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【埼玉】

語り継ぐ(2)熊谷空襲 死を覚悟した大量の焼夷弾 藤間 豊子さん

「熊谷で何があったのか、知ってもらいたい」と語る藤間さん=熊谷市で

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 終戦前夜の一九四五年八月十四日午後十一時半ごろ。米軍爆撃機「B29」の編隊が熊谷市を急襲した。「熊谷駅の上空あたりに照明弾が落とされ、市内は青白い光で昼間のように明るくなりました。これはただごとじゃない。そう思いました」。駅近くの自宅にいた藤間(とうま)豊子さん(90)が、その夜を振り返った。

 当時二十一歳だった藤間さんは夫の久義さんと母、妹の四人で庭の防空壕(ごう)に駆け込んだ。

 「ザー」という音とともに焼夷(しょうい)弾が次々と降ってきた。周囲の火の勢いが激しくなり、外に出た久義さんが消火しようとしたが、「このままでは危ない」。五百メートルほど南の荒川の土手に逃げることを決め、藤間さんらも防空壕を出た。父の源一郎さんは蔵の扉を閉めに行ったまま戻ってこなかったが、久義さんの誘導で通りに出た。

 目の前の道路に焼夷弾が二メートルほどの間隔で突き刺さり、四方に火花を飛ばし始めた。大きな線香花火のようだった。「恐ろしさで足がすくみましたが、はだしで、火花の間を縫うように通りを進んだ」

 四人は土手にたどり着いたが、川沿いは見渡す限り火の海だった。ちょうどそのころ「ヒューッ」という音がして、焼夷弾投下の第三波が始まった。藤間さんは「もう駄目だ」と死を覚悟したが、やがて爆撃は終わった。久義さんが三人を残して自宅の様子を見に行くと、源一郎さんは防空壕の中で息絶えていた。焼夷弾が肩の辺りから胸に突き抜けていた。

 夜が明けると、熊谷の中心部は焼け野原になっていた。「余燼(よじん)がくすぶり、太陽がじりじりと肌を焦がすように暑かった」。自宅近くを流れる星川では百人以上の人が折り重なって亡くなった。

 このときに妊娠五カ月だった藤間さん。家族で市内の親戚宅に身を寄せ、翌年に長男の憲一さんを出産した。「父を亡くし自宅も焼けましたが、自分だけ悲しんでいられない。前を向こう。そう思って生きてきました」。憲一さんは現在は機械商社「オキナヤ」社長となり、熊谷商工会議所会頭を務めている。

 藤間さんは五年前に市立図書館の依頼で講演し、空襲の体験を初めて人前で語った。数少ない熊谷空襲の証人として、もう七回の講演をこなした。

 「あのような悲惨な戦争は二度とあってはならない。今の熊谷に当時をうかがい知れるものは残っていませんが、何があったのか。子や孫の代まで皆さんに知っておいてもらいたいのです」 (花井勝規)

 <熊谷空襲> 1945年8月14日午後11時半ごろから翌15日未明にかけ、米軍爆撃機「B29」約80機が熊谷市上空から大量の焼夷弾などを投下した。熊谷市史によると、この空襲で市街地の3分の2が焼かれ、死者は266人、負傷者は約3000人に上った。東京都内などに比べ県内の大規模空襲は少なく、熊谷の被害は県内最大。熊谷市は県内で唯一の「戦災指定都市」になった。

 

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