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【埼玉】

語り継ぐ(3)戦火逃れジャングルへ フィリピン・ダバオ 金子富子さん(78)

ジャングルで「お母さん…」とつぶやいた少年兵を描いた金子さん=所沢市で

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 ジャングルの奥深くで、日本兵が木にもたれて座っていた。死期が間近に迫っているようで、静かに涙を流していた。まだ十代だろうか。その少年兵が、ぼそぼそと何度かつぶやいた言葉を、七十年たった今も忘れることができない。

 「お母さん、お母さん…」

      ◇

 所沢市の金子富子さん(78)は一九三六年、フィリピン・ミンダナオ島のダバオで生まれた。数年前から、現地での戦争体験を水彩画に描きためている。「戦争の話を聞かせて」と孫に頼まれ、「話だけだと飽きてしまうから」と絵筆を執ったのがきっかけだった。

 金子さんは九人きょうだいの六女。両親は大正時代、共に沖縄からフィリピンに移住し、現地で結婚した。当時は米国の植民地だった。

 太平洋戦争が始まり、日本軍がフィリピンに侵攻してきた。やがて米国の反攻が始まると空爆が激しくなり、金子さんは家族や親戚ら十二人とダバオを離れ山間部のジャングルを約一年間さまよった。金子さんはまだ七、八歳だった。

 「いつ見つかるのか、いつ殺されるのか。日々、恐怖に支配されていました」。ある日、米軍機に発見され、機体の窓から機関銃が突き出るのを見た。二百メートルほど先で銃口がチカチカと光り、足元の地面にバリバリと着弾した。生きた心地がしなかった。

 ジャングルのあちこちにたくさんの遺体があり、死にかけた日本兵を何人も見かけた。斜面のそばであおむけに倒れていた日本兵は、鼻と口から無数のアリがはい出ていた。よく見ると兵士は生きていて、目だけがうつろに動いていた。

 「お母さん…」とか細い声を出す少年兵を見たのは、その後だった。過酷なジャングルを逃げ惑う金子さんたちには、誰かを救助する手だても余裕もなかった。少年兵がどうなったのかは分からない。

 四五年八月、「せんそうはおわりました」と書かれたビラが空からまかれ、米軍に投降した。約一カ月後に米軍の輸送船で神奈川県に入り、そのまま神奈川で暮らした。所沢には四十五年ほど前に越してきた。

 フィリピンでの記憶を描いた水彩画は、もう六十枚ほどになる。一昨年から県平和資料館(東松山市)のイベントなどに招かれ、何回か戦争体験を語った。

 金子さんは今になって思う。「戦争で亡くなった方々が、私たちの足元に、土の下にいる気がするんです。私たちは今、その上に立っている。今の平和は、彼らの犠牲の上にある。そのことを、もっともっと知るべきだと思います」 (竹内章)

 

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