東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 埼玉 > 1月5日の記事一覧 > 記事

ここから本文

【埼玉】

語り継ぐ(4)敵と対峙30回、常に恐怖 少年飛行兵 関 利雄さん(91)

「戦争の恐ろしさを伝えたい」と話す関利雄さん=さいたま市北区で

写真

 一九四四年一月十八日の朝。当時二十歳だった関利雄さん(91)=さいたま市北区=は戦闘機「隼(はやぶさ)」を操縦し、高度五〇〇〇メートルの空にいた。中国とビルマ(現ミャンマー)の国境近くで、燃料を運ぶ途中の連合軍輸送機を攻撃する作戦だった。

 寒さと怖さで体がブルブルと震え、歯はガチガチと音を立てた。「敵機を発見したときは、無我夢中で機関銃を撃った」。これが関さんの初陣だった。終戦までに三十回ほど敵機と対峙(たいじ)したが、恐怖心がなくなることはなかった。空中戦では、相手の機体を早く見つけた方が勝算が高い。「戦闘機の風防ガラスの後ろに茶色の油が付いたことがあった。その油を見て『敵機だ!』と、何度もハッとした。それほど緊張していた」

 東京・本郷で生まれた関さんは十六歳で東京陸軍航空学校に入校し、「少年飛行兵」と呼ばれた。同期は千三百人ほどいたが、約七百人が戦死した。

 シンガポール北部のセンバワンの飛行場で任務に就いていたとき、終戦を告げる玉音放送を聞いた。所属していた第一七錬成飛行隊の隊員は約二百人。インドネシアのレンパン島という無人島に行くよう、連合軍に命じられた。いつ帰れるのか、希望が見えない抑留生活が始まった。

 現地の木を切って住居を建てた。十分な食糧はなく、トカゲもヘビも何でも口に入れた。島に着いて十日もすると、みんな笑わなくなった。さらに十日たつと、つえを持たないと歩けなくなるほど衰弱した。「どんどん痩せてね。チフスやマラリアで命を落とす隊員もいた」

 約八カ月間を何とか生き延び、日本に戻った。加須市で食糧配給関係の仕事をした後、東京都内や戸田市の競艇場でレースの審判員として働いた。結婚して三人の子どもと五人の孫に恵まれた。自身の戦争体験を語り始めたのは五、六年前からだ。さいたま市の地元の公民館や福祉施設などで毎年講演をしている。

 「戦時中は戦争で功績を挙げた人が賛美され、人が死ぬ怖さが伝えられなかった。戦争の恐ろしさ、怖さを体験した生の声を聞いてもらうことで、戦争は二度とやってはいけないということを伝えたい」(井上真典)

 

この記事を印刷する

PR情報





おすすめサイト

ads by adingo