで「感性の戦争」は起きている。

 目を見開き、耳を澄ませ-。

 へんみ・よう 1944年宮城県石巻市生まれ。70年共同通信社入社。初任地は横浜。78年北京特派員時代の中国報道で新聞協会賞。91年「自動起床装置」で芥川賞。94年「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞。96年退社。2011年詩文集「生首」で中原中也賞。近著に小説「霧の犬」。

【神奈川新聞】